madamkaseのトルコ行進曲

madamkaseのトルコ行進曲

Yaprak dokumu(落葉) その7


 第64話

 シェヴケット夫婦やレイラを引き連れ、憤怒の形相もすさまじく家に戻ったアリ・ルーザは、「どこへ言っていたの、急に飛び出していって」というハイリエの問いに、苦々しく答えた。
「子供達を集めに行ったのさ。一人ひとりばらばらになっている子供達を」
 ネジュラにアイシェをどこかへ連れて行くように言い、アリ・ルーザはシェヴケット夫婦とレイラを座らせた。
「シェヴケット、あれは何の真似だ。カード賭博などいつ憶えた!」 つい声を荒らげるアリ・ルーザの剣幕に、シェヴケットも負けてはいなかった。
「あれは賭博なんかじゃない、ただの遊びだよ!」
「なぜあんなことをするんだ!」
「嫌になったからだよ。いくら父親でも一人前の人間をガキのように叱りつけてさ。なにもかも嫌なんだーっ!」と売り言葉に買い言葉、シェヴケットは激しい口調で怒鳴り返した。
 アリ・ルーザが怒って2階に上がってしまうとフェルフンデは夫を慰めた。
「本当なんだから仕方ないわ。ケシケ、もう止めておけばよかったのに」
「うるさい、俺は絶対取り返してやるぞ、そしてもっともっと稼いでやるんだ」
 シェヴケットはフェルフンデの言うことを聞こうとはせず、血走った目でつぶやいた。そこにはもう、あのまじめな銀行員の姿はなかった。

 レイラは部屋からジャンにメッセージを送った。そこへハイリエが来たのでレイラはうろたえた。
「お母さん、私、今日、本当にジャン・ベイに会いに行ったんじゃないわ」
「レイラ、そのメッセージはどこへ送ったの、え?」
「と、友達に送ったのよ、いいじゃない、誰でも」

 弁護士ジャンの家。ジャンの膝に抱かれてテレビを見ていたヤームールが父親の電話に来たメッセージに気づいた。
「お父さん、メッセージ、読んであげるね。レ、イ、ラ・・・」 ジャンは思わず妻を見た。
「ヤームール、ほかの人に来たメッセージを読んではいけません」と、オヤ夫人はたしなめた。
 ヤームールは素直に父親に電話を渡した。ジャンが見ると「明日説明します」と短いメッセージがレイラから届いたのだった。乗馬クラブでいきなり父親が来てシェヴケット夫婦やレイラを連れ帰ってしまい、それきりになったので、ジャンはわけが分からず家に帰ってきていたのだった。

 朝、張り詰めた不穏な空気がアリ・ルーザ家のダイニングサロンに漂っている。アリ・ルーザはまだ起きた様子がなかった。ハイリエが延々と愚痴っている。
「いつだって急に何かを決めてはわけが分からないうちに押し付けたり禁止したりするんだから、お父さんて人は・・・」
 アリ・ルーザが起きて階段を下りてくると、ハイリエはまだ気づかずに悪口を言い続けていたが、レイラがおはよう、と父親に声をかけて母を制した。慌てるハイリエ。
「あ、アリ・ルーザ、あなた。悪口を言っていたわけじゃないのよ・・・」
「わかっているさ、いつものことだから」

 アダパザールでも姑がチャイが濃いの薄いのと、ぐずぐず文句を言い続けている。タフシンは呆れ顔でそれを聞き流しながら、フィクレットに言った。
「今日は仕事がないから君とどこかに出掛けようか、どうする、フィクレット?」
「えー、えー、えー。この年寄りが病院に1人じゃ薬も取りに行かれないのも知っているくせに、連れて行こうって人はいないのかい」
「大丈夫だよ、お袋。薬なんかついでに取ってきてやるからさあ」
「行かなくちゃいけないんだよ、あたしも! あー、嫁がハズレだとこんな思いもしなくちゃならないのかね」
 フィクレットは夫の絶大な信頼と愛情を勝ち得ているから、もう何を言われようと動じることはなかった。夫婦は顔を見合わせながらジェヴリエも連れて行くと言うと、
「あれー、じゃあすぐ着替えてくるからね」と彼女はたちまち上機嫌になった。

