れみどりの☆楽・音・食・眠☆     ☆らくおんしょくみん

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ピアノ入門 O先生のもとで


「どちらの先生についていらっしゃいますか…?」
そのピアノを弾いていたのは、わたしより3才上の女の子でした。そして、彼女のついていた先生もまた、我が家の向かいの棟に住んでいらしたのでした。

一棟に30世帯、それが60棟以上ある大きな団地。その中で、今から思い返しても指折りの先生が、すぐ隣の棟で見つかったのは、偶然とはいえほんとうに幸運なことでした。この先生のお陰で今のわたしがあるといっても過言ではありません。

ともかく母は紹介して頂いたO先生を訪ねました。先生は「オルガンではお教えすることはできないのでピアノを買ってください」とおっしゃったそうです。父と母は、清水の舞台から飛び降りるつもりで、わたしの為にピアノを買う決心をしてくれました。6才の誕生日を迎える直前のことでした。

実は両親はわたしが生まれたときから「女の子だから将来はピアノでも」と、積立貯金を始めていたそうです。ところが当時のインフレで、「ピアノ一台買えるはず」だった積立は、6年の間にほんのわずかな価値になってしまっていたとか。悔しかったでしょうねえ。

ピアノが我が家にやって来たのは、夏の暑い日のことでした。公団の3階だった我が家まで、びっくりするような大男2人が、太い布紐を支えに運び上げてくれました。茶色いぴかぴかのヤマハピアノ。嬉しくて嬉しくて、飛び上がりたいような気持でした。母は、その二人の大男さんたちに冷たい飲み物を出そうとしましたが「汗が出るから」と固辞されました。それならと、棒付きアイスキャンディーを食べて頂いたことを憶えています。あの日のことは強烈な印象で残っています。

O先生のもとでのレッスンが始まりました。当時は当然のごとく「バイエル」からです。もひとつ当然ながら母がとても熱心で、わたしが練習する横にはいつも座って見ていてくれました。そのおかげもあってか面白いように進み、バイエル上・下巻は8ヶ月で終了することになります。後半は「ブルグミュラー25番練習曲」や「こどものハノン」を併用していました。

バイエルの最後の方はやはりさすがに難しく、特に半音のでてくるラスト2曲は結構苦戦しました。普段厳しい先生が、バイエル終了の日にお菓子の詰め合わせをごほうびに下さいました。ものすごく意外でそして嬉しくて、いまでも強烈に憶えています。

先生は、大阪ご出身。S音楽大学を出て結婚されたばかり。若くてきれいな方でした。しっかりした指の形、明瞭な音を指導されました。子どもの性格を的確に掴んで、最大限に能力を伸ばしていただいたと思っています。

最初の発表会を、小学校入学したての5月に迎えることになりました。準備は3ヶ月ほど前から始まりました。全音ソナチネアルバムの9番クレメンティのソナチネ全楽章。多分、「ブルグミュラー25」はもうその時終了していたのだと思いますが、バイエルを終わったばかりの子どもによくもまあ、そんな曲を与えてくださったと思います。3楽章のオクターブの跳躍が届かず、苦労した記憶があります。

発表会は3人の先生方の合同でした。当日になってプログラムを見た先生があわててとんで来られました。「ほかの先生の生徒の中学生が同じソナチネ9番を弾くけれど、1楽章だけみたいなの。あなたは全楽章弾くでしょう。急で悪いけど繰り返しは全部取って弾いてちょうだい」母はうろたえたそうですが、当時のわたしは怖いもの知らずの小学1年生。何も気にせずに、こなしたようです。(全然記憶にありませんが)

小学校2年生5月の発表会では、ダカンの「かっこう」。3年生5月にはベートーベンの「6つの変奏曲」(全音ピアノピース)、そして4年生5月にはバッハ「イタリア協奏曲1楽章」を弾きました。今思うと、かなり大胆な選曲でした。

それにしても、当時から練習量の少ないことでは先生を悩ませたそうです。「欲がない」と大人になるまで言われ続けていましたが、それはもうこの頃から始まっていたということでしょう。「もっと弾けば、もっともっと上手くなるのに」周りは期待するけれど、自分は「宿題」の曲だけ弾ければそれでOK。サラサラっとこなして、それでお終い。練習こそ毎日欠かさずしていましたが、時間は最低限でした。だってほかにもやりたいことは山盛り。お友達とも暗くなるまで遊びたいし、本もいっぱい読みたいし、TVだって観たいもの…。

そんな中で小学校3年生のある土曜日、ピアノのレッスン日であることがわかっていながらついついお昼も食べずに学校に残って友達と遊んでしまいました。帰ったらレッスン時間はとっくに過ぎた後。父の雷が落ちました。

「やる気のないヤツは止めてしまえ!」

泣いて頼みましたが、どうにも許してもらえませんでした。ピアノにはカギを掛けられ、先生にも「やめさせます」と母が挨拶に行ってしまいました。ピアノには一切触らせてもらえません。部屋の一番目立つところにあるピアノが、なんだかひどくよそよそしく見えてたまりませんでした。毎日まいにち弾いていたはずのピアノだったのに、もうこのまま二度と触ることができないのか…。人よりピアノが弾けるということは、自分にとっても誇りでしたから、ここで止めたくないという思いが強くありました。でも父は頑として許してくれませんでした。

今から思うと、あれは両親と先生がわたしにカツを入れるために共謀していたのでしょうね。わたしにとってはかなりきついお仕置きでした。一か月後、これからは心を入れ替えて練習します、という約束とひきかえに、やっとピアノのカギを開けてもらい、レッスンも再開することが許されました。それからは、自分なりに真面目に練習しました。練習することは決して楽しくはなかったけれど、もう二度とカギを掛けられることはごめんでした!

O先生には五年生の秋までお世話になりました。家を建てて市外に引っ越すことになり、やむなくお別れすることになったのです。

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