ニャんコロ屋敷

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皇妃エリザベートの面影紀行

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皇妃エリザベートの面影紀行
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シェーンブルン宮殿


シシィことエリザベートはドイツ バイエルンの公爵家ヴィッテルスバッハ家に誕生し従兄のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフと1854年に結婚し このマリア・テレジアによって改築されたシェーンブルン宮殿の女主人となったが、シシィは窮屈な宮廷生活になじめずにいた。


シェーンブルン宮殿2


シシィは気ままと言われますが、実際彼女の精神生活に変化がおきたのは、1858年に誕生した一人息子のルドルフ皇太子が1889年にマイヤーリンクの狩猟館で自殺してからだと言う。


宮殿の庭


エリザベートにとって宮殿内から見えるこの美しい庭園や噴水、そして小高い丘の上に見えるグロリエット・・・悲しみにくれる皇妃にはどのように見えたのでしょうか? 現在 このグロリエットは喫茶室になっており どなたでもお茶やコーヒーを楽しむことができます。シェーンブルンを訪れた記念にいかがですか。この シェーンブルン宮殿は現在一部分がアパートメントになっており 日本円で20万円ほどのお家賃で借りることができるそうです。 宮殿内に住んでみるのはいかがですか?


ホーフブルグ


これは ホーフブルク王宮の入場券とパンフレットです。ツアーで訪れる機会が無かったので 午後からウィーンの森に行くのをキャンセルして国立オペラ座の周辺を独り歩きしてきました。この ホーフブルクは実際に皇帝一家の生活の場として利用された場所でした。 皇帝の自室や皇妃の部屋などプライベートな空間をうかがえる場所です。 拝観料は7.5ユーロです。
中に入って 感じたことは思ったより質素であったということです。皇帝の寝室のベットは現代のものとかわらないシンプルなものでした。シシィの部屋には美容のための運動用具やその時代には珍しかったバスタブなどが置かれていて 彼女が美しさを維持するために励んでいたことがうかがえます。王宮内は撮影できませんので 私の感想でご辛抱ください。




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ウィーンの街の楽しい歩き方
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観光スポットはリンクと呼ばれる環状道路沿いに集中していますので、徒歩か市電を利用すると良いでしょう。 地下鉄 市電2時間乗り放題で1.50ユーロなのでこれをぜひとも 利用していただきたいです。私は今回の旅で 国立オペラ座から徒歩で街を見学することにしました。まずは オペラ座裏のザッハトルテで有名なホテル・ザッハーのカフェテラスで ザッハトルテとアイシュペナと云うウィンナー・コーヒーを楽しみ ケルントナー通りのお店を見学しながらシシィのお気に入りだった スミレの花の砂糖漬けを買って シュテファン大聖堂を目指して歩きました。聖堂の中を見学し北塔に登って街を一望して モーツァルトが1784年から4年間住んでいたフィガロハウスを見学 その後ホーフブルグ王宮までの散歩を楽しみました。ホーフブルグ王宮では皇帝の部屋や宝物館 などを見ればハプスブルグ家の歴史と莫大な富を概観できます。ぜひとも ご自分の足で歩くことをお勧めします。知らない街を歩くのは 勇気が要りますが 楽しいものです。



コンサートチケット



もう一つのお楽しみは やはり 音楽会でしょう。 ウィーンには国立オペラ座をはじめ大小様々な音楽を楽しむためのホールがあります。国立オペラ座や学友会館などのホールでは正装が必要ですが もっと気軽に音楽を楽しめる場所は沢山あります。私のお勧めは、シェーンブルン宮殿やホーフブルグ王宮の中で行われるコンサートです。 私はシェーンブルン宮殿内のオランジェリーで行われたコンサートを聴きに出掛けました。50ユーロでチケットを購入・・・お安くはありませんが 日本では味わうことの出来ないウィーンならではの優雅さを味わう特別なひと時となるでしょう。音楽の初心者にはお勧めです。次回 訪れたときには 本格的なオペラやオレッタを楽しまれてはいかがですか?!



