地球は暴走温室効果の瀬戸際

地球は暴走温室効果の瀬戸際

二章  その2

二章 破滅へと向かう人類とその生存システムその2

人口爆発

人類の誕生が四百万年前と推定されるが、人類が初めて十億人を突破したのは、千八百年代初期である。それが一世紀で二十億人になり、三十年で三十億人になった。それが一九六十年でそれが十五年で四十億人となり、九十五年に五十六億人を越えかつ毎年パキスタンの全人口にも匹敵する、八千五百万人の人口が毎年増え続けている。

世界の人口増加率は七十年代に入って下がり始めたが、中東諸国とアフリカだけは依然として人口の増加は衰える気配さえ見せいない。アフリカ諸国の平均で三・一%の増加率を示している。最近ではアジア諸国で二・一%そして中南米諸国で二・四%まで下がってきており、中東諸国とアフリカ諸国の増加率がいかに高いものであるかが分かる。

西ドイツやハンガリーにおいては人口は徐々に減少しつつありまた、一方バングラデシュでは独立後十年余りで人口は倍増し北海道の一・八倍の面積の国土のなかに一億人もの人々が住んでおり、ケニア、シリア、ヨルダンなどは、十七年から二十年で人口が倍増するほどの猛烈な勢いで人口が増えつつある。こうした出生力の差はその国の経済や政治に大きな影響力を与えている。人口の急激な増加は食料だけでなく、雇用や住宅の問題その他のあらゆる面において国家は負担を背負うことになる。

IPPFのザイールに関する報告では家族計画の実施を妨げる要因として、カトリック教会の圧力による避妊薬の使用を制限する法律や、道路網や通信網の立ち遅れ各部族における人口縮小に伴う少数派へ転落することへの恐れや、四百五十にものぼる言語と国民の家族計画と国家開発に対する理解の無さをあげている。アフリカでは女性の地位は極めて低くしかも一夫多妻が普通で、女性の社会的地位は子供を何人もつかで地位が決まるため競って他の妻より多く生もうとする。

この様な様々な原因が人口急増への圧力となっている。このことは他のアフリカ諸国の、全てについても言えることで、開発途上国の多くの国では子供は貴重な労働力で、しかも両親にとってはたった一つの老後の保証になっている。

この様な伝統的な価値観が変わらないまま、先進国の医療技術や薬が入り多産多死の社会から急速に多産小死の社会に移行したため急速な人口の増加につながった。

そのため過剰耕作や過剰放牧などにより土地の不毛化や砂漠化など環境破産を引き起こす事になった。そのため農村で食うことが出来なくなった人々や、さらに農村でも貨幣経済が浸透し、現金収入を求める若者などが都市に集中する事になった。

そのため六十年代から始まった都市への人口集中はすさまじく、世界銀行の推定によると一九三0年代では当時の全人口の六%が、都市で生活していただけだったのが、六0年代に入るとこれが一八%になり、八五年には三二%にもなった。

全人口の三分の一が都市に集中し、都市での人口増加率は五・八%にもなりたった一二年で倍になるような状態で人口がが増加しつつある。そのため社会資本の整備がどこの都市でも人口の急増で追いつかず、その機能は麻痺状態になっている。病院や学校をいくら増設しても間に合わず、病院では複数の人が一つのベットを使い、学校では三部制授業でも間に合わない。そして断水や停電は当たり前のような状態である。

世界銀行の予測ではバングラデシュでは、現在の人口の五倍の三億九千万人で人口は静止しエチオペア、ナイジェリアでは現在の人口の七倍になって人口は静止するという。ナイジェリアの現在の人口は一億一千万人であるが、それが現在のアフリカの全人口よりも多い六億二千万もの人口になるという。今でさえ飢饉常襲地帯に住むこれらの人々が本当に生きてゆけるのでしょうか。

人口が急増している辺境の人々は生きるために自然を使えるだけ使い、自然を過剰に開拓し耕作され牧畜に利用され森林は毎年減少し続けている。しかもこのような地域では人々を養ううえでなくてはならない土壌が流出し、土地は疲弊しもう何も生えない石ころと砂と塩の土地になってしまう。

こうした人間の生存基盤の悪化は人口形態を多産小死から、多産多死の人口形態へ引き戻し人口のバランスをとる事になるだろう。そして環境が破産し多くの国で土壌流出や砂漠化が加速し、その生態系は回復不能なダメージを受け、それはまた国家も破産し経済的崩壊へと進みそして、いずれアフリカ大陸全体の崩壊へと繋がり、何千万人もの難民と餓死者を出す事になるかもしれない。

