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【訪問日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 世界遺産/国宝 富岡製糸場 革新しつづける、未来をつくる TOMIOKA –ism 遠くに雄大な浅間山をのぞみ、手前に妙義山の荒々しい奇岩がせまる風光明媚な地、富岡。昔から養蚕が盛んだったこの地に、明治5年、生糸輸出に近代国家建設への活路を見出した政府は、西洋の先進技術を導入して器械製糸のモデル工場を設立します。その一翼を担った工女たち。近代的な大工場で働くという女性の新しいライフスタイルの始まりでした。 民営化後、経営のバトンを引き継いだ人々は誇りと気概を持ち、ひたすら質の良い生糸を能率よく大量生産するために革新を続けます。 世界の絹文化へ多大な影響を与えた日本の製糸業。富岡製糸場はそのシンボルとして、その歴史と価値を語りかけます。 世界遺産となった富岡製糸場。世界の宝を後世へ引きつぐ大事な役割を、今のわたしたちは託されています。多くの来訪者に支えられながら、未来に向けた先人たちの活力を感じながら、そのチャレンジは続きます。 富岡製糸場は昭和62年(1987年)操業を停止した後、平成17年(2005年)7月に敷地が国の史跡に、そして翌年平成18年(2006年)7月には創業当初期の建造物が国の重要文化財に指定されました。重要文化財のうち繰糸所、東置繭所、西置繭所の3棟は平成26年(2014年)12月に国宝となりました。現在は富岡市が所有・管理を行っています。 ※ 国宝 東置繭所 2階に乾燥させた繭を貯蔵し、1階は事務所・作業場として使っていました。長さおよそ104mにもおよぶ巨大な繭倉庫です。来訪者を最初に迎える木骨煉瓦造の建物で、アーチ中央の要石には創業年「明治五年」が刻まれており、フォトスポットの一つになっています。建物の中にはシルクギャラリーやショップもございます。※ ガイドツアーに参加しました※ 国宝 繰糸所 繭から糸を取る作業が行われていた建物です。長さ約140mの巨大な工場で、創設時にフランスから導入した金属製の繰糸器300釜が設置され、世界最大規模の器械製糸工場でした。小屋組みにトラス構造を用いることで建物の中央に柱のない大空間を作り出すことが出来ました。※ 国宝 西置繭所 創業時に東置繭所と対で建てられた繭倉庫。建物の歴史と価値を保存し、かつ積極的に公開活用するための保存整備工事を2020年に終了。1階には耐震補強用の鉄骨を活用したガラスの部屋が設けられ、資料展示室や多目的ホールなどが整備されました。ホールは様々なイベント開催に活用されています。 〈富岡製糸場(群馬県富岡市富岡60)〉
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 昭和9年11月、国家的行事であった陸軍特別大演習が、群馬県内で挙行されました。その折、天皇陛下が貫前神社を参拝され、これを契機に敬神崇祖精神高揚事業期成会という組織が設立されました。 昭和11年3月、期成会が中心となり、青年男女の精神修養を目的とした「東國敬神道場」が建設されました。総工費は、81,952円95銭(現在の価格で10億円前後)、全額県民の寄附でした。 完成後は群馬県が管轄し、昭和20年の終戦以降は、施設の名称や役割を変えながら、社会教育や研修、各種講座などに使われ、平成17年4月からは、富岡市が管理運営しています。 平成20年7月、歴史的・文化財的・建築学的価値を有していることから、国の登録有形文化財に登録されました。 ※ 富岡市社会教育館 〈富岡市社会教育館(群馬県富岡市一ノ宮1465-1 )〉
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 高崎市南東部の綿貫という所に、観音山古墳という前方後円墳と呼ばれる形の長さ100メートルにも及ぶお墓があります。これは今から約1,400年以上前の6世紀後半に造られたものです。現在の高崎市を中心とした地域を支配した人のお墓です。 石室内部の天井の石は、十数キロ離れた藤岡市金井地区等で産出する牛伏砂岩の巨石(最大の石は重さ22トン)を6つ使っています。石を切り出した後どのようにこの巨石を運んだのか想像してみましょう。舟を使い、そりで引き上げたと思われますが、それにしても大変な作業だったと思います。壁石は榛名山の火山岩を使用しています。 石室は、入り口部分の狭い通路と奥の幅の広い遺体を置く場所である玄室があります。石室の全長は約12.6メートル、玄室の長さが約8.2メートル、幅3.8メートル、高さ2.3メートルで、県内の玄室では最大の大きさです。 この石室を発見した時、発掘調査を担当した人たちの興奮はすごいものでした。それというのも、古墳の石室は大抵既に掘られていて、中に納められていたはずの物は盗まれている場合がほとんどです。ところが、幸運にもこの古墳の石室は、崩れていたため墓盗人が掘り出すことができず、当時お墓の主のために納められていた品々がそっくりそのまま出土しました。このようなことは、全国的にも極めて稀なことです。 ※ 史跡 観音山古墳 〈史跡 観音山古墳(群馬県高崎市綿貫町1752)
2024年05月02日
