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今回も焼物の話です。前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)」で載せきれなかった大陸の磁器や陶器を扱う予定でしたが、結局、焼物史をさかのぼる所から始めてしまいました。土器の写真もいろいろあったので・・。と、思ったのが失敗?マズイ!! 土器だけでも分量多い。半分以上進んでも着地が決められなくて・・。考えているうちに眠くなるのでした。結果、焼物史を一気に終わらせるべく引っ張りましたが、青磁(せいじ)までで断念しました。分量もいつも以上、写真多め。長すぎてチェックもままならない。とりあえず書いた所まで載せます。何回かに分けて読んでいただければ幸いです。m(_ _)m焼物自体はベースとなる粘土の素材と焼成温度や焼き方等で異なるのですが、実用と品質と言う観点から見ると、古来より素材や焼き方などもさらに研究されより素晴らしい焼物へと変化をたどっているのがわかります。焼物の頂点? 素材も特殊、焼成温度も非常に高温で、簡単に造る事ができない焼物が前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)」で紹介した磁器です。それは芸術性も加えて磁器は最高峰にある焼物でしょう。それにしても「焼物史」追っていて気付いたのは、これは人類史そのものなのだと・・。人が道具をもって進化した。その最初の道具が石器で、次に土器(焼物)。それらは後に生活の一部から芸術にまで発展する。その焼物は科学と言う技術も加わり大きく発展。特に日本には多種の焼物が存在しているので難しい回となりました。写真は大阪堺市の博物館、ギリシャ考古学博物館、韓国国立博物館、他から持ってきています。なお、資料としての必要性の為に陶磁器の本からも作品をひっぱらせてもらっています。焼物史 土器から青磁まで焼物(土器)の出現土器(どき・earthenware) 素朴な土器、土師器(はじき)須恵器(すえき)系土器須恵器(すえき) 陶質土器朝鮮半島との交流酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)彩文土器(彩陶) 古代ギリシャの土器エーゲ海の文明 ミノア(Minōa)文明ギリシャ本土の文明 ミケーネ(Mycenae)文明コリントスの黒絵式陶器彩文土器 黒絵式彩文土器 赤絵式陶器(とうき・pottery)唐三彩と奈良三彩遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)ガラス玉職人と釉薬平安の緑釉陶(りょくゆうとう)高級施釉陶器、古瀬戸(こせと)古瀬戸 伝承古瀬戸 美濃焼武士の茶の湯が求めた自然美の造形須恵器(すえき)系陶器 炻器(せっき・Stoneware)磁器(じき・porcelain) 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)高麗青磁青磁の色貫入(かんにゅう)焼物(土器)の出現ざっくり言うと焼物は土器(どき)類、陶器(とうき)、磁器(じき)に分類される。これらは、まずベースとなる粘土の素材が異なる。次に焼き窯が異なる。それは焼成温度の違いで明確に分かれ、かつ焼き方にも違いが出ている。同じ焼物でありながら、全く別次元のものとなっている。では、そもそも最初の焼物(土器)はいつ頃出現したのか?どこの国も原始に人が道具を使いだした頃に出現している。旧石器時代(Pal(a)eolithic Age)・・石器の出現から農耕の開始までの時代。狩猟具としては細石刃(さいせきじん)がメイン? 新石器時代(Neolithic)・・農耕・牧畜の開始。磨製石器の出現と土器の使用。 人口の増加など人間社会の変化が道具を変えた。 新石器革命(Neolithic Revolution)とも呼ばれ、石が加工され、焼物も現れた。旧石器時代と新石器時代の仕分けは、まさに人の生活にかかわる道具の変化などで仕分けられています。つまり、社会性が求められる農耕社会が訪れた頃、土器も出現している。とは言え、世界をみると文明の開始年代に地域差がものすごくあります。※ 文明の開始に数千年の開きがある所も。日本だけ考えるなら問題ないですが、世界でみた時に新石器時代は国により年代がかなり異なっているから特定年は入れられない。よって、文明の開始や焼物の出現、また変遷は地域ごとに考察したう上で、次のステップとして地域の国々との関連を考察するしか無いと言う事です。因みに、中国の長江(ちょうこう)では10000年前、細石刃石器群に伴って土器が出現しているらしいし、最新の情報では、中国江西省で、約20000年前とされる世界最古の陶器片が発見(2012年)されたそうです。(米科学誌サイエンスで論文発表。)放射性炭素年代測定によると、洞窟は約2万9000年前から1万2000年ほど前まで人が暮らしていた事がわかったそうだ。最も文明が早く始まった場所は、やはり中国なのか? ところで、土器の使用が新石器時代なので、日本の縄文時代は新石器時代に分類される。参考に日本における年代の仕分けです。旧石器時代 約30000年前縄文時代 約1万2000年前~2500年前・・土器の使用開始弥生時代 BC5世紀〜3世紀中頃 ・・水田稲作開始古墳時代 3世紀中頃〜7世紀頃 ・・ガラス玉、青銅鏡出土(いづれも大陸からの伝来品)飛鳥時代 592年〜710年奈良時代 710年〜794年平安時代 794年〜1185年鎌倉時代 1180年〜1336年室町時代 1336年〜1568年江戸時代 1600年〜1868年まずは土器から入りますが、気候の温暖化と植生、動物相の変化もまた土器の出現に関係しているらしい。土器は食す植物類の為の加工に欠かせない道具であったらしいのだ。もっとも文明に使用された道具も地域差があるようですが・・。※ 焼物から青銅器やガラスなどに早くから移行した地域など土器の進化だけでは計り知れない場所もある。比べるものではないかもしれないが、やはりエーゲ海史に残る焼物は同じ土器でも次元が違う。生活スタイルが違うと言えば違うけど・・。ギリシャ考古学博物館 たこ足文様の壺?(土器) 紀元前1450年~紀元前1400年頃Minoan Santorini Akrotiri pithoi jarミノア文明 サントリーニ島 アクロティリ遺跡の壺(つぼ)水瓶か? あるいはワイン壺に利用されていたかもしれない。ミノア期にはすでにワインが造られクレタ島に輸出していたから・・。それにしても土器でこれだけの大きさの壺。よく今まで残っていたものです。サントリーニ島は以前紹介していますが、エーゲ先史では、2万年前に旧石器時代が始まっている。サントリーニ島自体はクレタ島に隣接し、クレタ島と同じようにミノア文明下で繁栄していた。※ 初期ミノア文明の開始はBC3650年~BC3000年頃?しかし、サントリーニ島は火山のカルデラ島です。大きな噴火で時の文明は滅んだのである。※ コロナ時に「サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説」書いてます。リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説ギリシャの土器は後でまた触れます。土器(どき・earthenware) ここでは土器一般と日本の土器についてです。土器は低火度(1000°C以下)で焼成され、無釉なので吸水性が高い(水が浸透してしまう)焼物だ。土器類も初期物「素朴な土器」から、「土師器(はじき)」、「須恵器(すえき)系土器」と焼物としての進化がみられる。素朴な土器人類史の最初の焼物が土器である。原始の頃、窯は無い。土をこねて形を造り、野焼きで焼成。「野焼」の焼成温度は700℃~800℃。土器は壊れやすく、形状も厚みがある。当初は、そこらへんの田畑の土や粘土を固めて積み上げた日干しレンガのようなものから始まったのかもしれない。自然の太陽光が、土を固める事を教えた?さらに火によってそれはもっと強度のあるものに変える事を知った?火おこしした焚火の中に置いて焼いたものはもっと強度を増した?それは偶然の発見から始まったのかもしれない。縄文土器から土師器までの土器は、日本列島古来の技法らしいが・・。※ 墓に土器類を埋葬する習慣のある所は古いものも出土したりする。日本では9000年以上前の縄文時代の土器が出土もしているが・・。土器の発祥が、日干しレンガのようなものから始まったのなら、それは人々の定住生活の中から必然的に始まったのかもしれない。教科書でお馴染み新石器時代の縄文時代中期の土器 火焔型土器(かえんがたどき)伝 新潟県長岡市 馬高出土。東京国立博物館展示品。写真はウィキメディアから借りました。燃え上がる炎のような形状から火焔型土器(かえんがたどき)と呼ばれている。見て「なるほど」なのであるが、縄文時代にずいぶんとアーティスティックな形状である。しかもこの土器は一つではない。東日本全体でもほぼ同じようなものが200以上の遺跡で出土しているそうだから驚きである。※ 制作年代は5300年前から4800年前の間500年と考えられている。※ 主に信濃川流域の遺跡から出土。また、これと対になるのか? 同じような文様の王冠型土器(おうかんがたどき)と言うのが存在する。表面デザインの意匠はほぼ一緒。片や派手に開いた火焔のデザインに対して、王冠の方はシンプル。でもこの文様は水? 波? を示しているようにも見える。これだけ凝って立派だから何かしらの祭祀に使われていたのではないか? と、想像できる。上に同じく新石器時代の縄文時代中期の土器 王冠型土器(おうかんがたどき)新潟県津南町 堂平遺跡出土。写真はウィキメディアから借りました。土師器(はじき)同質の焼物が海外にあるかもしれないが、「土師器(はじき)」の名称で日本独自の土器とされている。土師器(はじき)は、古墳時代から奈良、平安時代(~12世紀)まで生産され実用されていた赤褐色の素焼の土器。軟質素焼きの弥生式土器に代わり登場した。野焼き、もしくは穴を掘って窯として? 焼成。焼成温度は800℃~900℃。埴輪も土師器に分類。素朴故、位置づけは日常品。写真はあとで・・。須恵器(すえき)系土器古墳時代以降の焼物で、土師器(はじき)よりも高温で焼成された焼物(土器)は須恵器(すえき)系土器に分類。須恵器自体は陶質土器に入るが、須恵器系土器は材質において土師器と同質なので土師器寄りの焼物なのだろう。古墳時代前期(3世中頃~4世紀後半)中期(4世紀後半~5世紀)後期(6世紀~7世紀)以下に土師器と須恵器土器、また須恵器の違いがわかる写真を持ってきました。大阪、堺市の博物館から 土師遺跡(5世紀の中頃~6世紀の前半)上は須恵器系の土器? 土師器と材質がそんなに変わらない気がする。成型と焼きの違いは分かる。 大阪、堺市の博物館から 浅香山遺跡土師器(はじき)と須恵器(すえき)、比べると材質の違いも一目。明らかに須恵器は手が込んだ高級品の仕様に対して、土師器の造りは大雑把(おおざっぱ)。そもそも須恵器は従来の須恵器系土器とも素材の材質が違うから焼き上がりのカラーも違う。平城京出土の奈良時代後半の須恵器3点と土師器4点の含有量を調査したら土師器と須恵器には成分の違いが明確にある事がわかったそうだ。※ 2020年9月の奈良文化財研究所の発表。土師器にはリンが多く含まれていた。 → リンは畑の肥料として使われる。また、須恵器には亜炭(あたん)と呼ばれる炭化した木片が含まれていた。 → 亜炭が含まれる粘土は主に丘陵地帯で採掘される。これらの事からどうやら、土師器は田んぼから採取した粘土が使われた?須恵器は山から採取した粘土が使われた?焼物の粘土の材質にも進化が生じ、より焼物に適した粘土が使用されるようになったと考えられる。須恵器(すえき) 陶質土器須恵器の焼成には従来と全く異なり、地下or半地下式の登り窯が使用されている。焼物としては強く焼締まり、硬度も増した。つまり、焼き方にも一大革命が起きたと言う事だ。