アフリカは人口の増大から世界の経済的な発展から取り残され、食料を自給する戦いにも破れつつある。このまま人口の急増と食料需給のアンバランスが拡大し続ければ、破局的な事態も起きかねない。ソマリアやルワンダやで見られたような部族間の反目や抗争によって、難民が激増し慢性的な栄養不足と飢饉は拡大し続けている。アフリカ各国政府と国際社会は部族抗争や災害についての、効果的な対策をほとんど建てることが出来ないでいる。

アフリカ各国政府の食料価格政策は地方の農業開発を促進するより、都市の消費者のために安く押さえられておりもっとも都市の市民は、政治意識も高く飢えると暴動となって、為政者の政権を直接脅かすため、為政者としては農民より都市の住民を優遇している面もある。

そのために地方の農民は生産意欲を無くし、自分の家族が食べる分くらいしか作らない場合が多い。そのために慢性的な飢饉が各国で起こっている。皆さんも前のエチオペアを中心とした、アフリカの大飢饉の事は、まだ記憶にあるのではないでょうか。現在では先進国を中心とした、国際機関の食料の援助システムが、整い大規模な飢饉のニュースは聞かなくなりましたが、その後も人口の増加は衰える気配さえ見せず、各国において努力はなされていますが。その根本的な解決策は遅々として進んでいないようだ。アフリカを蝕む源は少しも解決されておりません。それが解決されない限り事態は益々悪化してゆくのは間違いないと事だと思います。

エチオペアやモザンビーク等の国の場合人々の飢えを、救える程度の食料は外国などからの、援助などで間に合っているのだが、外貨事情の悪さなどからそれを運ぶトラックの不足や部品の不足燃料の不足など輸送事情の悪さなどその国を支える基本的なものが、崩れ初めており、アフリカの幾つかの国では、原始経済に逆戻りするほど、社会体制が悪化しつつあると絶望視する人もいる。

またゲりラの横行による治安の悪さなどや、地方住民に対する把握の不十分さなどのため外国からの、食料援助物資が飢える人々に届かない。社会体制や輸送事情の悪さが、単なる旱魃を飢饉に変えてしまう。アフリカ諸国は単一民族国家は希でどの国も複数の部族があり言葉もそれぞれ異なる。そのためそれら国の中央政府にとって、地方住民は自国の国民として視ていないような処がある。部族対立等だある地区や反政府ゲリラなどのいる、地区の人々に対して政府は意図的に食料を差し止めることがあり、そのたびに関係のない人々が何千何万の人々が飢え死にしている。この事はエチオペア、ジンバブエなどで実際に起こったことだ。飢えはまさに人為的な現象なのだ。

アフリカ各国政府はどこの国も外貨が不足しており、みるべき工業が育っていないために外貨収入を、換金作物に頼らざるをえない。飢饉が最もひどい時のエチオペアでもコーヒや綿花の作付け面積がふえていた。八十年のアフリカ統一機構経済閣僚会議は、自国が消費しない商品を生産し、自国が生産できない商品を消費せざるをえない、経済体制のなかにアフリカは封じ込められていると指摘した。ここにアフリカで起きている問題の源があります。この関係を断ち切らないかぎり、飢饉の問題も森林破壊や砂漠化の問題も、解決することは出来ません。もう一つの問題は農政の比能率と腐敗である、農民が作物を作って政府に売り渡しても、その代金の支払いが一年も二年も遅れるというのだ。政府は代金は支払っているところが末端の役人の所で止まってしまう。役人がその代金を銀行に預け、その利子を着服しているという話だ。援助物資の横流し緊急援助食料の売り付けなど、末端官僚組織の不正などが後を絶たない。

このような事が農民にやる気を失わせ、旱魃への抵抗力を弱めている。農民さえ飢えさせるような、農業政策は今直ぐにも変えなければならない。

アフリカで食料危機に直面する国の多くは、様々な政治問題を抱えている。部族抗争や国境紛争そして軍事クーデターなどこうした紛争や政変などが農村を荒廃させ旱魃などへの対応を鈍らせ食料危機を招く事にもなっている。

五十年代から六十年代にかけてアフリカ諸国は次々に独立したが、独立以来その三分の二以上の国が軍事クーデターを経験しており、ガーナの五回を最高に二回以上が半分にも上り、西アフリカに集中している。クーデター頻発の背景として、政治的指導者への権力集中による政権の腐敗、汚職、政治制度の未確立や政治家の国家運営の不慣れなどであり。多くの政治的指導者は、その日その日の危機に対するのが精一杯で、もはや明日の事を考える時間も余裕もないのだ。