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【見た日:2024年(令和6年)4月10日(水)】 ※ 公式HPより さいたま市指定有形文化財「旧坂東家住宅」を、建築当初の位置に解体復原し博物館として利用しています。生きている民家をテーマに、季節の行事の再現とその公開、建物を利用した様々な展示やイベント等を行っています。敷地には斜面林が隣接し、加田屋新田が望め、かつての見沼田んぼの風景を見ることができます。 旧坂東家住宅は片柳の加田屋新田を開発した、坂東家の旧宅をほぼ同じ位置に復原したものです。 寄棟造り、茅葺の建物で、建坪は87坪(約286平方メートル)。江戸時代の末、安政4年(1857年)の建立で、式台を持つ格式の高い住宅です。 旧坂東家住宅は3時期にわたって造られたと考えられており、床上部分が安政4年の建立であることが柱のほぞ穴の墨書により判明しています。土間部分の建立はこれより古く、中二階を持つ建物背面に突出した八畳の部屋が一番新しいものとされていますが、建築年代にあまり大きな差はないと考えられています。 向かって右手の土間は建物の間口約半分を占め、土間部分は壁により「うまや」、「おとこべや」、「みそべや」等の部屋に仕切られており、「うまや」の部分は南側に張り出しています。床上部分の「おくざしき」から続いて「かって」とよばれる板の間があり、土間側に囲炉裏が設置されています。 床上部分は六間取りで「おくざしき」の南側には「おもて」があり、「おくざしき」から続く中二階を持つ「はちじょう」が建物北側に突き出しています。次に「ざしき」と「げんかん」があり、「げんかん」には身分の高い人を迎える式台がついています。西側は「おく」、「おくでい」と呼ばれる部屋で、「おくでい」には床の間と付書院があります。西側の「ろうか」の奥には湯殿と便所を設けています。 このように、旧坂東家住宅はこの地の名主の屋敷としての規模と格式を備えた家となっています。 ※ 旧坂東家住宅見沼くらしっく館(埼玉県さいたま市見沼区片柳1266-2)※ 茅葺屋根※ 破風飾り※ おしゃもじ様※ 八丁注連(はっちょうじめ)※ 大好物、力石※ 現家主の蔵 〈旧坂東家住宅見沼くらしっく館(埼玉県さいたま市見沼区片柳1266-2)〉
2024年04月10日
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【拝観日:2024年(令和6年)4月7日(日)】 たまたま通りかかったら ※ 観音様の御開帳※ 薬師如来? 〈観音様の御開帳〈増森公民館(埼玉県越谷市増森1775)〉
2024年04月07日
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【通りかかった日:2024年(令和6年)3月2日(土)】 ※ 公式HPより 7世紀後半から12世紀後半、大宰府は行政機関として九州を統括し、西の都としての役割を果たしました。地理的に日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口としても機能したことから、重要な政治の中核として大宰府の中心地に政庁が建設されたのです。 長い時を経て政庁の建物は失われていますが、古い建築基礎は今も遺されており、現在は史跡公園として親しまれています。公園の入り口からほど近い「大宰府展示館」では、考古資料の展示をはじめ、西の都・大宰府の歴史と文化を紹介しています。 ※ 大宰府政庁跡 〈大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)〉
2024年03月02日
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【参加した日:2024年(令和6年)2月12日(月・振替休日)】 お勉強になりました! ※ 講座「利根川の河道変遷から見た越谷」〈 越谷市市民活動支援センター(埼玉県越谷市弥生町16-1 )〉
2024年02月12日
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【見た日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 日光街道に西面して建つ「店舗」は、二階建てで、一階は張り出した庇(ひさし)部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場(ちょうば)を設け、二階は畳敷きの座敷となっています。 「店舗」の後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と、明治初期の建造と伝える「外蔵」が建ち、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋の景観を残しています。 「国土の歴史的景観に寄与しているもの」と認められ、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ※ 国登録有形文化財 藤城家住宅店舗 〈国登録有形文化財 藤城家住宅店舗(埼玉県草加市高砂2-19-3)
2024年01月18日
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【歩いた日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 日光街道2番目の宿場町。草加宿の北側に位置する綾瀬川右岸沿い約1.5kmの松並木は「草加松原」と呼ばれ、紀行文『おくのほそ道』で松尾芭蕉が歩いた街道だと伝えられています。現在では遊歩道になっており、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に指定されています。札場河岸公園内にある芭蕉のブロンズ像は、1989年におくのほそ道旅立ち300年を記念して建てられたものです。 江戸時代末期の町屋建築「旧久野家店舗」を活用した「草加宿神明庵」は、草加宿を訪れた人たちや草加市民のためのお休み処として、いまでは地域の集いの場になっています。 ※ 日光街道 草加宿 〈日光街道 草加宿(埼玉県草加市)〉
