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【見た日:2024年(令和6年)2月16日(金)】 ※ 道庭城跡 〈道庭城跡(埼玉県三郷市半田)〉
2024年02月16日
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【訪問日:2024年(令和6年)1月29日(月)】 中世の平山城 ※ 中城跡 〈中城跡(埼玉県小川町大塚338)〉
2024年01月29日
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【見た日:2024年(令和6年)1月29日(月)】 ※ 高谷砦跡 〈高谷砦跡(埼玉県小川町高谷1423)〉
2024年01月29日
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【訪問日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 公式HPより 逆井城は今から400年以上前の戦国時代末期(1577年)に後北条氏の北関東進出拠点として築城されました。1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼしたため、逆井城も廃城になりましたが、現在もその外堀と土塁が残っています。調査によって、櫓(やぐら)門、橋、塀、主殿、二層櫓などが復元され、戦国時代にタイムスリップできる公園になっています。また、園内には四季折々の花が咲き、広々とした風景の中、ゆったりと散策を楽しむことができます。 ※ 逆井城跡 〈逆井城跡(茨城県坂東市逆井1262)〉
2023年12月15日
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【訪問日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 公式HPより 長井戸城跡は、境町長井戸の長井戸香取神社境内にある城跡です。南に土橋・折れのある空堀、東側道路に沿って土塁・空堀が良好に残り、北側にも土塁が残っています。長井戸城は、天文年間(1532~55年)に小山氏に属した菅谷左京という武士の居城であったと伝えられていいます。天文二十三年(1554年)小山氏の攻撃を受け降伏し、その小山氏も天正四年(1576年)北条氏に攻略されました。翌、天正五年北条氏は逆井城を築城し下野と常陸進出への前線拠点としています。長井戸城は、小山城から逆井城を結ぶ中継点として機能していたと考えられます。天正十八年(1590年)北条氏が滅び、その後廃城となっています。 ※ 長井戸城跡 〈長井戸城跡(茨城県境町長井戸991)〉
2023年12月15日
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【見た日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 公式HPより 関宿城の三の丸に設置されていた門のひとつで、明治維新後の廃城に伴い民間へ払い下げられ、現在の場所へ移築されました。門の鬼瓦には江戸時代中期から明治維新まで関宿藩主を務めた久世氏の家紋「久世鷹の羽」があしらわれています。 平成12年に野田市(旧関宿町)の『有形文化財』に指定されました。 ※ 関宿城埋門(うずめもん) 〈関宿城埋門(うずめもん)(千葉県野田市東高野94)〉
2023年10月19日
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【見た日:2023年(令和5年)10月14日(土)】 ※ 公式HPより 江戸時代半ば、8代将軍徳川吉宗の時代に、鷹狩の際の休憩所として小菅御殿が設けられた。9代将軍家重が多く利用した。小菅御殿の跡地には、現在、東京拘置所が置かれている。敷地内にある旧小菅御殿石燈籠(区登録文化財)が当時の面影を残している。 ※ 小菅御殿跡 〈小菅御殿跡(東京都葛飾区小菅1-35-1)〉
2023年10月15日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月28日(木)】 日本100名城 足利氏の居城。邸内に氏寺として鑁阿寺が造営された。水掘りと土塁に囲まれています。 ※ 足利氏館〈鑁阿寺(ばんなじ) 〈足利氏館(鑁阿寺(ばんなじ))(栃木県足利市家富町2220)〉
2023年09月28日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 金山城は、戦国時代に造られた城で、金山全体の自然地形を利用して造られた「山城」という種類の城です。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されています。 山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定を受けました。 太田市と太田市教育委員会では、平成4年度(1992)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした、遺構の保存整備事業を実施して参りました。また、平成18年(2006)には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されています。 名称 金山城跡(かなやまじょうあと) 指定区分 国指定史跡 所在地 群馬県太田市金山町40-106ほか 指定年月日 昭和9年(1934)12月28日 平成14年(2002)9月20日追加指定 指定面積 97.8ヘクタール 当初の指定範囲は、金山の山頂を中心とする実城から西城までの尾根部分の18.3ヘクタール。追加指定範囲は、北城(坂中)・八王子山の砦・大手筋の士屋敷等を含む79.5ヘクタール。 時代 築城 文明元年(1469) 廃城 天正18年(1590) 歴代城主 新田岩松氏、横瀬・由良氏、小田原北条氏 特徴 標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山ノ砦の4箇所ですが、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。 ※ 金山城跡 〈金山城跡(群馬県太田市金山町40-106)〉