 シェヴケットは部屋に入るとフェルフンデに借金を申し込んだ。フェルフンデはたしなめた。
「駄目よ、こんな状態になることは目に見えていたじゃないの。適当なところで止めておかないから負けもするのよ」
「頼むよ、借金があるんだよ」
「バナ・ネ(私に関係ないでしょ)! 私が賭博で負けたわけじゃないわ」
 フェルフンデが不機嫌になって出て行ってしまうと、頭を抱え込んでいたシェヴケットが彼女のハンドバッグに気づいた。彼は妻のクレジットカードを自分のポケットに仕舞いこんで家を出て行った。

 ハイリエはフェルフンデに相談する。
「ネジュラが仕事先でジェムと出くわしたんだって。ジェムはイスタンブールに帰っていたのね。婚約者がいるんだって。ネジュラを忘れかねて帰ってきたわけじゃなかったのね」
 ハイリエが言うとフェルフンデは目を輝かせた。
「あら、そうなの。ネジュラはどうしてラッキーなチャンスを使わなかったのかしら。私だったらジェムと相手の女の間に割り込んでいくわ」
「ネジュラはそんなことの出来る子じゃないよ。でも、ケシケ、そう出来たらよかったのに・・・」
「ハディ、バカルム(さあ、どうなるか、様子を見ましょう)」

 ネイイルが買い物帰りにカーヴェの前を通りかかる。アフメットは呼び止めて先日彼女がタクシーの中に忘れた品と一緒に、手紙を手渡す。
 アリ・ルーザの書斎で、フェルフンデがパソコンを使い何か熱心にやっている。どうやらパソコンに取り込んである写真をチェックしているようだ。そこへネイイルが訪ねてきた。台所でハイリエと話をする。アフメットの手紙は丁寧な結婚申込状だったのだ。2人でひそひそ話をしていると、フェルフンデが何か機嫌よく出かけていった。

 ジャンのオフィスにはアリ・ルーザが訪ねてきて、中で待っている。受付の秘書は遅く出勤してきたジャンが、大きなスーツケースを2つも引いているので驚いた。
「アリ・ルーザ氏がお見えになっています。中でお待ちです。ところでどうしたんですか、この荷物は?」
「うちを出てきたんだよ。あ、君、私に適当なダイレ(マンションの1軒)を見つけてくれないか。とりあえず私だけが住めればいい」
 アリ・ルーザは、フェルフンデの傷害事件で公判に関する相談に来たのだった。

 刑務所内では、タラットがオウスにいろいろ犯罪の知識や裏情報を授けている。オウスはあの腹心の男を追い出して、タラットの一の子分になった(と見せかけている)のである。
「アービィ、イジン・ヴェリルセニズ・・・」 オウスはしばしば「兄貴、あなたがお許しくだされば・・・」という言葉を使ってタラットをすっかり懐柔してしまった。
「オウス、お前はケチ(トルコ語でヤギ、強情な人間という意味で使う)だな。俺もだぜ。いいマブダチ(日本語の隠語で包み隠しの出来ない間柄)になれそうじゃないか」
 オウスは従順を装い、笑みを浮かべてタラットの言葉にうなずいた。

ジャンとアリ・ルーザはフェルフンデの裁判について話をした。最後にアリ・ルーザがレイラのことについて、ジャンの協力を依頼する。あの子にかまってくれるなと。
「もちろんです。私と妻が別れるのはレイラのせいではありません。レイラはあなたのお嬢さんだし、しっかりした娘です。ごくいい友人です。これからもレイラと私のことでご心配はいりません」

 銀行でシェヴケットがヤマンに電話をしている。負けた分を必ず支払う、と。その後シェヴケットは街に出て行った。ある大きな家電製品のショップに来ると、にぎやかに張り紙がしてあり、大キャンペーン中で一定金額以上の買い物をすると値引きのある上に支払いは翌月から長期の月賦が利くというものである。それを見たシェヴケットはすたすたと店の奥に入り、店主と話をする。
「やあ、私は近々結婚するんですが、お宅のキャンペーンを見て必要な家電製品や台所用品の一切合財をお宅で揃えたいと思います。」
「それはそれは、喜んでお手伝いさせていただきますよ。どんなお品をご希望ですか?」
 そして彼は妻のクレジットカードで21,000YTL(約200万円)の買い物をしたのだった。
「お客様、配達は何日にいたしましょうか?」
「いや、それには及びません。私がカミヨン(トラック)で貰いに来ますよ」
 シェヴケットはいったい何を考えているのだろうか。

