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「足を切断しなければ、ならない」と診断を受け「死んだ方がましだ」と悲嘆にくれる人がいる。「いっそ死ねたらいいのに、死にたい」と念仏のように唱える。見守るしかできない。 80歳も過ぎて「まだこれ以上・・・、死ねたらな・・・」毎日毎日死にたいと。 どんなに悲嘆にくれても事態は変わらない。 今の私にはその人を見ていて「ああ、私と同じだ、幾度となく念仏を唱えて、唱えて、いつかは『白馬の王子様』が迎えに来てくれる、」と思うことで自分を誤魔化していた。 そうしなければ生きていけないガラスの心。 現実と向き合うことは、何年生きてもできるものではない。 いつも思う「弱い人間に生まれさせて、強く生きろという神を呪う。」
July 16, 2006
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病に心身供にとりつかれまるで迷路に迷い込んだかのような生き方を強いられた時、本人と親族ではその治療方針に大きな隔たりが生じる。病に悩んでいる本人には、見えていないのか見ようとしないのか親族には、はっきりと見えている決断がある。それは医療従事者にも同じように見えている。その方針を本人が受諾か決断しなければ、保存療法のみである。 決断を薦めるのか、親族に薦めるべきか。痛みがなくなれば、ただそれだけを望んでいるのだろうか?他にもなにかあるのでは? 「第三者」医療従事者は「第三者」である。
July 12, 2006
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