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カンナビ(神奈備)について書いたリンク先追加しました。
2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集しなおしたものです。
「大天使ミッシェル(ミカエル)」も合体させました。ほぼ別物です
。
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ところで先ほど「 キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール」の写真も総入れ替えしました。
リンク キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール
以前の陸橋が壊され、パセレル橋(Pont Passerelle)が
2014年に完成。
全体の見える景色は2014年を境に若干変わっているようです。
写真の最新は2010年11月なのでオリジナルの新しい橋の写真はありませんが、モンサンミッシェル内部の写真はかなり増えているので沢山載せられます。むしろ多すぎて選ぶのに時間かかっています。![]()
「欧州の交易路」もあるので少しずつ変更していく予定です。
橋の完成に伴い、島への一般車輌の乗り入れは禁止されました。
それに伴いモンサンミッシェルの街には以前なかった大きな駐車場が何カ所か増設。そこから無料のシャトルバスで島まで向かうようになったのです。
※ 鉄道駅は街に無い。
でも、島内への宿泊者の場合、団体専用バスでの乗り入れができるそうです。
またシャトルバスは夜0時まであり、モンサンミッシェルの夜景を島の外から眺め撮影する事も可能。
モンサンミッシェルの観光のポイントは「潮の干満のタイミング」と、「映(ば)える天気
」。
何より干満の差を楽しむなら日帰りよりは泊りが望ましい。
干満時間を考えて日帰りは難しいので・・。
※ パリからだと往復時間がかかるので時間的余裕はほぼ無い。
モンサンミッシェル城壁内に宿もあります。街はずれにはモンサンミッシェルが望めるホテルもあります。
それにしてもいつの季節に訪問するのがベストなのか?
そして こだわるならばやはり一番は潮の時間。大潮の時が本当はベストでしょうね
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モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル
モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)
霊場の歴史
大天使ミカエル崇敬の聖地
岩山の聖堂
大天使ミカエル(Archangel Michael)
天使のヒエラルキー(Hierarchy)
モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)
霊場の歴史
BC5000~BC3000年の新石器の時代、その太古からモン・サン・ミッシェルの岩山は神聖な場所とされていた
らしい。
※ この時代の巨石記念物の墓碑(ドンメル)が頂上付近にあったとされている。
ま た 、4世紀から6世紀にかけて、 ブルターニュ地方はグレートブリテン島南西部から移住してきたブリトン人の地となり、次いでこの地に定住したケルト系民族にとっても、ここモン・サン・ミッシェルの岩山は霊場とされていた。
※ ケルト人の事は以前「古代ローマ水道 9 (イギリス バース編 2)」で少し紹介。
リンク 古代ローマ水道 9 (イングランド・バース編 2)
※ 次章でケルト民族の移動の事など詳しく書きました。
リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人
トーンブ(墓)という名の岩山が突き出ていて、人々はこの岩山を霊場と仰ぎ始めた
。
ガリア人(ケルト人)の時代には光の神ベレンの神殿があり、
ローマ時代には旅と使者と商業の神であるメルクリウス(ヘルメス)の神殿があったとも伝えられている。
キリスト教の時代に入ると昔の異教の霊場の多くはキリスト教の聖地に変わっているが、トーンブの岩山もまた5世紀にはキリスト教の隠者がすでに庵を構えるキリスト教の霊場になっていたらしい
。
聖オベールの夢(Dream of St. Ober)
突然現れた大天使ミカエル(Michael)or大天使ミッシェル(Michel)からお告げを受ける司教オベール
教会のゲート上のティンパヌム(tympanum)だったものでしょうか?
アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)
メロヴィング朝の第10代国王キルデベルト3世(Childebert III )(695年~711年)(在位:695年~711年)の治世の話し。
大天使ミカエル崇敬の聖地
モンサンミッシェルからほど近い(2時の方角)にあるアヴランシュ(Avranches)の旧市街は海を見渡せる高台で、かつて司教座聖堂が置かれていた。
※ 司教座聖堂は近隣の教会を統括する大きな聖堂を持つ教会で司教が常駐していた。
司教オベールは毎日霧の中から現れるこのトーンブを見ていたらしい。
8世紀の当時頃、トーンブの回りはまだ陸で、シッシーと言う森に覆われていたと言う。島ではなかった? らしいのだ。
ある日、司教オベールは夢を見た。
モン・トーンブ(墓の山)に「我が名を称える聖堂を建てよ。」と大天使ミカエルからの夢のお告げ
であったと言う。
そこで司教オベールは、 大天使ミカエルを勧請(かんじょう)するべく、2人の役僧をイタリアに使わし大天使の残した衣の一片をもらい受けたと伝えられている。
そこは5世紀に3度にわたって大天使ミカエルが姿を見せたという南イタリア、プーリア州山脈、モンテ・カルガーノ洞窟。モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)。
大天使ミカエル崇敬のブームが西欧教会に起きるきっかけとなったミカエル信仰の因縁の場所らしい。
かくして
トーンブ
(墓の山)
の上に
709年10月16日最初の堂が建立されるのだが、その頃、
地盤沈下? モン・トーンブは海の中に在る島となり、聖ミカエルの山、モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)と呼ばれるようになったと伝えられる。
因みに、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)の「大天使の洞窟」は幾世紀にもわたって大天使ミカエルの巡礼地となっていて、その出発点がフランスのモン・サン・ミシェルとなっているらしい。
※ 大天使(Archangel)は天使九位階の八位に当たる位階(ランク)。
ところで、 モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)のブームから、聖ミカエルを奉る聖堂を建てる事は当時欧州で流行していた
事らしいのだ。
※ サンタンジエロ(Sant'Angelo)もサン・ミッシェル(Saint Michel)も聖ミカエル(St. Michael)も同意。
それ故、 夢と言うのは方便で、本当の所は政治的背景があっての事? と推察される。
フランク王国の宰相ピピン2世(Pippin II)( 635/40年~714年)への忠誠と、隣のドル司教区で、モン・ドル(ドル山)の岩山を聖ミカエルに献じていたからアヴランシュ(Avranches)は負けじと競い合った? と言う話しがある。
岩山の聖堂
最初の聖堂は、岩山頂上の西斜面に切り出し花崗岩の石を大雑派に円形に並べた造りで、100人収容できるサイズであった。
聖堂に置かれた模型から。上が10世紀。下が11~12世紀の聖堂と推定。
モン・サン・ミッシェルは岩山の上に増築されて大きくなっていった。
13世紀に火災によりロマネスクの聖堂は焼失。ゴシックで建造される事になる。
下が20世紀の教会
通常、写真の撮影できない側からのショットです。
ウィキメディアからの空撮。橋の建設途中のようなので2014年以前の写真のようです。
司教は礼拝を行う為に12人の修道士からなる修道会を設立するが、当初はケルト人の古い修道会と同様のしきたりで厳格な規律の下に生活していた。
堂は966年にベネディクト会派修道会に引き継がれる。
13世紀にはほぼ現在の形になったらしい。
下は、図解ですが、教会の聖堂を除くと下からトーンブ(墓)という名の岩山が現れます。
新たに比較的大きな教会堂が頂上に築かれ、(現在は基礎部が発見)900~930年頃に大ききな礼拝堂が建立された。(現在のノートルダム地下聖堂・・上の写真の上部、Dの部分)
トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたようです。
以前、秦氏の創建した「蚕の社(かいこのやしろ)」の所でカンナビ(神奈備)の事を紹介していますが、そこも同じように 古来より「神の座所」だったのではないか? と考えられる。
つまり、 その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての神聖な場所。「霊験のある場所」と解釈できる。