昼近く、ヤマンのオフィスにフェルフンデがやってきた。彼女は家にいても気が晴れないので、ヤマンとレイラを誘って昼食でも、と思ってやってきたのだった。ところが、フェルフンデのすぐあとから、ヤマンの恋人エスラが現れ、2人でお昼を一緒にする約束があるという。
「また今度にしてくれるかな。今日のところは失礼するよ」とヤマンはエスラの腕を取ってフェルフンデの前から消えていった。

 その頃ネジュラがアルバイトをしている出版社の編集室では、刷り上ったばかりの週刊誌にジェムと婚約者ハンデの睦まじい写真入りの記事が出ていた。それを見たネジュラの胸は激しく疼いた。大学で知り合い、ジェムの両親からも望まれて、彼の卒業と同時に結婚する約束で、彼の在学中に華々しくニシャンル・トゥレニ(婚約の式典)までして貰いながら、オウスに走った自分。そして彼女を待っていたのは絶望的な事件の続く日々・・・その上みじなジェムとの再会である。

 ヤマンに逃げられてしまったフェルフンデはレイラと食事に出ようと、彼女が上着を着るのを待っていた。そこへ携帯にメッセージが届いた。ふと見るとカード・センターからで、クレジット・カードで21,000YTL(約200万円)の買い物があったという知らせである。仰天したフェルフンデは財布もハンドバッグの中もすべて探したが、カードが見つからなかった。
「どうしよう、レイラ。盗まれたのよ! でも、どこで !?」 フェルフンデは真っ青になった。21,000YTLは巨額の買い物である。誰がこんなことを?
「ねえ、フェルフンデ姉さん、兄さんに電話してみれば?」 言いにくそうにレイラが言った。
「もしもし、シェヴケット? ねえ、たいへん。私のクレジットカードが盗まれたらしいの!」
「ああ、フェルフンデか。心配するなよ、君のカードは俺が持ってるよ」
「何ですって! じゃ、私の知らない間に持ち出したのねっ、何て人なの、シェヴケット!」
「まあまあ、大丈夫だ、心配するな」

 ネジュラのいるオフィスに、ジェムから電話がかかってきた。彼は恐ろしく怒っていた。
「ネジュラ、僕のフィアンセになんてことをしてくれたんだ。僕達の婚約式の写真なんか送りつけて何をするつもりなんだ。婚約をだめにしたのは君のほうだろう。いまさら何をたくらんでいるんだ。これだけは言っておく。君が何をしようと私やハンデを不幸にすることなんか出来やしないぞ!」
 ネジュラには寝耳に水だった。ジェムが何を言っているのかすら、理解出来なかったのである。
「ジェム、何のことを言っているのか分からないわ」
「とぼけるな。二度と僕の前に現れるな、いいかっ」 
ジェムは激しい勢いでそういうと電話を切った。

 アリ・ルーザはジャンのオフィスの帰りに、通りがかりのパザール(市場)に立ち寄って、野菜や果物を買って歩き出したとき、近くの店先でこれも買い物をしていた髪の長い年配の女性が遠目に彼を見ていて、「アリ、チョジュック(坊や)!」と声をかけてきた。振り返ったアリ・ルーザは彼女を見て言葉もなく立ち尽くした。
「(買い物をしているときの)声で分かったのよ、あなただって。元気だったのね、アリ・ルーザ」
「あ、ああ、セヴダ、君は?」
「いろいろあったけど・・・元気よ。今は息子と暮らして孫のお守りしているの。あなた子供はいるの?」
「ああ、長女をかしらに5人いるよ」
「マッシャッラー(お見事)、でもよかった、元気でいてくれて。どこに住んでいるの、この近く?」
「父の残してくれた昔の家だよ」
「そう、じゃ、また会えるかもしれないわね。呼び止めてごめんなさいね。私もう行くわ。元気でね」
「ああ、君も・・・」
 2人は右と左に分かれた。

