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第1章.引き出しの写真
1.引き出しの写真
西暦2025年1月
僕、北島和樹は、いつものように読み終えたいくつかの本を本棚に戻していた。
いくつもの本がズラリと並ぶ本棚の隅に、普通の本とは違う本が1冊だけ置いてある。
もうこの本は何度も読み返したけれど、つい手が伸びてしまうのはなぜだろうか?
この本を初めて手にしたのは去年の夏頃で、父さんが知人からもらい受けた物だった。
知人と言っても直接の知り合いではないらしく、これを説明するのには少し時間が掛かる。
この本を初めて手にした去年の夏頃、僕はいつものようにピアノの練習に明け暮れていた。
暇を見つければピアノに向かい、その日の気分で決めた曲をまず指慣らしとして弾き始める。
休日はいつもピアノに没頭して過ごすことが多く、平気で5時間6時間と時間を費やす。
父さんの話では、物心がつく前からずっとピアノに触れていたという。
嬉しそうに鍵盤の音を鳴らし、音符にふりがなを振っては大声で歌っていたらしい。
その結果、僕はピアノが大好きになり自分の感情を音で表すのが得意になった。
でも機嫌の悪い時にそれが音に出てしまい、直ぐに気付かれてしまうという欠点もある。
母さんはそんな僕をいつも天才だと褒めて、練習を始めると必ず座って聴いていることが多い。
学校でも僕のピアノを褒めてくれる人は多く、親友の翔ちゃんはわざと大げさに言ってくる。
それを僕は、男がピアノを弾くこと自体が珍しいからだろうと考えていた。
ただいつも思うのは、一体誰が僕にピアノを教えてくれていたのか? と言うこと。
僕がピアノ教室に通い始めたのは3歳か4歳ぐらいの時だが、僕は既にピアノを弾けていた。
「どこかで習っていたんですか?」と言う先生の言葉を、今でもハッキリと覚えている。
他の教室に通っていたという話は聞いたことがないし、僕の両親は楽器に触ったことがない。
ピアノを弾くたびにいつも浮かぶ疑問……でも誰もその本当の答えを教えてはくれない。
「母さん! 僕って本当に……」
「まだ気にしてるの? お父さんが言ったじゃない、適当に触ったら弾けるようになったって」
「嘘だよ……絶対誰かに教えてもらってた……じゃなきゃこんなに弾けない!」
僕はもう気付いている。母さんが話してくれないのは、父さんが口止めしているからだってこと。
こんな風に誤魔化されるのも、嘘を付かれるのも僕は好きじゃない。
だから今、父さんや母さんの言っていることを素直に信じることができないでいる。
唯一僕に嘘や隠し事をしないのは、ピアノ教室の百合子先生だけだった。
いつも厳しいけど優しい先生が僕は好きで、今まで1度もレッスンを休んだことはない。
「私は他人だからわからないけど、何か事情とか理由があるのかもしれないでしょ」
「僕はただ真実が知りたいだけなんだ……理由なんていらない!」
「真実だから話さなきゃいけないってことではないのよ」
「でも!」
「あまりお父様やお母様のことを疑ってはダメ、あなたにとって大切な人達ならなおさらね」
「うん……」
先生が今より少し若い頃に、この教室には井関直也と言うとても優秀な教え子がいた。
幼少時代からその才能を発揮し、ピアノに触れていないと落ち着かないと言う変わった性格。
ピアノのために腕を鍛えたいと水泳部に入部し、学生時代はピアノと水泳を両立させていた。
時にはケンカをして痣だらけで教室に来ることもあったが、いつも楽しそうに弾いていたという。
でも井関さんの両親はとても厳しく、18歳になった頃にピアノを辞めろと言い始める。
誰よりもピアノが大好きだった井関さんは、親の反対を押し切り先生の後押しだけで留学を決意。
世界中で活躍するピアニストになり、帰国後には自らピアノ教室を開いて教えていると言う。
今もまだ教室の隅に飾ってある写真には、真剣にピアノに向かう18歳の井関さんが写っている。
「先生に出会えて本当に良かった……ありがとう」
井関さんはそう言って海外へと旅立っていき、その直後に3歳の僕がこの教室にやってきた。
椅子に座るなり曲を弾き始めた僕に、先生は幼い頃の井関さんの姿を思い出したという。
僕に才能があると思った先生は、井関さんと同じ練習方法で僕の腕を鍛えてくれた。
「何だか最近調子悪いわね……自分の弾きたい曲を探してみたら?」
「うん……」
「とりあえず、次回までにここのところ譜読みしてきて」
「わかった、じゃあね先生!」
家に帰ってからも直ぐに楽譜を取り出し、最近調律してもらった調子の良いピアノに触れる。
先週までの鈍い音から一変、新品のような澄んだキレイな音が部屋中に響いていく。
すると突然、僕の脳裏に調律師さんの言葉が過ぎった。
「このピアノは本当に古いね……ご両親が生まれる前からあったんじゃないかな?」
「そんなに古いんですか!?」
「確かもう、これと同じ型のピアノは売ってないはずだから……」
演奏中の手を止めて深呼吸をした後、僕はゆっくりとGの音を鳴らした。
Gは僕の一番好きなソの音のことで、教室で1番最初に鳴らした音。
何十年も昔から、このピアノはどこにあったんだろう? 誰が使っていたんだろう?