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皇太子ルドルフの悲劇
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マイヤーリンクエリザベートの末娘のマリー・ヴァレリーは母シシィについてこのように語っている。「母は家族にとって地獄である」と・・・。

皇太子ルドルフは1858年に誕生しベルギーのシュテファニー王女と結婚 1889年ウィーン西南30キロにある マイヤーリンクの狩猟館で18歳の男爵令嬢マリー・ヴェチェラと情死した。
ルドルフはなぜ情死したのか・・・30歳のルドルフは本当にこの娘に惚れ込んでいたのだろうか? ルドルフはマリーを死の道ずれにする前に、2,3人の女友達を情死に誘っているが、冗談でしょうと 断られたという。




修道院今、このマイヤーリンクの狩猟館はなくなり ハイリンゲンクロイツ修道院になっている。ルドルフは幼い頃から母エリザベートから引き離され 祖母のソフィー大公妃の元で教育を受けたが、ルドルフが7歳の頃 教育係ラトゥール・フォン・トゥルムベルク大佐によって将来の皇帝になるための教育を受けたが、この大佐はたいへんなリベラルで反宮廷風な人で ルドルフの将来に大きな影響を及ぼすことになった。ルドルフの教育は父皇帝の思いとは反対に 軍事教練は必要最小限に抑えられ、精神の教育が第一とされたことから、ルドルフは多方面に関心を持つ少年となり、ひいては近代国家の基盤を貴族階級ではなく、市民階級に見るような青年になっていった。



皇太子ルドルフの悲劇の原因はこれだけではない。 ハプスブルグ家は代々血族結婚を繰り返してきたことで様々な問題が生じてきた。 母エリザベートの実家 ヴィテルスバッハ家は精神病の国王をだしていました。
森鴎外の小説「うたかたの記」の中でバワリア王ルドビキ2世が 狂人となりスタインベルヒの湖で
侍医と共に溺死したことがのせられている。
この王こそ エリザベートの従弟のバイエルン王ルードヴィッヒ2世である。王は中世の騎士物語に憧れ、沢山の宮殿や城を建設。そして、音楽家のワーグナーのパトロン」になり浪費を繰り返し、
国家財政を破綻に導き、退位させられた。
しかし、 今では、この王の造った城の数々が観光名所となり、国の発展に貢献しているとは皮肉なものだ。
このような背景から、ルドルフの悲劇の一部をこの精神病の血筋が関係していると考えることは 不思議なことではない。
ルドルフの父 フランツ・ヨーゼフは実は冷徹な性格だったと近代史家は評している。 
そんな父皇帝と聡明でナルシストの皇太子、2人はことごとく対立したが、父皇帝はいつも息子に期待していたことに間違いは無かった。
しかし、ルドルフは時代の流れに敏感だった。オーストリアの将来に絶望していた。
ルドルフの情死は女のゆえではない、彼自身のためだった。
しかし、容易には踏み切れなかった。だから、彼女マリーを道ずれにしたのでしょう。
おそらく 死のダイヴィング・ボードにするために・・・。私はそのように感じました。



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もう一つの悲劇・大公フェルディナンド
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皇帝フランツ・ヨーゼフは一人息子のルドルフ皇太子の情死によって世継ぎを失った。 そこで、白羽の矢が当たったのが、皇帝の弟 カール・ルードヴィッヒ大公の息子フランツ・フェルディナンド大公であった。
皇帝フランツ・ヨーゼフにとってこの甥である フランツ・フェルディナンド大公を皇儲にしたことは本意ではなかった。フェルディナンドの妻ゾフィーが気に入らなかったのである。
ゾフィーはボヘミアの地主、チェコ人のホテック伯の娘であった。
ハプスブルグ家は諸国の王室との縁組を家憲にしてきた。
「汝らは戦え、われは婚姻す」である。この政略結婚によってハプスブルグ家は代々領土を拡張させてきた。
それなのに、チェコ人の地主の娘を娶るとは沙汰の限りだった。
皇帝フランツ・ヨーゼフはこの甥夫婦に対してフランツ・フェルディナンドと妻ゾフィーの間に生まれた子供には
皇位を継がせないと宣言した。
皇帝は皇位継承権をまだ幼い、フランツ・フェルディナンドの弟の子カールに譲ると決めたのであった。