 アリ・ルーザは家に帰ってくると、書斎にこもって古いレコードをかけ、昔の思い出に浸った。
フェルフンデがレイラと喋っていると、帰ってきたネジュラがレイラに激しく食って掛かった。
「あんた、何をしたの! ジェムのいいなずけにEメールで写真を送りつけたの、あんたでしょ」
「何を言い出すの、急に! 私に謝っても謝りきれないはずのあんたがどうして言いがかりつけるのよ。ジェムだの写真だのって、何のことよ!」
「とぼけないでよ、この人でなし!」 ネジュラがレイラにびんたをくれると怒ったレイラもネジュラにつかみかかった。フェルフンデは事の成り行きに自分がやったとは言い出せず、だんまりを決め込んだ。

 アリ・ルーザは外の騒音に眉をしかめ、レコードを聞いている。帰ってきたシェヴケットはフェルフンデを説得するために熱に浮かされたように喋り続けた。
 ハイリエは夕飯の支度が出来たとみんなを呼んだが、レイラは「私は座らないわ」と不機嫌をあらわにした。アリ・ルーザを呼びに行くと、彼は古いレコード盤の歌に聞き入っていた。
 隣人ネイイルはアフメットに電話する。やっぱり娘を片付けてからでないと、申し出には応じられませんと。アフメットはがっかりしたが、まだ諦めたわけではなかった。

 食後、ハイリエは果物を持って書斎に入った。アリ・ルーザは食べようとしない。ハイリエが置いていった果物を見ると昼間パザールで出会ったセヴダのことが思い出された。みんなが部屋に引き揚げて寝てしまっても彼は書斎に残っていた。
 同じ頃セヴダも孫を寝かしつけたあと自分の部屋で古いアルバムに見入っていた。40年前の若々しいアリ・ルーザのポートレートにじっと目を落とし、彼女は来し方を思いやった。
 セヴダは、40年も昔、アリ・ルーザが父の強い反対で結婚を諦めた恋人であった。
「アリ・ルーザ、お父さんはその女性がお前の妻としてふさわしいとは思えないから反対するんだ。生まれ育った環境が極端に違う相手と結婚すれば、お前の将来にも傷がつく」
 家長の意見は絶対だった。まだ世間を知らない、力もない若造のアリ・ルーザは、父親にそれ以上抗うことは出来なかったのである。

「それで、その後どうしたんだい?」
「で、好きな人と別れたお父さんは、アマスィヤに赴任中に、仲立ちをする人があってお母さんと結婚したそうなの。結婚したときはお互いによく知らない間柄だったんですって。でも、いざ道に踏み出したら、お互いを好きになり始めたらしいの」
「ふふふ、それじゃあ、俺達と同じだね、フィクレット」と、タフシンはフィクレットの額に唇をあてた。
「そうね、同じね」
 タフシンの心づくしで新しい大きなベッドが備えられた夫婦の寝室。やさしくフィクレットの髪をまさぐりながら、寝物語にフィクレットの家族の話を聞くのがタフシンの楽しみとなった。

 朝になった。レイラは夕べネジュラがどんな風に食って掛かってきたか母親に告げた。ハイリエは娘達とフェルフンデを書斎に呼んで話を聞いた。
「フェルフンデ、あんたね、ネジュラの名前でジェムに写真を送ったのは」
 図星を指されたフェルフンデは必死で弁明した。
「私は悪気でやったんじゃないのよ。どんなきっかけでも、ネジュラとジェムがまた会って話をする機会を作ってやりたかったのよ。これだけは理解して!」
「そんなことがあるわけないでしょ! 恥をかいたわ、ひどいわ」と怒るネジュラだったが、ハイリエはもしかして、ジェムにはまだネジュラに対する未練があるのではないか、と一抹の希望を抱いたのだった。