そんな思いを抱きつつ、何度も何度もGの音を鳴らし続けた。
物心が付く頃には既にここにあって、ずっと家でこのピアノを弾いていた僕。
思い出すのは僕の1番古い記憶、誰かがいつも側にいて優しくピアノを教えてくれている。
「凄いね~もうこんなに弾けるようになったんだ~」
Gの音を鳴らしながら何度も思い出そうとしたけど、思い出すことができない。
今まで楽器に触れたこともないといつも言う父さんや、母さんでないことは確かだ。
(一体誰が……)
モヤモヤした気持ちを掻き消すように、僕はページを捲って前に練習した曲を弾き始めた。
少し開いた窓からは蒸し暑い空気が流れ込み、もう夏だと言う気持ちにさせられる。
学校ではやっと期末テストが終わり、もうすぐ夏休みと言うこともあって終始リラックスモード。
そして9月に行われる体育祭、そのあと10月に文化祭も控えているためか校内は少し騒がしい。
まだ7月だというのに、もう体育祭や文化祭ついての話し合いが行われている。
でも僕はそのどちらにも興味を示さず、ただピアノのことだけを考えることが多い。
「じゃあ合唱祭の曲はこれでいいですか? 北島君伴奏やってくれるよね?」
「え?」
知らない間に話が進み、僕は勝手に伴奏者に推薦されてしまった。
別にそれが嫌というわけではないけど、素直に「いいよ」といえない自分が存在している。
とりあえず僕は、「考えさせてほしい」と言ってその場を逃れた。
今練習している曲もうまく弾けないのに、伴奏を弾く余裕なんてない。
好きだったはずなのに、楽譜を見てもただ音符が並んでいるようにしか見えなくなてしまった。
「もうピアノやめようかな……」
「もったいねーこと言うなよ! お前凄いんだからさ!」
いつもならちゃんと聞く翔ちゃんの言葉も、今回は流してしまいそうになった。
この日は変な天気だった。空は明るくて太陽まで見えているのに、少し雨が降っている。
こんな日に限って、嫌な予感が頭を過ぎったりする。
それが現実になっていくかのように、徐々に雨が強くなり嵐のような大雨へと姿を変えた。
授業の中止で喜んでいる翔ちゃんの隣で、僕は不安に押し潰されそうな心を必死に抑えていた。
各クラス事に下校していく生徒達に交じって、僕は翔ちゃんと駅を目指した。
駅に着くと、激しい豪雨で電車が遅れていると言うアナウンスが流れている。
階段の下は雨と風で人が立っていられるような状態ではない。
結局30分以上待たされたあげく、電車の遅れで普通なら30分の距離に1時間も掛かることに。
やっと家に着いた僕は、傘を閉じて玄関のドアを開けようとした。
だがドアには鍵が掛かっていたため、鞄の中から鍵を取り出し鍵穴に差し込む。
カチャッと言う小さな音と共に鍵が開き、そそくさと家の中に入り込んだ。
「ただいま!」
一応叫んではみたが返事はなく、買い物にでも行ったのだろうと思いながら奥へと進む。
洗面所でバスタオルを手にし、誰もいない家の中を進み階段をゆっくりと登っていく。
すると階段を登り切ってすぐに、父さん達の寝室のドアがうっすらと開いているのに気付いた。
(ドアはちゃんと閉めないと……)
そう思ってノブに触れるとドアはゆっくりと開き、僕はあるモノを見つけてしまう。
まるでさっきの不安を煽るように、僕の目に飛び込んできたのはうっすらと開いた引き出し。
今まで気にしたことがなかったが、その引き出しが開いている所を今日初めて見た。
いつもしっかりと閉まっていたため、その引き出しの中身は1度も見たことがない。
その下の引き出しにはいつもタオルが入っているし、更に下には母さんの下着。
でも1番上のこの引き出しだけは、何が入っているのか見当も付かない。
そっと鞄を床に置いて、深呼吸をしてから引き出しをゆっくりと手前に引いていく。
