リタイヤ ガーデニング

リタイヤ ガーデニング

MAP紹介

Medical Academic Plazaコンセプト
臨床のナースにとって必要な情報や学問を検討するイベントを企画します。
看護を良くしよう、看護を探求しようがコンセプトです。


MAPの目的
医療・看護・福祉についての問題提起と参加者個人の自己研鑽を行い広く社会に訴える。


親切で優しい看護師さんというイメージではなく、
「やっぱり看護師さんに会えてよかった」という
”専門的な働きかけ”に感動してもらいたいと思いませんか?
MAP主催のイベントでは、今まで何気なく慣習や手順で行っていた
看護実践について、なぜ?という疑問から新たな発見をするような
場にしたいと考えております。

 イベント情報
          現在なし
http://www.medica-gakko.com/map/index.html

MAPのコンセプト
医療を良くしたい、探求したい
夜の教会

入院患者の多くは、80歳を超える方がめずらしくなくなっている。K氏85歳男性、左腕に刺青(女性の名前)がある。右足は二ヶ所の陳旧性骨折があり左の片麻痺。唯一自分で動かせるのは右腕だけ。K氏も長期入院のためごたぶんにもれず仙骨部に褥瘡ができ、持続吸引中である。男性ナースが声をかけても「うー、うー」と声にならない。痛々しい表情。「辛いの?」と聞いても「うー、うー」苦痛表情。2時間毎の体交、体はやせ細り自分で体を動かすこともできない。右を向けられたら、ずーと右を向いているだけの生活。テレビをつけましょうか?と尋ねても首を振る。目を閉じ活気は感じられない。ピンクのカーテンをジーと見つめるか目を閉じて過ごすだけ。施設からの入所のため家族の面会はもちろんない、唯一施設の職員が来られるだけ。85年生きてきて最後はこの状況か!とやりきれない思いがつのる。食事はセッティングすると座位の体位を自分で保持することもままならない状態で右へ右へと傾きつつ、スプーンで口もとに”おかゆ”を運ぶ。エプロンの上は食べこぼしが・・・そんなことにはお構いなし。必死の形相で食べる、食べる。
ある日、若いナースがK氏に近づき「おっはよー」。明るい声。するとK氏、ニターと笑顔,唯一動く右手で、投げキッス!!
85歳、男には興味ない。食べることと、若い女性に執着。生きるとはこういうことか!と思い
知らされた。
ある日のMAP定例会でK氏の事を取り上げた。85歳男性、自分で動くことすらできず、面会も
ない。一日目を閉じ何を思って生きているんだろう?生きていることは彼にとってどうなんだろう?するとMAPコアメンバーの中でも古いN氏が「あなたが20代のとき、40代の人を見てどう思った?」「そうですね、おじさん?かな、生活にくたびれた人」「60代の人は?」「うー
ん、・・・・」「今、あなたは40代ですよね、どうですか?」「・・・・」「判らないですよね」その人が生きていて、幸せかどうか、どういう生き方をしているのか。それはその人でないと判らない。あえて言うなら、他人がとやかく言うことではない。

 MAPは日常の疑問というより”わだかまり”を打ち明けることからはじまる。答えを求めるの
ではなく自らの心の在り様を、メンバーと共有しメンバーの言葉を心に留め再び臨床に向かう。あ
る時、メンバーから「転倒を防ぐために抑制をしているけれど、そこまでして転倒は防がなければ
ならないの?」と問いかけがあった。抑制は患者の体と心を縛る。臨床の我々の心にも大きな影響
を与えているのではないだろうか?そういう思いを込めて、メンバー一人ひとりが転倒で発生する大腿骨頚部骨折の例をあげて、日常生活、入院時、手術、理学療法、退院までの一連の流れをまとめた。このようにMAPはセミナー形式ではなく一人ひとりがどう感じ、どう実践に活かして行くかを考える会である。メンバーは、看護師・介護福祉士・理学療法士・臨床哲学・社会学・法律家などさまざまな分野から参加されている。

MAP代表

MAP(Medical Academic Plaza)
今まで行ってきた慣習や手順を見つめなおすと、新たな発見につながり素敵だと思いませんか?
これからどんなになるかは,参加されるあなた次第なMAP.
医療をよくしたい、探求したいというコンセプトをもとに、いまの医療を考えませんか!