この高温焼成の土器生産技術は、そもそも中国江南地域で始まったらしい。朝鮮半島の伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)では、それら技術で陶質土器が造られている。※ 朝鮮半島の物は、伽耶(かや)土器・新羅(しらぎ)土器・百済(くだら)土器と呼ばれる。中国発祥の陶質土器は朝鮮半島経由で日本にももたらされた技術なのである。そしてそれらは日本では須恵器(すえき)と呼ばれる。古墳から出土されている事から古墳時代の須恵器は高級品。主に祭祀で使用され、副葬品として墳墓に収められたようだ。古墳時代の話は大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の所で少し書いています。リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎秦一族のような渡来人の話は以下で書いています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)韓国国立博物館所蔵 中国 北斉時代の彩色土器の馬 6世紀南北朝時代の北斉時代 (550年~577年)※ 北魏が華北を統一(439年)から始まり隋が再び中国を統一(589年)するまでの乱世が南北朝時代。朝鮮半島との交流7世紀にもなると、朝鮮半島に日本の街もあり両者の交流はかなりすすんでいたらしい。それ故、百済王と日本の皇室にはかなりの親交があったのだろう。663年に起きた白村江(はくすきのえ)の戦いの時、たまたま? 百済王の皇子2人が日本滞在中であった。白村江(はくすきのえ)の戦いの突然の勃発。日本は百済王の援軍として、皇子と共に4万人以上の戦士を朝鮮半島に送って参戦している。残念ながら敗退。(百済は滅びた。)日本兵士の百済撤退のおりには、百済王族ら、大量の亡命者を運び日本に向かえ入れている。亡命者の中に技術者もいたかもしれない。それらを鑑(かんが)みると渡来人の技術者が日本で直接、須恵器(すえき)を発展させた説も考えられる。大阪、堺市の博物館から 大仙中町遺跡堺市博物館は、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の正面にある。大阪、堺市の博物館から 大仙中町遺跡大阪、堺市の博物館から 南瓦町遺跡比べて気付くのは、須恵器はろくろを利用して形造られているのが明確。だから土師器と比べて、より薄く成型できているのだろうし、また轆轤(ろくろ)を使って器を造形する事自体が高級な行為であったと思われる。※ 轆轤(ろくろ)を使って成型する技や、窯(かま)を造る技術は5世紀頃には日本にもたらされたらしい。それは須恵器よりも少し前だったのかもしれない。大阪、堺市の博物館から 百舌鳥陵南遺跡焼き方も須恵器は進化をしている。須恵器は登り窯方式で高温で焼かれている。焼物として、両者は全くの別物と言える。酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)焼き方の温度以外にも進化があった。焼き窯の酸素のバランスで、同じ焼物でもカラー変化を出す事ができる技術だ。酸化焼成(さんかしょうせい)文字通り、酸素の供給を多くし、焼物や釉薬に含まれる金属を酸化させて色を出す方法である。銅が酸化すると緑青(ろくしょう)が生成されるのと同く、銅を含む釉薬を酸化焼成すると緑色になる。還元焼成(かんげんしょうせい)酸化焼成と逆に、窯内の酸素を量を減らして不完全燃焼を起こさせる方法だ。※ 酸化金属から酸素が奪う事を「還元」反応と言う。先の銅で例えると、酸化した銅から酸素を奪うと銅は純粋の赤銅色に戻る。だから、銅を含む釉薬を還元焼成すると赤系の色になる。ちょっとここで、ギリシャの土器を紹介。彩文土器(彩陶) 古代ギリシャの土器素焼きの土器に絵付けや文様を描いているのが彩陶である。※ 酸化鉄で赤色や黒色を発色。メソポタミアやインド、また中国にも見られる。かつてはメソポタミア起源説であったが、現在は中国発祥? 説もあるらしい。ギリシャ及びエーゲ海史における最古の土器は紀元前3000年頃のクレタ島からの出土らしい。クレタ島ではクノッソス宮殿を中心に紀元前3500年前にミノア文明が始まっていた。土器にもかかわらず、それらは非常に芸術性が高い。前出の日本の土器類とは全く次元が違う。最も、発見されていないだけで、当然前段階はあったろうが・・。釉薬(ゆうやく)を使っていないので、これらは土器に分類される。しかし、ギリシャのこれら土器は西洋美術のお手本として、ローマ帝国に継がれ、ルネッサンス時代に再興された。特に容器の形は高級陶磁器の壺や花瓶の原型となっている。エーゲ海の文明 ミノア(Minōa)文明初期ミノア文明期・・刻文ないし黒褐色の顔料による彩文土器。また黒褐色の顔料で素地を塗った上に白色や赤色顔料で幾何文様施した土器が出現。鉢、盃、水差、壺、また注口土器も造られた。中期ミノア期・・動・植物文様人物像が現れ、カマレス土器の最盛期を現出し、轆轤(ろくろ)が使用されるようになる。また人物や牛、魚、鳥などの彫像も出現。中期ミノアの第三期には草花悶魚、鳥、小動物などを写実的に表現した彩絵土器が出現。特にこの時代の美術性は評価されて「宮廷様式」と呼ばれ、ギリシャ本土に影響を与えたそうだ。ギリシャ考古学博物館 手付き壺ギリシャ考古学博物館 ギリシャ考古学博物館 ギリシャ考古学博物館 クレタ島出土。ミケーネ土器。タコ文双耳壺 紀元前15世紀頃。ギリシャ考古学博物館 サントリーニ島アクロティリ遺跡新石器時代からミノア文明の時代までの出土品 乳首型突起装飾水差しなどすでにアーティストが存在していたのでしょうね。ギリシャ考古学博物館 来歴は不明おそらくミケーネ文明下の抽象的文様の彩文土器(左)と幾何学文様時代移行期? の彩文土器(右)と思われる。ギリシャ本土の文明 ミケーネ(Mycenae)文明BC19世紀頃~紀元前10世紀 (ミケーネ初期) ・・素文赤色土器。茶褐色の直線文の彩文土器。BC13世紀前後 (ミケーネ最盛期) ・・クレタ土器の影響を受け、抽象的な形象文(魚、馬、戦士など)を施した彩文土器へ。BC12世紀~BC11世紀頃 (サブ・ミケーネ様式の時代) ・・南下してきたドーリア人 (Dorians)により、ミケーネ文化も土器も破壊された。 ドーリア人の元で造られた幾何学様式の土器をサブ・ミケーネ土器とも呼ぶ。※ ドーリア人はBC1世紀頃ギリシャに侵入しペロポネソス半島に定住した民族。代表的な都市はスパルタ(Sparta)、コリントス(Korinthos)。前1100年~前800年 ・・幾何学だけの図文による幾何学様式時代。ギリシャ考古学博物館 アテネ出土。 幾何学文双耳アンフォラ 紀元前8世紀ミケーネ文明 幾何学様式時代(前900年~前725年)古代世界の最高傑作に入るらしい。下は部分拡大同じ壺のボディー上部には絵柄。葬送の情景と思われる。古代ギリシャでは釉(ゆう)が知られていなかった為に、その焼物は本来全て土器に仕分けされる。しかし、慣習上、「コリント陶器」、「ギリシャ陶器」など「陶器」の名称が使われているらしい。BC8世紀頃からギリシャ人は地中海周辺に積極的な植民活動を展開。その結果、ギリシャ本土にはオリエント文明の影響が現れるようになり、幾何学文様と動物文のミックスした土器も出土。オリエントの影響による東方化様式時代(紀元前725年~紀元前600年)として区別する学者もいるらしい。これがその土器に当たるかわからないが、ギリシャ考古学博物館のギリシャ土器の展示品に「これはオリエントではないか?」と思う意匠の土器を見つけたので、紹介しておきます。ギリシャ考古学博物館 人頭有翼牡牛像(lamassu)? の描かれた土器アッカドを経て,アッシリア,アケメネス朝ペルシアに継承された超自然的な威力、魔力を象徴する精霊? 守護神像の人面有翼牡牛像のラマッス(lamassu)。大英博物館蔵のラマッス(lamassu)知性を象徴する人の頭部,鳥の王鷲を模した両翼。半身は雄牛。※ 大英博物館にあるラマッス(lamassu)の足はかぎ爪。※ ペルセポリスやルーブル美術館所蔵のラマッスの足は蹄(ひづめ)。コリントスの黒絵式陶器素地の赤褐色の地に図文を黒のシルエットで描き、像の文様や細部は錐(きり)でひっかいて仕上げる。最初に出現したのはコリントスから。商業都市コリントスは交易の中で最初にオリエント・スタイルをギリシャに持ち込んだとされる。※ コリントス地峡に位置するコリントス(Korinthos)は古代ギリシアにおいてアテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)の一つ。当初は動物行列文などを描いていたらしいたが、やがてそれらは神話や伝説の英雄らの姿にとって代わった。BC7世紀にはほぼ人物主体の図文になっていたらしい。コリントスの多彩な線描形式はBC7世紀頃に頂点に達し、盛期コリント様式(紀元前625年~紀元前550年)には他製陶を圧倒して展開。ギリシャ中に広まって行く。彩文土器 黒絵式素地の黒色は、粘土中に酸化鉄分を適量に含んだものと木灰を原料とし、これに酸味の強いワインを加えて練ったものを原料として使うと、焼成した時に独特のツヤのある黒色になると言う。つまり、黒絵式陶器(土器)は、酸化焼成(さんかしょうせい)による黒色の彩文土器の究極かも。ギリシャ考古学博物館黒絵式陶器の絵は人物主体で、そのテーマは主として神話や英雄伝説の場面が多い。また、当時は作品に陶工や画工の名前を記す慣習も流行したそうだ。黒絵式のピークは紀元前550年~紀元前520年。彩文土器 赤絵式赤絵式陶器は黒絵式とはまったく逆。図像の部分が赤褐色で、バックが黒。酸化焼成(さんかしょうせい)による黒色素地であるなら、図像の部分は筆で絵を描かないと赤褐色の図像は生まれない。下の陶器では素地が赤褐色でバックを黒で塗りつぶしているように見える。2つのパターンが存在していたのかもしれない。実際、塗りつぶしの方が楽であるし・・。赤絵式のようなタイプは陰影も付けやすいので人物の表情など細部に表現が与えられる。だが、素地が白ベースならもっと自由に表現できる。画家の意向か? BC5世紀には白地彩絵陶器が誕生して取って代わられて行く。黒絵式の最盛期は紀元前550年~紀元前520年頃。紀元前480年頃には赤絵式に圧されは完全に姿を消す。赤絵式は紀元前500年~紀元前480年が最盛期。白地式は紀元前490年~紀元前400年西洋の彩色に使われたのは石灰釉、長石釉などの鉱物で調合された釉です。ギリシャ考古学博物館下 はっきりわかる赤絵式陶器(とうき・pottery) 前出、土器は低火度(1000°C以下)で焼成され、無釉なので素焼き。故に吸水性が高い焼物だと紹介した。その後、技術が上がり焼成温度が高くなり、粘土の材質も変化を見る。ガラッと変わるのは焼物に釉薬が施されるようになってからだ。うわぐすり(釉薬ともいう)を付けて焼くと、表面がガラス状にコーティングされた焼物(陶器)になる。一般に低中火度(陶器は800~1250度)で焼成された軟硬質の焼物。素焼きのそれに鉛釉や灰釉の釉薬(ゆうやく)を人工的にかけて再び焼成したものが陶器である。日本にはたくさんの窯があり、いろんな焼物が存在しているので、陶器をさらに細かく3つに分類している。陶器(とうき)、炻器(せっき)、磁器(じき)。陶器と磁器は海外にもあるが、炻器(せっき)は日本独特の焼物かもしれない。ガラス質の釉薬をかけなくても、素材に耐水性のある焼物が存在しているからだ。1. 陶器(とうき・pottery)・・益子焼、萩焼、(古瀬戸)薩摩焼 土物(つちもの)とも呼ばれる施釉(せゆう)された陶器。2. 炻器(せっき・Stoneware)・・備前焼、信楽焼、丹波焼、大谷焼、常滑焼 土器と陶器の中間的性質。陶質の土器。釉(うわぐすり)をかけなくても耐水性を持つ。※ 粘土の素材にアルミニウムやカルシウムなどの物質や、化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英が含まれ、それらが高温焼成で溶けて融合。