リヒテル79,9歳


       居眠りしなかったコンサート 2


       ♪リヒテル、79、9歳 最後の日本公演

    もう10年も前のこと
    チケットを取るのに朝早く並んだのは、
    きゅ~んと引き締まる3月、寒い日だった。
    そうとう早起きして並んだつもりだったが、
    ジーパンに、「ほかほかカイロ」をいっぱい貼りつけた
    徹夜組のお兄ちゃんがたくさんいて、
    安い席はとっくに売りきれ。
    やっと手に入れた席は 舞台の後の席。

    ちょうど観客から、演奏者も私も眺められる席だった。
    さすがの私も 居眠りなんかできないなと緊張。

    舞台の袖から、リヒテル登場。
    さっそうと と思ったら、よたよたよた・・
    やっとピアノにたどりつき、ピアノに手をついて体を支え、
    お辞儀をした。
    え? これがあの鋼鉄の腕リヒテル と一瞬目を疑った。
    リヒテル 79歳 1週間後に80歳の誕生日とプログラムにあった。
    大きなメガネをかけ 譜面台には楽譜がおいてある。
    譜めくりの黒装束も伴っていた。
    譜面を置いたピアノリサイタルは 初めての経験である。

    あの鋼鉄の腕、リヒテルもやっぱり歳には勝てないんだな~
    老人がやっとの思いでピアノによりかかって、立っている。
    なんだか 胸が痛くなった。

    かってのリヒテルだと思えばいい、
    目の当たりにリヒテルを拝めると思えば・・・と
    この時点で、高かったチケット代はあきらめた。

    演奏が始まって、私はまた自分の目を疑った
    今演奏しているのは、さっきピアノに寄りかかっていた、
    老人かと。

    プログラムには自慢のベートーベンは無かった。

    グリーグ ・フランク ・ラベル

    抒情的な、 若さあふれる みずみずしい演奏!
    あの やっと立っていた、リヒテル・・

    譜面台も譜めくりの黒装束も、わたしのなかから、
    すっかり 消えてしまった。

     ただ
       そこには 音楽だけが、躍動していた。

    涙がこみ上げてとまらなかった。
    私は観客に見られてる席にいる事も忘れて
    泣いた・・・。

    演奏が終わりアンコールが終わっても
    しばらくは席を立てなかった。

    帰り道 ラベルの鏡がいつまでも鳴っていた
    鏡に コロ カラとぶつかる蛾 
    いつまでも幻想からぬけられなかった。

    後でわかったことだが、
    これが、リヒテルの最後の日本公演だった。



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