このままのペースで土壌流出と砂漠化が続けば

この三十数年間で世界の食料の生産は倍増したが、人口もその間に二十億人も増加し五十億人に達した。そのためにその生産量を維持しょうとしてきた農業は、農耕地を険しい傾斜地や起伏地などの土壌流出を起こしやすい場所にまで耕地を広げ、そこで収穫は多いが、土地を荒らす、トウモロコシや小麦やキャッサバなど換金作物を連作して栽培したため、その結果として土壌流出は拡大し加速し耕地の維持を困難なものにしてしまうため、不毛化した耕地が放棄される場所が増加している。

このような目先の利益だけを追う収奪的な農業を続けるなら、その国の人口の増加に見合う食料を増産ではる国が少なくなり、世界中で食料の不足による価格の上昇と大規模な飢饉は避けることが出来なくなるだろう。

この土壌流出の問題は先進国や後進国を問わず世界の各国で等しく起きている。世界の四大食料生産国アメリカ、中国、インド、ソ連といった国々はいずれも深刻な土壌流出に悩まされているが今世紀半ばから肥料の生産と消費が九倍になり、潅漑農地の面積が三倍近くなり、その分の生産力が増大した事によって、土壌流出による被害を覆い隠しているだけにすぎない。

八四年現在世界における土壌の流出量は二五四億トンと推定されており、この状態が続いて行くとすると、近い将来において慢性的な飢饉地帯が世界の至る所で多発するだろう。三十年前ナイジェリアの人口は四千万人前後だったと思われるが、八二年に九千万人を越えており八八年現在は一億一千万人程度と推定されるが、毎年三%以上の人口増加率を示しており、そのため二0世紀初頭には国土の六0%が森林に覆われていたがそれが現在では六.四%まで激減している。

そのため以前なら耕作しなかった、土壌流出を起こしやすいよぅな急傾斜地の森林を焼き払い開墾しなければならなくなって来ために、土壌は強い雨に叩かれ急速に土壌の流出を起こしている。そのために土地は短い期間で不毛化するために、次々に同じような斜面の森林を伐採し開墾するために、森林の消滅を加速し土壌の流出による環境の破産を急速に増大させている。

この地域の伝統的な農法は焼畑農業で乾期に森林を伐採し雨期の直前にそれらの木を焼き払い、そこに主食だったヤムイモなどの作物を植え、数年たち土地が痩せてきたらその土地はニ0年以上放置され、その間に新しい二次林が再生され土壌中の養分も回復する。その間、その前に休耕されていた土地が開墾され作物が植えられる、移動焼畑農業で、この熱帯地方の農法では最も合理的な農法であり、厚い表土のある温帯地域で発達した農法を熱帯地域に持ち込んでも成功しない。しかしこの移動式焼畑農業は人口密度の少ない地域でのみ有効な農法で人口の増大共にこの農法は崩壊し土地を急速に不毛化させる。

また森林がほとんど無くなる共に炊事用の薪の入手が難しくなり、そのために焼畑をした後の切り株さえも引き抜かれてしまう。そのため土壌中の有機物はさらに不足し土壌の流出は加速され二次林は育たなくなるのだ。

このような土壌の流出と砂漠化がアフリカのサヘル地域を中心に各地で起こっており、それが大規模な飢饉を生みだし、政治的な不安定さを増大させている。またアフリカ以外の後進各国でも起こっており、それが広大な荒野を生み砂漠化の基になっている。

レスター・R・ブラウン著(西暦二000年への選択)によると土壌流出の問題は第三世界の問題ではなく、先進国のアメリカ・ソ連や中国・インドなど世界の四大食料生産国においても深刻な土壌流出に悩まされており、毎年、中国では四七億トン、インドでは四三億トンにものぼる土壌流出が起きている。

また世界の食料需要を支えるアメリカの大平原でもでも土壌流出は深刻な問題で毎年一七億トンの土壌が流出しており表土の流出によって穀物の生産が出来なくなった地域がアイオワ州で九%にもなっており三二年後の二0二0年までには全耕地面積の四0%が荒野か砂漠に近い土地になると予想されている。またコロラド川流域では過去二0年間に三十%も塩分濃度が増加し広大な農地が放棄されている。

外国からの圧力に屈し、農政の不備と狭い土地の問題から食料の大部分を外国からの輸入に頼る我国が、将来においてこれまでのように金さえ出せば幾らでも帰る状態がこのまま続くとはとても思えない。五0年から百年先を見越した新しい農業の形態を今後三十年以内に完成させなければ日本は破局的な事態を迎える事になる。このままの状態で土壌の流出が続くならこの地球上の土壌は二0五0年には現在の三0%しか残らないと言われている。その中で百億人にも達する人間が果たして生きて行くことが出来るでしょうか。