実際、昔から神秘性を帯びていた景観を持つこの岩山が 宗教が変わっても霊場とされてきたのは「神聖な力とされる物があったから」と伝えられている。
この山頂では奇妙な電光現象が度重なって起こった。伝説によれば山の下は計り知れず深く、天と地上と地下で結ばれていると考えられ「神々と人間とを結ぶ伝達経路としてこの岩山が存在していた」などとも信じられていたらしいのだ。
※ 「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」の中でカンナビ(神奈備)について書いています。
リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎
岩山を切り崩す事なく? の跡が教会の構造上も見られる。
不自然な構造
突き出たトーンブの岩が見られる。
パセレル橋(Pont Passerelle)ができる前の
モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)

教会の尖塔には、モンサンミッシェルの名の縁となるミッシェル(Michael)の像が据えられている。
※ ミカエル(Michael)に同じ。
下は城門をくぐってからの撮影

ミカエルは、神の御使いとして天と地の間を往来するとされ、地上から高くそびえ立っている岩峰や塔の上などに好んで降臨すると信じられ、ここモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でも尖塔のてっぺんに飾られています。(肉眼では尖塔は見えませんが・・)
16世紀には、鐘塔の上にすでに金の大天使の像があったとされるが1594年の火災で消失。
海抜157mの今日見られる彫像は、1897年に作られた作品。
彫刻家エマニュエル・フレミエの原型(1879年制作)で、建築家ヴイクトル・プチグランが拡大レプリカを作り、 自由の女神を手がけたアトリエ・モンデュイが制作。
高さ4mの大天使像は打ち出し銅版製で鉄の骨組みにボルトで留められていて、 総重量450kg
。
剣と羽根の先端が避雷針になっている
為、100年の間に変形したらしい。
1897年ヘリコプターにより取り外し、修理金箔の張り直しをし、再びヘリで戻して取り付けると言う技術のいる、大がかりな修理にマスコミを賑わしたそうです。
ヘリの無かった時代はどうやったのでしょうね?
大天使ミカエル(Archangel Michael)
ところで、モン・サンミッシェルなので大天使ミッシェル(Michel)とした方が解り易いかもしれませんが、 ラテン語のミカエル (Michael)がカトリックでの一般的呼び名なのでこちらで統一
します。
以下参考に
フランス語のミシェル (Michel)
ドイツ語のミヒャエル (Michael)
イタリア語のミケーレ (Michele)
スペイン語・ポルトガル語のミゲル (Miguel)
英語のマイケル (Michael)
キリスト教のみならず、ユダヤ教やイスラム教において偉大な天使の一人として大天使ミカエルは存在
。
大天使ミカエル(Michael)は キリスト教ではラファエル(Raphael)、ガブリエル(Gabriel)、ウリエル(Uriel)と共に四大天使の一人
です。
尖塔の像のひな型が堂内に置かれている。
甲冑を身につけ剣を突き上げ、足下では悪竜を踏みつけている。
守護者というイメージからも、像は山頂や建物の頂上に置かれ、ルネサンス期に入ると、 ミカエルはしばしば竜(悪魔の象徴)と戦うミカエルというイメージから軍神として、甲冑を付け、剣や槍を持って表現されている。
それ故? 中世においてミカエルは兵士の守護者、キリスト教軍の守護者となった
ようです。
現代のカトリックでも、警官や救急隊員の守護聖人 であり、ドイツやウクライナでは街の守護聖人になっている所も。
モンサンミッシェルのように甲冑を身につけ剣を抜き放って、足下に悪魔あるいは悪竜を踏みつけている姿で現される事が多い。
サタン軍との戦いから? 中世は疫病もまた悪魔の仕業と考えられていた為、その悪魔を退治する意味で疫病を抑える仕事もミカエルの役割だと信じられていた?
からかも。
またヨハネの黙示録では「天の軍勢の長」として天使の軍を率いて悪魔と戦うのがミカエルとされ、同じく「最後の審判」では、キリストの足下で亡者の魂を秤にかけ天 国に進む者と地獄行くべき者を振り分ける者 として絵画や彫刻で表現されたりしている。
大天使ミカエルは「神に等しき者」、「天使の王子」の異名を持つ。
それは 神に次ぐ者、時に神の名代。同時に神に近い実力を持つ者
として存在?
