LYNNのいたずら毎日

LYNNのいたずら毎日

2001年11月24日
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 我がムシカ・ハルモニカの常任指揮者の森口さんがタクトを取る演奏会があった。森口さんの正面は沢山見ているが、長くお世話になっているにもかかわらず、後ろ姿は全く見たことなかった。そこで御礼とご挨拶も兼ねて、演奏会に行って来た。
 プログラムは、ヴェーバーの歌劇『魔弾の射手』序曲、ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』より前奏曲と愛の死、そしてシューマンの交響曲第3番「ライン」。私の好きな曲ばかり並べたコテコテドイツものプログラム。それをどう森口さんが調理するのか(文字通りというか、ムシカでは「指揮者」のことを「Chef d’orchestre」としています)。
 ヴァーグナーでの森口さんの棒は、きっちりと拍をとりつつも随所に現れる愛のテーマでは流れるように、また情念のうねりをを引き出すような指揮。弦楽器は人数が結構多かったのにもかかわらず芯が見えにくい。森口さんの表現と若干の齟齬を感じ、それが私にとって不完全燃焼気味に思えた。
 とはいえ森口さんの背中を通して、一緒に弾いている自分を想像をしながら聴いてみると、遠く離れていても、森口さんがどこをどうしたいのか、わかる。ああ、ここはヴィオラを出したいのだな、このフレーズはもっと空間的広がりを持たせたいのだな、と。そう感じながら見ていると、舞台と客席の距離など、全くないように思えるから、不思議だ。
 今回の演奏を見て、聴いて、オーケストラの演奏というのは、指揮者とのコラボレーションなのだということを、肌で感じた。楽譜にかじりついているだけ、または機械的に弾くだけ、それだけでは自動ピアノ演奏と何ら変わりはない。また指揮者の思うままににデュナーミクをつけ、フレージングをするだけでは、これまた全く面白くない。オーケストラは、自分たちの表現がある。自分たちで表現したいこと、やりたいことがまず主体である。指揮者はそこに味付けをする、それも巧妙かつ絶妙に。時にはまったく作り替えをするかもしれない。そういうときでもオーケストラは、指揮者の持つ音楽への理解を土台として、自分たちだけの表現をしようと努力をする。その作業を繰り返して行くことにより、音楽は生命を宿す。そんな気がしてならない。
 今まで私は自分のやりたいことを、きちんと表現してきただろうか?森口さんの背中を見つめ、オーケストラと森口さんの距離感を感じながら、そう自問自答をし続けた一時間半だった。





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最終更新日  2001年11月24日 22時39分51秒
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