河川はコンクリートに覆われ単なる水の排水口と化し、その生態系は破壊された。

環境庁のまとめた、緑の国勢調査によると、ダムや砂防用の堰きが、川をさかのぼる魚を遮りたどり着いても、川の全延長の半分までという、河川が全国の一級河川の、半数近くを占めることが明らかになった。河川改修に伴う、護岸のコンクリート化で、自然の河辺消えるなど、水際線の人口化が、益々進みその割合は、全体の二一パセントにもなり、湖沼の自然護岸も激減している。このためマスやワカサギなど、生息する魚の種類が減少した、河川が目立ち、今回の調査でも日本列島全体で、魚が棲みにくくなり、河川の自然環境の悪化は、関係団体の努力にもかかわらす。改善されていない。

こうした、河川の人口化の影響は、魚類の生息状況にも、くっきり表れている。石の間を縫うようにして餌を採る、ギギ類のアカザは五河川で姿を消し、河辺で生まれた稚魚が、海に帰り、産卵のため川をさかのぼる、トゲウオ類のイトヨは六河川で姿を消していた。さらに全国で、棲息魚数が減少した河川は、前回調査時の三十九種が二十四種となった、福井県の、九頭竜川のシマドジョウなど、十五種が姿を消した。福井県の北川、イトウ、アメマス等がいなくなり、前回の二十三種が十三種になった。北海道の十勝川など六種類以上が、消滅した河川は十二にも上った。湖沼調査では、棲息魚数の最も多いのは、島根県の、宍道湖の五十九種でした。

私は徳島県の吉野川の中流、半田町という小さな町を四キロ程、山のなかに入った小さな集落で生まれ育ったのですが。私が子供の頃は、近所の遊び友達とよく山や、近くの谷川に、遊びに行ったものでした。その頃の山や川は、とても自然が豊にあり、川にはハヤやヤマメ等が群れをなして泳いでいました。また小さな谷川にも、シマドジョウや私達がジンタと呼んでいた、ハゼ科の川魚やサワガニや水棲昆虫が、多数住んでおりました。戦後間もない頃で、食料も不足しており、私たち子供が獲ってきた川魚は、貴重な蛋白源ともなったのです。また山には雑木林が圧倒的に多く、その中には山栗や、葡萄やイチゴなどその他の人や小鳥や獣類が食べることのできる、草木が多数ありました。私は帰省するたびに、それらのものがどうなって行くか、調べているのですが、川にあれほど多数いた、川魚の類いの、魚影を観る事が出来ません。淵などに潜んでいるのでしょうが、それにしても極端に減ってきてます。谷川を観ても、シマドジョウもジンタも、一匹も見かけることは出来ませんでした。わずかに水棲昆虫を見る事が出来ただけです。

そして山はと見ればどこも杉と檜の林ばかりであれ程に豊かにあった雑木林は見る影もなく少なくなっているのす。一見するとまだ自然が、良く残っているように見える、私の故郷ですが、よく見てみると、自然の破壊は、相当ひどく進んでいるのす。昔あれ程多かった、小鳥たちの囀りも少なく、まさに沈黙の森です。おそらくは日本の、どの地域を観ても、同じような状態ではないでしょうか。私はこれらの私自身を育んできた、故郷の山や川の変貌を見るとき、言い様のない淋しさと悲しさ、そして怒りを覚えるのです。

これらの原因として、田や畑に使用される農薬や、あるいは酸性雨による影響も、あるでしょう。田や畑に、肥料として入れた藁や下草が、腐りにくくなったという事は、至る所で聞きます。田や畑に、大量に投入される肥料や農薬が、河川の生態系を破壊し、田や畑の土質に、大きな異変を起こしているのは、間違いないでしょう。

もう一つの原因は、河川に建設される、砂防用の堰きと、護岸工事にある。私の故郷に於いても、河川や谷川のかなりの部分が、コンクリートにおおわれており、しかもまだ工事が続いている状態です。そのため常に強いアルカリ性の濁水が、河川に流れ込んでおりしかも、それによって川に住む生物の、棲む場所を奪っています。

地方の、他の産業の何もない町村では、それらの公共工事が、町の産業の大きな比重を占める、産業である場合が多く、そのためそこに働く住民の、生活を守るために常に、土木建築の工事を、していなければならない状態です。此等の地区に住む住民は、その工事がその河川の生態系や環境に、悪影響を与えている事が、分かっていても、それをしなければ、その日の暮らしが成り立たないので、その事に目を、暝らざるを得ないのです。

ここにも世界全体を、破滅へとすすめるものの、縮図があります。そのために、田や畑は荒廃し、河川に棲む様々な生物が消滅し、多種多様な生物の住んでいた、雑木林は切り倒され、針葉樹のだけの、沈黙の森になり、生態系の多様さを失ってしまったのす。その地域の、生物的多様さを失う事は、私達の子孫とその未来に大きな、禍根を残す事になる。現在は何も問題が、起こっていないとしても、近い将来には人の予想も、出来ない所から、その影響が表面化してくるかも知れない。

