太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

遠い海・2

 泥炭 (ピート) の燃える匂いで、アンは気がついた。同時に体の内側から寒さがぞくぞくとわき出してくる。毛布をしっかりと体に巻きつけて、彼女はだんろの火をぼんやりながめた。

 直前の記憶は、校舎が見えてきたあたりで途切れている。その後の事を思い出そうとしていると、隣の部屋で椅子を引く音がした。足音がそれに続く。
「それじゃ、お大事に」
 母親ではない女性の声がした。少し低めの穏やかな声だ。
―― あ、先生。
 アンは起き上がろうとした。だが、頭がふらついてすぐに横になった。
 家の扉が開く音がする。
「さよなら、ベス」
と、母親にあいさつをする声の後に、扉は閉じられた。

 玄関から折り返して、足音がだんだんと近づいてくる。そして、アンの部屋の扉が開いた。
「……母さん」
「アン、起きてたの」
 べスは、ベッドの横にある椅子に腰かけた。
「気分はどう」
 アンの額に、大きな手がのせられる。アンは、両手でその腕をつかんだ。
「冷たくて、気持ちいい」
「熱が高いのよ。しばらくおとなしくなさい」
 そう言って、ベスはアンの前髪をなでた。アンがふいに、
「母さん、あたし、学校に行ったの?」
と、たずねた。

 ベスは、冷やしたタオルをアンの額にのせた。
「教室につくなり、倒れたそうよ。先生が家まで送って下さったのよ」
「そうなの? あたし、学校が見えたとこまでは覚えてるんだけど……」
 そう言ってアンは、枕に頬を押しつけた。頭もまぶたも重い。
「それはいいから。ゆっくり休みなさい」
 アンの髪にキスして、ベスは部屋から出て行った。
―― 約束、したんだ。明日も海岸に行かなきゃ。
 そう思いながら、アンの意識は遠のいていった。



 次の朝、目が覚めると、悪寒がおさまったことにアンは気がついた。
 起きあがってみる。頭もフラフラしない。

 アンは、掛け布団を足元に押しのけた。そして、服を着替えて隣の部屋に入った。
 隅の台所で、ベスが朝食の支度をしている。
 アンは、その後ろ姿に言った。
「おはよう」
 ベスが振り向いた。そして、
「休んでなきゃ、だめじゃないの」
と言うと、アンに歩み寄った。
 アンはもベスを見上げてほほ笑んだ。

「大丈夫。もう、熱、下がったもの」
 ベスは、アンの両腕を軽くつかんで、額どうしを合わせた。しばらく、だまってそのままでいたが、
「そうねえ。あなた、学校に行きたいの?」
と聞いた。それにアンはまじめな顔でうなずいた。
「じゃ、行きなさい。すぐ朝食にするからろ
「はい」
 ベスが手を放すと、アンは自分の部屋に戻った。そして、かばんをかかえて食卓についた。
「どうしたの。かばんは降ろしなさい」
 テーブルに食器を並べながら、ベスが注意する。アンはそれに従った。

 二人は向き合って座り、静かに食事をとった。
 それが終わると、アンは自分の食器を片付けた。そして、マフラーをきっちりと巻き、赤いオーバーのボタンをとめた。
「行ってきます」
 アンが家の扉を開けると、景色が白く煙っている。
「霧が濃いわね。やっぱり、明日から行くほうがいいと思わない?」
 ベスの言葉に、アンは首を振った。
「ううん、大丈夫」
 そして、足元を確かめながら歩きだした。その姿が霧に隠れると、ベスはため息をついた。

 一方アンは、石垣の間を通り抜けていた。
 少年たちにからかわれる辻にかかると、一瞬足が止まる。しかし、すぐに歩き出し、学校の方へ曲がらずにまっすぐ海岸を目指した。