2023年09月27日
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【訪問日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 唐沢山城跡は、栃木県南部の唐沢山一帯に広がり、山頂本丸の標高は242メートルを有します。山麓(さんろく)に広がる根小屋(ねごや)地区との標高差は約180メートルです。築城の時期については、下野の藤姓足利氏が「佐野庄」を統治、鎌倉時代に入り佐野氏としての勢力を拡大しつつ、その後、群雄割拠の時代的背景の中、山城を築き上げていったものだと考えられています。 ※ 唐沢山城跡 〈唐沢山城跡(栃木県佐野市富士町1409)〉
2023年09月27日
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【訪問日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 小川城跡 〈小川城跡(茨城県小美玉市小川1649)〉
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 公式HPより 鎌倉時代、志筑郷の地頭であった下河辺氏(後の益戸氏)によって築城されたと伝えられています。六代国行の南北朝争乱では南朝方に与し、北朝方である府中城の大掾高幹と戦いました。しかし、興国2年(1341)6月に北朝の高師直の軍に攻撃を受けて落城したと伝わります。 鎌倉時代の志筑城があった場所については、江戸時代より、上志筑の権現山と、中志筑の旧志筑小学校跡の場所に考えが分かれていましたが、昭和10年に旧志筑小学校跡の場所が県指定史跡になりました。この旧志筑小学校跡は、正保2年(1645)に旗本である本堂家の陣屋が置かれたところです。 ※ 志築城跡 志築城跡(茨城県かすみがうら市中志筑1037)
2023年08月22日
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【見た日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 公式HPより 中佐谷の台地が東南にのびた突端にあり、その南側に天の川、北東部に御館川が流れて城跡の東南端で合流する要害の地です。今は、北部に高さ1m足らずの土塁を残すのみですが、現在も「城山」の地名で呼ばれています。 正元年間(1259~1260)、常陸大掾資幹の孫に当たる佐野郷の地頭佐谷左衛門尉実幹の築城と伝えられ、当時は佐谷城と称しました。 慶長7年(1602)から約40年間、志筑領主本堂氏が居住し笠松城としました。 ※ 笠松城跡 〈笠松城跡(茨城県かすみがうら市中佐谷468)
2023年08月22日
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【訪問日:2023年(令和5年)6月26日(月)】 ※ 公式HPより 宇都宮城の歴史 宇都宮城のはじまり(平安時代後期) 宇都宮城を築いたのは、藤原秀郷とも藤原宗円とも言われており、時代は平安時代後期と考えられています。 鎌倉時代から戦国時代 中世(鎌倉時代から戦国時代)の城主であった宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力な御家人であるとともに、京都ともつながりが深く、5代頼綱(よりつな)(蓮生・れんしょう)は百人一首の成立にも深くかかわっていました。 日本中が戦乱に巻き込まれた南北朝時代から戦国時代、このころの宇都宮城は敵の攻撃に備えるため、堀と土塁を幾重にもめぐらせた守りの堅い城になっていきました。 宇都宮城をめぐっての戦いも行なわれ、城下町が焼かれたこともありました。 江戸時代 約500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、近世(江戸時代)には譜代大名の居城となりました。その中でも本多正純(ほんだまさずみ)は、城と城下町の大改造を行い、今日の宇都宮の中心市街地の骨格を作り上げたと言われています。 将軍が日光にお参りする日光社参(にっこうしゃさん)。宇都宮城は将軍の宿泊場所となり、本丸には将軍のための御成御殿(おなりごてん)が建てられました。日光社参は幕府の威信をかけた大事業であり、城も城下町も大変なにぎわいだったと言われています。 戊辰戦争以降 宇都宮城は1868年の戊辰(ぼしん)戦争で建物の大半が焼失しました。堀も次第に埋められて、当時の面影をしのぶものはほとんどなくなりました。 ※ 宇都宮城【訪問日:2023年(令和5年)6月25日(日)】※ 市役所から望む
2023年06月26日
