わたしのこだわりブログ(仮)

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2017年04月26日
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カテゴリ: 公園

星 ​大阪関連のBack numberも加えました。​​




大坂 の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村

茶臼山(ちゃうすやま)
真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前
古戦場(天王寺)
天王寺公園(てんのうじこうえん)


「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」と言う諺(ことわざ)がありますが、いつもお参りに行っていた義理の両親が眠るお寺さんはどうも「大阪の陣」の合戦地だった事が解りました。
※ 新しい寺だと思いきや、創建は1185年(文治元年)とかなり古かった。

そして調べて見れば、すぐ裏の丘は茶臼山(ちゃうすやま)で、寺の正面ゲートの前方には安居神社がある事も解りました。
知る人なら知る、そこは大阪冬の陣、夏の陣、共に武将らの本陣が置かれ、合戦場所となった曰く(いわく)の土地だったのです。

近年の大河ドラマのおかげで真田幸村(さなだ ゆきむら)ブームが起きていて、それで知る所となりました。(関連場所には赤いのぼり旗が立っている。)

私、日本の戦国物あまり詳しくありませんが「灯台もと暗し(とうだいもとくらし)」の縁で今回、真田 幸村(さなだ ゆきむら)(信繁)氏の合戦地と最後の地を紹介する事にしました。

真田幸村(さなだ ゆきむら)と真田 信繁(さなだ のぶしげ)二つの名前
ところで真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で知れ渡った豊臣方の武将ですが、本名は真田 信繁(さなだ のぶしげ)(1567年~1615年)が正解です。
「幸村(ゆきむら)」の名は後世、江戸期の軍記物「難波戦記(なにはせんき)」の中で付けられた名前らしく、反徳川の武将だった為に本名を敢えて控えた?  ようです。
いわゆる芸名が一人歩きして本名を食ってしまった感じです。

茶臼山(ちゃうすやま)
pict-茶臼山 1.jpg

茶臼山(ちゃうすやま)と河底池(かわぞこいけ)
共にここは現在、天王寺公園の敷地内になっています。
住所は大阪市天王寺区茶臼山町1-108
写真撮影の場所は慶沢園(けいたくえん)前。
pict-茶臼山 2.jpg
茶臼山(ちゃうすやま)と名が付いているが 標高26mびっくり
小さい丘程度である。

実は5世紀頃の古墳ではないか? と言う説もあるが出土品が出ていないので判らないが、大阪はヤマト王権時代からの歴史を持つ土地なのである。

確かに前方後円墳のような形ではあるし近所の四天王寺(聖徳太子建立の寺)では埴輪棺が見つかっているので可能性は高い。

天王寺公園の地図・・方位を北にあわせる為に横にして、さらに必要箇所を少し足しました。
pict-天王寺公園 1.jpg
ピンク が茶臼山 です。その周囲が 大阪市立美術館もあるエリア です。
グリーンは動物園 オレンジは最近できた天王寺駅前の芝生広場

茶臼山の北北西に一心寺があり、さらにその北に安居神社 があります。
さらにずっと北に行けば大阪城です。

一心寺と安居神社に挟まれる道は逢坂(おうさか)で右(東)に登ると四天王寺があります。
実はここは上町台地(うえまちだいち)と呼ばれる丘陵地の西の稜線に位置していて、このあたり「天王寺七坂」と呼ばれる有名な坂が並んで存在しています。

茶臼山(ちゃうすやま)山頂
pict-茶臼山 3.jpg
ルートは天王寺ルートや一心寺ルートなど外からのルートは3つ。山へ登るのは5箇所。

一心寺から見た茶臼山
pict-茶臼山 9.jpg
一心寺も高台になっている。

本当にただの小山。名前がついている事に驚くが戦国の時代には茶臼山には城郭があったらしい。
築年は1546年(天文15年)。
細川晴元の家臣である山中又三郎が古墳の上に建てたとされる大塚城である。
木が無ければ西方面の景色は一望できたはず。