 ネジュラは家を出る前にジェムに電話をかけてみた。
「ネジュラ? 君はどのツラ下げて僕に電話なんかかけてくるんだ」
「ジェム、写真を送ったのは私じゃないわ。兄嫁が送ったと言ってるわ。私にはそんな、あなたの幸せを邪魔しようなんて気持ち、毛頭もないわ。これをわかってほしいの」
「馬鹿なことを言うな。 そんな話を誰が信じるか。もう二度と僕に電話なんかしないでくれ」
 怒るジェムを説得できないまま電話を切られてしまったネジュラは度重なる不運に頭を抱えた。

 シェヴケットは朝、父親に謝った。生涯ばくちはしないと誓った。父と子は仲直りした。その日、シェヴケットは少し遅刻した。銀行の営業室に入っていくと、いつもと雰囲気が違っていた。行員それぞれのデスクに、見慣れぬ人々が座って端末機を操作しているのだった。
 支店長室から出てきたギュルシェンにシェヴケットは怪訝な顔で尋ねた。
「抜き打ち監査が入ったのよ。何ヵ月も前に遡って、一件一件全部チェックしていくんだって」
 シェヴケットの頭の中が真っ白になった。なすすべもなく彼は立ち尽くしていた。


第65話

 銀行では監査官達が忙しく端末機に残された記録をチェックしている。めまいに襲われたような気持ちでシェヴケットは支店長に遅刻の詫びを入れて悄然と席に戻った。
 アリ・ルーザが出版社で席に着くと、新しいチャイジュ(給仕)のアリが美味しいチャイを配ってきた。見慣れぬ顔なので聞いて見ると、まだ入ったばかりで、しばらく収入が無かったので生活が苦しい上に赤ん坊も生まれたばかりだという。だが彼は明るい顔で「父親ですから、頑張って子供を育て上げます」ときっぱり言った。

 ハイリエはフィクレットに電話して、この一両日で起こった出来事を話す。姑のジェヴリエはフィクレットの電話を邪魔しようと奥の部屋までついてくる。フェルフンデはその間に自分達の部屋からヤマンに電話して面会の約束をして家を出た。

 カーヴェのアフメットが店の前で掃除をしていると、長いコートを着て白髪交じりの長髪を背中まで垂らした年配の女が、アリ・ルーザの家の所在を尋ねた。
「すぐそこですよ。この坂を登りきると、サールック・オジャウ(市の経営する診療所)の向かい側です。大きなお屋敷ですよ。ご親戚の方ですか」
「いいえ・・・」
 アフメットが道を教えると女は微笑んで礼をいいそちらに向かった。アリ・ルーザ家の堂々たる木造邸宅までやってきた彼女は門の鉄扉が開いているのを見ると、そっと一歩踏み込んだ。夏にはうっそうたる木陰を作る大きな庭木の数々、広い前庭・・・

「ねえ、いつあなたの家族に紹介してくれるの。あなたのおうち、どんなかしら。何を着ていけばいいのかしら・・・」
 40年前、はずんでアリ・ルーザに尋ねる若い娘の声が、いまだに耳に残っている。セヴダはとうとう見ることもなく終わってしまったあのときのお屋敷を、今この目で見ている。深い感動と同時に切なく散ってしまった恋を悲しく思い出していた。

 ハイリエがたまたま窓から門を入ったまま立ち尽くしているセヴダを見かけて声をかけた。
「何かご用ですか。中へお入りになれば?」
「あ、すみません。通りかかったら門が開いていて綺麗なお庭が見えたものですから」
 ハイリエはにこやかに出てきてセヴダのそばに来た。
「立派なお屋敷ですねえ、ほんとに素晴らしいこと・・・」
「夫の親から受け継いだものですよ。まあ、歴史的建造物ってことになるんでしょうね。おうちをお探しですか?」
「いえいえ、ほんとに通りがかっただけで。それではどうも、失礼いたしました」
 そこにネイイルがやってきた。セヴダは慌ててきびすを返した。急ぎ足で門を出てもと来た道を戻り、カーヴェの前を通りかかったが、彼女を見かけたアフメットが声をかける隙もなく、遠くを見るような目で足早に通り過ぎた。