MAPのコンセプト
医療を良くしたい、探求したい
雪山2

MAPに参加するようになって、まだ1年にならない。参加のきっかけは、元看護師である職場の同僚に誘われたこと。その同僚がおもしろげな人だったので、その人が誘うところなら何かおもしろげなことがあるんじゃないか、と思ってついて来たら、そのまま居ついてしまった。あんまり様にならない理由だが、まあ、中にはこんなメンバーもいる。

そもそも、私自身は医療者ではない。社会学という、名前だけではなんだかよくわからない学問の、駆け出しの研究者だ。医療についてはさっぱりなので、「素人」として毎回おじゃましている。当然、私にはわからない医療用語が(しかも略語で)飛び交うこともあり、いつ「・・・それ何?」と聞こうかとタイミングを計ったりしている。
そんな私がなぜ、MAPに居ついてしまったのか。理由のひとつは、医療現場についてナマの話を聞くことができて、しかもそれに対する自分の疑問や意見を聞いてもらえるという機会が、私にとって貴重だからだと思う。MAPでは、「現場のこんなところに、自分は違和感がある」「もっとこうしたいのに、現場では難しい」といった話をオープンにやっている。それに対して私は「なぜ?」と尋ねることができる。私のような医療の素人にとっては、まずそうしたナマの話を聞く機会がないし、あるとしてもテレビや新聞からの一方通行が多くて、疑問を感じても質問したりはできない。さらに素人が医療にかかわるのは自分や家族が病気になったときなので、そうなってからでは、ますます「医療現場の問題」についてなんて(いろんな意味で怖くて)尋ねたりできない。MAPは、今のところ、私にとって「ここでしかできない話」をする場所なのだ。
実は「ここでしかできない話」をしているのは、他のメンバーにとっても同じなんじゃないかと思う。医療現場の人たちだって、「ウチのここが問題だと思うんですよ」なんて話しは自分の患者さんにはできないし、同僚など職場の人にはもっと言えなかったりするだろうと思うからだ。MAPでは、同じ専門職としての立場から、素朴な質問もできるし、専門的な意見交換も、管を巻くことも(!)できる。そういう意味では私のような素人がまざっているのは、もしかしたらイレギュラーなのかもしれないが、医療現場の人たちにとっても、医療現場の実情を説明した上で素人の反応を聞くという機会はあまりないだろうから、それだって「ここでしかできない話」のひとつだろうと思う。

最近のMAPでは、「マニュアル」が話題になっている。患者として考えてみると、型どおりという意味でのマニュアルどおりの対応はしてほしくないくせに、心身にかかわることなんだから勝手にやらないでマニュアルどおりにしてくれないと困る、という気持ちも持っている。勝手なものだ。医療者にとって、患者にとってマニュアルって何なのか、「ここでしかできない話」を、ゆっくり続けていきたい。
MAPコアメンバー
MAP(Medical Academic Plaza)
今まで行ってきた慣習や手順を見つめなおすと、新たな発見につながり素敵だと思いませんか?
これからどんなになるかは,参加されるあなた次第なMAP.
医療をよくしたい、探求したいというコンセプトをもとに、いまの医療を考えませんか!

みんな一緒
最近できた公園に行くと何か妙な感じがする。一歩足を踏み入れるとどこかで経験した感触、あわてて触れてみると昔働いていたデイケアの床のように転倒しても大きな怪我をしないようにショックを吸収してくれる素材をひいているのである。こんな公園が当たり前の子供たちはどんな身体になっていくのだろうか。

 年をとるに従って髪の毛が抜けてきたり、皺が増えたり、背中が曲がってきたり、大なり小なりの変化をしながらも、常にこの体はどこか一本芯が通ったようなところがあると思っていないだろうか。

 色んな影響を受けながらもいつも自分が感じている疑ったこともないその体のあり方はどこか世の中の変化をさしおいて、信頼できるところがある。

 しかし、そんな身体もデジタルカメラの進歩により色を識別する力が、あざやかでクッキリとした写真であると感じる基準が急速に変化していることを指摘している写真家がいる。

 見ることに関わる身体のあり方が自覚しないうちに、ものすごい速さで変化していると、いちいち意識したり言葉に出したりしないが、私たちの身体のあり方は自由であると思っている。しかし、いつもより膝をうんと曲げ、がに股で小刻みに足を運ぶと途端に周囲の視線を集めてしまう。笑いを誘ったり、反対に無視される。随分ときちっとした動き方の中で動いているのである。だからこそ、全部語らなくても私たちは様子で分かるのかもしれない。

 だが、今その身体性が本当に変化しているとするならば、そしてみんな同じだと思っていた身体性が、そうとうは思えない事態になった時、我々はどのような立ち振る舞いが可能なのか。あるいは話しかけることすらできなくなるのか。転倒しても怪我をしない子供たちとの身体の違いを考えながら思ったことである。