ちょっと中を見るだけだと言い聞かせながら、ドキドキする気持ちを押さえた。
引き出しの中には数枚の写真、そして楽譜やスケッチブックと一緒に携帯電話が入っていた。
恐る恐るその写真に手を伸ばし、僕は写真をじっと見つめる。
写真に写っていたのは、金髪で顔のあちこちにピアスのある若い頃の父さんの姿。
これが父さんだと直ぐに気付いたのは、以前高校の卒業アルバムを見ていたから。
そのアルバムにも、父さんはこの写真と同じように金髪にピアスの顔で写っている。
僕が最も気になったのは、父さんの横で笑っている見知らぬ女性の姿。
オレンジ色の可愛らしい文字で、全ての写真に書かれたコメント。
『2004年11月19日 マナミ&キタジマさん』
『2004年12月25日 メリークリスマス☆』
『2005年1月15日 マナミ&ダイチ』
最初の写真では金髪だった父さんの髪が、クリスマス以降の写真では黒髪になっていた。
写真の中で楽しそうに笑っている父さんの姿に、思わず顔がにやける。
だが最後の写真を見た時、僕は思わず写真を床に落としてしまった。
ガサガサと音を立てて落ちた写真を見つめながら、唾をゴクリと飲み込み最後の写真だけを拾う。
写っていたのは父さんとその女性と、女性の腕の中で笑う1人の男の子。
『2009年12月15日 かずき2才☆』
慌てて自分の部屋に戻った僕は、胸の鼓動が徐々に早くなっていくのに気付いた。
「何で僕の誕生日に!? あの人誰なんだよ!? 母さんは!?」
直ぐに本棚から昔のアルバムを出し、小さい頃の自分の姿を確認する。
さっきの写真に写っていた僕は、このアルバムに写っている僕よりも幼い。
アルバムの写真には日付がなく、いつの頃の写真なのかを知ることができない。
再び父さん達の部屋に向かった僕は、開いたままの引き出しから数冊ある楽譜に手を伸ばした。
恐る恐るページを捲ると、その楽譜にはびっしりと絵や文字で、曲のイメージが書かれている。
『私は小さな花 海辺にそっと咲いている とても可愛いピンクの花』
『雲間から光が射し、眩しい太陽の光が少年の目に飛び込んできた』
『少年の握りしめていた花がそっと光りだし 少年は走り出した』
その他にも、記号や区切りなどが色別に塗られていたり、音符の下にシールが貼られている。
そこに書いてある文章を一つ一つ読みながら、その文字を嬉しそうに書く姿を想像していた。
頭の中が写真に写る女性でいっぱいになって、まるでその人がすぐ側にいるような気がした。
何か温かさを感じ、突然瞳から溢れ出た涙が、ゆっくりと頬を伝って流れ落ちていく。
「お母さん?」
自分の発した言葉に、僕の心は激しく動揺しはじめた。
どうしてそんな言葉を口に出したんだろう、どうして涙が出るんだろう、わからない。
けどこの楽譜を見ているだけで、涙が止まらなくなる。会いたい、この人に会いたい。
もうこれ以上は見られないと判断して、僕は楽譜や写真を引き出しの中に入れた。
自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せになって枕に顔を押しつける。
それでも止まらない涙に僕の心は尚も動揺し続け、心臓の激しい音を全身で感じていた。
僕の1番古い記憶、ピアノを教えてくれている誰か、もしそれがあの写真の人だったら。
「きっと楽しかっただろうな……あんな風に曲のイメージを表現できて……」
1度でも「やめよう」なんて言葉を口にした僕にとっては、凄く羨ましいことだった。
今でもピアノが好きなことに変わりはなく、なぜあんなことを言ってしまったのかわからない。
あの楽譜を見た今となっては、「やめよう」と思ったことをとても恥ずかしく感じる。
どうしてあの写真の人は、自分の楽譜を手放してしまったんだろう?