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【訪問日:2023年(令和5年)5月20日(土)】 このへんにあったらしいです。 〈石浜城(東京都荒川区南千住3-28-58)〉
2023年05月20日
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【訪問日:2023年(令和5年)2月7日(火)】 ※ 羽生城址 〈羽生城址:埼玉県羽生市東5-7-1〉
2023年02月07日
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【見た日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 ※ 公式HPより 15~16世紀に信濃出身の豪族・屋代氏の一族が構えた城郭の一部であり、「土塁」とは、外敵から城を防御するために造られた土の城壁(土手)の一種である。 屋代城址は市内でも屈指の大規模遺跡であったが、ニュータウン開発に伴う埋蔵文化財の発掘調査終了後、その大部分が消滅してしまった。 しかし、この5号土塁は,城が存在していた当時の状態を非常によく留めていたため、茨城県や市の協議により破壊せず、城ノ内中学校の敷地内に保存したという経緯がある。 学校敷地内にあるため,通常は一般公開しておりません。 ※ 屋代城址5号土塁 〈屋代城址5号土塁:茨城県竜ケ崎市龍ケ崎市城ノ内5-3 龍ケ崎市立城ノ内中学校〉
2022年12月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 ※ 公式HPより 種別:史跡 指定年月日:昭和15年4月5日 所在地:龍ケ崎市馴馬町2507番地 管理者:個人 馴馬城趾は、常磐線龍ケ崎市駅の南東約3キロメートルの台地上にある。牛久方面から南南東に延びる台地の先端は、この付近で沢(山王久保)を挟んで二股に分かれているが、その南側の比較的細い台地を利用して城が作られていたと思われる。 文献史料によると、この城趾が南北朝時代の康永3年(興国5・1344年)に南朝方の春日顕国がたてこもった「馴馬沼田城(=馴馬城)」に比定されている。この城は、北朝方の宍戸朝里により政略されている。また、これより先、暦応4年(興国2・1341年)秋の北朝方の攻勢の際に、南朝方が「河内郡馴馬楯(=馴馬城)」を「引退」したことが史料からわかる。このことからも、馴馬城は、少なくとも二度、南朝方が拠点にしたと思われる。 馴馬城は、基本的には舌状台地の先端を掘切で区切るという類型的な構造をしている。ただ中心部が破壊されていることもあって、遺構が明瞭ではないが、現存する部分を見るかぎり、形式的な新しさが感じられず、その点で南北朝の姿を留めているといえる。 ※ 馴馬城跡 〈馴馬城跡:茨城県龍ケ崎市馴馬町2507)
2022年12月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 こっちも、なかなか、いい感じ 〈岡見城:茨城県牛久市牛久市岡見町1579-2〉
2022年12月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)12月16日(金)】 なかなか、いい感じ ※ 牛久城 〈牛久城:茨城県牛久市城中町502〉
2022年12月16日
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【見た日:2022年(令和4年)9月27日(火)】 ※ 公式HPより上州道に通じる江戸城外郭門のひとつです。外濠に面した見附のなかでも、江戸の遺構がもっともよく残ります。1639(寛永16)年、徳島藩の初代藩主蜂須賀忠英らによって築かれました。解体された角石に、普請した忠英を指す「松平阿波守」の文字が発見されています。 ※ 牛込見附跡 〈牛込見附跡:東京都千代田区富士見2-9〉
2022年09月27日
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【見た日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 ※ 伝源経基館跡 〈伝源経基館跡:埼玉県鴻巣市大間942〉
2022年09月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)9月16日(金)】 どこが城跡かわかりません。 ※ 小谷城跡(こやじょうあと) 〈小谷城跡(こやじょうあと):埼玉県鴻巣市小谷 荒川堤防付近〉
2022年09月16日
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【訪問日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 ※ 花崎城跡 〈花崎城跡:埼玉県加須市加須市花崎2-24-6〉
2022年08月18日
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【訪問日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 さすがに城跡のこのあたりは、標高が高いらしい。 15.5mもある。 ※ 公式HPより 史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館でしたが、天守閣を持つ城として復元しました。 ※ 騎西城跡※ 本丸跡を望む 〈騎西城跡:埼玉県加須市根古屋633-2〉