夏の水平線

介護福祉士である僕は、介護老人保健施設で勤務をして9年目になります。
最近、職場の同僚に対してのストレスが大きく、モチベーションが下がりっ放し・・・。愚痴も言うことが多く、自分自身の考えも分からなくなることも多々有ります。
自分たちは専門職として本当に高齢者介護を行っているのだろうか?専門職として恥じないケアを提供できているのだろうか・・・?僕自身スーパー介護福祉士ではないのですが。にしても。例えば、食事介助が終わった利用者の口の周りは汚れたまま。起床された利用者の顔を、介助で清拭しているはずなのに目やにが多く寝癖のまま。

「一体何を介護したんや!?」「専門職じゃなくても、不自然に思わんか?」等など。そんなこと、専門職としての介護ではないやろ!と・・・。「せめて、それぐらいは気付けよ!」「専門職以前の問題やろう!」と思うことが多く、指摘しても返事だけ。改善されたと思っていても、それを維持させることが出来ないことへの憤り。
そんな不満を抱きながら、月に一度のMAP定例会への参加。参加者で介護福祉士は僕だけですが、それでも他職種の方からの話を聞く中で、アドバイスをもらってはモチベーションが上がり、「頑張ろう!」と元気になれる場があるだけ「俺はまだ恵まれているのかな」と思います。

専門職として、知識と技術が必須の高齢者介護の現場ですが、介護職員と利用者との関係ではなく、当たり前のことですが人対人との関係であることを考えると、もっと良いケアが自然と出来るのではないかと最近思えるのです。

初めて高齢者介護に携わった時に感じた「疑問」「不自然に思えた光景」それがいつの間にか慣れへと変わり、「何も感じなくなるようなことがないように!」と自分自身に言い聞かせて、ネガティブに感じていたストレスをポジティブに考えようと。少し長い独り言でした。

看護師になって、20年目になった。「早かったなあ」っていうのが実感である。しかし、最近悩む事が多くなった。この20年で医療界は大きく様変わりした。患者中心と言いながら、蓋を開けて見ると、毎日毎日業務に追われているだけの様に思う。最近よく「看護って何?」って考える。看護とは看て護ると書く。患者を看取り護る事。果たして今の看護界にこの理念というかこの意味を理解し、実践しているところがどれくらいあるのだろうか?今日の臨床現場に於いて、患者を看ているだろうか?護っているだろうか?
 今こそ、本当の意味での看護というものを考え直さなくてはいけない時期に来ているのではないかと思う。
私事ではあるが、私の父は、くも膜下出血で倒れて、クリッピング術、V-Pシャント術の後、2回の脳梗塞で現在寝たきりの状態である。嚥下困難もあり、経腸栄養で余生を送っている。看護はというと、在宅である。いろいろな方々の援助を受けながら...。在宅開業医、在宅看護師、ホームヘルパー、歯科衛生士、などである。母は在宅が良いという。

何故か?母は、「今の病院には、看護はない!」と立腹する。もともと痰が多くて自宅にいても吸引は欠かせない。年に一度は肺炎で入院する。それはすでに慢性的なもので、皆さんの手厚い看護や援助をもってしてもダメな時がある。
しかし、病院に入院すると、寝たきり、皮膚はカサカサ、オムツかぶれ、褥創、挙句の果てに「早く帰ってください」と母を見るたびに主治医。でも、これが現在の医療の現実・病院看護の現実。

退院してきて、父の姿はみすぼらしい。髪の毛はテカテカ、ボサボサ、無精髭が生え、皮膚に張りはなくカサカサ。口の中は分泌物でいっぱい。

まず、保清、褥創の処置から人間らしさを取り戻していく。髪をとかし、髭を剃り、肌に艶が出てくる。褥創が治癒する。歯磨きをし、まだ多く残る自慢の白い歯を覗かせる。

父が退院してきて、いつも思うのは、看護師って何?専門性って何?日本の看護はこれで良いのかということである。

昔は、「褥創は看護師の恥」と言われた。しかし、今は、褥創を作らないということよりも出来た褥創をどう治療し、どう管理していくかということで、褥創回診などということが行われる時代になった。そのためにまた書類が増えた。褥創だけではない。転倒転落にしてもそうである。これにも書類が必要となった。何故このようなことになってしまったのか?

確かに、現在では、医療費の削減、医療の透明化ということでの情報開示や医療事故の表面化など医療そのもののあり方まで問われるようになり、医療現場は、決して昔のようなどんな病院でも患者が来るという時代ではない。生き残りを賭けた厳しい時代になってきているのは事実である。その中で、患者は、顧客となり、診療点数の多さで選別されるようになり、質よりも数になってしまった。そこには、慌ただしさと共に医療事故のリスクを高めた。そこで病院を守るために、各種のマニュアル、承諾書、各種評価表などの記入、ブランドのようになってしまった特定機能病院の称号など、患者サービスの向上、看護の質の向上などといわれるが、実際は患者さんよりも病院を守る医療へと変わってきたと思う。