多孔質の陶器とは一線を画す焼物。3. 磁器(じき・porcelain)・・有田焼、伊万里焼、九谷焼、波佐見焼 施釉(せゆう)され、特殊な粘土(カオリン・Kaoling)を使用し、高温で焼成されたのが磁器。 それ故、石物(いしもの)とも呼ばれる。※ 粘土の素材にケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)と言う陶石を粉砕したものを使用。ここでは施釉(せゆう)された陶器(とうき・pottery)について深堀します。素焼きだけの焼物よりも釉薬をかける事で陶磁器の表面にガラス層を造り多少の防水化に成功。それら施釉の技術は7世紀中頃朝鮮半島経由でもたらされていたが、実際に日本で造られたのは8世紀前半。唐三彩を模した「奈良三彩」や「二彩」、おくれて青磁を模した「緑釉単彩」などが生産された。それらは高級故、貴族や皇族などの特別な階級向け焼物であった。※ 相変わらず一般庶民は平安時代に至るまで須恵器(すえき)を使用していた。正倉院三彩 二彩瓶(磁瓶)高さ41.7cm 口径 18.5cm 胴径25.7cm 底径17.6cm本(陶磁器の文化)から借用した写真ですが、そもそも宮内庁正倉院事務所提供の写真です。参考にお借りしました。胴部6段に口頸部と高台合わせて8段継ぎ造りの「緑白二彩」の大形の瓶。緑釉で斜格子を描き、余白は白釉。現存する最も大きい奈良三彩瓶らしい。出土の類例から奈良三彩大瓶の定形であったらしい。肩の突帯、底部の二重高台に唐代の三彩水瓶や白磁瓶など、唐代陶磁の影響があるものの唐三彩の瓶には祖型がないと言う。唐三彩と奈良三彩飛鳥時代、遣唐使によって? 中国よりもたらされた唐三彩と技術。唐三彩をモデルに日本で最初に作られた釉のかかった焼物が奈良三彩。奈良三彩は従来の土師器(はじき)や須恵器(すえき)に三彩釉(さんさいゆう)をかけて造られている。 三彩釉(さんさいゆう)以前に日本では釉薬(ゆうやく)をかけた焼き物はなかった。そもそも粘土中の様々な内容物が焼成により溶解して焼物自体の色変化をもたらす事もあるが、敢えて素焼きの土器に金属由来の釉薬(ゆうやく)を乗せて焼く事で文様や色を付ける技術だ。奈良三彩 壺 8世紀 文化庁蔵 国法重要文化財高さ13.7cm 胴径21.cm 高台径13.5cm 奈良時代本(陶磁器の文化)から借用した写真です。参考にお借りしました。いわゆる骨壺として利用されていた? 失われているが蓋もあったはず。唐三彩 唐時代の12神像 虎蛇犬韓国国立博物館で撮影中国の12神像を陶器のフィギュアにしたもの。日本の十二支(じゅうにし)の祖型?ここまでのものは中国にも残っていないようです。中国がこれをとりあげてほめていたから・・。唐代の鉛釉(えんゆう)を施した施釉(せゆう)陶器。特徴的3つのカラーを使っている事から唐三彩(とうさんさい)と呼ばれる。※ (クリーム・緑・白)三色と (緑・赤褐色・藍)三色 の組み合わせが一般。唐三彩杯付盤 8世紀中国 出光美術館蔵盤口径28.2cm本(陶磁器の文化)から借用した写真です。参考にお借りしました。遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)参考に年代を入れておきました。遣隋使(けんずいし)は推古天皇(在位:593年~628年)の御代に始まり終わる。推古8年~推古26年(600年~ 618年)の18年間に3回~5回派遣された。隋は619年に滅亡。遣唐使(けんとうし)は舒明天皇(在位:629年~641年)の御代に始まり200年以上続いた。舒明2年(630年)~寛平6年(894年)の264年の長きに十数回派遣された。ラストから56年の歳月が開き、使節派遣の再開が計画されたが907年に唐が滅亡しそのまま消滅。※ 以前、遣唐使の事を書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化ガラス玉職人と釉薬古代の陶器は、粘土の素材も変化するが、施釉(せゆう)の釉薬(ゆうやく)の種類で分類されている。植物灰を材料とした灰釉(かいゆう)陶器。鉛に、銅化合物を加えて緑色に発色させた緑釉(りょくゆう)陶器。※ 朝鮮半島からの技術の伝来? 7世紀後半代になると緑釉陶器が畿内の各地から発見されている。釉薬の焼成後の発色(カラーバリエーション)から大きく彩釉(さいゆう)陶器と分類される。つまり、日本最古の施釉陶器が奈良三彩である。先にも書いたが、唐三彩は唐代の陶器の釉薬の色から呼ばれ、後に唐代の彩色陶器の総称となる。※ 奈良三彩は唐三彩をまねて日本で焼かれた軟質陶器とされてきたが、唐三彩伝来以前から似た物があった? 説もある。遣唐使の中に玉生(ぎょくしょう)と呼ばれるガラス玉造りの職人もいた。彼らが唐から持ち帰った技術(三彩の釉薬はガラスと同じ)を焼物に応用したのが始まりとする説が有力。地中海域でのガラスの歴史は割と古い。シリア・レバノンなどパレスチナ地方で製造が始まり、古代フェニキア人が交易品にしていた。「最古のガラスの誕生は紀元前3500年に遡る」と以前古代ガラスを扱った時に紹介した事がある。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードウイーン美術史美術館所蔵 ガラスの双耳灰壺 1~2世紀同じ形態のガラスの双耳灰壺はたくさんあるが、造形的にもこれだけ姿の美しいのはなかなか見ない。さすが王室のコレクション。美しいから撮影してました。話を焼物に戻して・・。釉薬をかけるだけでなく、この頃には絵を描いたり、彫刻したりするなどの技法が追加されて行く。特に唐三彩は、アジア圏のみならず、中東方面にも伝播? 各地で真似た? 地方色ある三彩が登場している。イランのサーダーバード宮(Sadabad Palace)の博物館所蔵品の中に三彩? 発見。イランのサーダーバード宮(Sadabad Palace)の博物館所蔵品平安の緑釉陶(りょくゆうとう)奈良時代から平安時代に代わると、器じたいも一新されるが、日本の鉛釉陶器はカラフルな三彩から単色に代わっていく。それは、またも半島経由で唐より越州窯(えっしゅうよう)系の青磁(せいじ)が輸入されてきたからだ。※ 越州窯(えっしゅうよう)の青磁は東洋最古。日本の単色の緑釉陶の出現と流行は、中国伝来の青磁(せいじ)を模倣した結果だったらしい。青磁は簡単に真似できるものではなかった。緑釉陶器は、9世紀初頭頃、国家的儀式や饗宴で用いられており、殿上人(てんじょうびと)に嗜好された結果? 唐(から)風として緑釉陶は平安京を中心に流行する。下の写真は共に本(陶磁器の文化)から借用。比較できるように対にしました。左 9世紀前半 緑釉陰刻文陶器碗(りょくゆう・いんこくもん・とうきわん) 京都市令然院跡出土 口径17.6cm 京都市考古資料館蔵右 9世紀 青磁劃花輪花碗(せいじ・かっか・りんかわん) 中国、越州窯系 口径12.2cm 国立歴史民俗博物館蔵ところで、緑釉(りょくゆう)自体は日本で開発されたわけではない。古代ローマ帝国では紀元前1世紀に使用され、中国でも1~2世紀の後漢時代に使用されている。鉛釉のベースに微量の銅を入れた釉薬を塗り、先に紹介した酸化焼成(さんかしょうせい)をすると銅が緑色に発色。(銅の量によって濃淡がでる。)それが緑釉である。高級施釉陶器、古瀬戸(こせと)焼き物の総称として使われる「せともの」という言葉は、「瀬戸焼」から発しているワード(語)です。※ 現在の愛知県瀬戸市瀬戸は、900年以上の歴史をもつ窯として、越前・信楽・丹波・常滑・備前と並ぶ日本六古窯の一つと数えられている。ただし、この中で施釉の陶磁器は古瀬戸だけ。(施釉としての歴史は800年?)つまり古瀬戸の特徴は灰釉(かいゆう)や、鉄釉(てつゆう)を施した施釉(せゆう)陶器であり、それは先にも触れたが、高麗(こうらい)の青磁(せいじ)の写しとして成立した可能性が高いらしい。古瀬戸 灰釉四耳壺 13世紀前葉 高さ28.4cm 上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 伝承まずは瀬戸に伝えられる史伝(しでん)から紹介。瀬戸焼の開祖として、瀬戸で祀られて居るのが加藤四郎左衛門景正(陶祖 藤四郎)。彼は宋代の中国に渡り陶磁器の技法を学んで帰国し、瀬戸で瀬戸窯を開祖した人物とされる。1223年(貞応2年)、永平寺を創建した曹洞宗の開祖 道元禅師(1200年~1253年)と共に加藤氏は中国(宋)へ渡ったとされている。つまり、禅宗と同じく日宋貿易の中でのいわゆる留学により陶磁器の釉薬や焼成について学んできたと言う事だ。因みに、当時は日宋間に正式な国交はなかった。以前書いているが、中国側からすれば、正式な国交の相手は国のトップの朝廷でなければならず、将軍では相手に不足だったからである。※ 日宋貿易に関しては以下で書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化ところで、建仁寺でも修行した道元(1200年~1253年)が1226年に宋より持ち帰ったのが曹洞宗(そうとうしゅう)。創建は1244年。総本山は永平寺。曹洞宗(そうとうしゅう)は地方の武家、豪族や下級武士、一般民衆に広まって行く。 禅に関連して茶や茶の湯、書画、焼物も日宋貿易の中で日本に入ってきている。それらは禅文化に関連していると同時に、全て茶の湯に関係しているし、焼物につながるのである。※ 茶祖の寺として建仁寺を紹介しています。リンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師瀬戸焼き開祖の話に戻ります。戦国時代から江戸時代前期には茶入の祖、茶陶の名工として「藤四郎(加藤四郎左衛門景正)」が位置づけられていたのは確からしい。そして江戸中期以降に「藤四郎陶祖伝記」が語られるようになる。つまり瀬戸焼の名工の話はここから誕生している。が、江戸以前の陶祖に関する記述が無いらしい。また、考古学的に、瀬戸窯の始まりが平安時代まで遡るとされた事で、「藤四郎(加藤四郎左衛門景正)」事態の存在さえ否定されようとしているらしい。私的には、考古学的内容がわからないのでハッキリは言えないが・・。施釉(せゆう)の陶磁器として古瀬戸が現れるのは鎌倉時代以前にはあり得ないのです。瀬戸で平安の頃より焼物があったと言うのは須恵器(すえき)などの陶質土器だった可能性しか考えられません。帰国した藤四郎(加藤四郎左衛門景正)は国内の現窯場から適した土を探す中で瀬戸にたどりついたのではないかと推察できる。何より、無作為に山を探すのはムダ。現役の焼物の土地から探す方が合理的だから・・。焼物用の粘土の素材に関しては、いかに陶芸に向いた素材が産出できるか? が重要。焼物の産地として有名な窯場(かまば)がある所はそうした素材が採掘できる土地なのだと言う事を考えれば藤四郎(加藤四郎左衛門景正)が、もともとあった焼物(土器)の土地(瀬戸)に新たな施釉の陶磁器の窯を開いたと考えるのは自然な話だと思うのだ。また、文献が無いのも当然。今のように識字率が高くない時代に、陶工らが、書き物で文献を残すとは考えられ無い。口伝を誰かが江戸の時代にまとめて物語にしたのだと考える方が腑に落ちる。江戸時代はいろんな書物や伝記が書かれている。江戸時代は寺子屋があったから庶民の識字率も上がった。そうした「伝記物」は焼物に箔をつける意味でも必要だったのではないか? 古瀬戸灰釉菊花文壺 13世紀後半~14世紀前半メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art )所蔵古瀬戸 鉄釉印花文瓶子 14世紀初 高さ25.0cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 灰釉繍花文瓶子14世紀中葉 高さ25.7cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 灰釉魚文瓶子 14世紀前葉 高さ36.0cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 美濃焼美濃焼は(現、岐阜県東濃地方)平安時代に作られた須恵器から発展した窯。