マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2017.06.23
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カテゴリ: 旅、温泉
<尾瀬を守る>



 これは尾瀬沼周辺の地図。2日目は左手の道を来た。雪の白砂峠を越えるとやがて沼尻平に到着する。ここから沼の北側を通って右側のオレンジの丸の部分に寄って昼食を摂り、そこから再び戻って右側の大江湿原を越えて沼山峠へと向かう。尾瀬沼は標高1660mの高地にあり、一周すると7km、面積は1.67平方kmある。昔は小型の船があったようだが、今はない。

 福島県、群馬県、新潟県の3県に亘る周囲一帯が尾瀬国立公園の域内で、一木一草たりとも持ち出すことは出来ない。右上の沼山峠から中央下の三平峠を越えて大清水方面に向かうこの山道が、会津街道(群馬県側の呼称)であり、沼田街道(福島県側の呼称)であった。この山道が戊辰戦争時の官軍側が侵攻し、会津藩が大清水まで迎え討ちに行った道なのだ。今はその面影もない静かな道だ。

 沼尻休憩所跡   

 ここはかつて沼尻休憩所があった跡地。2年前に火事で焼け、今は土台のコンクリート柱が残っているだけ。この右手にトイレがあり、ここでトイレ休憩した。尾瀬のトイレは山小屋以外は全て有料で、1回100円。小便は飲めるほどきれいにしてから沼に戻し、大便は乾燥させてヘリコプターで麓まで運ぶ。もしトイレ外で小便すると、鹿が塩分を求めて国立公園内に侵入するのだそうだ。




 ここが昼食を摂った尾瀬沼ビジターセンター。登山者はここで入山届に記載する。私はようやくここでトイレに行った。腹が痛んだ原因はリュックのベルトがきつかったせいだ。山小屋提供のお握り2個だけでなく、前日仙台で買ったお握りも食べた。添乗員さんがわざわざ私を捜し、足の傷み具合を尋ねてくれた。湿布薬を張ったので大丈夫と答えると、安心したようだ。右側の望遠鏡で覗くと、燧ケ岳山頂の登山者まで見えた。




 休憩を終えてスタートする際、ガイドさんが尾瀬沼の水芭蕉を見せてくれた。左手方向に向かうと、三平峠を経て群馬県片品村の大清水へ出る。これが沼田(会津)街道で、2人のガイドさんは私達を沼山峠まで案内した後、再びこの道を通って大清水へと帰る由。彼らは群馬県人なのだ。




 来た道を少し戻ると遥か前方に小高い「ヤナギランの丘」が見える。その先に見えるのが標高2356mの燧ケ岳。小高い丘を良く見ると、石の塔らしきものが見えた。尾瀬を守った平野家三代の墓だ。




 左から2番目奥の墓が初代長蔵の墓。彼は明治22年(1889年)22歳で燧ケ岳に登るため、新たな登山道を開拓した。43歳の時、尾瀬沼の湖畔に長蔵小屋を建て、栃木県今市の実家と山小屋を往復した。その墓石には「ひらのむを心つくしてをせの沼に鳴く水鳥の声をききつつ 尾瀬沼山人」と刻まれている。

 中列左とその右側が二代目長英とその妻の墓。長英は長蔵の子で長靖の父。燧ケ岳への新たな登山道「長英新道」(地図上の右側の点線)を開いた。また東京電力による尾瀬のダム化計画に反対し、それを阻止した。歌人でもあった彼の墓には、「上つ毛と岩代国の境なる尾瀬の沼べに住みつくわれは 長英」と刻まれている。「上つ毛」は上つ毛野国(通常は上野国)で群馬県の古称。岩代国は古代と明治の一時期福島県会津地方につけられた呼称。



            <写真右側の山裾がヤナギランの丘>


 一番右側の黒い墓石が三代目長靖の墓。彼は群馬県立沼田高校、京都大学文学部卒の秀才で北海道新聞の記者だったのを、弟に代わって小屋の経営を受け継いだ。群馬県の大清水から福島県の沼山峠に抜ける自動車道建設に反対し、当時の大石環境庁長官を現地に招いて抗議。これがきっかけとなって道路建設を諦めさせた。



 左手前の石碑は、長蔵と親交が篤かった植物学者武田久吉「追慕の碑」。ここには武田博士が着用したジャンパーが埋められた由。いずれも尾瀬をこよなく愛し、尾瀬を守った人たちだ。これらの人が居なかったら、今頃尾瀬はダムの底に沈んでいたかも知れないのだ。<続く>

 (お断り)本日使用した写真は、ネットと「尾瀬桧枝岐温泉観光協会」のパンフレットから借用したものです。





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Last updated  2017.06.23 04:30:04
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