しかし、このような時代になったからこそ、人間対人間のかかわりから生まれる看護というものを、今一度見つめ直す必要があると思うのである。知識・技術にとらわれるのではなく、病気になり、治療後社会復帰される患者さんにも、治療の甲斐なく病院でその生涯を閉じられる患者さんにも、その人の生涯が悔いなく終えるようサポートするのが看護師の役割であり、看護の専門性だと自分は考えるのである。そこに慌ただしさや医療従事者主体の医療があってはならない。患者さんとのコミュニケーション無しに、ベッドサイドナーシング無しには、看護は絶対にありえないと思うのである。
看護には、その人の人間性はとても重要であると思う。誰もが持つ、人に対する思いやりや優しさが最も重要であると思っている。それは自分自身が余裕の無い状況では、相手を思いやる余裕も無ければ、優しさを持って対応することなど不可能である。しかし、今の看護業界はそうではない。患者さんから「しんどそうやね。大丈夫?」と声をかけられることが多くある。これでは、看護なんてあったものではない。このような状況からは1日も早く脱却したい。その為には、個人個人が意識を持って取り組んでいくことが最も大切であると思う。そして、それを後輩に伝えていくことによって今後看護は変わっていくと確信している。

ただ、現場の看護師がいくら思っても実践しようとしても限界がある。なぜなら、組織自体がそうではないからである。組織のトップはもっと現実を見るべきである。どうしたら、看護師一人一人が余裕を持って患者さんに接することが出来るのか?ということを...それが看護の本質であることを...
看護は、決して机の上で出来るものではない。患者さんとの関わりによって初めて達成できるものである。
                             浦 雅司

手術室看護師になり8年目に突入した。
手術室の中では師長より古いスタッフになってしまった。いわゆる、師長から見れば目の上のたんこぶ的な存在だろうとすごく感じる。
ちなみに、スタッフの人数は師長を含め6人、手術室2部屋でまわっている規模的にはとても小さい病院である。しかし、そのうち一人が妊娠、もう一人が年齢は高いが新人という6人になった。
これはヤバイと感じた時、二人の看護師が、上の人達は何を考えているのか補充のことも考えているのか、師長は解っているのかという文句が遂にやってきた。相談の結果、師長はいつも私達が文句を言っても変わらないので部長のところに行くことにした。
無論行っても、人を増やすにはデーターを採れ、経営会議では・・・と言われ、貴方のところの師長は・・との発言に遂にキレタ!師長を教育するのはあなたでしょう、それに現場の事も判らない、手術室にも来ないのに、何を言うとるねん、あなたは、部長じゃなく経営者やなーと捨て台詞を吐き部長室をでたが、

それ以来看護部長とは会話をしていない。愚痴になってしまったが、思うことは、手術室って病院にとってどういう存在なのか、手術室を解かっているのか、不思議に思う。病棟の基準が満たないからといい、7年目のスタッフを病棟にいかせたり、外来勤務、危うくホスピスの応援までも行くところだった。

会議の内容は病棟主体で、出席すれば解らず、欠席すれば部長に文句をいわれる。例えそんな感じでも、何かを変えたい、何か無いかと、MAPに参加させてもらい、様々な意見を聞き、すごく元気を頂いているし、励みにもなる。

今後は、手術室のイメージを変えていく事、患者様がさらに安心して手術を受けれるように、様々な事に取り組んでいき、なおかつ、自分自身がまだまだ成長していきたい。これからも、宜しくお願いします。

                某G病院 手術室看護師

第11回イベント 看護師と医療行為

医療行為とは他人の身体を切開したり,劇薬を飲ませたりすると,刑法上の暴行や傷害の罪に問われる(刑法第204条など)。しかし,それを行うのが医師であって,それが業務であれば犯罪を構成しない。といっても自由気儘にそれが許されているわけではなく,それが医療行為として認められる場合にのみ合法なのである。医療行為がなぜ犯罪を構成しないか,については諸説がある。正当行為説・患者承諾説・慣習法説などいずれの説も医療行為を非行・犯罪であるとはしない。通説は,医療行為を法令による正当業務行為に相当する(刑法第35条)ものと解している。
 医師の行為が医療行為と認められるためには,次の3つを充足していなければならない。

1. 治療を目的とすること
2. 医学上認められた手段および方法であること
3. 患者,保護者,代理人などの承諾のあること


医師が善意であって,しかも過失もなく,目的が達成されても,前に述べた3点を充足していなければ原則的には違法行為である。逆に前記3点を充足していれば,患者に不幸な結果を招いたとしても医療行為であることに変わりなく,診療過程に過失の発見されない限りその責任を問われることはない。

恐らく最も簡潔に説明された医療行為は、

仙台高裁判例 ( 昭和 28 年 1 月 14 日 )

医業とは、医行為を業とすることであり、医行為とは、当該行為を行うにあたり、医師の医学的判断および技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼすおそれのある一切の行為である。
看護師による医療行為問題になるのは、「診療の補助」を行うことを業とする者(反復継続する意思をもって行うこ)この行為がどこまで許されるのか?
例えば、医師の指示による静脈注射

2003年厚生労働省が認めた(昭和40年代に最高裁は既に認めていた)ため、今さほど問題ではないけれど(?)大方の見方として、看護師が静脈注射を行って異常が発生した場合医師が直ちに診察できる態勢になっていれば許される行為である。

では動脈注射はいかがでしょうか?