鎌倉時代以降は隣接の焼物地(瀬戸)と同じ古瀬戸系施釉陶器を焼く。16世紀には、織田信長(1534年~1582年)の経済政策によって瀬戸市周辺の陶工らが美濃地方に移り住んで多数の窯が開かれたと言う。信長の経済政策の具体的話が不明であるが、物流のみならず、地域としての特産を奨励させる為に窯元を集結させての瀬戸焼ブランドの確立とバックアップを図った? のかもしれない。武士の茶の湯が求めた自然美の造形信長の時代はちょうど茶道の成立期に重なっている。以前「大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)」でも書いたが、当時(戦国期)、茶の湯は武士のみならず富裕な商人にまで降りてきて人気となっていた。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)織田信長が堺を直轄地にした1575年10月(天正3年)、堺の茶人17人を招き、信長は妙覚寺で茶の湯の会を催している。その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。千宗易は茶湯の術と道を極め完成させた。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)の事。その信長の開いた茶会では白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品が並んだと言う。当時は中国や朝鮮由来の名器が特にもてはやされていたが、武士による茶の湯の高まりが日本の陶芸に大きな変化をもたらせる事になる。元々禅僧であった茶人 武野紹鴎(たけのじょうおう)に支持し、大徳寺117世 古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依していた千利休。茶の湯が流行し、彼ら茶人の下、戦国武将らが門下に加わる。茶の湯は禅の美意識と伴に「自然の美」が求められるようになり自然の灰を原料とした自然釉をかけた焼物、灰釉陶器が人気となる。何しろ、燃焼温度や焼き方で同じ釉でも全く別の焼物が出来上がる。一つして同じものはできない自然の妙。禅の美意識にマッチした古瀬戸や美濃焼がたくさん焼かれるようになったきっかけであったかもしれない。桃山時代にオリジナル? 志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」の産地となり美濃焼が成立。産地の個性と言うよりは、最初は陶工の個性が反映されたのかな? と言う気もするが・・。美濃須衛(みのすえ) 灰釉四耳壺 12世紀末 高さ28.3cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。美濃須衛(みのすえ) 灰釉四耳壺 13世紀初 高さ21.5cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。灰釉四耳壺は酒などの貯蔵運搬の瓶(かめ)。ロープをかけて吊るせるようになっている。古瀬戸で量産され、ほぼ独占的に焼かれる器種になったらししいがもともと中国の白磁がモデルとなっている。中国 白磁四耳壺 13世紀初 高さ20.1cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。須恵器(すえき)系陶器 炻器(せっき・Stoneware)素朴で自然の風合いを活かした焼き締めで備前焼、信楽焼、丹波焼、大谷焼、常滑焼などが入る。つまり、硬質磁器の特性であるカオリンは使用していないが、粘土に含まれるアルミニウムやカルシウムなどの物質や、化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが、高温焼成の中で溶けて融合。多孔質の陶器とは一線を画す焼物が出来上がった。その為に陶器のように釉(うわぐすり)をかけなくても耐水性を持つ。2つと同じ物ができない面白さや個性は、鉄分や骨粉、他、様々な素材が混合したオリジナル粘土(地域特性の土)が使用される事。また、先に紹介した酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)と言う焼きの個性も影響している。堅牢で耐水性があり、瓶、壷、水差し、茶器、食器、花器、植木鉢など実用品としてだけでなく、焼き上がりの特性から工芸品など多く利用されている。備前 牡丹餅平鉢 17世紀初頭 天然灰釉の陶器メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art )所蔵Mary Griggs Burke Collectionウィキメディアから借りました。備前焼の歴史は古墳時代から平安時代にかけての須恵器窯から始まり発展したらしい。鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれ、鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれるようになる。室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まり名品が生まれている。備前 緋襷(ひだすき)徳利(とっくり) 桃山時代16世紀箱根美術館蔵緋襷(ひだすき)は稲の藁(わら)を模様としたもの。当初は作品同士がくっつかないようにするための藁だったらしい。上の写真に関しては、ウィキメディアから借りましたが箱根美術館の方に原元があります。箱根美術館には備前他、丹波、越前など他焼物のコレクションも充実しているようです。箱根美術館サイトで少し公開されているのでそちらでそちらで見比べてください。リンク 箱根美術館磁器(じき・porcelain) 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)粘土質物や石英、長石→陶土を原料として1300°C程度で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。軟質磁器(soft-paste porcelain)・・英国で誕生したボーンチャイナ(Bone china)硬質磁器(hard-paste porcelain)・・青磁、白磁磁器の素地はそもそも粘土ではない。硬質磁器の素地ははケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)(カオリン・Kaoling)を主成分とする陶石という石の粉(白色)。その磁土を高温(1350°C以上)で焼成した硬質の焼物が硬質磁器。※ カオリナイトは長期の風化作用によって花崗岩などの長石が分解して生成される。※ カオリン(Kaoling)と呼ばれるのは中国の有名な産地、江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)の地名から由来。因みに、カオリンが手に入らない為に骨灰粉を利用してウエッジウッド(Wedgwood)が造り出たのがボーンチャイナ(Bone china)です。軟質磁器とは言われていますが、マイセンなどと比べてみれば、ジャスパーウェア以外のシリーズは普通の陶器に近い。 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)の違いは白い石を原料とした磁器土を素焼した器に塗る釉薬の違い。そもそも、青磁の起源は紀元前14世紀頃、殷(いん) (紀元前17世紀頃~紀元前1046年)時代の中国。灰が釉(うわぐすり)として働きガラス質となる事はまさに偶然の発見であった。以降、植物の灰による灰釉(かいゆう)が青磁の釉薬(ゆうやく)として使われるようになったが、当時は焼成温度や技術がまだ未熟。鈍い草色程度にしか焼きあがらなかったらしい。研究され? 時代と共に発色もコントロール?後漢~西普の時代(1世紀~3世紀)に、青く発色する青磁の原型が誕生し、唐代末期(9世紀)の越州窯(えっしゅうよう)でオリーブ色の青磁が誕生した。この越州窯の青磁は海外に盛んに輸出され、日本にも朝鮮半島にも影響を与えている。先に触れたが、日本では平安時代、青磁を模倣して生まれたのが緑釉陶(りょくゆうとう)。しかし、まだ素材は磁器ではない。※ 緑釉陶の器は、桓武帝(737年~ 806年)の時代に始まり、その子、嵯峨帝(786年~842年)の時代には宮中祭祀に使われている。朝鮮の方では、越州窯の青磁に影響され、高麗青磁(こうらいせいじ)の誕生につながった。※ 中国→朝鮮→日本 と、技術がおりてくる。また、中国の青白磁や朝鮮の高麗青磁を模して造られた日本最初の硬質磁器が先に紹介した古瀬戸です。以下に韓国国立博物館で撮影してきた青白磁を紹介します。非常に陶磁器の数も多く、全部撮りきる事は不可能。自分の好みの作品のみ撮影し、且つ、ここではさらに厳選して載せてます。高麗青磁朝鮮半島の後三国を統一(936年)して誕生したのが高麗国(918年~1392年)。※ 日本は平安時代(794年〜1185年)中期から室町時代(1336年〜1568年)初頭。高麗青磁は越州窯(えっしゅうよう)の影響を受けて誕生した。高麗時代の青磁を高麗翡色(こうらいひすい)と呼んでいたらしい。青磁 魚龍形注子 高麗時代 12世紀韓国国立博物館で撮影青磁 人形注子 高麗時代 12世紀韓国国立博物館で撮影青磁 透彫七宝文香炉 高麗時代 12世紀 高さ15.3cm、直径11.5cm韓国国立博物館で撮影蓋に・・七宝柄が透かし彫り。本体・・花びら一枚ずつ表現したハス(蓮華)の形。台座・・香炉を背負うように3羽のウサギ。香炉には、陰刻や陽刻、透かし彫り、象嵌など、様々な工芸技法が使われている。青磁 貼花繍枝蓮文花瓶韓国国立博物館で撮影部分拡大本来、青磁はシンプルな造形だけでも十分美しい。ここに花や葉を立体的に造形しようと考えた発想がまた素晴らしい。凡人の発想ならシンプルが一番、とか言って何もしなかっただろう。造形的にも、これは特別な意味を持つ青磁の花瓶だ。青磁 瓦 高麗王朝韓国国立博物館で撮影屋根に使うのはもったいない高級瓦。今や瓦(かわら)一枚でお宝美術品。もっともこちらの品は、実際には使われなかった予備の瓦かな?あまりに綺麗だったから撮影してました。床の間にでも飾りたいわ青磁 陽刻蓮池童子文盌 高麗12世紀韓国国立博物館で撮影青白磁 鳳首瓶 中国宋~1159年韓国国立博物館で撮影白磁 青畫(せいが) 梅鳥竹文 壺 朝鮮15世紀~16世紀韓国国立博物館で撮影白磁 壺 朝鮮15世紀~16世紀韓国国立博物館で撮影白磁 透刻青畫 牡丹唐草文 壺 朝鮮18世紀韓国国立博物館で撮影青磁の色釉薬(ゆうやく)には2タイプある。自然の灰を原料とした釉(灰釉)と長石や珪石、石灰、等の鉱物で調合された釉。先に植物の灰による灰釉(かいゆう)が青磁(せいじ)の釉薬(ゆうやく)として使われるようになった。と書いたが、実は灰釉(かいゆう)は東洋独特の釉なのである。灰釉は中国の唐や宋の時代に発展。しかし。これは器が高温で焼けなければ意味がない。5世紀頃、朝鮮半島経由で焼きの温度を上げる新しい「焼き窯」の技術が伝来する。それが地中に穴を掘る「完全地下式」窖窯(あながま)と、山などの傾斜に屋根を付けた「半地上式」窖窯(あながま)である。※ 窖窯(あながま)はロクロ技術と共に伝来し、日本では須恵器の生産が始まった。窖窯(あながま)が導入された事により窯の温度も1000℃を超えた。1000℃を越えると、燃料の灰の中の石灰やアルカリ成分、また珪酸の化学反応が起き、器の表面にガラス質を形成した。当初は草木灰を水で溶いて器に塗っただけだったらしいが、やがて草木灰の種類も研究される。