現在のヨーロッパに、存在する森林の殆どは、一度伐採された後の二次林で、その生物層は概して貧困である。私は今ヨーロッパで、深刻な問題になっている酸性雨による、森林の消滅は、その生態系の単純さも、その原因の一つになっているのでないかと思うのです。生態系の多様さを失う事は、自然の造った安全弁を失う事であり、その生態系全体の抵抗力を弱める事になるからです。

また人の心のひだやその豊かさは、その取り巻く自然そのものから、大きな影響を受けており、その豊かな自然を失う事は、人の心の豊かさも、そして人類を産み出した、進化のその基盤も失う事になる。森に住む民族の、あの豊かな感性も、心のひだも、砂漠に住む民族の、あの論理性と気性の激しさも、単なる偶然の産物ではない。そして東洋系の諸民族の、知能の高さも、人類の頭脳が有史以来、小さくなり続けているのも、一つの因果関係の、延長線上の出来事であると、私は考えている。人類の文明化は、肉体的にもそして精神的にも、進化しているのではなく、人間の精神と肉体の退化現象の、始まりなのではないでしょうか。

人間の産み出した、都市は生活は快適ではあっても、人の心にとって限りなく砂漠に近い環境です。文明誕生以来から始まる、人類の都市での生活は、人の心を荒廃させ、やがてはその古代の文明をも滅ぼすに至った。現在の都市に蔓延する、麻薬やその他の犯罪の激増など、都市に住む人間の心の荒廃は、人を大地と自然から分離する事から、起るものでもあり、世界的な過密化都市化は、人類の未来に深い影を落とすだろう。



核汚染

八0年のワルトハイム報告によると、現在世界に存在する核弾頭の総数は四万発以上もあります。そしてその爆発力の総計は八万メガトンにも及び、これは広島型の原爆にすると百万個分にもなるという。

これは人類と生命を二0回以上も滅ぼす事も出来るすさまじい量で、そのほとんどは米・ソ両超大国にあります。ソビエト連邦崩壊のによって緊張緩和の状態で核兵器も解体が進んでいるとは言え、双方千発以上の大陸間弾道弾や、そして双方数十隻の原子力潜水艦が、いつでもその相手国や同盟国に核弾頭を打ち込める状態になっている。

現在宇宙を含めて、この地球全体が米・ソ両国の探知、識別の軍事ネットワークが張り巡らしており、もちろん日本もその中の主要な国の一つに組み入れられております。ソ連の崩壊で緊張状態は緩和してはいますが、両国にその意図がなくても、偶発的な事故から全面的な核戦争になる可能性も消えた訳ではない。

情報の公開されていないソ連での事は分からないのですが、アメリカでは過去に何回かその一歩手前まで行った、事例が何例か報告されています。最近の事例では八0年六月三日と六月六日と続けて、ソ連からICBMの発射を告げる警報が出され、そのため全ての爆撃機は緊急発進体制に入り、しかしこれも誤報でこれの原因が、たった一つのIC(集積回路)の故障が原因で、全面核戦争直前の危機的な状態にまで行ったのです。

軍から米国上院への報告書の中に、七九年から一年半の間に、本土がミサイル攻撃を受けていると、警報盤に表示が出た回数が一四七回もあり、その全てが誤報であったと述べています。常に偶発的に核戦争が起きる可能性はあるものの両国とも核戦争の真の恐ろしさを、十分認識しており、両国の間で全面核戦争が起こる可能性は少ない。

だが現在において核戦争の勃発の危険性は米・ソ両国だけの問題では無くなった。アメリカの核に関する技術は、原爆製造にも使用可能なその燃料供に、発電用原子炉という形で世界中の国々に輸出されている。その百万KWの商業用原子炉一基は、一年間に原爆を六個に相当する、三0Kg以上ものプルトニウムを生産している。

核に関する技術は平和的と言われる利用も、兵器としての利用も表裏一体で、分かちがたく繋がっている。そして現在この危険な技術は第三世界にまで広がっている。

現在の世界の核兵器保有国は、米、英、仏、ソ連、中国、インドなど六か国、非公式にはイスラエル、パキスタン、南アフリカ、ブラジルなども及んでおり、将来はさらに何十という国が自国産の核兵器を作るに足りる燃料と技術を持つだろう。この事は近い将来に我々に大きな禍根を残す事になるかも知れない。



二十一世紀の大動乱期には核兵器による恫喝や戦争もあるかも知れない。

二一世紀には石油の枯渇ともに、食料作物を生産する肥料もなくそしてそれを運搬する自動車も使う事が出来なくなる。都市には食料が届かなくなり、現在のアフリカを悠かに凌ぐ、大規模な食料危機が世界各地に起こる事は間違いないだろう。