「医師でなければ、医業をしてはならない」がある範囲の医業は医師の指示により看護師の「診療の補助」業務として許される。そこで看護師による動脈注射が医師法17条違反になるかどうかは、動脈注射が医師自らなさなければ人体に衛生上危害を生ずる恐れのある医行為か、看護師に任せても危害が及ばない行為か?

まず一般的には看護師による動脈注射は行われていない、動脈は静脈の場合より患者への危険性が高いことは当然であるから「診療の補助」業務の範囲を逸脱している。

しかし将来看護師の能力が向上し、医療機器の進歩につれ安全性が高まれば許されるのではないだろうか?そうなると、医師として医師の使命医業が医師の業務独占とされる理由が薄弱になっていく。

「看護婦と医療行為」高田利廣著 日本看護協会出版会 P24、P25 抜粋
看護師・介護福祉士のみなさま 下記のなかで医療行為でないものは?
 吸痰 ツベルクリン反応検査 いわゆる永久脱毛 血圧測定  吸入
 点滴   摘便    浣腸
 爪きり  点眼    服薬管理   体温測定
保助看法第五条 この法律において「看護師」とは、厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者若しくはじよく婦に対する療養上の世話又は診療の補助を行うことを業とする者をいう。

看護師に対して、医師の独占業務である医業を「診療の補助」業務の範囲に限ってこれを認めている。したがって、これらの医療行為は医師の指示によって行わなければならない。そこで問題となるのはその範囲である。
(看護婦と医療行為 高田利廣著 日本看護協会出版会)

医師の指示さえあれば看護師がどのような業務でもできることを意味しません。略 医療職以外の代行を認めない排他的専断的医療行為(絶対的医療行為)のカテゴリーと、その程度が比較的低いため、指示に基づいて医療職以外の一定範囲の者が行うことができる総合的医療行為(相対的医療行為)のカテゴリーがある。

絶対的医療行為を看護師に命じた場合看護師はこれについて、意見を述べる義務、場合によってはこれを拒む義務すらあることになる。これを怠った場合には法的責任を問われることもある。

        (医療・看護 過誤と訴訟 稲葉一人著 メディカ出版)
静脈注射、動脈注射、
内服薬管理、軟膏類の塗布、湿布剤の貼付、点眼行為、
全身麻酔維持、腰椎麻酔の維持、輸血、
エックス線撮影、ツベルクリン反応検査、
整形外科靴マイスター、レーザー脱毛、
巻き爪の爪きり、
これらのうち、絶対的医療行為と相対的医療行為に分類してみて下さい。
何を基準に分類されたのでしょうか?
話題を変えます。手術室ナースへ質問!
「勤務中、全身麻酔の維持を行うことがありますか?」

それは医療行為でしょうか?

ここに疑義紹介があります。

○麻酔行為について
(昭和四〇年七月一日)
(医事第四八号)
(日本麻酔学会長あて厚生省医務課長回答)
照会
麻酔行為は患者に麻薬および毒劇薬を施用する医行為であり、またその実施中は常時高度の医学的知識および技術と細心の注意をもって患者の状態を監視し、その変化に即応して適当な措置を講ずる必要のある医行為であると考えるが、左記のものはそれぞれ法違反であり、麻酔の施行にあたっては不適当であると思うが御回答願いたい。