※ 藁(わら)や糠(ぬか)、籾殻(もみがら)等の灰には、シリカ(珪酸)成分が80%程度含まれている。木の種類として松、杉、樫(かし)、楢(なら)、橡(くぬぎ)からみかんや橙(だいだい)、椿(つばき)やどの果樹や花木、また栗の皮なども灰として研究された。灰自体は似たり寄ったり・・と言えど灰特有の物質(元素)の有無が少なからずあり、微妙な化学反応の違いが作品の味になる? 「 こだわり」もあると言う。また、自然有釉と石灰釉や長石釉などの混合も研究されているらしいが、鉱石の方はまさに化学式なのかもしれない。先に「酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)」で、焼き方を紹介していますが、青磁の釉薬にはわずかに鉄が含まれている。鉄分は「還元炎焼成」式で焼き上げると、酸化第二鉄が酸化第一鉄に変換され青緑色に変色。青磁の色の濃淡は酸化第一鉄の含有量によって決まるそうです。また、鉄以外の成分も青磁の色に影響。ケイ酸(Si(OH)4)を主成分とする釉薬の場合は青が強く出る。※ ケイ酸は多くの鉱物の成分。酸化カルシウム(CaO)(石灰)や水酸化カルシウム(Ca(OH)2)(消石灰)を主成分とする釉薬の場合はオリーブ色(深い緑)になると言う。どんな色を出したいか? どんな焼物を造りたいのか? それが、かつては経験値で導きだしていたのだろうが、今はある程度化学式で求められる。とは言え、同じ品を量産するのは自然釉ではかなり難しいと言える。ただ一つの茶碗を求めた安土桃山時代なら自然の妙こそが正解だったかもしれない。どう焼きが出るか? どんな名品が焼きあがるか? 陶人さんの一番のお愉しみが窯出しなのもうなずけます。青磁 蓮瓣(れんべん)文碗韓国国立博物館で撮影貫入(かんにゅう)上の茶碗に見えるようなひび割れのようなのが貫入(かんにゅう)です。これは土台の粘土の収縮率と表面を覆うガラス質の収縮率の違いにより起こる現象です。これを失敗とするのではなく、これが青磁の一つの魅力でもあるのです。青磁の場合は何回も釉薬を重ねて焼成するため特に貫入(かんにゅう)が出やすいのだそうです。貫入(かんにゅう)の出方もいろいろあるのかもしれませんが、美しい透き通るグリーンの表面に細かく入った貫入(かんにゅう)は一つの景色としてとらえられているのです。途中感が否めませんが、今回はここで強制終了させていただきます。※ いつものように、誤字脱字など後から修正あると思います。実は、入院まで1カ月を切り、いろいろ入院準備が忙しくなってきました。検査の後は疲れ切ってます。だからどうしても今回焼物を終わらせたかった・・。もしかしたら入院前に「景徳鎮(けいとくちん)」の焼物が載せられるかもしれませんが、約束はできません。パソコンとゲーム機の持ち込みは予定していますが、気力が持てるかわかりません。なる早で退院し、リハビリ入院もやめて早く自宅に戻るつもりですが・・。m(。-_-。)m関連リンク先リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
2024年06月16日
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さて、何を載せようか?「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の続きも念頭にそろそろ考え無いといけない。交易品目の一つであった陶磁器から、西洋陶器のルーツを調べようか?そう言えば、そもそも当初は交易全般でなく、西洋磁器誕生のルーツを探るのが目的だったんじゃなかったっけ?初回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の冒頭で書いてました。いつくらいから磁器が欧州に輸入され、賛美されたのか? を特定する為に交易ルートを探っていたら、大いに横道にそれて、結果が壮大な「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズになったのでした。その「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズも大航海時代を迎え、ついに東洋との交易が始まりました。各国の「東インド会社」設立についてはまだこれからですが、「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回、「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」のラストで触れました。スペインは香料以外の交易品を多数見つけたのである。フィリピンからではなく、中国から・・。東洋の陶磁器が欧州に運ばれるようになるきっかけは、マゼラン隊のフィリピン滞在がきっかけだったかもしれない。※ マゼラン隊は1522年9月、本国スペインに帰国。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図今回は、流れ的に見ても、どうしても「陶磁器」をやっておきたい。ハーブ、スパイスから始まった交易であるが、大航海時代、彼らの輸入のレパートリーは増える。その中でも欧州に起きた陶磁器(とうじき)ブームは凄かった。とは言え、全ての焼物が磁器(じき)ではない。磁器は高価故に当時は選ばれた人しか持てない代物。磁器造りはあまりに難しく、完全な複製は無理。既存の陶器をいかに磁器のように見せるか・・。そんな開発の試みもあった。デルフト焼き(Delfts blauw)はまさにそれ。※ デルフト焼き(Delfts blauw)については以前書いています。リンク デルフト焼き(Delfts blauwx)しかし、難しい磁器の製造をあきらめなかった者達もいた。今回は、東洋の磁器から啓発された西洋磁器の開発の話と、欧州の王侯貴族らがあこがれた東洋の陶磁器とはどんなものか? いつから欧州に渡って来たのか? 「西洋磁器のルーツ」と「交易でもたらされた東洋の磁器」を主軸にしました。番外にするか迷いましたが、東洋磁器の写真が思いの他あったので、「アジアと欧州を結ぶ交易路 21」で陶磁器回を設けました。必然的に焼物史に触れざるおえません。問題は磁器だけでよいのか? 大航海時代以前からすでに交易はあったからです。そもそも、古(いにしえ)からの焼物はやはり東洋がルーツらしいから。須恵器(すえき)や土師器(はじき)のような土器(どき)類も入れたい。とは言え焼物史も長いから、ざっくりでもまとめて入れ込みたい。と、思いつつ、今回は無理だ。・・と言うわけで、番外で考えています。陶磁器の写真はいろいろ美術館で撮り貯めしていたところから引っ張りました。主にミュンヘン(München)のレジデンツ(Residenz)博物館からの写真をのせました。こちらは宮殿内の装飾にも陶器が多様されていて、当時の東洋趣味が伺えます。ただ、解説が無い写真がほとんどです。だから作品の正確な年代がつかめないものもあります。つまり写真だけの場合もありますのでご了承を。また、西洋の名窯で、現代に引き継がれるデザインも参考に幾つか入れました。韓国国立博物館の陶磁器や、大阪堺市博物館からも土器類を予定していましたが、これも次回です。アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)西洋陶磁器の始まりマイセン(Meissen)窯アウガルテン(Augarten)秘宝がもれた理由リチャードジノリ(Richard Ginori)セーブル(Sèvres)磁器 → セーブル磁器(Sable porcelain)ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)東洋陶磁器のコレクション東洋磁器の流行?日本の磁器(Japanese porcelain) 伊万里(Imari) 有田焼きのルーツ柿右衛門と濁手(にごしで)素地セーブル磁器(Sable porcelain)磁器(じき・porcelain) 西洋陶磁器の始まり実は西洋磁器のルーツは、マイセンに始まる西洋での陶磁器の開発成功から始まっている。つまり、それだけ見ると、各国の名陶のルーツは、全てマイセンの技術や職人の引き抜きから始まっているので、ほぼブランド紹介のようになりますが、各ブランドがどのように生まれたのか? その意味は意義があるかと思います。重要なのは、そもそもなぜ西洋で陶磁器の開発が勧められたのか? そのきっかけとなったのは、間違いなく東洋からの交易品として磁器が西欧にもたらされたからである。東洋から運ばれた磁器は西欧には無い白く薄い材質で、美しいフォルムと絵柄を持っていた。それはまさにお宝。「白い金」と呼ばれ王侯貴族がこぞって求めたのである。東洋の高級磁器は王侯貴族の富の象徴となり、それらを所持する事はステータスとなった。図らずも、各国の東インド会社は欧州にシノワズリ(chinoiserie)のブームをもたらし、それらを後押ししたのだ。※ シノワズリ(chinoiserie)のブームは、後に市民文化にまで降りて来る。遠い異国の地から運ばれる陶磁器は船で何カ月もかかる。壊れやすいだけでなく、航行中に船が沈没する事もあるのだからお値段も高くなる。それは王侯貴族から見ても高級品であった。何とか自国で造れないか?成功すれば、欧州各国に売り込む事ができる。どこの諸侯も思ったに違いない。以下には東洋の磁器に魅せられて、自国に磁器の窯を造った国と経緯(けいい)を紹介。それらは、名門の磁器会社として今に引き継がれている。歴史をさかのぼれば、実は中国や日本の模倣から始まっていた西洋の磁器食器。バブル時代は、逆に、日本人がこぞってそれらメーカーのディナーウェアなど買いあさっていた。今や洋食器は立場逆転。マイセン(Meissen)窯美しい東洋の磁器。しかし、その技術も材料も全く分からなかった。長い年月をかけてその開発に最初に成功したのがドイツのザクセン(Sachsen)なのである。 欧州初の磁器の完成は1709年。東洋磁器のコレクターであったザクセン選帝侯アウグスト2世( August II Mocny)(1670年~1733年)の肝いりで磁器の開発が勧められた。1710年、王立の硬質磁器(ポーセリン)工房として造られたマイセン(Meissen)窯から生産が始まった。因みに、当然、マイセンではその技術が他に漏れないよう窯を守る事を徹底。工房自体を城の中に秘匿し、開発技術者のヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)(1682年~1719年)から情報が洩れる事を恐れて幽閉したと伝えられる。※ 開発技術者ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーはもともと錬金術師。幽閉のせいか? 酒におぼれ37歳で急逝。工房は当初、ザクセン選帝侯の居城であったアルブレヒト城(Albrechtsburg)に置かれた。それ自体が、進入も、抜け出す事も容易ではない立地の城塞である。アルブレヒト城(Albrechtsburg) とマイセン大聖堂(Meissen Cathedral)10世紀以来、マイセン辺境伯の城塞があった丘に1471年~1495年頃、アルブレヒト城(Albrechtsburg) は建設された後期ゴシック様式の城。※ 辺境伯(Margraves)・・とは、防衛の最前線(国境)に位置する守備地の統領。後方の双尖塔がマイセン大聖堂(Meissen Cathedral)だが・・。968 年にオットー 1 世によって設立されマイセン司教区の司教座であったというので歴史の古い重要な教会だったはず。が、宗教改革のあおりで1581年にマイセン教区は解散。プロテスタントの教会となったそうだ。つまり、マイセン磁器が完成した頃には、この地はプロテスタント化していた。だから天使はあるけど聖人の磁器物は無いのね 納得。ザクセンのマイセン(Meissen)の工房マイセンもろくろ方式である。そもそも磁器の特徴だからね。