 たどりつくと、海と浜の区別がつかないほど霧がたちこめている。
 アンは、一歩一歩ふみしめて、斜面を降りた。地面が平らになったところで彼女は立ち止まった。
 そして、海をみつめて大きく息を吸い込んだ。
「エーレーナー」
 一度呼んで、白い闇の中で目をこらしてみる。返事はない。
「エーレーナー」
 もう一度、もっと大きな声で呼んだ。何かが現れそうな気配もない。
 アンは、三度目に大きく息を吸って、はっとした。
「そうだ。エレナは毎日来るって言わなかった。……もしかしたら、今日は来ないかもしれない」
 足の力がすうっと抜ける。
 アンはその場に座り込んだ。しばらくそのままでいると、チャイムの音が聞こえてきた。
「あ、学校、行かなきゃ」
 ふらり、と立ち上がって、アンは歩きだした。

 教室に入ると、授業は始まっていた。全員がいっせいにアンの方を見る。
「すみません。遅れました」
 消え入るような声だった。
 先生は、板書していた手を止めた。そしてゆっくりとアンに近づいて、
「大丈夫なの、アン」
と聞いた。
 アンが小さくうなずくと、柔らかく背中を押した。他の生徒たちは、少しざわざわしている。
「静かに。授業を続けますよ」
 一度に教室が静かになった。
 先生は、アンが席に着いたのを確かめて、黒板に向かった。



 その日の最後の授業中、突然、教室の扉が開いた。そして、先生が呼び出された。
―― なんだろう。
 アンは、気持ちがざわめいてくるのを感じた。
 他の生徒たちのささやき声が、よけいに不安を大きくする。アンは頭が重くなってきた。
 しばらくして先生が、青ざめた顔で入ってきた。
「静かに」
 先生の声が響いて、教室は静かになる。
「あなたたちに、注意することがあります」
 大半の生徒は体を固くし、先生は一通り生徒たちの顔を見渡した。
「今日、お昼頃に岬のすぐ近くで、タンカーが座礁しました。原油を積んだ大きな船です。
 詳しい事はまだ良くわかってはいませんが、危ないので海岸の方に近づいてはいけません。いいですね」
「はい」
 生徒たちの声がそろう。
 先生は、表情を和らげてうなずいた。
 その時、終業のチャイムが鳴った。
「では、さようなら」
 あちらこちらで、さようなら、さようなら、と声があがり、帰り支度のすんだ子どもたちが順々に、先生とあいさつを交わして教室を出て行った。

 教室が静かになって、一人だけ席を立っていない生徒がいた。
「アン」
 先生は、アンの目の前に立った。
「どうしたの。具合が悪くなったの?」
 アンは血の気の少ない顔を、ゆっくりと上げた。それから、目を見開いて、ぼそぼそとした声で話し始めた。
「先生。原油って何?」
 先生は首をかしげた。
「そうねえ。どう言えばいいのかしら。……機械を動かしたり、暖房に使うものの原料、ね」
「じゃ、泥炭 (ピート) のこと?」 
「泥炭 (ピート) とは違うものよ……この島ではあまり使わないわね」
 アンは、先生の目をじっと見つめた。
「じゃあ……」
 次の言葉がなかなか出てこない。
 先生は、アンの顔をのぞきこんだ。
「どうしたの、アン」
 アンは、視線を落とした。
 そして、口を引きしめて、顔をあげた。
「先生。海のそばには、いつまで行かなければいいの」
「はっきりとは言えないけれど、夏までには大丈夫じゃないかしら」
 アンの眉間にしわが寄る。
「どうしたの。また気分が悪くなったの?」
「いいえ」
 先生の問いに、低い声で答えた。そしてアンは、ゆつくりと立ち上がって、先生を見上げた。
「ありがとうございました、先生。えっと、昨日、送ってもらったんですよね」
 先生はアンの両肩を手で包んだ。
「どういたしまして。私にできることをしただけよ」
 そう言って、先生はほほ笑んだ。
 アンも弱々しくほほ笑み返した。
「帰ります。先生、さようなら」
「さようなら」

 校舎を出ると、海風がアンの肩までの髪を躍らせた。
 辺りにはいつもの潮の匂いとは違う、重い臭いが漂っている。
 アンは顔をしかめて、海の方を見つめた。
「大丈夫かなあ……」
 ため息まじりにつぶやいて、アンは首を振った。 



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