そんな訳で ミカエルを守護聖人として多く祀る所が増えた?
のかもしれない。
特に 疫病や戦争の増えた中世の暗黒期
、アヴランシュ(Avranches)の司教オベールのように、 大天使ミカエルを勧請(かんじょう)し、山頂や教会の尖塔に像が置く街が増えたと考えられる。
※ 少し前に紹介した「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で「ハドリアヌスの霊廟」が「サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)」と名を改めたのも城の上の大天使ミカエルに由来していたっけ。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック

天使のヒエラルキー(Hierarchy)
ところで、 天使にもヒエラルキーがあった
。
参考に載せました。
天使の九位階と呼ばれるもので、神を中心として天球の層として現されている
。
これは ダンテの「神曲」による所の宇宙絵概念図らしいのだが
、 9つの天球の層が9つの天使位階に対応
しているのだとか。
※ 神曲の天国編の解釈と思われる。
当然、中心にいる神に近い順で地位が高いのだが、ミカエル達大天使は以外と地位が低い。
熾天使
(してんし・seraphim)
(セラフィム/単数形はセラフ) 三対六枚の翼を持つ
智天使
(ちてんし・cherubim)
(ケルビム/単数形はケルブ)
座天使
(ざてんし・Thrones)
(スローンズ/単数形はスローネ)
主天使
(しゅてんし・Dominions)
(ドミニオンズまたはキュリオテテス)
力天使
(りきてんし・Virtues )
(
ヴァーチュズ
または
デュナメイス
)
能天使
(のうてんし・Exousiai)
(エクスシアイ/単数形はエクスシア)
権天使
(けんてんし・Arkhai)
(アルヒャイ/単数形はアルケー)
大天使
(だいてんし・Archangelus)
(アルヒアンゲラス/単数形はアルヒアンゲロス)
天使
(てんし・angelus )
(アンゲラス/単数形はアンゲロス
)

砂州だまりが牧草地化していた緑の向こうのモン・サン・ミッシェル。これもまた一興でした。
ふと思った。
前回、塩味の効いた牧草をはんだ羊のお肉は美味しいと紹介しましたが、ミネラルはともかく塩分は多いのだから羊だって高血圧になるのではないか?
高血圧の羊、本当に美味しいのか?
若いうちに頂いてしまうなら問題ないのか?
フランス革命の後、1793年最後の修道士が去るとフランス革命後に樹立された総裁政府により修道院全体が牢獄となったそうです。
1863年まで国の監獄として使用され内部は改悪され荒廃、1865年に再び修道院として復元。
島のサイドから後ろは海に沈む

下はかつての陸橋 2010年の撮影
写真にある陸橋は撤去され海流が流れるように橋がかけられた。
2014年7月22日、新しく橋が開通。
対岸から2km、砂州をまたぎパセレル橋(Pont Passerelle)が完成すると一般車両の島への乗り入れは禁止された。
陸橋が砂州をため込み、陸と続いたら島ではなくなってしまう。
との措置で橋脚の橋は2014年にかけられたが、 歴史を振り返れば最初の聖域となるトーンブは陸続きの森の中にあった。
その後、地盤沈下? 海に囲まれる島となった。
たまに陸続きになると言う不幸から霊場に徒歩で向かう者の命を奪う危険な海域となった。
最初から海なら船が使えたがここは船を出すにも中途半端。
故に1877年に陸の橋がかけられ、安全が担保され、かつ美しい景色に世界遺産にも認定され繁盛。
それにしても、本当に橋脚の橋は必要だったのだろうか?
見た目は失敗だったのではないか? と思ってしまう。すでに150年の景色も存在し、定着していたのだから・・。
おそらく、優先されたのはいろんな意味で経済的効果なのだろう。
つづく
まだ写真入れ替え途中ですが、次回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 11」です。
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リンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞
モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル
リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人
リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユ
リンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
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