日本のろくろ回しとスタイルが違う。座った高さに置かれているし、足がじゃまにならないから腰に優しい。東洋の磁器と異なるのは、食器以外にフィギュアなど細工物が多い。実用品より装飾品として好まれたからかも。パーツ自体は金型から型取りし、組み上げて行く。今は技術者が減って大変らしい。下の女性はアンダーグレイズ(Under-glaze)の作業中。焼成前の磁器に下絵付け。それを1300度の高温で焼成する。皿の裏にはマイセンのトレードマーク「交差した2本の剣」のマークが入れられる。この形で時代が解るのだ。さらに皿の裏には絵付け師のサインNO? を必ず入れるので誰の仕事かわかるらしい。確かに、カップにはものすごく小さい文字が・・。初期マイセンは中国の五彩磁器や日本の伊万里(いまり)の影響を受けている。1720年頃からは絵付けのデザイナーを呼び寄せ、ヨーロッパ的なロココ調の作品が主流となって行く。優れた陶工や絵付け師、彫塑(ちょうそ)家も欧州中から集められると、さらにシノワズリー専門の絵師、七宝上絵付けなど専門が確立されマイセン磁器の活躍は欧州の陶芸界をリードして行く存在となる。※ 彫塑(ちょうそ)家は金型となる彫像を粘土で造る人。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)マイセンか? アウガルテンか? セーブルか? マイセンであるなら、デザインはヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kändler) のデザインから造られたフィギュアかもしれない。ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kändler )(1706年~1775年) マイセンに請われた彫刻家。1731年~1775年まで44年間在籍。フィギュアなどの造形物は金型から起こす。その金型の製造を監督し、鋳造された製品の品質をチェックしていたのが彼。44年間と言う長さ。大方のマイセンのデザイン型は彼の作品かも・・。アウガルテンは、マリア・テレジアが王立にした事で、また。ロココの意匠を取り入れ、時代の流行になったそう。特に上のようなロココのフィギュア制作に力が入れられたと言う。マイセンを代表する柄 ブルーオニオン(Blue Onion) スクエアのコンポート 現代物ブルーオニオン(Blue Onion)は1739年開発のアンダーグレイズ(Under-glaze)の磁器。昔からのデザインが今も販売されている。逆に絵付けを見れば、どこのかすぐにわかるマイセンのブランドデザインの一つ。上記ブルーのアンダーグレイズのブルーオニオン(Blue Onion)は確かに「青玉ねぎ」とうたっていますが、元絵となった中国デザインはザクロ(柘榴)だったそうです。種の多いザクロは「子孫繁栄」の象徴として中国では縁起の良いフルーツ。しかし、西欧にザクロは無いから玉ねぎと勘違いしたらしいのだ。白磁に、染付の青はまさに東洋の模倣。直接絵を描き高温(1300度)で焼成されるアンダーグレイズ(Under-glaze)の技法こそがそうなのだ。高温焼成される為、成分的に高温に耐えうる絵の具のカラーには限りがある。コバルト(Cobalt)クロムグリーン(Chrome green)コッパーレッド(Copper red)ウラニウムブラック(Uranium black)とは言え、東洋(日本や景徳鎮)の絵の具と西洋の絵の具とは主材料が異なっているらしい。和絵の具・・酸化銅が緑色素の主材料。西洋絵具・・酸化クロムが緑色素の主材料。※ 窯業原材料の専門商社、株式会社三田村商店さんの「絵具について」を参考にさせてもらいました。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)景徳鎮かは不明であるが、日本でないのは確か。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)説明が無かったが、花の絵付けがマイセンの「ドイツの花」シリーズと同じなので、おそらくマイセン。こんなのは見た事が無いが、金色での特別オーダー品と考えられる。ヴィッテルスバッハ家の特注で、 後で紹介するコレクションルーム? の飾り棚に飾られていたのはこれなのでは?ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)マイセン大皿 ドイツの花 ブーケアウガルテン(Augarten)欧州初の磁器工房はドイツのマイセン(Meissen)窯(1710年~)。続く欧州の磁器工房はオーストリアのアウガルテン(Augarten)(1718年~1864年)(1924年~)。正式名はウィーン磁器工房アウガルテン(Wiener Porzellanmanufaktur Augarten)。秘宝がもれた理由マイセンは技術を秘匿していたはず。しかし情報は結局漏れた。マイセンで先に紹介した錬金術師で開発者であったヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)(1682年~1719年)。彼は秘密保持の為に幽閉されていたと紹介したが、製磁製法と釉調合方法を別々にザクセン選帝侯アウグスト2世の廷臣に残していたそうだ。1719年、ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーが亡くなると、マイセンから二人の職人がウイーンに引き抜かれた。この二人により、実質の磁器の製法がウィーンに伝えられたと言うのだが・・。高額を約束した給料が支払らわれず、結局二人はすぐにウィーン窯を辞めていて、ウィーン窯も倒産状態。でもマイセンの技術は得ていた。1744年、マリア・テレジアの国策によりウィーン窯は王室が買取ったそうだ。基本的にはドイツもオーストリアも当時は神聖ローマ帝国圏内なので同胞。公式に何らかの技術提供があったのか? と思っていたが違ったようです。2人の廷臣が買収されていたのか? これも解らない。事実は小説よりも奇なり・・ですね。アウガルテン(Augarten)が王室磁器窯となるのは1744年。マリア・テレジア(Maria Theresia)(1717年~1780年)の時代。この時にハプスブルク家の盾型の紋章が商標となったのです。※ 王室解体後の現在もこの紋章は使われている。当時どの程度の磁器が造られていたのかは定かでない。アウガルテンが飛躍するのは1761年、良質のカオリンが発見されてからだ。※ ハンガリーのシュメルニッツでカオリンが発見された。しかし、1864年、ハプスブルグ家の衰退で一度窯は閉じられ、帝国解体後の1924年から再興。※ ハプスブルグ家の衰退の事情は以下に書いています。リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日ところで、ウィーンに最初のカフェが誕生したのは1685年。それはマリア・デレジア以前であるが、カフェ文化を推奨したのがマリア・デレジア(Maria Theresia)(1717年~1780年)。磁器によるコーヒーカップの誕生は、アウガルテンが世界初なのだそうだ。他国では紅茶カップはあってもコーヒーカップは希少。ウインナコーヒーが存在するよう、カフェ文化の中で特にアウガルテン(Augarten)の器は人気を博したのだろう。アウガルテンは皇族、貴族のために磁器を焼き続けたと言う。女性の好むかわいらしい小花の器は、マリア・テレジア(Maria Theresia)の時代から始まっていて、その後19世紀初頭のビーダーマイヤー(Biedermeier)と呼ばれる時代までは健在であったよう。ビーダーマイヤー(Biedermeier) デミタス1791年、エッティンゲン伯爵家(gräfliche Haus Oettingen ein)の注文で制作された磁器。「白磁に軽やかに散りばめられた花々を、水色の帯に金色の星を旗飾りとして縁取りました。」と帝国工場の注文簿に記されていたそう。なぜ? ビーダーマイヤー(Biedermeier)の名が使われたのかは不明。時代がビーダーマイヤーよりかなり前だから。ただ、今も人気のデザインです。因みに、秋篠宮家の婚礼時に、アウガルテン(Augarten)のこのビーダーマイヤー(Biedermeier)が使われたようです。かつてドイツの三越で売れ残った大皿を引き取ってきた事があり聞いた話です。高すぎて? 思ったほど売れなかったとか・・。リチャードジノリ(Richard Ginori)イタリアのリチャード ジノリ(Richard Ginori)(1737年? ~ 1896年~ )イタリアではマヨリカ陶器が全盛だった頃、1735年、マイセンやウィーン窯に対抗すべくイタリア貴族、カルロ・ジノリ(Carlo Ginori)侯爵(1702年~175年)が、高級な陶磁器を造る窯としてドッチャ磁器(porcellana di Doccia)を設立。※ カルロ・ジノリは事業家だったらしい。手掛けたのは陶磁器だけではない。磁器の開発に成功するのは1737年。マイセンの職人の力を借りている。1741 年にトスカーナにおける磁器生産の独占権を取得。リチャードジノリ(Richard Ginori) ベッキオのイタリアンフルーツジノリ最古の代表作と言われる白磁に文様の入った「ベッキオホワイト」。その上にイタリアンフルーツ(Italian Fruit)を重ねたもの。青紫のプラムを中心にフルーツや小花を絶妙なバランスで散らしている。1760年頃トスカーナの貴族の別荘で使うディナーセットとして考案されたイタリアンフルーツ(Italian Fruit)はリチャード ジノリ窯を代表するシリーズとなっている。ジノリも以前からのデザインを長く使用。1738年、1748年、ポンペイが発掘された時にカルロ・ジノリは記念デザインに「ヴェズビオ (Vesuvio)」シリーズを発表。そのデザインも現代も使われている。1896年、ミラノのリチャード製陶社と合併して、名称が現在のリチャードジノリとなっている。なぜでしょう? ジノリは他の窯と比べるとリーズナブルです。セーブル(Sèvres)磁器 → セーブル磁器(Sable porcelain)フランスのセーブル(Sèvres)焼き(1771年?~ 1789年?)(1824年~ )当初はマイセンの模倣で始まっている。本格的に作られるのは、カオリンがリモージュで発見されてから。レジデンツ博物館のコレクションの所で詳しく説明してます。ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)デンマークのロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)窯(1775年~)1773年初磁器の完成。王室御用達窯になる(ロイヤルが付く)のは1775年。しかし、この時点で株式会社だったらしい。1868年、王室は全ての株を売り払ったが、ロイヤルの意匠を使う許可は残したので、マークだけは健在。開窯した1775年に最初に制作されたのが、アンダーグレイズ(Under-glaze)の技法を使ったブルーフルーテッド(blue fluted) 。デンマーク人にとってアンダーグレイズUnder-glazeの磁器と言えばロイヤルコペンのブルーフルーテッドを指すくらい代表作らしい。19世紀のヨーロッパの上流階級の人々に愛用された逸品らしい。先にマイセンで紹介したブルーオニオン(Blue Onion)と同様にデザインも東洋が意識されている。下はブルーフルーテッド・フルレース(Blue Fluted Full Lace)の ソーサー。ブルーフルーテッド(blue fluted)シリーズも種類がいろいろある。フルレース(Full Lace)は、シリーズの中でも一番彩色も多く、凝っているもの。要するに手間がかかっているので値段も高価。※ 現在販売されているフルレースはもっとシンプルなようです。