2022年08月18日
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【訪問日:2022年(令和4年)8月18日(木)】 菖蒲城の支城 ※ 種垂城跡 〈種垂城跡:埼玉県加須市上種足456-2〉
2022年08月18日
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【訪問日:2022年(令和4年)7月14日(木)】 ※ 公式HPより 中世の浪漫とお茶の薫る史跡 国指定史跡の河越館跡は、平安時代末から南北朝時代にかけて武蔵国で有数の勢力を誇った武士である河越氏の居館跡です。この河越館の保存を図るとともに、郷土学習の場、市民の憩いの場として整備し平成21年11月15日に開園しました。 〈国指定史跡河越館跡(史跡公園):埼玉県川越市川越市上戸195-1〉
2022年07月14日
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【見た日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。 川越城は古賀公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防に備える為に、1457(長禄元)年に、太田道真・道灌父子によって築城されました。 江戸時代になると、江戸の北の守りとして、川越城は重視されました。 1639(寛永16)年、藩主となった松平信綱は、城の大規模改修を行い、近世城郭としての体裁を整えました。 整備された現在の中ノ門堀跡は、堀跡本体と見学広場の2つになります。 本体は、遺構保護の為に盛土して、構築当初の勾配を復元しました。 また、見学広場には、説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置しております。 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊された中で、中ノ門堀跡は旧城内に残る数少ない遺構です。 中ノ門堀は、西大手門(現在の川越市役所付近)から本丸(現在の初雁公園周辺)に向かう道筋を妨げるように設けられた堀の一つです。 右に左に屈曲する道を進むと、この中ノ門堀に突き当たります。堀は深さ7m、幅18mですが、西大手門側の勾配は30°、本丸側は60°と傾斜角度が異なるため、西大手門から入った侵入者には、堀が壁のように切り立って見えたことでしょう。 ※ 川越城 中ノ門跡 〈川越城 中ノ門跡:埼玉県川越市郭町1-8−6〉
2022年07月13日
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【訪問日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより 嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いた造りが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿である。 川越城は扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。その後寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備で、台地上先端に本丸・天神郭・北に二の丸・西に八幡郭・三の丸他の曲輪・本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪にもなった。 現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りである。 大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形(写真上)などがあり、当時の家老たちのやりとりに思いを馳せるのも楽しい。 川越城は、長禄元年(1457年)に、上杉持朝の家臣である太田道真・太田道灌父子が築いたといわれています。現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、一部として玄関・大広間・家老詰所が残っており、江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿です。 現在において、川越城の周囲をめぐる堀はほとんどが失われていますが、土地の窪みにその名残が残っています。 また、本丸御殿のほど近くには、かつて天守閣が無い川越城の天守閣代わりとして見張りや防戦の足場として活躍した富士見櫓の跡があり、数少ない川越城の名残として現存しています。 ※ 川越城 本丸御殿※ 修繕箇所(色の濃いところ) 〈川越城 本丸御殿:埼玉県川越市郭町2−13−1〉
2022年07月13日
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【訪問日:2022年(令和4年)7月13日(水)】 ※ 公式HPより かつて天守閣が無い川越城の天守閣代わりとして、見張りや防戦の足場として活躍した富士見櫓の跡地です。 数少ない川越城の遺構として現存しています。 跡地内には、御嶽神社、富士浅間神社、富士見稲荷神社が祀られています。 ※ 川越城 富士見櫓跡 〈川越城 富士見櫓跡:埼玉県川越市郭町2〉
2022年07月13日