1 医師、看護婦または准看護婦でない者が、医師の指示の下に業として麻酔行為の全課程に従事すること。
2 看護婦が業として麻酔行為を行なうこと。
3 吸入法による麻酔の下に患者を手術する場合、手術実施中の医師が麻酔について指示することは実態上不可能と考えられるが、手術実施中の医師の指示の下にと称して医師でない者が、当該麻酔行為を行なうこと。
回答
1 麻酔行為は医行為であるので医師、歯科医師、看護婦、准看護婦または歯科衛生士でない者が、医師又は歯科医師の指示の下に、業として麻酔行為の全課程に従事することは、医師法、歯科医師法、保健婦助産婦看護婦法又は歯科衛生士法に違反するものと解される。その場合、いずれの法規に違反するかは、当該医師又は歯科医師の指示の態様によるものと解される。
2 看護婦が、診療の補助の範囲を超えて、業として麻酔行為を行うことは、医師法違反になるものと解される。
3 御設問の場合において、実態上医師の指示がないか、又は医師が指示することが通常不可能と考えられる状態において、医師でない者が麻酔行為を行なうことは医師法又は保健婦助産婦看護婦法に違反するものと解される。
1 医師、看護婦または准看護婦でない者が、医師の指示の下に業として
  この「業」については少々説明を要します。
" 業 " とは、反復継続の意思を持って行うこと ( 大審院判決 1916.2.5 他 )。
" 業 " は反復継続を意図した行為で、緊急避難的行為は除かれる。
" 業 " は意思を持って行われる行為で、営利を目的とするかどうかとは関係ない ( 大審院判決 1916.2.5、東京高裁判決 1967.3.16 他 )。
偶然に反復された行為は " 業 " ではない。
" 業 " は不特定多数のものを対象として行うこと。自己が対象のものは除かれる。

3 御設問の場合において、実態上医師の指示がないか、又は医師が指示することが通常不可能と考えられる状態において、医師でない者が麻酔行為を行なうことは医師法又は保健婦助産婦看護婦法に違反するものと解される。

逆に考えると、実態上医師の指示があり、医師が指示することが可能であれば・・・

法律の解釈論をここで論じることが有意義であるとは思えません。
麻酔を受ける人間として、麻酔は麻酔を本業とする医師に、外科的手術はそれを本業とする
外科医に、看護は・・・

しかし、現実は麻酔医師の不足は日本全国の病院に共通した問題であります。麻酔医師がいないのならそれに変わる対策を考えるべきでは。

これは全身麻酔を対象とした考え方ですが、腰椎麻酔を維持することの方がよほど怖いと思っているナースが多いのではないでしょうか?
全身麻酔は、気道の確保がなされているのですが、腰椎麻酔はそれがなされておりません。
したがっていつ吐くか、または麻酔レベルが上昇し呼吸困難になるか、そのような患者を守る方法は?

介護福祉士さんへ

老健施設などで勤務されているある介護福祉士さんからの疑問
深夜入所者の方が詰め所に来られ「眠れない、薬ちょうだい」と言われた。そこでA介護福祉士は、「じゃあこの薬どうぞ」と手渡す。
B介護福祉士は、「どうしたの?少しお話しましょうか。昼間どなたか面会に来られたの?・・・」としばらく話をしていると入所者「ありがとう、そろそろ眠るわ」と帰って行かれた。

介護福祉士は本来何をすることを業務「業」としているのでしょうか?薬を渡すことは介護福祉士でなくてもできる事ですね。極端な事をいうと器械でもできます。

第12回イベント
真の患者サービスとは

病院(・老健施設)における真の患者サービスとはなにか。

状況把握の思考プロセスに沿って述べる。
1、なんについて、どれくらいの範囲で状況を把握するのか

病院・老健施設における患者サービスとはなにか。
2、諸問題(複数の関心事)を列挙する
1)サービスとはなにか
 2)病院は営利組織なのか
 3)営利組織と非営利組織の違いは
 4)今医療に「サービス」が求められているのでしょうか?

3、抽象的な問題は複数思考で分解し、できる限り具体的にする
1) サービスとはなにか
広辞苑によると「奉仕。物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務。」 
  サービス;人のために力を尽くすこと。奉仕。(大辞泉)
  用務;課せられている務め。なすべき仕事。(大辞泉)
  用役;社会に役立つ働き。特に、運輸・通信、また、医療・教育などの、直接財貨を
生産 しない業務をいう。(大辞泉)

  このように、「サービス」とは「労働」、「課せられる務め」でありそれは「社会に役立つ働き」である。マクドナルドでいう「スマイル=0円」ではないが、「スマイル」は労働であり課せられた努めである。
(務める=任務、委員長を務める、主役を務める、
勤め=勤続何年という労働、
努め=看病に努める、問題の解決に努める、)

サービスを考えるときどうしても付加価値という概念を思い浮かべてしまう、商品本来の価値に付加された、付け足した価値、一般企業ならばポイント制度のようなものを思い浮かべる。一般企業は営利組織であるが病院は非営利組織だといわれている。サービスが付け足した価値であるのか、いなかの前に病院は非営利組織なのかが疑問になった。

2) 病院は営利組織なのか
http://www.kyodo-cpa.com/back/menu3/kiji/hieiri011.html#00
「その区別は何かと言えば、「目的」の差に尽きるのではないだろうか。
 すなわち「営利」を「第一の目的」としている企業や経営・団体は「営利」組織であり、一方で利益追求自体を第一義的な目的とはしていない事業体は「非営利組織」として考え、基本的な区別するのである。