ブルーフルーテッド・フルレース(Blue Fluted Full Lace)の コーヒーカップ取っ手に顏がある。これは東洋と言うよりは、西洋のガーゴイルのデザインの気がする。ティーカップにはこれが無いのだ。だからコーヒーカップを紹介。ブルーフルーテッド(blue fluted)のコーヒーポッド&シュガーポッド&ミルクカップ残念ながら、こちらはフルレースではありません。近年は、微妙にデザインを変えて、年々シンプルになって行っているようです。要するに職人の手間を省いているのでしょう。代表作が「フローラ・ダニカ(Flora Danica)」1789年、ロシアの女帝エカチェリーナ2世(Yekaterina II)(1729年~ 1796年)に献上する為に制作されたディナーセット、ティーセットなど1602点が開発された。デザインはデンマーク王国の植物図鑑「フローラ・ダニカ(Flora Danica)」がモチーフにされている。貴重な植物図鑑である。※ エカチェリーナ2世(Yekaterina II)(1729年~1796年)(在位;1762年~1796年)ロマノフ朝第8代ロシア皇帝。1803年に完成はしたが、デンマーク王が自分のものとし、エカチェリーナ2世に献上するのを中止したと言ういわくの品。(すでに女帝は亡き人だからでしょうね。)フローラ・ダニカ(Flora Danica)のコーヒーカップを一周撮影。献上はできなかったが、女帝の為に金細のほどこされた美しい器にはデンマーク植物図鑑の植物画(1800種)が一つ一つ器に描かれている。制作には、一つのパーツで花のモチーフを描く職人と、金細を描く職人で2人必要らしい。上のカップ&ソーサーでは4人必要のようです。今は完全受注生産。柄も決められるのかは不明。フローラ・ダニカ(Flora Danica)のソーサー金細は24金らしい。下はフローラ・ダニカ(Flora Danica)のコーヒーカップの裏の刻印を撮影。裏の刻印も実は大量生産品とは異なる。カップには描かれた花の名前がラテン語で記されている。西洋磁器食器としては、値段も造りも最高峰。ディナーセットからスープ入れまで種類も豊富。フローラ・ダニカ(Flora Danica)の大皿さすが24金。まばゆい 飾り皿ですね。マイセンの所で絵の具の話に触れたが、多色の場合、色を付けては何度も焼成すると言う過程を通る。特に金は熱に弱く、高温で焼くことができない為に低温(500度~700度)で焼成される。しかも金を壊さないために低温で何度も。手間だけではない。当然割れる確率も上がるのだからアンダーグレイズ(Under-glaze)よりも高くはなるわけです。先にも触れたが、今に存在する西洋の高級磁器会社はいずれもマイセンの技術から発している。マイセンが西洋陶磁器の頂点に君臨しているのはそんな事情だ。※ 以前クイズ形式でマイセン工房を紹介。リンク先載せます。リンク クイズここはどこの陶磁器工場? Part 1リンク クイズ陶磁器工場 1-2 解答東洋陶磁器のコレクション欧州の宮殿などには調度品として高級磁器が目立つように飾られたりしている。17世紀後半、欧州で流行した中国趣味の美術様式シノワズリ(chinoiserie)が流行った事もあるらしい。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)宮殿の廊下のコンソール(console)にはそれぞれ壺(つぼ)が飾られている。コンソール(console)はブラケット(棚受け)を意味するフランス語。壁に取り付けて使われる飾り用デスク(棚?)なので単体では立たない。※ デスクと言うほど幅は無い。飾り棚が正解かも。欧州の宮殿やホテルなどでは、たいてい鏡の前に据えられていて、調度品や花が飾られていたりする。それだけに、本来はバロックやロココスタイルの豪華な家具の印象が強いかも。まさに上下の写真にあるのがコンソールそのもの。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)こちらは鏡張りの化粧室? こちらのコンソールには陶磁器の時計が飾られていた。着目は、鏡の上部の装飾。非常にユニークな使い方だったので撮影していました。下は部分。おそらく、陶磁器の花瓶のミニチュア。それをロココの壁面装飾の一部として使っている。東洋磁器の流行?各国の海洋事業の推進により、欧州人は全く文化の異なる東洋を知る。その異国には自分達の国には無い美しい焼物が存在していて、いつかそれを手に入れたいと皆が願ったのだ。中国の景徳鎮(けいとくちん)や日本の伊万里焼の陶磁器が大量に欧州の宮殿に運ばれたのはそんな理由から始まった。前述したように、白い肌の陶磁器は欧州には無い。金に匹敵するくらい貴重なお宝として求められたのである。最も、磁器は素材ゆえに今でも陶器よりお高いですが・・。ウイーンの宮殿やドイツの宮殿ではコレクションの皿が壁一面に張り付けられた主(あるじ)自慢の陶器部屋もあったりする。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)の品もヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の自慢の一品たちである。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)高級品をさらにアレンジ? 欧州風に金属の装飾が施されている。この装飾は、輸入された後にしつらえられたのではないか? と思う。なぜなら、取っ手のドラゴンが西洋的だから。つまみもアーティチョークっぽい。日本の磁器(Japanese porcelain) 伊万里(Imari) 欧州の商人は、前から日本の磁器製造に注目はしていたらしい。だから中国で動乱が起きた時に素早く交易先を日本に切り替えられたのだ。ちょうど、17世紀に起きた欧州の陶磁器のブームと中国の動乱期が重なった事が日本にとってはラッキーだった?日本から輸出された伊万里(Imari) 柿右衛門(かきえもん) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)中国大陸では、満州で建国(後金国)していたヌルハチ(nurhaci)(1559年~1626年)がさらに本土とモンゴル高原の漢民族を征圧。動乱後、中国で最後の統一王朝となる清国(しんこく・Qing Dynasty)(1644年~1912年)を建国した。 中国で代替わりの動乱が起きていた17世紀、中国から仕入れができなくなった欧州人は、交易先を日本に切り替え、日本の陶磁器を調達する事にしたのである。陶磁器の積荷は佐賀県の伊万里(いまり)港から出航した。それ故、欧州人らはその陶磁器を伊万里(Imari)と呼んだ。伊万里磁器(いまりじき・Imari pocelain) の名は、輸出元の有田町の港の名からつけられたと言うわけだ。本来は、有田で焼かれた有田焼きであった。柿右衛門(かきえもん) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)伊万里焼とコバルトブルー、鉄赤、金を中心とした豪華な絵付け装飾が当時欧州で流行っていたバロック様式にマッチした事もあり1700年頃には伊万里磁器の人気がかなり高まったらしい。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)景徳鎮か? 伊万里か? 不明。ヘッドのつまみが、振袖を着た女性になっているから日本かな?有田焼きのルーツ器の原料である磁石鉱(白磁鉱)を有田泉山に発見し 1616年、日本初の磁器「有田焼」が完成する。※ 泉山陶石、天草陶石などの白磁の原料カオリンが北九州で発見されたのだ。そもそもその技術はどこから来たのか?豊臣秀吉による朝鮮出兵の時に肥前佐賀藩の鍋島直茂(なべしま なおしげ)(1538年~1618年)が朝鮮の陶工であった李参平(り さんぺい)を日本へ連れ帰った事。とされている。その李参平(り さんぺい)により日本で泉山陶石が発見され、有田で陶磁器生産が始まる。20代半ばで来日して63年。李参平(り さんぺい)( ? ~1592年~1655年)は有田焼きの租になった。※ 日本では金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)の名で生きたらしい。※ 逆算して来日が1592年頃となるので、第一次朝鮮侵攻の文禄の役(1592年~1593年)の最初には来日していた事になる。※ 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が豊臣秀吉による朝鮮出兵の戦い。文禄の役(1592年~1593年)慶長の役(1597年~1598年)秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結している。柿右衛門と濁手(にごしで)素地「酒井田柿右衛門家年譜」によれば、1626年、豊臣秀吉御用焼物師の高原五郎七が、作陶を教える為に酒井田家へ逗留。初代 柿右衛門が、酒井田家の喜三右衛門(1573年~1666年)だそうだ。1628年、鍋島藩御用窯が有田に建造。酒井田喜三右衛門(初代 柿右衛門)を有田に呼び寄せ、御用窯を任せたのだと考えられる。また、「酒井田柿右衛門家年譜」によれば、日本の磁器が初めて輸出されたのは1647年(正保4年)。オランダ東インド会社による日本磁器輸出が本格化するのは1659年(万治2年)とされている。※ 公式 柿右衛門窯の「酒井田柿右衛門家年譜」リンク先 リンク 酒井田柿右衛門家年譜濁手(にごしで)素地柔らかく温かみのある乳白色の素地は柿右衛門様式の美しい赤絵に最も調和する素地。※ 一般の白磁(青系)よりミルキーホワイト色した白磁素地。1670年代にその製法が完成した濁手(にごしで)素地は、柿右衛門の作品の大きな特徴の一つだったそうだ。しかし、1700年代(江戸中期)になると「柿右衛門様式」に変わり金・赤を多用した「金襴手様式」が色絵の主流となってしまった。また、中国の内乱が収まり、景徳鎮磁器の輸出が再び本格化すると、オランダ東インド会社による肥前磁器の輸出は減少していく。さらに江戸幕府による貿易制限もあり濁手(にごしで)素地の製作は、途切れたそうだ。※「濁手」の原料は泉山、白川、岩谷川内の3種の陶石が6:3:1の割合で調合されているそうだが、原料陶石の焼成時の収縮率の違いによって破損が多く出る事も途絶えた要因らしい。長らく造らなければ、その技術も失われる。柿右衛門家に伝わる「土合帳」等の古文書を基に研究し、12代柿右衛門(1878年~1963年)とその子13代柿右衛門(1906年~1982年)は1953年復刻に成功する。※ その技術は無形文化財となった。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)蓋付きの花瓶と金魚鉢 レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum) コレクションルーム?いわゆる、食器の飾り棚のようです。覗き込めるほど近づけないけど、ちょっと見、実用のマイセンとアウガルテンかな? 当時は他の品が飾ってあったのでは? と思う。フランスのセーブル(Sèvres)焼き レジデンツ博物館(Residenzmuseum)セーブル磁器(Sable porcelain)セーブル磁器(Sable porcelain)は、フランス王家が力を注いだ陶磁器。ポンパドール夫人やルイ15世が筆頭債権者になるなど力を入れていたが、当初は軟式陶磁器しかできず、マイセンの模倣の域を出なかったそうだ。ポンパドール夫人(1721年~1764年)亡き後の1769年にリモージュ近郊でカオリン鉱床が発見され本格的な磁器の製造実験に入る。マイセン磁器完成(1709年)より61年遅れて、1771年? フランスでも磁器の開発に成功した。フランスでは、成功した本格的な磁器を王室磁器(royale porcelain)としたらしい。が、セーヴル窯はフランス革命の折に市民により破壊されている。