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【見た日:2022年(令和4年)7月4日(月)】 この辺らしい 〈向畑城跡:埼玉県越谷市向畑〉
2022年07月04日
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【訪問日:2022年(令和4年)6月18日(土)】 ※ 公式HPより 江戸時代に築かれた土浦城址です。櫓門は城郭建築の遺構としては関東唯一のものであり、公園の象徴となっております。3月下旬から4月上旬には桜が咲き来場者を癒してくれます。 〈土浦城:茨城県土浦市中央1-13-48〉
2022年06月18日
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【見た日:2022年(令和4年)6月18日(土)】 ※ 公式HPより 宝篋山(ほうきょうざん)の南にある小田氏の築いた平城で、延元3年・暦応元年(1338) 10月、北畠親房(きたばたけちかふさ)の入城により一時関東地方における南朝方の中心となりました。 特に親房が小田城にいるときに『神皇正統記』を著し、南朝方の正統性を主張したことで有名です。 本丸跡は周囲に土塁跡が残り、堀に囲まれています。 そられの外側にもさらに曲輪(くるわ)・堀跡がめぐっています。 堀跡は水田などになっているものの、往時の規模をしのばせています。 現在も発掘調査が行われ、史跡公園整備事業が進められています。 ※ 小田城跡 〈小田城跡:茨城県つくば市小田2532-2〉
2022年06月18日
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【見た日:2022年(令和4年)6月16日(木)】 ※ 公式HPより 江戸時代初期に関東郡代伊奈忠治が築き、その後も長い間伊奈氏の拠点となった城跡です。77ヘクタールもの広大な土地に本丸、二の丸、家臣屋敷、菩提寺などがあったとされ、今も堀の跡などが残されています。近くには、イイナパーク川口(赤山歴史自然公園)があり、園内の歴史自然資料館では赤山陣屋の模型や伊奈氏の歴史を知ることができます。 〈赤山城跡:埼玉県川口市赤山766-2〉
2022年06月16日
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【遠くから眺めた日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 山道の登って行きましたが、途中で通行止めになったり、駐車場が満車で、そのまま下山(泣) 次回の課題となりました。 〈唐沢山城跡の遠景:栃木県佐野市〉
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 館林城跡(土橋門) 〈市指定史跡 館林城跡:群馬県館林市城町)
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 倚井(よりい)の陣屋(石川城)跡 〈倚井(よりい)の陣屋(石川城)跡:埼玉県加須市麦倉1189 北川辺西小内〉
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 古河城 獅子ヶ崎土塁 〈古河城 獅子ヶ崎土塁:茨城県古河市桜町1-35〉
2022年05月04日
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【見た日:2022年(令和4年)5月4日(水・みどりの日)】 ※ 古河城 諏訪曲輪跡 〈古河城 諏訪曲輪跡:茨城県古河市中央町3-10-56〉
2022年05月04日
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【訪問日:2022年(令和4年)4月26日(火)】 曲輪、土塁、堀切が遺っています。 〈花輪城跡:千葉県流山市下花輪字寺下1355(花輪城址公園)〉
2022年04月26日
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【訪問日:2021年(令和3年)11月14日(日)】 〈別府城跡:埼玉県熊谷市東別府778〉
2021年11月14日
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【見た日:2021年(令和3年)11月14日(日)】 ※ 公式HPより 忍城は、室町時代の文明年間(15世紀後半)にこの地を統一した成田氏によって築城されたと伝えられており、天正18年(1590)までの約100年間、初代城主の成田顕泰(あきやす)以降、親泰(ちかやす)、長泰(ながやす)、氏長(うじなが)の四代にわたり、成田氏の居城でした。 忍城が築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた低湿地で、小さな川が乱流し、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっており、そこに残る島や自然堤防を巧みに利用して築かれました。 そのため、難攻不落の名城と謳われ、戦国時代には上杉謙信による北条攻めや石田三成の水攻めなどにも屈しませんでした。特に、石田三成の水攻めでは… 天正18年(1590)3月、豊臣秀吉は関東平定のため、当時、関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将石田三成が軍勢を引き連れ忍城を包囲し、全長28kmにおよぶ堤を築き、利根川と荒川の流れを引き入れて水攻めにしました。