オイエン公の宮殿フランツ・フェルディナンドと妻ゾフィーは恋愛結婚だった。ゾフィー32歳、フランツ・フェルディナンド 37歳の1900年、教皇レオ13世の助力のもとで結婚することが出来た。皇太子となった フランツ・フェルディナンドとゾフィーには公式の居館として オイゲン公の宮殿だったヴェルヴェデーレ宮殿が与えられた。しかし、夫妻が自分たちの家と思っていたのは ボヘミアにあるコノピシュチェ城でした。そこには 家族の生活があった。そして、妻ゾフィーに対するハプスブルグ家の冷たい目もなかった。
ヴェルヴェデーレとは‘美しい眺め’と言う意味です。
宮殿裏からの眺めはその名に相応しく 大変美しい。





コノピシュチェ

この城がフランツ・フェルディナンドとゾフィー夫妻が本来の居城として選んだ城です。
皇太子夫妻はとても冷たいウィーンでの生活を避け この狩猟の城で出来るだけ自由な日々を多く持ちたかったのでしょう。
ルドルフとフェルディナンドには共通点もあったが正反対のところが有った。
ルドルフは知性的で自由主義者、フェルディナンドはルドルフほどの教養も知性も無かった そして保守的であった。
皇帝はあくまでも皇帝が政治的にも全てにおいて権限を有しており、威厳と寛容とを統合した皇帝の姿を誇示したかったのであるが、時代の、変革の波はそこまで押し寄せてきていた。
1914年年老いた皇帝の代わりにボスニアのサラエボを訪問した際に、悲劇は起こった。フェルディナンドはウィーンの宮廷で小さくなっているゾフィーを軟禁状態から外へ連れ出してやりたかったのもあって、ゾフィーを伴ってのはじめての公式訪問をはたした。しかし、市庁舎前から車に乗ったが 爆弾の投げ入れがあったので 夫妻は負傷者の見舞いに病院にいくことを希望した。暗殺団を警戒して、車は予定のコースを変更して走る予定だったが、運転手に予定の変更が伝わらず、予定のコースを走り出した。市長があわてて運転手にコースの変更を告げた。運転手は狼狽し、急いで道を曲がるのに車を徐行させた。
暗殺団の「黒手組」の青年たちは、一目皇太子夫妻を見ようと沿道に群がる市民の中に紛れ込んでいた。
皇太子夫妻の車が徐行して街角を曲がろうとしたとき、ボスニアの大学生プリンチップはポケットに忍ばせていたピストルを発砲。
最初の発砲でゾフィーが、そして次の弾丸がフェルディナンドの胸を貫いた。
皇太子夫妻の葬儀はヴェルデヴェーレ宮殿の礼拝堂で行われたが、皇帝や皇族の参列はなく、まるで密葬のようであった。
フェルディナンドの金の柩には初夏に咲くありとあらゆる花々が添えられていたが、ゾフィーの銀の柩には数輪の白いバラが手向けられていた。
花に付けられたリボンには「残された子供たちより」の文字があった・・・。
この暗殺事件の結果、世界で始めての世界大戦 第一次世界大戦が勃発した。



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旅の終りに
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いよいよ、今回の旅もそろそろ終りです。 
帰国の日が、明日に迫ってきました。 今回の旅の終りに選んだのは シシィが煩わしい宮廷生活から抜け出して しばしば 足しげく通ったハンガリーのブダペスト郊外にあるゲデレ宮です。



城


このシシィ お気に入りの離宮はオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後
第一次、第二次世界大戦を経て 社会主義体制下の中で 老人を収容する老人ホームとして使われた時期があった。
社会主義の体制化では文化財を厚く保護するという政策は取られなかった。しかし、1980年代末に入ってソビエト連邦のペレストロイカの影響で無血革命が進行。現在では 自由主義の道を歩むようになり 
人々の文化財に対する考え方も見直されてきた。
このゲデレ宮も観光の名所として修復が進んできてはいるが、今現在でも 宮の裏側は共産党政権下の時とほとんど変わらない状態である。
完全に修復されるまでに、まだまだ長い時間と費用が必要なようである。
宮内は撮影禁止となっています。





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