1824年、ナポレオン1世によって国立セーヴル陶磁器製作所として再興された。ロイヤルなセーブル磁器の技術はリモージュ磁器(Limoges porcelain)にも継承された。セーブル(Sèvres)焼き ヴェルサイユ( Versailles) プチトリアノン宮(le Petit Trianon)プチトリアノン宮(le Petit Trianon)で展示されていた皿なので、マリーアントワネット縁の品であろう。絵付けに国がら? 個性が出てますね。セーブル焼きは前出、ポンパドール夫人(1721年~1764年)亡き後にカオリンがリムージュで発見され磁器の製造実験に入っている。1771年開発成功? 時代的にセーブルの生産が開始されたのはルイ16世の治世に入ってからと思われる。※ ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年)(在位:1774年~1792年)プチトリアノン宮(le Petit Trianon)の展示品がマリーアントワネットの愛用品とするなら、それらはセーブル開発の初期の磁器の可能性が考えられる。古い王室磁器のセーブル窯はフランス革命で破壊されて消えているので、希少品かも・・下もプチトリアノン宮(le Petit Trianon)の展示品から。これだけではサイズ感がわからないと思いますが、鍋のように大きい器です。スープを入れてサーブする為の容器だった可能性が考えられる。品よく描かれた花はマリーアントワネットの故郷オーストリアの花かな? これを見ると、柿右衛門が人気だったのもわかりますね。実用にするなら、白磁の魅力を引き出し、かつ飽きのこないシンプルさに品を感じる逸品です。セーブル(Sèvres)焼き レジデンツ博物館(Residenzmuseum)表示は無いが、セーブル(Sèvres)焼きで間違いないかと・・。リモージュ焼きの特徴があるし、人物の横顔のマークも決め手。ドイツのマイセン(Meissen) 時計とキャンドルスタンド レジデンツ博物館(Residenzmuseum)マイセンなのに敢えて中国風に? これこそがシノワズリ(chinoiserie)の一例かもしれない。マイセン(Meissen)のティーセット レジデンツ博物館(Residenzmuseum)こちらの柄も敢えて中国風。シノワズリ(chinoiserie)になっているみたい。磁器(じき・porcelain) 1300°C以上の高温で焼成される白色の硬質の焼物。陶磁器の中では最も硬く、軽く弾くと金属音がする。磁器は半透光性で、吸水性が殆ど無いから器としては最適。粘土質物や石英、長石→陶土を原料として1300°C程度で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。※ ボーンチャイナ(Bone china)は軟質磁器(soft-paste porcelain)素材はケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)(カオリン・Kaoling)を主成分とする陶石という石の粉と磁土を合わせ、高温で焼成した造られる。カオリナイトは長期の風化作用によって花崗岩などの長石が分解して生成される。俗にカオリン(Kaoling)と呼ばれるのは中国の有名な産地、江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)の地名から由来しているそう。このカオリンの採掘が各国の磁器の開発に大きくかかわってくる事は言うまでもない。しかし、素材となるカオリンはどこでも産出できるものではない。無い所はカオリンを輸入しなければならない。英国では、カオリンの代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜて陶器を完成させた。英国のウエッジウッド(Wedgwood)がそれである。ボーンチャイナ(Bone china)と呼ばれるのはまさに骨粉が使われているからだ。今回は景徳鎮の事も触れていないので、次回「焼物史(仮題)」の中で扱いたいと思います。予定とちょっと着地が変わりました。Back numberリンク 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁まで アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年04月26日
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数年前に古物商の許可証を警察に返却したのですが、今年、なぜか講習会の案内が届いた。うちの市は管区の警察が招集を掛けるシステムになっているので、警察に「もしかして名簿が間違っていませんか? 」と、あきらかに私に来るのはおかしいし、例年来ていなかったのに変・・と案内状の配信ミスを教えてあげた所・・。「自分は今年初めて担当した。古い名簿が残っていたのだろう。自分は全て出すように言われたからしただけだ。」と、全く失敗に対する反省もなく、当たりまえのように弁明をされ「申し訳ない」の一言もなかった。古い名簿が残っていたのでなく、貴方が違うファイルを開いたのだろう・・と突っ込みたかったが・・。とにかく私は関係ないのだから今年の出席者名簿からはずすように伝え電話を切った。そして切った後に諸々と不安が・・ 彼は、私の指摘を上司に報告しないのではないか?ミスをそのままごまかして(ごまかしきれないと思うが・・)過去の名簿をこっそり全て消去するのではないか?もし過去の登録者の名簿を全て消去したらとてもまずいと思う。古物商の許可証はそもそも都の公安委員会の管轄で、取得する時も履歴書まで提出。犯罪に利用されやすい分野だけに管理も本当は厳しい筈なのだ。それに今回の案内は往復の返信葉書できている。間違い郵便の損害は大きいはず。彼の上司に同情すると共に日本の未来に改めて不安がよぎる。これが昨今の驚きの新人かー。警察の中にもいるんだー。さて、今回は「デルフト(Delft)の旧教会」予定でしたが変更して先に「デルフト焼き」入れました デルフト焼き(Delfts blauwx)デルフト・ブルーと聞いて、最初はデルフト焼きの青い絵付け色の事かと思っていた。どうもデルフト・ブルー(Delfts blauwx)でデルフト陶器そのものを表す名詞になっているようだ。ところでデルフト焼きは陶器である。磁器ではない。陶器としてのルーツはマョルカの陶工達によるものであるが、見た目の特徴である白地に青の姿は、当時人気のあったエキゾチックな東洋の磁器をモデルとして誕生している。※ デルフト・ブルーの青は、最初は中国陶器に似せたもの。そして後に有田焼の青がルーツになる。オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie) 略してVOCが仕入れて欧州に売っていた東洋の磁器は、非常に高価な品。持つ事ができたのは王侯貴族である。※ 中国の景徳鎮(けいとくちん)が入手できなくなり、代替えとして日本の有田焼が選ばれ伊万里港から船積みされ当時大量にオランダに渡っている。しかし人気はあったがいずれにせよ磁器は高価な品。そこで代替え品? 人気にあやかり? デルフト焼そのものを磁器に似せるようスズのグレーズで釉掛けしてベースを白く造ったのである。(その方が後から彩色する青もより映える。)これにより、あくまで磁器の代替え品であるにもかかわらず、デルフト焼きは1600年から1800年頃までの間、裕福な人々の間で人気が高まりコレクターも現れたそうだ。しかし、最盛期に33あった陶工も、現在残っている会社はデ・ポルセライネ・フレス(De Porceleyne Fies)一社のみらしい。(観光ツアーでは必ず訪れる所)デ・ポルセライネ・フレス(De Porceleyne Fies)看板型どりからベースと彩色、焼き、にいたる行程陶板の絵付けチューリップの過敏の絵付け絵皿はフェルメールのターバンの女。完全オランダ土産ですね工房の居間にはレンブラント(Rembrandt)の夜警(De Nachtwacht)が陶板に描かれている。実はこの絵の正式な名前はフランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊(De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh)た゜そうだ。原画はアムステルダム国立美術館にあるが、表面のニスが変色し黒ずんだ為に長らく夜と間違われてきたらしい。本当は昼間なのだそうだ。このレンブラントの絵は一人100ギルダーで、レンブラントには計1600ギルダー支払われている。それなのに彼はみんなを平等のサイズに描かなかった事で問題が起きている。余談であるが、当時のオランダでは絵の中の登場人物が多いほど絵に価値がもたれていたようだ。だからフェルメールの絵は人物が少ないので安くしか評価されなかったようだ。お店の展示品 アンティックなのか不明だが、意匠はジャパンですね。デルフトの絵模様には、中国、日本、ペルシャの影響が見てとれる。それらが参考にされたのは間違いない。チューリップの花瓶チューリップの正式な生け方はこのようなチューリップ用の専用花瓶に挿すのが本当ようです。下は造花だから一列にならんでいるけど、実際のチューリップなら陽の無い方にクネクネする(成長ホルモンは陽が嫌い)ので本物の花ならもっと面白い姿になったのかもしれない。初期のデルフト焼きプリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)まだマヨルカ焼きの要素が残っている。かなりチープ。ちよっと楽焼きのようです。プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)輸入の陶磁器がアジアから入るとデルフト陶器は売れなくなったそうだ。だから生き残りをかけて磁器のような陶器の制作に入った。残念ながらアジアの陶器や磁器の制作過程を知らなかったのでこのようなスズをかけて地を白くする・・と言う方法を思いついたのかもしれない。しかし、結果はオーライで、今までの西洋の陶器ではなく、また中国の磁器とも似つかないが、新しい感覚のこの陶器はその珍しさもあり顧客を獲得。18世紀までは非常に売れたのだそうだ。1656年製 プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)まるでホウロウのような軸薬の濃さ・・。この白さと面白さは、イギリスがボーンチャイナを出すと衰退してしまう。デルフト焼き、2度目の危機である。磁器以外に白さを出す方法をイギリスは発見したのである。それはデルフトの白よりも美しく自然。ジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgwood)(1730年~1795年)と息子ジョサイア・ウェッジウッド2世 (Josiah Wedgwood II)は白色粘土の代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜる事により乳白色の陶器の開発に成功したのだ。それがウェッジウッド(Wedgwood & Corporation Limited)である。以降イギリスの中でボーンチャイナは主流になりいろいろなメーカーが生まれている。どう見てもデルフトとは比べものにならない品質である。今後デルフト焼きの再起はあるのか? と言ったところで終わります。徹夜になりましたが、本日大阪に移動し2週間弱滞在。旧教会のところで後発のオランダ東インド会社(V O C)がなぜ日本にビジネス参入できたか? の経緯など紹介予定ですが、ひょっとすると旧教会の前にまた別の内容をはさむ可能生もあるので悪しからず・・
2016年10月20日
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