 ネジュラが朝一番でジェムの父の会社に来てジェムの出社を待っていた。そこへ社長である父親ケマルが一足先にやってくる。彼は待合室で座っていたネジュラと目が合った。ネジュラは目顔で会釈した。ケマルは社長室に入ると、秘書に「あの女は何をしに来たのだ?」と尋ねた。
「ジェム・ベイに会って話したいことがあると・・・」
 父親はジェムに電話を入れた。彼はハンデのオフィスに寄っていたのである。
「どうする。追い帰そうか」
「お父さん、待たせてください。僕が直接会ってきっぱり言ってやります」

 アリ・ルーザは出版社の女性社長に相談した。新しいチャイジュ、アリのために、社内で募金を始めてはどうかと提案したのだ。彼はもう、募金箱まで作ってあった。
「賛成ですわ、アリ・ルーザ・ベイ。私も何かしてやりたいと思います。じゃあ、私はとりあえずこれ」
 社長は200YTL、アリ・ルーザも50YTLを箱に入れて社内に回したのだった。

  ケマルの会社の待合室で、ネジュラはアリ・ルーザからかかってきた電話に、大学で講義が終わり次第出社すると答えた。そこにジェムが出社してきた。ジェムも仕方なく彼女を自分の部屋に通した。ネジュラはまっすぐにジェムの目を見つめながら、
「電話ではあなたが信じてくれないから直接話をしに来たのよ。私は決してあなた方を不幸にしようと思ってはいないわ。そんな人間じゃないわ。わかってほしいのよ」
 必死の声と表情で訴えるネジュラを、ジェムは冷たい目つきで見た。
「君とはとっくに終わってるんだ。この上何がしたいというんだ。ハンデと僕を陥れることは出来ないぞ。もう近づかないでくれ」

 ネジュラが出て行った後、ジェムは彼女との婚約時代を思い出した。オウスが現れたとき、ジェムはネジュラを奪われまいと格闘してまで彼女をかばったが、ネジュラは逃げるようにオウスと行ってしまい、ジェムは裏切られたのだった。
 あんな女にいまさらかける情けはない、とジェムの頭は否定するのに、なぜか、彼自身にも分からぬうちに、ネジュラの真剣さを肯定している自分に気づいた。
 父親が心配し、ジェムの部屋に来た。
「どうしたね、ジェム」
「なんでもありません、お父さん。僕は大丈夫ですから・・・」
「そうかな。お父さんは、いまだにあの娘の面影がお前の目にも耳にも残っているのを知っている。だが、ハンデを失うような真似はしないように。当代きっての大建築家の愛娘だ。こんな良縁を壊してはならんぞ」
「無論です、お父さん。ご心配いりません」

 ネジュラはまっすぐに出版社に向かった。ちょうど会社の会議室では社員全員が集まって、新しいチャイジュの歓迎会、赤ちゃん誕生祝を始めたところだった。同僚の1人が頓狂な声で言った。
「あれぇ、ネジュラ。今日は大学の講義も休みだと言っていたのにどうして遅刻してきたんだい?」
 アリ・ルーザがちらりとネジュラを見た。いよいよパーティが始まった。クラッカーを鳴らし、ジュースで乾杯して貰ったチャイジュのアリは、アリ・ルーザの思いやりある行動に感謝し、彼に最敬礼(腰をかがめて相手の手の甲に口づけし、その手を自分の額に押し当てる)しようとしたが、アリ・ルーザは「いいから、いいから」とアリの身体を起こしてやるのだった。
 ネジュラも改めて自分の父親の偉大さ寛容さをかみしめ、誇りに思うのだった。

 ヤマンの会社にフェルフンデが来た。フェルフンデ自身がヤマンに借金を申し込んだのだ。ヤマンは承知しすぐに小切手を切った。ヤマンがシェヴケットの借金を肩代わりしてやったり、フェルフンデに大金を貸してやるのも、かつてパートナーだったオウスに横領されようとしていた会社の資産を、フェルフンデの通報で未然に防ぐことができたからである。
フェルフンデはギュルシェンに電話する。銀行は抜き打ち監査が始まって大童らしい。ギュルシェンもフェルフンデからの電話でトイレに隠れて話す始末。フェルフンデはやがて銀行に顔を出した。
 支店長にも挨拶したフェルフンデが一人の監査官を見て「タネル!」と叫び大きく目を見開いた。監査官も両手を広げて「フェルフンデ、何年ぶりだろう!」と喜ぶ。彼はフェルフンデと大学時代の同級生だったのだ。
シェヴケットはフェルフンデに「心配するな、今晩、きっと取り戻す」と強気に言うが、フェルフンデはこれ以上負けが込むともう救済の方法はない、と釘を刺して別れた。
 その晩、アリ・ルーザ家の食卓にシェヴケットの姿はなかった。フェルフンデはアリ・ルーザに聞かれて「監査があって残業なので遅くなるって言ってました」と言い逃れた。