例えば医療法では、医療機関は営利を目的としてはいけない、すなわち医療行為で第一に利益を追求してはいけないと法定されている。
利益追求を第一の目的とはしないものの、目指す活動や組織を維持発展するためには「利益」が必要であり、その点では利益を追求することとなる。
 同じではないか、と言われるかもしれないが、違うのである。利益追求は「目的」ではなく「手段」と理解するのである。」

3) 営利組織と非営利組織の違いは(協同より抜粋)
 「営利を追求していても市場で淘汰され、営利を追求していなければさらに片隅に追いやられてしまう、そんな時代に「営利」こそ目的としていないが「手段」としての利益は確保せんと奮闘する、換言すれば市場経済論に与さないけれども、市場の中で活動し続け、発展しようとする存在の「非営利組織」の活動や連携が、まさにクローズアップされ始めたのだ、と言える。」このように営利と非営利の違いは手段としての利益の追求である。

このように病院は非営利組織であるが「手段」としての営利を追及する組織である。ならばサービスは、付加価値という概念で示すことが可能ではないか。
 付加価値だから単純にポイント制度をつけて売り込もうとしてもそうは簡単なものではない。そこには顧客の購買意欲をそそるものでないと売れない時代である。物が溢れて飽和状態の日本で購買意欲をかきたてるほどの商品はそう多くはない、同様に医療においても一部過疎地域は別として飽和状態であると厚生労働省は示している。また患者の意識も大きく変化している、お任せ医療から選ぶ医療に変化している。そして社会保険制度からも病院は改革を迫られている。

4) 今医療に「サービス」が求められているのでしょうか?
前述したように患者の意識も変化している、お任せ医療から選ぶ医療に変化している。これは一般社会において顕著にでている。例えば株式会社は株主からその動向が注目され株価が下がりそうになれば、一斉に売られてしまう。株主はその株で生活がかかっている。

一昔前なら、銀行の利子でも生活ができていた人達が今はまったく利子だけでは生活ができない、利子が入って、配当がついていた時代なら会社の成績が悪くても「次期に期待しよう」と思えたがその余裕はない。取引先が株式会社を注目している。これは取引先はその会社から期日までに納品されることで、計画が実行される。一日遅れれば次の取引先に納期遅れで違約金が発生し、次の取引はありえない。生き残れない。またその一日の遅れは自社で残業という形で短縮する、これは特別な出費である。

消費者はどうだろう、パナソニックというブランド品を「ブランドだから高いのは仕方ない」と受け入れる消費者が今はどれだけいるのか?ブランドでも安く買いたい、と希望をもっている。メーカーにすればこの高い技術をこんな安い金額で出せるか!という時代ではなくどうすれば安くなるかを追求している。そうしなければ売れない時代だ。パナソニックという名前に胡坐をかけば、直ぐにでも蹴落とされるのは目に見えている。


 このように株式会社は株主、取引先、消費者から注目されている。こういう環境で働いている会社員が入院してくる、また注目している株主、取引先、消費者がその目をもって入院してくる。厚生労働省から、社会保険から、患者から、職員から注目されている。


そして医療は非営利組織であり「利益」を追求するものではないが、「手段」として「利益」を追求する。その場合顧客(患者)満足を満たすためにそのニードを把握し付加価値の高いサービスを提供することでニードを満たすことができる。
 患者が求めているから提供する。提供しなければ「手段」としての「利益」が確保できない。
「現代の企業モデルは『価値のある商品・サービスを、ニーズのある人に』提供する企業が求められている。


企業を取り巻く環境は多様で地域社会、消費者、環境問題などの非経済的要因への対応が企業の重要な社会的責任となっている。」(現代企業論より抜粋)

「サービスとは付加価値である」と定義すると、医療本来の業務とは何かが問われる。
医療本来の業務とは、健康への回復
4、個々の「問題」を分析や行動に直結する「課題」に昇華させる
 (給与に不満が多い   同業他社との格差調査)
医療において「サービス」が求められている。では医療に於ける真のサービスとはなにか?
医療法
第一条の二 医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、及び医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるとともに、その内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む良質かつ適切なものでなければならない。


第15回イベント「高齢者の転倒」

テーマ 高齢者の転倒
2005年9月3日(土) 10:00~16:30
場所 大阪メディカホール 一階

高齢者の転倒。高齢化社会において決して珍しいことではなくなってきている。どこで転倒するのか?自宅や外出先、病院や施設、ありとあらゆるところに高齢者を転倒に巻き込む危険が潜んでいる。なぜ転倒するのであろうか。身体的機能の低下だけが高齢者を転倒の危険性に巻き込んでいるのであろうか・・・
今回、MAPイベントでは、様々な高齢者看護や介護に携わる人々が、様々な視点で高齢者の転倒を考えようと企画しました。日々、様々な分野で行っているかかわりを語り合い、振り返ってみることで、新しい高齢者の転倒予防対策のきっかけを見つけることができるのではないでしょうか。普段交流のない専門職の意見を聞き、皆さんが悩み考えている意見を交流させることで、新しい視野を開くきっかけとしてみませんか?
 皆様の参加をぜひお待ちしております。ファシリテーター藁科真吾

