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Lemonhart755
信長暗殺P04
本能寺の変が発生した時、信長から最も近い場所にいたのは,徳川家康であった。
本能寺の変、前後の家康の行動を追ってみると,5月15日家康は穴山梅雪をともなって安土におもむいた。
梅雪は武田信玄の甥で勝頼の妹婿にあたる。
信長・家康連合軍が甲斐攻略にのりだしたとき,梅雪は人質に出してあった
妻子を取り戻し武田家を裏切り家康と手を結んだ。
武田家滅亡の陰の功労者ともいうべき人物で、家康が梅雪を安土に同行したのは
その功をねぎらおうとしたのであろう。
5月19日、彼らは安土の総見寺で梅若大夫の能を見物し、21日には信長から京都遊覧を進められ京都に入った。
29日には堺に行き松井有閑の饗応を受けている。この日、信長は上洛し本能寺に入っている。
6月1日、家康は堺で今井宗久、津田宗及、松井有閑にそれぞれ茶の湯の接待を受けている。
6月2日の変の当日朝、家康は慌しく堺を出発する。
本願寺顕如の祐筆だった宇野主水は、堺における家康の動向について「鷺森日記」に詳しく記入している。
家康が堺に入ると、顕如は酒肴三種五荷を送っている。
信長と敵対関係にあった顕如が何故、家康に接近しようとしたのか・・・?
また、宇野主水がなぜ、堺における家康の行動を詳しく記入でたのだろうか・・・・?
鷺森日記によると、家康は2日朝、本能寺の変を知ると、信長に面会の必要があると言って、急遽京都に向かったという。
しかし、家康は京都には向かわなかった。
京都に向かう途中で信長の死を知った彼らは三河への最短距離である伊賀越えを決めた。
近江の豪族、多羅尾光俊の館に一泊し、3日には多羅尾の案内で伊賀越えにむかった。
途中、農民の一揆にも遭遇したが、これを追い払った。
家康一行は、伊賀の地侍、柘植三之丞ら200人ほどに守られて白子浜に出て
そこから大湊の回船業者角屋の船に乗船し、三河湾を渡り三河大浜で下船して無事岡崎に帰国した。
家康は多羅尾光俊の伊賀越えでの協力がよほどうれしかったのか、彼の子光太に200石扶持を与え
更に慶長5年(1600)関が原の合戦の年には4600石を与えて以後、幕末まで多羅尾氏を信楽代官にしている。
この伊賀越えは生涯忘れ難い出来事だったと「徳川実記」に記載されている。
最初から同行していた服部半蔵が伊賀の出身ということで、伊賀越えにには同族の郷士たちも協力した。
特に柘植は服部家を本拠とする北伊賀悪党として活躍した一族で
柘植三之丞ら200人の地侍が協力したのも、その縁からであろう。
家康は伊賀郷士の協力に感謝して、郷士200人をとりたてて、千貫の録を与えた。
いわゆる「伊賀組同心」の起源で、組頭に半蔵が就任した。
しかし、家康に同行していた穴山梅雪は、宇治田原で殺されている。
一揆に襲われ殺されたとされているが、「老人雑話」によると家康が梅雪を警戒し殺させたいう記載もある。
家康は梅雪の何を警戒したのだろうか・・・・・?
帰国した家康は、すぐ甲斐に先発隊の兵をだした。
約一週間後、家康は態勢を整えて鳴海まで出陣した。そこで秀吉の使者が光秀討伐を
知らせてきたため、方向転換し甲斐鎮圧に本隊を向けた。
秀吉は、「山崎で光秀を討ち上方を平定したので、上方に軍を進める必要は無い」と知らせてきた。
その知らせを受けた家康は、西国を押えた秀吉に対し、自分は東国だと言わんばかりに行動を開始した。
小田原の北条氏が甲斐侵攻を開始した。
その動きに対抗して、家康は武田家の旧臣達に帰服を促し、これを譜代の井伊直政たちの配下に組み込んだ。
また、武田家の旧臣成瀬正一、日下部定好を甲斐奉行に起用するなどして巧みに臣従させ甲斐の鎮圧に努めた。
その間に秀吉は、清洲会議でポスト信長の地位を固めていった。
やがて、秀吉は柴田勝家と対立し、抗争する兆しが見えはじめた。
他に、秀吉の処遇に不満を抱く信長の次男信雄が家康に接近してきた。
家康は、北条氏と和睦しただけで、反秀吉の為に動こうとはしなかった。
秀吉と対立を深めている勝家から、家康に援助要請があったが、家康はこれを拒否している。
更に、前将軍の足利義昭も、将軍家復活を画策して家康に協力を求めてきた。
本能寺の変後、天下を目指す野心家が争うように家康に協力を求めてきたが
家康は甲信の経営に力を注ぎ、協力要請には応じようとはしなかった。
本能寺の変の翌年4月、秀吉は賎ヶ岳の合戦で柴田勝家を破り完全にポスト信長の地位を固めた。
天下取りに着実に進んでいる秀吉に対して、信雄は秀吉の野望に気づき、家康と手を結び、秀吉の野望を阻もうとした。
その結果、信雄・家康連合軍対秀吉軍の対決は小牧・長久手の戦いになって行く。
この戦いは、信雄が勝手に秀吉と和睦した為、家康も浜松に引上げた。
秀吉は、家康とも和議を結びたいと考えたが、家康はこれを拒否している。
秀吉は、家康の子を養子に欲しいと持ちかけ、家康はこれを了解している。
なんとも不思議なことである。
替りに秀吉は、自分の妹の朝日姫を家康の妻にと差出、その後母親まで差し出していて、不自然である。
本能寺の変の4年4ヶ月後の天正14年(1586)10月、家康は大阪城に向かい秀吉に臣従している。
秀吉と家康はお互いに直接戦うことを避けているような感じがする。
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が戦ったという事実を作る為の八百長ではなかったのだろうか・・・・?
疑問点
1.家康はなぜ本能寺の直前に堺に向かったのか。
2.なぜ顕如の祐筆宇野主水が堺における家康の行動を知っているのか。
3.なぜ、徳川実記では伊賀越えが生涯第一の難儀としているのか。
4.穴山梅雪はなぜ殺されたのか。
5.なぜ、小牧・長久手の戦いの結果として、子供を養子にだしたのか。
6.秀吉は、どうして肉親を人質として家康に差し出したのか。
当時の秀吉なら、徳川家をつぶすことも可能だと思うのだが。
7.堺で、どうして、顕如が家康を訪問したのか。
8.なぜ、武田家の旧臣は、素直に家康に忠臣したのか。
信長が暗殺されて甲斐だけが反乱に成功した。その秘密は何か。
他の地域では起こっていないのに・・・・?
9.何故、家康は帰国するとすぐ、甲斐に先発隊を送ったのか。
10.何故、家康は約1週間後に京に向け兵を起こしたのか。
あだ討ちを目標にするなら、甲斐に兵を送ることなく
本隊を京に向けて進めるはずなのに・・・・?
等々、家康の行動には疑問点が多いと感じます。
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