 その夜、アダパザールのタフシンは電話で同業者と話をしていたが、明るい表情で電話を置くと、サロンにいたフィクレットに報告した。
「いやあ、よかった。役所の許可も出て農業経営者同盟が成立したんだよ。これからはもっともっと太いパイプと繋がることになる。この件で明日にでもイスタンブールに行くことになるな」
「そうなの? よかったわね、あなた」 フィクレットも微笑んだ。すると娘のデニズが、
「それだったら、フィクレット姉さんも一緒に行けばいいじゃないの、お父さん」と提案した。

「デニズ、お前、いいこと言うね。そうしよう。フィクレット、明日は俺と一緒にイスタンブールに行こうよ。俺が仕事の件で出掛けている間、君はご両親のそばに行ってやりなさい」
「明日イスタンブールに行くのなら、やりかけの刺繍、今晩徹夜をしてでも仕上げて納品したいわ」
「いいよ。そうしなさい」
 ジェヴリエはこれを聞いて大反対。
「仕事に行くのに何で女がくっついていくんだい。やめな、やめな! 甘やかす一方じゃないか」
「いいからお袋、俺が決めたことにつべこべ言うなよ」
「お前はすっかり舐められちまってるよ、あ~あ~、トゥーベトゥーベ!」

 アリ・ルーザ家の台所。ネジュラは母に打ち明ける。朝、ジェムに会いに行ったことを。
「まあ、それで、どうしたの? 仲直りできたの? ジェムだってきっとお前を忘れていないよ。きっとまたうまく行くわ」とハイリエは喜ぶ。内心はおまじないの効果が出たかと思ったのだろう。
 ネジュラは、「馬鹿なことを!」と呆れ顔で母を見た。一方レイラはこれを聞いてしまい、フェルフンデに言いつけた。2人がひそひそ話をしていると、ハイリエがご機嫌でレイラにジャンとのことがうまく行っているかどうか、聞きに来た。どうやらハイリエはネジュラがジェムとよりを戻し、レイラはジャンと結ばれることを願っているようである。

 アダパザールでは夜更けと言うのにフィクレットが刺繍の最後の仕上げに余念がない。タフシンもしばらく付き合っていたが、やがて運転に差し支えないように寝ることにした。しかし、姑のジェヴリエはフィクレットの手を遅くしようとあれやこれやと話しかけて邪魔をする。だが、フィクレットはひるまなかった。せっせと針を運び、ついに仕上げるのである。

 アリ・ルーザ家では深夜、シェヴケットが帰ってきた様子。アリ・ルーザが部屋から出てみると、下でフェルフンデが起きてシェヴケットを出迎えたので、彼は部屋に戻った。
 泥酔状態のシェヴケットをやっと部屋に連れて行き、フェルフンデがどうしたのかと尋ねると、シェヴケットはへらへらと笑いながら
「負けたんだよ~、15万YTL(1,500万円)、負けちゃったんだよ~」と言うのだった。
フェルフンデは泣きながら彼のだらしなくたるんだ頬を思い切りはたいた。
「だから言ったじゃないのっ! どうする気よ、15万YTLだなんてどうするの、馬鹿、馬鹿!」

 アリ・ルーザとハイリエもさすがに目を覚まして漏れ聞こえる階下の声に胸を痛めていた。しかし、もう二度とばくちはしないと誓った息子が舌の根も乾かぬうちに賭博で大負けしたとは思いも寄らない。ただの夫婦喧嘩だと思ったのだ。フェルフンデは枕を抱えてレイラの部屋に避難した。
「フェルフンデ姉さん。どうしたの?」
「レイラ、シェヴケットはまた賭博でとうとう15万YTLも負けてしまったんだって。私はどうしていいか分からないわ。とにかくあいつと同じ部屋で寝たくないのよ。今晩ここに寝かせて」
 レイラの隣の空きベッドに腰を下ろすとフェルフンデはさめざめと泣いた。
「でもレイラ、お父さんやお母さんにまだこのこと、黙っていてね。何とかしなくちゃ・・・」

