Lemonhart755

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伊達政宗・里見義堯





伊達政宗は「物事、小事より大事は起こるものなり。油断するばからず」

を養生訓とし、少しの病でも必ず薬を服用し、養生したという。

それだけ政宗は、自身の健康には気を配っていた。

政宗が健康を気遣うようになったのは、若い頃から持病があり

腹水がたまって腹がふくれ、死を覚悟することもあったからだ。




政宗は寛永13年(1636)5月24日、江戸桜田の伊達屋敷で70歳の生涯を終えた。

病死だが、死因は食道噴門ガンによるガン性の腹膜炎だったという。

そのせいか、食事のあとよくむせていた、と伝えられている。


政宗は永禄10年(1567)8月、輝宗の長男として米沢城で生まれた。

幼い頃、疱瘡をわずらい膿みが目にはいり右目を失ったが

後に政宗の武勇が喧伝されると、人々は彼を「独眼竜」と呼ぶようになった。


19歳で家督を相続したが、2年後の21歳の時、置賜郡の鮎貝城主

鮎貝宗信が謀反するという事件が起きた。

周辺は敵ばかりだから、対応を間違えると敵が押し寄せてくる危険性があった。

このため、老臣達はあわてふためいたが、政宗は動揺することなく

家臣に向かってきっぱりと言った。

「今は火急の時だ。鮎貝の謀反を放っておけば、各地に広がらないとも限らない。

謀反が広がっては、それこそ一大事になる。時を移さずに行うのは勇将の本望だ。さあ早く出馬だ」

政宗はそういい終わると、自ら馬に乗り、鮎貝城を目指した。

家臣達もその後を追ったが、急な出陣だったため軍勢を整える暇もない。

ばらばらに駆けたが、政宗はそのまま鮎貝城に攻め入り夜までには落としてしまった。


何事にもよらず「時を移さずに行う」ことを、政宗は身をもって実践していた。



その後、政宗は畠山氏、芦名氏らを討って勢力を拡大していった。

天正18年(1590)春頃には、陸奥・出羽両国の半ばを支配する東北の王者となった。

この年、小田原攻めに参陣して秀吉に臣従し、秀吉の死後は徳川家康に従った。

仙台に居城を移したのは慶長8年(1603)のことである。



寛永13年(1636)3月頃から病状が悪化したが、病をおして4月20日江戸に出発した。

これが最後の旅になるかも知れないと悟っていたらしく、家臣達を集め、嫡子忠宗に忠義を尽くすよう命じた。

江戸に到着すると、5月1日には江戸城で将軍家光に面会して挨拶をしたが

政宗の病状は芳しくなく、顔色も優れない。

それを見た家光は、心配のあまり、京都から名医を呼び寄せて治療させたが

病状は悪くなるばかりであった。

家光は5月21日、屋敷に見舞ったが、政宗の腹は大きく膨れ上がり苦しそうだったという。


政宗は23日、死期の近いことを感じたのか、正室の愛姫からの対面の申し入れを退け

遺言状と形見が渡るよう手配した。その遺言状では、忠宗に対して

「将軍への奉公に励み、家臣の繁栄を保つように努めること」

を訴えていた。 また、政宗は

「画像や木像を作ることがあれば、両眼とも健全な顔に作って欲しい」

とも述べている。彼は最後まで右目のことを気にしていたようだ。

23日の夜には、伊達者らしく沐浴し、髪を結わせ、衣服を着替えて床についた。

24日朝、目を覚ました政宗は、床から起きて手水を済ませると

「わしが死んだあと、あまり人を入れぬように」と命じて床に入り死を迎えた。

20人ほどの殉死者がいたと伝えられている。





     秀吉の下風にならざるを得ず「生まれるのが10年遅すぎた」

     と嘆いた言葉は彼の無念さを良く表現していますね。







里見義堯



滝沢馬琴の小説「南総里見八犬伝」は、安房(千葉県)の豪族里見家の興亡を素材にしている。

その里見家六代目の義堯は野心家で関東征服を目指したが、夢を果たせぬまま、63歳で病没した。


里見家三代目の義通が死んだ時、嫡子の義豊がまだ幼かったことから跡継ぎをめぐり争いが起こった。

義通の弟実堯が義豊の成人までという条件で、里見家の当主となったが

義豊が成人しても家督を譲らなかった為、一族が二分して争い

天文二年(1533)7月、義豊は稲村城の実堯を攻めた。

実堯は防戦したが、持ちこたえることができず、ついに自害した。


義堯はその実堯の子として永正九年(1512)に生まれた。

父の実堯が死んだ時、すでに25歳だったから上総の久留里城で復讐の機会をうかがっていた。

天文三年(1534)、義堯は機が熟したとみたのか、小田原城主、北条氏康の

援助を得て、義豊討伐の軍勢を発進させた。

一方の義豊はそれを阻止しようと、自ら先頭に立って出陣した。

だが、義堯と氏綱の猛攻には歯が立たず、数百人の戦死者を出して敗北、稲村城へと逃げた。

義堯は追撃して稲村城を囲むと、義豊は自害して果てた。

いとこ同士の血の争奪戦といってよいが、義隆はこうして父実堯の仇を討ち里見家の家督を奪取した。


義堯は父に似て勇将だったが、性格はまったく異なっていた。

父の実堯は大永六年(1526)数百隻の兵船を率いて海を渡り鎌倉に乱入して

寺社の神宝を略奪し、鶴岡八幡宮の宝蔵をめちゃくちゃに破壊したことがあった。

しかし、義堯はそのように寺社を襲い、略奪するということはしていない。

むしろ、民生にもこまやかな心遣いをし、領民からも信頼されていた。

当時は戦乱の世であり、軍事行動にさいしては、誰しも

「先んじてこれを制するにしかず」と考えられていたが、義堯も同じであった。


義堯は久留里城を拠点に、戦国大名として成長したが、その後永禄十年(1567)

上総三船山の戦いでは、子の里見義弘が佐貫城から出陣し、北条氏政の軍勢を打ち破った。

北条勢は2500人の死傷者を出したと言われている。

これを機に里見の勢力は、下総にまで広がった。


房総の戦国大名として名をはせた里見義堯だが、天正二年(1574)6月1日

久留里城で病死した。63歳の波瀾に満ちた生涯を終えた。

義堯の死後、義弘は北条氏政に屈服し、天正六年(1578)に病死している。























































































































































































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