2024年01月18日
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【見た日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 旧草加宿の北端近くで、街道に東面して建つ久野家の店舗です。木造瓦ぶきで、二階の軒先は腕木(うでき)を突き出し、その先端で桁(けた)を支える出桁(だしげた)造りとなっています。関東大震災などで被災しているものの、正面入り口の柱の側面や上部の庇(ひさし)には、揚戸(あげど)の痕跡も認められます。草加宿の町屋建築の正面外観の姿を今に伝える貴重な遺構であり、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」と認められ、国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ※ 久野家住宅店舗 〈国登録有形文化財 久野家住宅店舗(埼玉県草加市神明1-35)
2024年01月18日
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【見た日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点 ※ 神明宮鳥居踏石(礎石)の高低測量測量几(き)号 〈神明神社(市神・神明宮)(埼玉県草加市神明1-6-6)〉
2024年01月18日
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【訪問日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ おせん公園 〈おせん公園(埼玉県草加市)〉
2024年01月18日
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【見た日:2024年(令和6年)1月8日(月・成人の日)】 太平洋戦争末期に急造され、新和飛行場(にいわひこうじょう)、荻島飛行場(おぎしまひこうじょう)、論田飛行場(ろんでんひこうじょう)などとも呼ばれました。 ※ 大日本帝国陸軍東部軍越谷飛行場(コンクリート台)※ 格納庫の一部?※ 排水溝(暗渠))※ 滑走路※ 新堀池(土砂を採取してできた池)
2024年01月08日
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【参加した日:2023年(令和5年)12月22日(金)】 ※ 令和5年度荻島公民館主催事業 越谷の歴史・文化を学ぶ講座「荻島飛行場」 〈越谷市荻島地区センター・公民館(埼玉県越谷市南荻島190-1)〉
2023年12月22日
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【参加した日:2023年(令和5年)12月10日(日)】 ※ 講座「河川が造った越谷市の地形の歴史と暗橋」
2023年12月10日
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【訪問日:2023年(令和5年)11月22日(水)】 ※ 小渕湖畔砂丘 〈小渕湖畔砂丘(埼玉県春日部市小渕2105-23)〉
2023年11月22日
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【見た日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 旧日光街道東往還関宿多功道
2023年10月19日
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【見た日:2023年(令和5年)10月15日(日)】 昭和24年7月、その年6月に発足した国鉄の初代総裁「下山定則」が朝の出勤時に失踪、翌日常磐線の線路上で轢死体で発見されました。 ※ 下山国鉄総裁追悼碑 〈下山国鉄総裁追悼碑(東京都足立区西綾瀬1-3-3)〉
2023年10月15日
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【見た日:2023年(令和5年)10月7日(土)】 ※ 公式HPより この辺りは江戸時代、渡船場でした。明治時代に橋がかけられ、渡り賃が十文でした。春日部駅方向から橋を渡り約20メートル先左手に、十文渡し跡の碑があります。 ※ 十文渡し跡
2023年10月07日
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【見た日:2023年(令和5年)10月6日(金)】 ※ 越谷市大吉の水田に墜落した旧陸軍戦闘機
2023年10月06日