しかし、城がなかなか沈まないため、これを見た人々は城が浮くからだと考え、「浮き城」としてその名を轟かせました。その後、堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城は小田原城降伏の後も持ちこたえていましたが、小田原城に篭城していた城主氏長の命により開城し、豊臣軍に引き渡されました。 同年、徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。以後江戸時代を通じて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。 寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備が進められました。元禄7年(1694)、孫の阿部正武(まさたけ)のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としての形が整いました。 文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(ただたか)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。 その後、廃藩置県と同時に廃城した忍城は明治6年(1873)に取り壊され、現在は土塁の一部が残っています。 現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたもので、行田市郷土博物館の展示室として、行田の歴史を語り継いでいます。 〈県指定記念物 忍城跡:埼玉県行田市本丸17-23〉
2021年11月14日
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【訪問日:2021年(令和3年)11月6日(土)】 ※ 公式HPより 難波田城(なんばたじょう)は、中世に富士見市を本拠に活躍した難波田氏の城館跡で、昭和36年、埼玉県旧跡に指定されました。荒川低地の一角に築かれた平城で、規模は5ヘクタール以上と推定されています。難波田城公園は、敷地面積約17000平方メートルの歴史公園で、この貴重な文化遺産を保存し活用することを目的にその一部を整備し、平成12年にオープンしました。 「城跡ゾーン」は、発掘調査の成果と古城図を基に、戦国時代の難波田城の曲輪や水堀、土塁が復原されています。水堀には花菖蒲や水蓮などの湿性植物が植栽されており、四季折々の景観が楽しめます。また、コイやメダカ、ドジョウなどの水棲動物が生息しています。 ※ 難波田城 本丸土塁 ※ 追手門(おうてもん) 城の正面入り口の門です。冠木門に屋根をかけた棟門という形式の門です。 ※ 本城門 本城の入口の門です。冠木門という形です。 〈難波田城跡:埼玉県富士見市下南畑〉
2021年11月06日
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【訪問日 2016年(平成28年)10月30日(日)】 過去の記録シリーズ 職場の旅行にて ※ 会津若松城 ※ 飯盛山を望む 〈会津若松城:福島県会津若松市追手町1-1〉
2021年10月30日
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【訪問日:2021年(令和3年)10月22日(金)】 ※ 公式HPより 深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で、城の周囲は堀で複雑に囲まれていたと考えられるが、当時の景観はほとんど見ることはできない。富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往時の姿をとどめるのみである。 富士浅間神社(智形神社)は、深谷上杉氏の祈願社であった。 ※ 深谷城外濠跡 〈深谷城:埼玉県深谷市本住町17〉
2021年10月22日
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【訪問日:2021年(令和3年)10月22日(金)】 ※ 公式HPより 鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一(なるせまさかず)・日下部定好(くさかべさだよし)が代官となり、この地を統治しました。 なお、鉢形城跡は「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」(平成12年、埼玉ふるさと自慢100選選定委員会・埼玉新聞社認定)、「日本100名城」<外部リンク>(平成18年、日本城郭協会認定)、「日本の歴史公園100選」(平成19年、都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会選定)、「日本の史跡101選」(平成19年、日本経済新聞社広告局選定)に選ばれています。 〈鉢形城:埼玉県寄居町鉢形2692-2〉
2021年10月22日