人々は肥沃な土地や食料を求めて大規模な民族移動を起こし、その際は自国の利益のためには通常兵器はもとより核兵器による恫喝も十分考えられる。自国の民族の存亡を賭るような事態になれば、どのような国でも核兵器が実際に使用される可能性は否定できない。それが被爆経験の有る我国であっても例外ではない。

これらの国の間で局地的な核戦争が起こる可能性は十分あるが、米、ソを巻き込む全面核戦争になる可能性は少ない。さらにその他の核保有国が米、ソを超える核保有国になる事はまず無いと私は思う。

核戦争が人類の脅威なのは間違いのない事実です、だが核戦争が起こったとしても局地的なもので終わり、核の冬を引き起こすほどの核戦争にはならないと私は思う。余計なことながら一言付け加えると、もし不幸にして全面核戦争になり核の冬になったとき、人類を救うのも核であるということ、しかし現在の原子力発電所での核燃料の使用は核燃料の特性を生かした使用ではなくとても危険で無駄な使用法である。



旧ソ連における破滅的な核惨事

核の技術でもう一つの厄介な問題は、原子力発電所やその燃料生産工程やそれらの廃棄物処理の工程、いわゆる核燃料サイクルにおける各段階において、常に危険な放射性物質によって環境の汚染を受けているという事です。

一基の原子炉は一年間に何十トンもの高レベルの放射性廃棄物を生み出し、その何倍もの低レベルの放射性廃棄物を生み出す。その中で最も危険な副産物であるプルトニウムはそれが核兵器の原料になるだけでなく、非常に危険な物質で百万分の一グラムという極微量で人体に癌を引き起こす。

仮に五百グラムのプルトニウムを全ての人に均等に分け与えたとしたら、この地球上に住む五十億人の人間全てに肺癌を起こすことができる。しかも原子炉の出す放射性物質の中でも半減期が長く二万五千年で少なくとも五十万年はその毒性を持続する。

このこの五十万年という時間は人の時間の感覚を悠かに超えるものだ。人類の文明が誕生して五千年それの百倍以上の長きにわたって、この物質を環境から隔離しなければならない。はたしてそのような事は可能なのだろうか。何らかの事故や不注意で一旦環境に漏れだしたプルトニウムは数十万年もの長い間、生物の間を循環しながら人間や動物にガンを起し続けるのだ。どれだけの人や生命がその影響から無関係でいられるだろうか。

百万KWの発電用原子炉一基は一年間三0Kgのプルトニウムと三0立米の高レベル放射性廃棄物を生産する。八七年六月現在世界に三八九基の原子炉が運転中で有り毎年十トンにも及ぶプルトニウムとその百倍の様々な放射性元素を含む高レベルの放射性廃棄物これは数千年にわたって極めて強い放射能を出し続ける。さらにその何倍もの量の低レベルの放射性廃棄物を出し続ける。

これらの物質の半減期を短くする技術が確立されない限り、これらの物質は一度作られたら事実上、永久に自然環境から隔離されなければならない事を意味している。しかし人間が持つ技術ではそれほどの長期にわたって、安全を保証する容器の制作は不可能だ。

運転技術では世界の最高水準といわれる、日本の原発でも毎年二0件前後の事故や故障があり。世界の各地で何百件もの放射能漏出事故や故障が起きている。此等の放射性物質は核を使用する施設を使い続ける限り、環境に蓄積され続けそして数千年以上にわたって、生命に悪性腫瘍や突然変異などの悪い影響を与え続ける。

アメリカのローレンス・リバモア原子力研究所の発表によると(八六年四月のチェルノヴィリの大事故で放出された放射能の量は、過去に人類が行なってきた核爆発実験で出された放射能を全て合わせたものに匹敵する)たった一基の原子炉がこれだけの量の放射能を出したのです。この事故における死亡者は公式の発表では三十数人といわれているが、過去にソ連のウラル山脈の近くの軍事用の核施設で死者が数百人にものぼるチェルノヴィリの事故よりもさらに大きな事故が起きていた事がアメリカ偵察衛星によって確認されており、広大な地域が放置されたままになっている。

最近になってソ連政府も公式にそれを認める報道がされていた。軍事機密によって隠されていた地域にもジャーナリストが入れるようになり事実が少しずつ表面化する事になった。その場所はウラル山脈の南に位置する、核秘密都市チェリャビンスク65と呼ばれる都市で、放射能をまき散らした工場は核爆弾用のプルトニウムを作っていた。