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足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。 【訪問日:2023年(令和5年)9月28日(木)】 ※ 公式HPより 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。 足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。 江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復元完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。 ※ 足利学校 〈足利学校(栃木県足利市昌平町2338)〉
2023年09月28日
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【見た日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 足利学校 〈足利学校(栃木県足利市昌平町2338)〉
2023年09月27日
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【見た日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 征夷大将軍足利尊氏公像
2023年09月27日
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【見た日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 八幡山古墳群(はちまんやまこふんぐん)は、山辺小学校の裏の八幡山と呼ばれる小高い丘の尾根や斜面に造られた古墳時代後期(6世紀後半~7世紀代)の群集墳です。 71基が指定されていますが、八幡山の北の方にある坊主山の斜面や、南の八幡宮辺りまで含めると、かつては100基以上の古墳があったと考えられます。 古墳は直径10~20mくらいの円墳で、亡くなった人を納める横穴式石室(せきしつ)をつくり、墳丘には葺石を敷きつめ、埴輪を立てていたものもあります。 1つの丘陵に古墳が密集してつくられ、その多くが現在でも壊されることなく残っており、古墳時代後期の群集墳の形態を示す好資料として貴重です。 ※ 八幡山古墳群 〈八幡山古墳群(群馬県足利市八幡町1-24-2)〉
2023年09月27日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 天神山古墳は男体山(なんたいさん)古墳ともよばれ、東武伊勢崎線太田駅の東方約1kmの平地にあります。墳丘の長さは210mで、東日本では最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳です。 墳丘の周りには二重に堀が巡らされ、北東には天神山古墳に付属する小古墳(陪塚)も造られています。江戸時代には、棺(ひつぎ)として使われた大型の長持形石棺が発見されました。これまでに円筒埴輪のほか、家、楯、鶏や水鳥(白鳥)の形象埴輪も発見されています。埴輪は墳丘上のほか、中堤帯の一部にも立てられていた事もわかっています。古墳が造られた時期は埴輪の特長などから5世紀前半と推定されます。大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされていますが、ほかの説もあり明らかではありません。 ※ 天神山古墳 〈天神山古墳(群馬県太田市内ケ島町1606-1)〉
2023年09月27日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 百里原海軍航空隊門柱跡
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 公式HPより 江戸時代、石岡市には徳川光圀の弟である松平頼隆を藩祖とする府中藩が置かれました。 府中藩は御三家・水戸藩の御連枝として格式が高く、藩主は江戸に常駐していました。代わりに地元で政務をとるために設置されたいわば役所が「陣屋」です。 陣屋門は9代藩主松平頼縄のとき、文政11年(1828)江戸小石川の藩邸を新築した際に余った材木を使い建築したものです。主として欅(けやき)材を用いていますが、樟(くすのき)を使用した部分もあります。 この門は石岡小学校の校門となっていましたが昭和44年学校敷地内に移転され、平成26年市民の要望に応えて現在地へ移されました。 ※ 石岡の陣屋門 〈石岡の陣屋門(茨城県石岡市総社1-420)〉
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】※ 志筑城移築陣屋門 〈志筑城移築陣屋門(茨城県かすみがうら市中志筑)〉
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 もちろん水戸街道沿い ※ 公式HPより 水戸街道に置かれた一里塚のひとつで、江戸時代初めにつくられたものと考えられています。当時、街道には、一里(約4km)毎に道路の左右に塚が築かれ、榎が植えられて旅人の便に供されていました。水戸街道で現在のこる一里塚は、石岡市杉並の一里塚と本一里塚のみで、ともに茨城県指定文化財となっています。 現在、一里塚は常磐自動車道千代田石岡インター入口と6号国道の間にあり、塚の規模も当時のままよく残されています。 ※ 千代田の一里塚 〈千代田の一里塚(茨城県かすみがうら市西野寺848)〉
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 もちろん水戸街道沿い ※ 中貫宿本陣 〈中貫宿本陣(茨城県土浦市中貫1922番地)〉
2023年08月22日
