太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

遠い海

 強い風が、海から吹き付けている。いつもの通り、雨が降るでもなく、空はどんよりと曇っていた。

 石垣で囲んだ狭い畑の間を、くすんだ赤色のオーバーコートが歩いている。ひときわ強い風にフードが後ろに落ちると、薄い金色の髪が踊り、少女は赤みのない顔をしかめてフードを直した。

「……ン」
 海風にのって声が聞こえる。少女は、顔をあげ、海の方角をみつめた。
 いつからだろうか。この、かぼそい、それでいて聞き逃すことのできない声。

 フードを両手で押さえ、少女はじっと耳をすました。海とは反対の方向から数人の足音が聞こえてくる。
「アンだ」
「アンだ」
と名前をよばれて、彼女は身体を硬くした。パタパタと足音が近づく。アンは二、三歩行く間に、三人の少年に取り囲まれた。

「アン嬢さんは 人魚の子
青い顔した人魚の子
お里がえりは なに持って帰る
赤い頬した子を持って帰る」

 アンは、ちら、とも顔を上げない。黙って立ったままだった。
 歌が終わると、少年たちは笑いながら走り去った。

「……ン。ァ……ン」
 海からの声が、さっきより大きくなっている。アンは、よろよろと歩き出した。
 石垣の中に、四頭の羊が放されている。その鳴き声と、海からの声を聞きながら、アンは海が見えるところまで来ていた。

「ア……ン」
 呼ばれるまま、足が海に向かって行く。
__あたし、本当に人魚の子なのかもしれない。
 アンは、背中がぞくぞくするのを感じていた。ゆるやかな斜面を下って、砂浜に降りる。あと十歩も行けば、波打ち際になる。顔をあげると、風が吹き付けてきた。
 高く澄んだ鈴のような音と同時に、
「あなたは、誰?」
という声が聞こえた。アンは辺りを見回した。
「わたしは、ここよ?」
 鈴の音と、声が聞こえる。その辺りに緑色の海藻がぷかりと浮かびあがった。そして、ゆっくりと白い顔がその下から現れてくる。
アンは、声もあげられずに立っていた。海の中の少女は、裸の上半身をすっかり波の上に出していた。
「あなたは、誰?」
 声が、同じ質問を繰り返した。

 アンは、息をのんだ。それから、一度深呼吸をして、
「あ、あ、あなた、が、呼んだ、んじゃ、ない、の?」
と、震える声で言った。
「わたし? わたしは、淋しい心を呼んだだけ」
 鈴を鳴らしながら、海の少女は答えた。
「あなたは、人魚、なの?」
 アンが聞くと、海の少女は手招きをした。アンは少しためらったが、彼女の方に歩き出した。波打ち際まで行くと、少女は、全身を砂浜にあげた。

「やっぱり……」
 深緑の髪に、透き通るような白い肌。硬いうろこでおおわれた下半身。色は、青みがかった灰色。雲間からもれるわずかな光で、一瞬、赤や緑や黄色に変わる。
「あたしを、連れて行くの?」
 人魚は、アンを見つめた。そして、首をかしげて微笑んだ。
「連れて行く? どうして?」
「だって、昔話の人魚は人の子どもを連れて行くもの」
 人魚は、アンをつま先から、頭のてっぺんまでゆっくりとながめた。
「あなた、子どもなの? ずいぶん大きいのね」
 アンは、自分と人魚を交互にながめた。
「あたしたち、同じくらいの背の高さね」
「背の高さ? ああ、大きさのこと。そうね。同じくらい。わたし、そんな大きなもの持って帰れないわ」

 アンは、人魚の前にしゃがみこんだ。そして、
「もっと小さい子なら、連れて行く?」
と、聞いた。人魚は鈴の音で笑った。
「陸のものを連れて行ったりしないわ。だって、海の中ではいきられないでしょ」
 その時、ピュー、という口笛のような音がした。人魚は水平線を振り返って、
「行かなくちゃ」
と言った。そして、アンの頬を細い指でそっとなでた。
「さよなら」
 そう言うと、彼女は、さっと体を引いて海に戻った。
 アンは、そのうしろ姿にありったけの声で聞いた。
「また会える?」
「そうね。多分」
 人魚は、振り返って答えた。アンは手を振った。
「明日も、あさっても、これから毎日ここに来る。あたし、アンっていうの」
「そう。アンっていうのね」
「あなたは、なんていう名前なの?」
 鈴の音が響いた。
「名前なんてないわ。わたしは、わたしよ」
「じゃあ……あたしの好きな名前で呼んでもいい?」
「いいわよ」
 それを聞くとアンは、顔をほころばせた。そして、
「エレナ! あなたのこと、エレナって呼ぶわ」
と叫んだ。
「わかったわ。アン」
 そう言うと、エレナは波の下に見えなくなった。その跡をアンはしばらく見つめていた。

「……そうだ。学校に行かなくちゃ」
 アンは海を振り返りながら、斜面を登った。そして、足を引きずるようにして、学校への道を歩いた。


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