古代のロマンをたずねてpart.2

古代のロマンをたずねてpart.2

慈尊院


もちろん、丹生官省符神社もセットです。


つまり、何の期待も思い入れもなく行ったのでした。
しかし、結果的にはそれがよかったのかもしれません。


慈尊院は、有吉佐和子さんの小説『紀ノ川』で有名なお寺のようです。


『紀ノ川』冒頭は、まもなく嫁ぐ娘を連れて、女人高野の慈尊院弥勒堂に詣でる場面。安産・産後の無事を祈る民間信仰として、今も実物大の乳房型が奉納されています。




おっぱい



もともとは、弘法大師さんのお母様が会いにやってこられて高野山まで行くことが出来ずに、ここのお寺に留まっておられたのだそうです。


当時は、高野山は女人禁制だったのですよね。
親孝行な弘法大師様は月に九度お母様に会いにここへ来られたそうです。
それで、この辺りの地名を九度山というのだそうです。
そして、この高野山の入り口でもある慈尊院を女人高野と言ったのだそうです。



私と先輩は本堂に入って、御住職さんのお話を聞かせていただきました。




本堂





『慈尊院』と書かれたこの碑は平山郁夫さんの直筆だそうです。
奥様の美知子さんの郷里が九度山ということもあって生前ここにはよくおいでになられていたようです。





慈尊院




慈尊院には色々なエピソードがあり、このブログでは語りつくせないのですが、中でももっとも心打たれたのが、“ゴン”という犬の話です。


私が、ここであらすじの述べてもとても御住職様のお話の100分の1も心に届かないかと思います。

これを読んで気になった方は是非、御住職様のお話を聞きに行ってみてください。
私は涙がぽろぽろこぼれてしまいました。

御住職様のそばには今でも、ゴンが寄り添っているかのような錯覚に陥ったのでした。




ゴンの碑



【ゴンの話】



昭和60年代のことです。
九度山駅と慈尊院を結ぶ途中にある丹生橋の近くに住みついていた紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬が、やがて慈尊院や高野山の参詣者・ハイキング客を案内するようになりました。



慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、いつしかこの野良犬は「ゴン」と呼ばれるようになったのでした。


最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を案内するだけでしたが、平成元年頃から慈尊院をねぐらとして、高野山町石道の20km強の道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻る毎日を送っていたのです。



その道案内というのは、本当に凄いのです。
人が歩く10数メートル前を歩き、マムシが出てきそうな時には「ワンワン」と吠えて追っ払い、また、急な坂で足元が危ない時には立ち止まって「ワンワン」と吠え、教えるのです。



自分は片道2~3時間で行けるのに、人を案内するために7~8時間かけて歩くのです。
そして、帰りは、2~3時間で戻ってくるのです。




何人もの方がゴンの案内に助けられたことでしょう。
住職さんの元にはたくさんの手紙が届けられていました。



しかし長く険しい山道を連日のように歩き続けたため、体力的・年齢的にも相当の負担がかかったようで、平成4年をもってガイド犬を引退し、その後老衰のため、平成14年6月5日午後3時50分に息を引き取ったのです。



ゴンの死を聞いた多くの方は、どれだけ涙を流されたことでしょう。



約1200年前の弘法大師の時代にも高野山の案内犬がいたという伝説があり(金剛峯寺#開創伝承も参照)、このゴンは「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」などと呼ばれ親しまれていたこともあって、同年7月23日に慈尊院住職の計らいで境内の弘法大師像の横に、ゴンの石像が載せられた「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられました。



その後、慈尊院には、晩年のゴンと共に暮らした雄犬「カイ」が居たものの、ガイドは行っていませんでした。
その「カイ」も今では、ゴンを追いかけるかのように旅立っていったのでした。





住職さんから、生前のゴンのビデオや写真を見せていただきました。
なんともかわいい犬なのです。

住職さんは最初、猫好きだったとおっしゃっておられましたが、ゴンを愛してやまない心にも深く感動したのでした。

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