古戦場(天王寺)
ところで天王寺と言う場所は数々の戦場になった場所なのである。
その理由は地形による所が大きい
。(次回詳しく)

先ほども触れたが、 上町台地(うえまちだいち)と言う小島のような丘陵 が平たい台地の上に乗っていて、古来そこに人が住み着いたからだ。
※ 上町台地(うえまちだいち)の北には大阪城が建っている。

1576年(天正4年)4月 石山本願寺(現大阪城の場所)が挙兵し、天王寺まで進軍。
織田方の天王寺の砦が包囲されると京都より信長自ら少ない手勢で救援に向かい先陣の足軽に混じって駆け巡り危機を脱っした戦いが 石山本願寺VS織田信長「 天王寺の戦い」 である。

さらに戦国最後となる豊臣家VS徳川家の決戦の場所もここである。
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、ここを徳川家康は住吉から茶臼山に本陣を移し使用 したと言う。
徳川方はここより真田丸を攻めたのである。

さらに翌 1615年(元和元年)の大坂夏の陣 では、反対に豊臣軍 の真田信繁がここを本陣にして徳川の首をとるべく野戦に出たのである。(茶臼山砦や茶臼山陣城)

一心寺側ルートからの茶臼山山頂へのアクセス
pict-茶臼山 11.jpg


pict-茶臼山 4.jpg

山頂は狭い
pict-茶臼山 5.jpg
古戦場の戦線地図が置かれているのだが、ガラスで光って見えにくく。写真も全てダメでした。しょんぼり
pict-茶臼山 6.jpg
山頂登頂の証明書が欲しい人は、茶臼山ゲート前の一心寺存牟堂で発行してくれるらしい。
9時~16時。一部100円の実費がかかるが・・。大笑い

最近山頂には立て看板が建った。
pict-茶臼山 8.jpg
真田信繁(幸村)の人となりや名言が書かれている看板が幾つか。
pict-茶臼山 10.jpg
武将の鏡と称される名言が真田信繁(幸村)には数々あるらしい。
上は豊臣方に受けた恩義を忘れない。と、同時に金品に目がくらんで恩義を忘れるヤツは人ではないと罵倒。

確かに真田信繁(幸村)は豊臣方に忠義を尽くしたが、彼の兄は徳川方に忠義を尽くした。
そして兄弟で敵対したわけだが、そもそも真田の家を残す為に敢えて二方に別れたのが本当だ。
※ どっちが勝っても家名が残るからね。ぽっ

下も茶臼山にあった看板
pict-茶臼山 7.jpg
この図ではJR環状線の 内(豊臣方、赤) 外(徳川方、青) で対峙して戦った事になっている。
pict-茶臼山 12.jpg
まさに真田信繁(幸村)は 上町台地(うえまちだいち)の上手側から攻めている。
※ 赤い甲冑は真田信繁(幸村)のトレードマークである。

天王寺公園(てんのうじこうえん)
pict-天王寺公園 2.jpg
茶臼山は左。河 底池(かわぞこいけ)にかかる赤い橋は和気橋。西から東方面を撮影。
四天王寺は茶臼山の向こう側。


その写真右方面にアベノハルカス
pict-天王寺公園 3.jpg
写真右に見切れているのが大阪市立美術館。

大阪市立美術館
pict-天王寺公園 5.jpg

美術館エリアから天王寺駅前の芝生広場に出る歩道橋から
pict-天王寺公園 4.jpg
まさにこの当たり徳川の陣前の合戦場所。

次回、真田信繁(幸村)最期の地を紹介​

Back number
​     大坂 の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村
リンク ​ 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)

大阪については以下も書いています。​
リンク ​ 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)

リンク ​ 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)

リンク ​ 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)
リンク ​ 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)

​リンク ​ 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)

リンク ​ 大阪 造幣局 桜の通り抜け

​リンク ​ 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎

​リンク ​ 四天王寺庚申堂






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Last updated  2022年11月30日 20時59分07秒
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