1.在宅における転倒の危険性と対策 :西川 勝   10:10~10:50
家の中にも、高齢者が転倒する危険がいっぱいあります。家の環境は、病院や施設に比べて実に多様です。
どんなことが、転倒予防ポイントになるのでしょうか。みなさまと一緒に考えて見ましょう。
a、家の環境を見直す。
b、外出時の注意点
c、暮らしの工夫
2.入院中における転倒の危険性と対策:秋田浩道   10:50~11:20
高齢者が転倒する原因を単に「身体機能の低下」と断定してはいないだろうか?転倒の危険性とその対策について解説する。

4..大腿骨頸部骨折患者の入院生活導入までの看護:中井亜紀11:20~12:00
高齢の方が転倒された場合、骨折される可能性が高くなる。生活動作能力を著しく損なう恐れがあり、緊急度の高い骨折として「大腿骨頸部骨折」をとりあげ、事例を検討しながら入院となるまでの経過と、入院生活への導入に関する看護の注意点を検討する。
休憩12:00~13:00
5.手術療法における看護    :浦 雅司  13:00~13:30
主に“大腿骨頚部骨折”における骨接合術について、その術式と体位について解説する。

6.術後から回復期での看護   :河原田益代 13:30~14:00
今回は人工骨頭置換術の術後から歩行するまでのスタンダードな流れとその時々の看護のポイントや問題点を解説する。
6.匂いで考える動作能力(理学療法の観点から)   :玉地雅浩  14::00~14:30
匂いで考えられるものは、清潔を保っていないことや身だしなみに関してのことだけではなく、動作能力も考えることが出来る。    
術式の違いによる看護・介護上の工夫や注意すべき点を検討する。職種の違いを超えて入院前から退院後までの流れを生活行為の「継続」という観点から一緒に考えたい。

7. ある介護老人保健施設での取り組み :重信嘉彦 14:30~15:00
1)転倒防止対策…身体抑制の禁止。家族への説明と了解を得る。対応方法の紹介。
2)事故(転倒)発生時対応。
3)事故件数と発生時間帯及び発生状況(場所)。
4)その他の施設では。
休憩20分
8高齢者の転倒を看護学生へどのように教育しているか:豊田浩子 15:20~15:50
1)高齢者が身近にいない環境で育った学生の特徴
2)老年の特徴(身体的・精神的)
3)老年者に多い事故とは
4)転倒しそうな現場に居合わせたケース紹介
5)転倒因子
6)転倒予防にはどのように努めるか?
7)安全・安楽における看護

9.法的問題と倫理的側面              :15:50~16:30
 稲葉一人肩書き・・・ 大北taketosi 肩書き・・・・
入院・入所中の高齢者が転倒した場合の法的な問題と骨折し医師から「手術療法」を説明され、本人の意志が確かめられない又は、家族の同意が得られない状況をどのように考えるかを討論する。

MAP(Medical Academic Plaza)
臨床のナースにとって必要な情報や学問を検討するイベントを企画します。
看護を良くしよう、看護を探求しようがコンセプトです。

医療・看護・福祉についての問題提起と参加者個人の自己研鑽を行い広く社会に訴える。
親切で優しい看護師さんというイメージではなく、「やっぱり看護師さんに会えてよかった」という”専門的な働きかけ”に感動してもらいたいと思いませんか?MAP主催のイベントでは、今まで何気なく慣習や手順で行っていた看護実践について、なぜ?という疑問から新たな発見をするような場にしたいと考えております。

第16回イベント「<身体>とケア

<身体>とケア
臨床における身体の現象学
苦痛に苦しみ喘いでいたり、倒れ込んでいる者に出会うと、私たちはそのこと自体に強く引き寄せられ、その苦しみに手をさしのべようとする。実際にそれができなくても、そのような衝動に駆られてしまう。とりわけ医療従事者である私たちは、日常的にこうしたことを経験している。が、これらが余りにも日常的であるために、それ自体に気づいていない。<私の身体>は、病や苦悩を前にして何を感じているのだろうか?
 それを私が知る前に、どのように働きだしているのだろうか?その営みは他者と私との関係をいかに支えてくれているのだろうか?知っているはずなのに、それとして自覚してこなかったこと。この<身体>の世界へと分け入ってみませんか。


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