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【訪問日:2023年(令和5年)6月30日(金)】 ※ 新山2号墳 〈新山2号墳(埼玉県坂戸市清水町16-3)〉
2023年06月30日
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【訪問日:2023年(令和5年)6月30日(金)】 ※ 新山古墳群 〈新山古墳群(埼玉県坂戸市清水町11)〉
2023年06月30日
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【訪問日:2023年(令和5年)6月26日(月)】
2023年06月26日
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【訪問日:2023年(令和5年)6月26日(月)】 ※ 公式HPより カトリック松が峰教会は、栃木県宇都宮市の中心地に位置する、 大谷石造りの聖堂が印象的なローマ・カトリックの教会です。 教会では、毎日曜日「ミサ(日曜礼拝)」が捧げられ、 信仰と祈りを求められる方であるならどなたでも歓迎致します。 ぜひ一度おいでください。 ※ カトリック松が峰教会 〈カトリック松が峰教会(栃木県宇都宮市松が峰1-1-5)〉
2023年06月26日
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【拝受日:2023年(令和5年)5月20日(土)】 ※ ペット御守 〈今戸神社(東京都台東区今戸1-5-22)〉
2023年05月21日
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【訪問日:2023年(令和5年)5月20日(土)】 かつての吉原遊廓への入り口 ※ 吉原大門跡
2023年05月20日
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【見た日:2023年(令和5年)5月20日(土)】 ※ 公式HPより 現在の浅草7丁目から三ノ輪を結んでいた堤。隅田川出水による被害を防ぐために、幕府が築いた。山谷から聖天町にかけて別の堤があり、合わせて二本堤といい、そこから日本堤と呼ばれるようになった。 ※ 日本堤
2023年05月20日
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【見た日:2023年(令和5年)4月12日(水)】 水害が起こらないように ※ 石仏 大威徳明王(だいいとくみょうおう) 〈石仏 大威徳明王(だいいとくみょうおう)(埼玉県吉川市加藤)〉
2023年04月12日
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【参拝日:2023年(令和5年)3月20日(月)】 ※ 公式HPより 開創 延暦十年 西暦791年 坂上田村麻呂将軍、八幡太郎義家再建 本尊 聖観世音菩薩、聖徳太子一刀三禮御作 開山 観月徹禪大和尚(前永平宗慶4世中興・總泉17世中興兼最乗258世) 江戸時代「下谷の三寺」として下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に、箕輪の圓通寺として、有名であった。 百観音というのは当寺の通称で門前に(秩父・板東・西國)の観音像を安置した観音堂が有ったからである。ただし安政2年の大地震にて倒壊、現在三十三体が本堂に安置されている。 当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。 また、慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。 これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。 「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、火葬場所で墓では無い)遺骸266体を当寺に埋葬する。 ※ 彰義隊士の墓※ 曹洞禅宗 円通寺 〈曹洞禅宗 円通寺:東京都荒川区南千住1-59-11〉
2023年03月20日
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【見た日:2023年(令和5年)3月20日(月)】 ※ 公式HPより 当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。 また、慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。 これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。 「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、火葬場所で墓では無い)遺骸266体を当寺に埋葬する。 ※ 旧上野の黒門 ※ 曹洞禅宗 円通寺 〈旧上野の黒門:曹洞禅宗 円通寺(東京都荒川区南千住1-59-11)〉
2023年03月20日
