
昨夜 8月5日 ドームの夜景です。
今夜 この川いっぱいに鎮魂の灯ろうが浮かんでることでしょう。
「母の原爆被爆時の記録が見つかったので送ります。 新聞折込の裏白用紙が使用されているところから、母が記録を始めたのは平成7年夏頃からではないかと推察されます。。」
こんな書き出しの兄からの手紙と一緒に新聞広告の裏に書き綴られた20枚もの下書き記録が入っていました。
亡くなった母の被爆した時のメモ書きです。
私はメモを読みながら泣きました 泣きながら一気に読みました。
想い出しながら書き綴るのは辛い作業だった事でしょう。
そして叔母からいろいろと被爆当時の様子を聞いていたので大部分は理解できました。
お母さん
お母さんが逝ってもう7年も経ってしまいました。
元気だったら来年は卆寿のお祝いです。
心臓病や糖尿。。入退院を繰り返しながらも82才まで好く頑張ったよね。
でもまだまだお母さんが死ぬなんて思ってもいなかったよ。
それも8月5日 あの原爆記念日の前の日が命日になるなんて。。
おかあさん 被爆したことで大変苦労な生涯になってしまったね~。
手にはケロイドが残るほどの火傷を負い 胸や背中に傷をして左の頬は鏡が飛んできて生涯きえない そして隠すことの出来ない大きな傷跡が残ってしまったね。
22.3歳の嫁入り前の娘なのに 辛かったでしょ。
想いを寄せてた好きな人はおらんかったん?
乞われたからとはいえ 被爆死した姉婿さんのとこへ後妻としてお嫁に行ったのはどうして?
顔の傷や火傷の痕があったからなん?
甥と姪だったお姉さんの子供を育てるのは大変だったでしょ。
おばあちゃんも気難しい人だったよね~私 子供心にも覚えているよ。
でもお父さんはやさしい人じゃったねぇ。
私が産まれることに心配はなかったん?
五体揃ってて安心した?
嬉しかった?
苦しい中 私を産んでくれてありがとう。
小さい頃はしょっちゅう熱を出して心配掛けたよねぇ
集団疫痢にもなって 自分でも死ぬのかと思ったんよ。。
ひがみっぽく我がままばかりしてごめんね。。
お母さんが心配してくれてること心に突き刺さるほどよく分かってたんよ。
お母さん ごめん ほんとうにご免なさい。
叔母さんから聞く被爆時の話の中からお母さんがどれほど痛い思い 辛くシンドイ体験をして来たか。。
それをあまり話そうとしなかったお母さん。。
聞こうとしなかった私。。
広島で生まれ 広島で育った被爆2世なのに不勉強でなんにも知らなかったことばかり。。
当時のことを知れば知るほど お母さんのことが愛おしく懐かしく想い出します
そして 深い後悔の気持ちでいっぱいです。
お母さん お母さんに会いたいよ~会って話たいことがいっぱいあるんよ。
聞いておかなくちゃいけないことがいっぱいある。。
それから 誤りたいことや報告しなくちゃいけないこともいっぱいです。
あの頃 自分なりに精一杯だと思っていたけど 今になれば まだまだしてあげられる事はあったのに。。
お母さんは気兼ねしながら暮らしてたのに 自分の立場として お母さんに嫌な事ばかり言う役目が辛かった。。ごめんね。。
お母さんの体験したことを知らなくてはいけない それを残さなくてはいけないそう思いました。
そんな気持ちを持ちはじめた頃 広島原爆資料館のボランティアを公募していたので研修を受け資料館のピースボランティアとして活動を始めました。
もう4年続けています。
これからも学びながら続けていこうと思っています。
今この時期に手記のメモが見つかったことは お母さんの気持ちに動かされているような気がしてならないのです。
これから私はどうしたらいいん?
この貴重なお母さんの手記をどう生かせばいいのか。。考えつきません。
お母さんから大きな宿題を与えられた様な気がしています。
お母さん あの原爆の惨禍から生きていてくれてありがとう。
私達姉妹を産んでくれてありがとう。
私 もう還暦を過ぎました 何とか元気に暮らしています。
あんな大病をしたYちゃんも元気になりましたよ。
Yちゃんの病気をお母さんには言わなかったけど お母さんが守ってくれたんでしょ。
Yちゃんもお母さんの命を貰ったって思ってるよ。
大事な私のたった一人の妹です
お母さんの命は私たち姉妹から孫、 ひ孫と18人につながりました。
これからも皆を見守ってくださいね。
愛しいお母さんへ 65年目の夏 K子
追記
応募した”被爆者への手紙” ボツ”だったそうです。
”母への手紙”拙い文ですが自分なり精一杯の気持ちです。
文章は一部前後したり省略したりで同じではないのですが 自分の日記にして残すことにしました。
嫌な思いで読まれた方もおありでしょうか。。
ご勘弁のほど。。
寒中お見舞い申し上げます~ 2012.01.09
Merry Christmas~☆ 2011.12.24