太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

太っ腹母ちゃんのボコボコ日記

遠い海・終

 海が近づくにつれて、アンの足は速くなっていた。
 ボブが遅れがちになるのを見て、アンは水おけのとってを右手で持った。
「いいよ、大丈夫だって」
 アンはボブを見上げて笑った。
「二人で持った方が少し軽くなるわ。急ぎましょ」
 そうして二人は、小走りになっていった。

「エレナーッ」
 アンの高い声が響く。
 人魚が答えるように笛の声をたてた。
 アンとボブは、ドンッと水おけを置くと、その場に座りこんで動けない。
 先生は、自分のハンカチを水に浸して人魚の体をふき始めた。

 しかし何度ふいても、ごてごてした油は全く落ちない。
 先生に代わってアンがふいてみたが、やはりきれいにならない。
 次にボブが力任せにこすると、うろこが二、三枚はがれた。
 人魚はキュルッという声をたてたが、それ以上文句は言わなかった。

 一時間ほどそうしていただろうか。
 先生が急に立ち上がって言った。
「私達では無理だわ。役場で保護してもらいましょう」
「だめっ」
 アンと人魚の声が重なった。
 その声に先生は足を止めた。
 笛のような人魚の声が、また話し始めた。
「わたし達は保護されるために生きてきたわけではありません」
「でも、こんな事になったのは、人間の……私達の仲間のせいじゃないの」
 先生は青い顔をして叫んだ。
「でも、あなた達が悪いわけではないわ。あの船は、この島とは関わりのないものでしょう」

 人魚はゆっくりと海に目を向けた。
「ここは、わたしの最後のふるさとでした」
 そして、アンとボブに向き直って、弱々しく笑った。
「ありがとう……ずい分、楽に、なった……」
 人魚は浅くひとつ呼吸をした。
 それからコトリと首を落として、それきり話さなかった。

「エレナ?」
 アンは人魚の肩をゆさぶった。
 人魚は人形のようにくにゃくにゃした。
 ボブは反対側から人魚の体を支えている。
「アン、あきらめるな。ちょっと気を失ってるだけだっ」
 アンはうなずいて、人魚の背中をなでた。
 ボブも力を合わせる。
 しかし、人魚の体はどんどん硬くなっていった。
 先生は三人の体をいっしょに抱きしめた。
「エレナは神様のみもとに召されたのよ。もう苦しい事はないの」

 アンとボブの頭に、熱いしずくがかかった。
 それが合図であったように、二人の子どもは大声をあげて泣き出した。
 三人の涙が人魚の体を流れ、そこから真っ白な泡が生まれた。
 その泡は海に向かっていき、それが落ちた場所は油がとけ、ほんの少しきれいな海水がのぞいた。
 人魚の体がすっかり泡になり、全部が海に落ちてしまうまで、三人は一言も話さずにじっと見ていた。

 直径一メートルほどの、油を全く寄せ付けない場所が出来ていた。
 そして、最後の泡がポコン、と音をたてた。

 アンが震える声で先生にたずねた。
「先生、人魚や他の生き物たちがこんな風に死ななくてもいいようにするには、どうすればいいの」
 先生はエレナの消えたあとを見つめながら答えた。
「それは、難しい質問ね……」
 しばらく考えて、一言ずつていねいに先生は答えた。
「いろいろな問題があるけれど……。
 泥炭でも石油でもない、もっときれいで新しいエネルギーが出来て、世界中の人々がそれを使うようになれば……。
 少なくとも、こんな事故は起きなくなるわ」

 アンは両手で顔をこすった。
「その、きれいなエネルギーって、作れるのかな」
「今、研究している人がたくさんいるそうよ」
 ボブは砂をけりながら言った。
「じゃあ、おれ、それの研究する人になる」
 アンもうなずいた。
 そして、アンはエレナの消えたあとを見つめて叫んだ。
「エレナ、見ててね。きっとあたしたち、作ってみせるから」

 それに答えるように、きれいな水が一瞬広がった。


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