アメリカでもソ連でも軍事用プルトニウム製造工場では操業当初は高レベル核廃棄物を川やに垂れ流しにしていたという。秘密主義の徹底していたソ連では事態への対処が遅れその分汚染がひどくなり、そのためにテチャ川の流域が核廃棄物によって高濃度に汚染される事になったのだ。その後川に流されていた核廃棄物はタンクに貯蔵されるようになったが、千九五七年にその貯蔵タンクの一つが冷却装置の故障から爆発事故を起こし広範囲に汚染される事になった。この事によって廃棄物の処理に困った工場は一億キュリー(ラジウムの放射線量に換算して百トン分)以上の廃棄物を近くの湖に投棄をしたというのだ。それが六十七年の干ばつにより湖が干上がりそれが風によって吹き飛ばされさらに広範囲に汚染を拡散させてしまったのだった。そのためにその地区では前の爆発事故とあわせて二重に汚染されてしまったのだった。ソ連における秘密主義がずさんな核廃棄物の管理をのもとになり三度にわたる核の惨事を引き起こしてしまったのだ。そのため中心部は一平方キロ当たり千六百キュリーというチェルノブィイリをはるかに上回る猛烈な汚染にさらされ多くの村が放棄され広範囲にひとが立ち入る事を禁止される事になった。そこに住んでいた住民の多くが癌や白血病におかされ死亡したが当局の徹底した隠蔽工作のためその事は統計にはでていないという。汚染地は人がいなくなったため鳥や動物が増えており広大な動植物の核汚染の実験場となっているという。

チェルノブィイリの事故から十年この事故でベラルーシの大地は七割が汚染され二割の国土が居住に適さず移住が必要だが二百二十万の人が現在もなお汚染地に住んでいるという事故から五年後の九一年の段階で甲状腺癌による死者が六千人にもなったという。甲状腺癌は死亡率が低いため実際に癌になった人はこれより一桁多いだろうと言われている。

放射能による被爆はひとの免疫力を低下させ人々を病気に罹りやすくする。これらの汚染地で生活するほとんと人は某かの体の不調を訴えており自分が健康だと考える住民はほんのわずかしかないという。汚染は風や雨によってさらに拡大を続けている。

チェルノブィイリでの汚染はウラルの核事故の場合と異なりその汚染物質にはセシウムやストロンチウムの他にプルトニウムが含まれている事に大きな問題があり、汚染地のある農場で子供達の髪を調べたところ全員からプルトニウムが検出されたという。これらの人はこれから数十年の内に癌になる確率は極めて高い。



八六年四月二六日のあのチェルノブィリの史上最悪の事故から五ケ月後アメリカのワシントン州リッチモンドにある再処理工場で従業員のミスからプルトニウムがその臨界量を超えて集積されそうになり核爆発寸前の事故がありました。幸いその従業員が気づくのが早かったため間一髪という処で核爆発を防ぐことが出来たのですが、その工場では核兵器用のプルトニウムと米国の核兵器の殆どを生産しておりもし爆発が起こっていたなら、あのチェルノブィリの事故など問題にならない大事故になっていたでしょう。



それこそこの地球に生きる人類の全てが肺癌になったかもしれないのです。ソ連を除いて八七年現在世界で七ケ所、プルトニウムを扱う再処理工場が運転中で休止中と建設中の場所がさらに九ケ所有る。その可能性は少ないものの百%安全な核に関する技術はない。

もしこれらの場所で、米国で起きかけたような再処理工場のプルトニウムの核爆発事故が起きた場合、全地球的な規模で放射能汚染されるだろう。プルトニウムを大量に含む放射性物質が大気中に放出された場合の被害は想像を絶するものがあるだろう。



原子力に関しては百%の安全な技術が必要です。しかしそのような物は存在しない事は各国における大小様々な事故や、我が国の高速増殖炉におけるナトリウム漏れの事故や米国スリーマイル島における事故そしてソ連のウラル地方やチェルノブィリにおける破局的な事故の例が、核に関する技術が我々人間の管理能力を超えていることを証明している。

原子力発電所内の強烈な放射線の元では、通常の状態では考えられないほど、あらゆる機材、部品が脆く弱くなる。このような放射線による金属材料の劣化についてはどの国においてもそれについての経験もデータも少なく、試行錯誤の状態でデーターを集めているのが現状です。正確な情報かどうかは確認出来ないが、放射線による材料の劣化によって原子炉の圧力容器そのものが、破壊される可能性が指摘されており、もしそのような事故が起きたら、これまでに例の無い大事故になるでしょう。



わが国に於いても青森県六ケ所村で、核燃料再処理工場が稼働し核燃料サイクルが確立したが、それは同時に様々な危険を背負い込む事にもなる事を覚悟しなければならない。

また将来においては増殖炉が実用化すれば各国とも高速増殖炉の割合が高まりそれに伴って再処理工場でプルトニウムを扱う量が何十倍にも増えて来る事になりそれに比例して事故の確率も高くなる。