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【見た日:2021年(令和3年)10月21日(木)】 比企城館跡群、その4 ※ 公式HPより 松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年に県指定史跡となる。平成20年には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「松山城」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予松山城)・岡山県(備中松山城)に存在することから、他の松山城と区別して「武州松山城」「武蔵松山城」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。 松山城の築城は、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏による関東の動乱を背景に、扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。歴史的には、公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。 天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、そこには、扇谷・山内両上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。 ※ 国定指史跡 比企城館跡群 松山城跡 〈国定指史跡 比企城館跡群 松山城跡:埼玉県吉見町北吉見298〉
2021年10月21日
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【見た日:2021年(令和3年)10月21日(木)】 比企城館跡群、その3 ※ 公式HPより 源平の合戦や、その後の鎌倉時代に活躍した鎌倉時代の有力武士「畠山重忠」の館跡とされます。菅谷館については、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に畠山重忠が北条氏の策略によって命を落とす二俣川(横浜市)に向かう際、「男衾郡菅谷の館を出立する」という記事が見られます。しかし、現在見られる菅谷館跡の姿は300年後の戦国時代に築城された菅谷城であり、発掘調査でも当時の面影は見られません。 昭和48年に国の史跡に指定され、平成20年には松山城・小倉城・杉山城と共に「比企城館跡群菅谷館跡」として名称が変更されています。 都幾川の断崖に面した平城で、総面積は約13万平方メートル、東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖、その上に本郭が位置します。北側に二ノ郭、三ノ郭・西の郭がクモの巣の様に並ぶ輪郭式の縄張りとなっており、更に外側は自然の浸食谷によって何重にも守られています。また、虎口(郭の出入口)付近では、土塁と曲折によってくいちがいを設けるなどの防御の工夫がされています。 「続日本100名城」 平成29年4月6日選定※ 国定指史跡 比企城館跡群 菅谷館跡 〈国定指史跡 比企城館跡群 菅谷館跡:埼玉県嵐山町菅谷〉
2021年10月21日
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【訪問日:2021年(令和3年)10月21日(木)】 比企城館跡群その2 ※ 公式HPより 小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えています。 また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えています。 小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。 ※ 国定指史跡 比企城館跡群 小倉城跡 〈国定指史跡 比企城館跡群 小倉城跡:埼玉県ときがわ町田黒608〉
2021年10月21日
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【訪問日:2021年(令和3年)10月21日(木)】 比企城館跡群、その1 ※ 公式HPより 市野川を挟んで「鎌倉街道」を見下ろす山の頂に杉山城跡はあります。 戦国時代の山城で、約14万平方メートルという狭い範囲の中で、高低差を利用しながらおよそ10の郭を配置した縄張りです。本郭を中心に3方向へ郭を広げていきますが、塁線には折歪(おりひずみ)とよばれる敵方に対して見通しを悪くするための屈曲を多用し、虎口(郭の出入口)にはほぼ例外なく進入方向の側面から矢を射掛ける横矢が仕掛けられる等の防御施設が各所に見られます。 こうした高度な築城技術が高く評価され、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」といわれています。 その一方で、城主や築城年代については不明な点が多かった城跡でもあります。しかし、平成14年からの発掘調査によって戦国時代の中頃、関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による関東一帯を巻き込んだ抗争の時期に築城された城で、短期間で廃城となったことがわかってきました。また、文献史学からは古河公方の『足利高基書状写』により、1520年頃の「杉山の陣」の時代の城とされています。 平成20年には比企城館跡群として国指定史跡に指定され、研究者やお城好き、歴史ファンの方々が県外からも訪れる隠れた観光スポットとなっています。 「続日本100名城」 平成29年4月6日選定 ※ 国指定史跡 比企城館跡群 杉山城跡 〈国定指史跡 比企城館跡群 杉山城跡:埼玉県嵐山町杉山605〉
2021年10月21日
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