 次の朝、背広姿でベッドにひっくり返ったまま目覚めたシェヴケットは激しい後悔に襲われた。フェルフンデがレイラの部屋から引き揚げるのを見たハイリエが「何かあったの?」と聞く。レイラは「喧嘩したらしいわ」としか答えられない。
 部屋に戻ったフェルフンデはシェヴケットと激しい言い争いになった。
「どうする気なの、シェヴケット。15万YTLも負けるまでどうして続けたの、止めろといったでしょ!」
「うるさいっ。元はといえば、みんなお前のせいだ、お前のせいだ~っ!」
「どうして私のせいなのよ、ばくちをしたのはあんたよ」
「お前がこんな風にしたんだ~、終わりだ、お前のせいでもう俺は終わりだ、こん畜生!」

 アダパザールからイスタンブールに向かうタフシンの車。携帯が鳴る。
「えい、またお袋だ」
「私が出るわ。もしもし、ジェヴリエ・ハヌム。タフシンは運転中だから話が出来ないわ」
「イイイ~ッ、とうとうタフシンの電話にお前が出るようになったんかい! 私に倅と話もさせない気なんだね、この罰当たり女! タフシンに電話を渡せ、渡せ~っ」
「ごめんなさい、運転中だから駄目なの。あとにしてくださいな」

 レイラづきの運転手が迎えに来てシェヴケットとアイシェも同乗して家を出る。シェヴケットが学校にアイシェを送り届けると、レイラは兄を諌めた。
「フェルフンデ姉さん、泣いてたわよ、兄さん。どうするつもりなの?」
「黙れ、レイラ。口出しするな。これは俺の問題だ。俺が何とかする。誰にも言うな、いいか」

 サロンで、フェルフンデがぼんやりと新聞を広げているが、読んでいる様子ではない。心ここにあらず、彼女は身に余るシェヴケットの大負けに、何も考えることも出来ずにいるのである。ハイリエがそんなフェルフンデをむっとして見た。
「ちょっと、フェルフンデ、テーブルの上の後片付けさえしない気なのっ? だいたい、あんたって人はどういうつもりなのよ!」
 いきなり叱りつけられたフェルフンデは、手にしていた新聞を床に叩きつけて部屋にこもってしまった。ネジュラが降りてきた。ハイリエはぶつぶつフェルフンデへの愚痴をこぼす。アリ・ルーザがウォーキングの支度で出てきた。床に散乱する新聞を見つける。
「どうしたんだ、これ」
「あ、椅子の上から落ちちゃったんでしょう」とネジュラがごまかした。
「アリ・ルーザ、私もウォーキングに行くわよ、オフ、オフ(ため息に似た感嘆符)」
 2人が出て行ってしまうと、フェルフンデは声を上げて泣いた。
「何よ、何よ。みんな私のことばかり目の敵にして。ほんとのことは何も知らないくせに!」

 シェヴケットが銀行に出て行くと、すでに支店長室には監査官が集まり、何ごとか協議している。
「いや~、私は信頼していたんですよ。大きなミスもないので彼の顧客の口座は彼自身に管理させておりました。誰よりもまじめで働き者だったんですが・・・」
 シェヴケットをかばう支店長の声がする。首席監査官が断を下すように言った。
「なにしろ、この件はもっと詳しく調査を続ける必要があります」

  散歩途中でアリ・ルーザ夫婦が家の近くまで来ると、パンジーやひな菊の株の入った箱を抱えて歩いているアフメットに出会った。
「やあ、カイマカム・ベイ。昨日お宅を訪ねて行った女性とお会いになりましたか。道を聞かれたんで教えたんですがね。たいそう綺麗なご婦人でしたね」
 アリ・ルーザとハイリエは思わず互いに顔を見合わせた。


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