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【見た日:2023年(令和5年)3月20日(月)】 ※ 公式HPより この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。 千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。 千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。 平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。平成22年10月 荒川区教育委員会 ※ 旧千住製絨所煉瓦塀(東京都荒川区) 〈荒川区登録有形文化財 旧千住製絨所煉瓦塀:東京都荒川区〉
2023年03月20日
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【見た日:2023年(令和5年)3月20日(月)】 ※ 公式HPより もともと回向院にあった「橋本左内の墓旧套堂」が荒川区に寄贈され、平成21年3月に荒川ふるさと文化館前に復元されました。 套堂(鞘堂と同意)とは、本体の建物などを保護するために、それを覆うように建てられるものです。この旧套堂は、昭和8年(1933)に橋本左内の墓を保護するために造られたもので、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った、近代仏教建築の例と言われています。幕末の安政の大獄で刑死した橋本左内(1834から1859)を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として明治35年に設立された景岳会によって建てられました。最近ではコンクリート造の仏教建築は珍しくありませんが、その最初期の現存例として、大変貴重なものです。 ※ 橋本左内の墓旧套(さや)堂 〈橋本左内の墓旧套(さや)堂:東京都荒川区南千住6-63-1〉
2023年03月20日
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【見た日:2023年(令和5年)3月20日(月)】 こち亀で出てきていた、東京スタジアム跡地 毎日大映オリオンズの本拠地 〈東京スタジアム跡地:東京都荒川区南千住6-45-1)
2023年03月20日
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【見た日:2023年(令和5年)2月7日(火)】 ※ 公式HPより 利根川の治水のために カスリン台風に因る異常な降雨を集めた利根川は昭和22年9月13日夜半この堤防を溢れ決潰しその濁流は延々と東京都を浸しました。昭和10年と16年にも大出水があり過去の改修工事では、利根川を守りきれない事が明らかになったにも拘らず戦争の噪音にまぎれて治水を怠ったからであります。敗戦後の乏しい国力と変動する社会情勢の下にあって利根川の復舊と増補に苦しんだ我々はこの国土に住む限り治水を疎かにしてはならないことを痛感し沿岸の方々と我々に続く河川工事関係者に不断の努力を切望致します。 ※ 決壊口跡 〈決壊口跡:埼玉県加須市新川通(カスリーン公園)〉
2023年02月07日
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【訪問日:2022年(令和4年)11月14日(月)】
2022年11月14日
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【訪問日:2022年(令和4年)11月14日(月)】 ※ 公式HPより 秩父神社大祭の神幸祭は、12月3日この御旅所中心に行われる。重要有形民俗文化財秩父祭屋台が曳きそろえられるのもこの御旅所である。 この御旅所の由来は詳でないが、記録によれば神幸祭に供奉する屋台は寛文年間(1661-72)とあることから、その頃のものと思われ、亀の子石は、江戸末期まで秩父神社が妙見宮といわれ、妙見信仰に由来する。 ※ 秩父神社大祭御旅所(埼玉県秩父市) 秩父神社大祭御旅所(埼玉県秩父市野木町 秩父公園内)
2022年11月14日
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【作って食べた日:2022年(令和4年)11月12日(土)】 今日は、いつもの冷蔵庫の残りご飯シリーズではなくて、炊飯器の12時間経過したご飯で
2022年11月12日
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【見た日:2022年(令和4年)11月6日(日)】 こんな仏像、でてきました。
2022年11月06日
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【参拝日:2022年(令和4年)10月9日(日)】 草加宿を開宿した大川図書 ※ 大川図書の墓 〈大川図書の墓:東福寺 埼玉県草加市神明1-3-43〉
2022年10月09日
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【見た日:2022年(令和4年)9月29日(木)】 武蔵御嶽神社の神主・御師の営む宿坊・茶処です。茅葺屋根が目印の建物は江戸末期の慶応二年(1886年)に建立、「馬場家御師住宅」として東京都指定有形文化財に登録されております。歴史にふれ、自然にふれ、ぬくもりにふれ、どうぞごゆっくりとおくつろぎください。 ※ 東京都指定有形文化財 馬場家御師住宅 〈東京都指定有形文化財 馬場家御師住宅:東京都青梅市御岳山54〉
2022年09月29日
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