世界の各地にある原子力発電所や再処理施設や核軍備施設これらにおける大事故の可能性が常に有るだけでなく、これらの施設は常に微量の放射能を放出し続け環境を汚染し人間を含む全生物に影響を及ぼす、この放射能による生物への影響はゆっくり表れしかもその危険の度合いを高めながら蓄積する。

その汚染を受けた生物が死んだとしてもその汚染物質は消えてなくなる訳ではない。放射性物質は数十万年にわたって、休む事無く生物から生物へ循環し生物に被害を与え続ける。どれほどの生物が生き残り元の形を保ち続けるだろう。

放射能に関する限り安全なレベルというのは有り得ないという事を明記しておく必要がある。医科学者達はそれがどんなに小量でも突然変異や悪性腫瘍を引き起こす可能性があるといっている。

スリーマイル島の原発事故によってその近くでは三十センチ以上もあるカエデの葉や巨大なタンポポが発見されるという。これも放射能によって起こる生命の活性化に伴う突然変異であると思われるが。(微量の放射能なら生命現象が活性化するという研究報告もあるらしい)もちろんそれはガンと紙一重の活性化だろうが。

チェルノヴィリのたった一基の原子炉が起こした事故がほとんどヨーロッパ全域ともいえる広大な地域を放射能で汚染させてしまった。むろん此等の地域に住む人々に大きな影響をこれから与える事になるだろうが、此等の地域の放射能汚染は此等の地域だけに留まるものではない。此等の地域で生産された乳製品などの農産物を通じて全世界に放射能汚染は拡散させてゆく我国などのようにほとんどの農産物を、輸入に頼る国は放射能による汚染は覚悟しておかなければならないだろう。

核の技術が世界に拡散するにともなってなって肺癌などの悪性腫瘍が世界的に増大する傾向があるがそれらの間に関係がないとは言えないだろう。この傾向は核が使用され続ける限り止まる事なく増大して行くと思われる。いかなる理由があるにせよ、これほど恐ろしい我々の放蕩三昧の後に残った、最悪の遺産を数千世代の未来の子孫に残す事は許される事ではない。

しかし現在の社会はこれらの原子力や化石燃料のエネルギーなくして存在し得ない、それどころか生命の維持さえも難しいだろう。原子力の利用を続けるなら悠かに遠い子孫にまでその影響を与える事になるだろう。かといって化石燃料だけに頼るとしたら排出される炭酸ガスによる温室効果によって、地球の温暖化に伴う海面の大幅な上昇を伴うだろう。それによって、世界中の海岸の都市や工業施設と低地における食料の生産が、壊滅的な打撃を受け、世界の人々は歴史上かってない大混乱にみまわれる事になる。百億人以上に人口が増大した後に、この破局的な事態がくる事になったら、どのような事が起るか想像できるだろうか。

現在の生活を続けようとする限り、ただ単純に原発廃止という事も出来ないのです。また現代文明の安逸な生活に慣れた我々は、昔のような自給自足の社会に戻る事は不可能です。どうやら我々は、どれを選んでも破滅への道しかない、悪魔の選択にはまってしまったようだ。我々には瞬間にも近い破滅をとるか、急速な破滅をとるかそれとも、ゆっくりとした破滅を取るかの選択しか無いのでしょうか。原発推進派はゆっくりとした破滅を、そして反原発派の人々は急速な破滅の方を選んでいるだけにすぎない。

現在の原発に関する議論は猛スピードで走っている、電車の中で前に行こうか後に行こうかを議論しているだけです。両者とも行着く先は断崖絶壁の破滅への道をまっしぐらに突き進んでいるのに、そして両方ともその電車に乗っている事を忘れて議論をしているのです。この電車に乗っている限り悪魔の選択から逃れる道はありません。


私自身は今我国で流行しているような単純で感情的な反原発運動を支持しているのではありません。かといって原発推進派でもない。私達が進む事が出来る道は他にも有ります。まずその電車止めて降りる事、つまり現在の文明の在り方そのものを否定することです。私達が現在の安楽な生活と社会体制を望む限り、放射能による環境の汚染も、そして炭酸ガスの温室効果によって工業施設は水没してしまう事も避ける事が出来ない。そして社会体制の全面的な崩壊によって、人々は生命の維持さえも難しくなるからです。

我々の生活する現在の文明には構造的な欠陥があります。この文明の根本的な欠陥は社会を流れる物質系のほとんどが開放的な系になっており物質が循環しない事です。様々な環境の汚染や破壊そして資源の無駄使いはそこから生まれるものです。むろん意味の無いエネルギーの無駄使いもそこに源があります。また我々が生きて行く為の経済そのものも見直しを必要としている。

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