自分の思いがいっぱい詰まった楽譜だから、きっと何よりも大切だったはずなのに。
どうして僕の家に、どうして父さん達の寝室に、どうしてあの引き出しの中に。
「和樹! いつまで寝てるの!? 早く起きなさい!」
昨日の雨が嘘のように、今日の空は雲1つない快晴で日の光が眩しいく窓から差し込んでいる。
もう既に起きていたけれど、いつものようにそれを口に出すことができない。
あれからしばらくして帰ってきた母さんの顔を、僕はまともに見れなかった。
父さんに至っては完全に無視するような態度を取ってしまい、母さんに注意を受ける始末。
でも胸に支える物が全てなくなるまで、父さんの顔を見たくないと思っていた。
今まで1度もあの写真や楽譜のことを話さず、何も言ってくれないからだ。
あの女性が誰なのか、どうして2歳の誕生日に写真に写っていたのか、全てを。
もしかしたら、僕が忘れているだけなのかもしれないけど、僕は知りたいと強く思う。
例えどんな理由があっても、きっと僕にはそれを知る権利があるはず。
朝から機嫌の悪い僕の態度に、誰よりも早く気付いたのは親友の翔ちゃんだった。
翔ちゃんこと城沢翔太(しろざわしょうた)君は、小学校からの幼馴染。
苛められていた僕を助けてくれたことから仲良くなり、同じ高校に進学した。
顔も美形でモテそうなタイプだが、生まれつき顔の頬のところに痣がある。
うっすらと緑色をしたその痣は薄気味が悪く、避けて通る人も少なくはない。
それなのに翔ちゃんは毅然とした態度でいるため、苛めたりからかおうとする人はいない。
「これが俺じゃん!」
そうやっていつも明るく元気な翔ちゃんを見ていると、僕はいつも悩みを忘れられた。
今回もそんな風に忘れられたらと思うのに、逆に心の中のモヤモヤは大きく膨らんでいく。
「和樹何かむかつくな!」
「な……何で!?」
「悩みあるなら言えよ、顔に出てるし! 隠されるとイライラするんだよ!」
翔ちゃんには何でも見透かされてしまうみたいで、今回も僕は急に逃げ場を失った。
誕生日のサプライズパーティーや、推薦で高校入試をいち早く突破した時と同じ。
どんなに隠そうとしても全てお見通しで、いつも怒られている。
けど今回だけは別、まだちゃんと話すことができないし心の整理もうまくできない。
ジワジワと感じる暑い空気と、額に滲み出る汗が妙に緊張感を煽る。
頭と感情がうまく噛み合わず、伝えたいことがちゃんとした言葉にならずに口ごもる。
「ご……ごめん翔ちゃん……考えさせて……」
「は? 何それ?」
「まだうまく言えないんだ……」
真っ白になりそうな頭を何とか回転させて、ありったけの言葉をぶつけた。
ぶつけるというより、軽く触れる程度でしかない弱々しい言葉。
いつもならしつこい翔ちゃんも、今回はそれ以上何も言わずに黙って歩き出した。
僕の気持ちを理解してくれたのか、それともただ呆れてしまっただけなのか、わからないまま。
(とりあえず学校へ行こう……それからちゃんと整理して翔ちゃんに……)
そう自分に何度も言い聞かせて、僕は翔ちゃんの後に続いて歩く。
妙な沈黙が緊張感を更に煽り、バス停に着くまでの数分間が何倍にも感じられた。
徐々に蒸し暑くなっていく空気の中で、背筋がヒヤリとする感覚に襲われる。
まるで悪いことをして、必死にそれを隠しているかのようだった。
勝手に引き出しを開けて見てしまったのだから、悪いことと言えるのかもしれない。
勝手に推測して勝手に動揺して焦って、頭の中で作り上げられるあり得ない結末。
いろんなことを考えすぎて、頭の中はパンク寸前の状態になっていった。
「おはよう!」
急に肩を叩かれて現実に戻ると、健が息を切らした様子で膝に手を突いて苦しそうにしている。
入学式で偶然隣の席になった健こと、天城建一(あまぎけんいち)君。
隣の中学に通っていたため下りる駅が同じで、通学中によく話すようになり仲良くなった。
翔ちゃんとも気が合い、僕以外で唯一翔ちゃんの痣のことを何も言わないいい奴だった。
「走ってきたの?」
「あぁ……疲れた……」
健は鞄の中をぐちゃぐちゃにかき回すようにして、定期入れを探し始める。
もうすぐ到着するバスを横目で見ながら、焦ったように鞄から探し出した定期入れを取り出した。
朝はいつもこんな感じで、僕と翔ちゃんと健の3人で学校に行くことが多い。
バスの車内で健と会話をする翔ちゃんが、時々こっちを気にしていることに気付く。
きっと僕が何も言わないことに苛立ちを感じているんだろう。
(翔ちゃんごめん)
そう思いながら視線をそらし、いつもと変わらない窓の外の景色をじっと見つめていた。
電車に乗り換えてからも僕はずっと無言のままで、さすがにこれには健も気付いて顔を近づける。
「和樹! お前さっきから何黙ってんだよ?」
健の急な言葉にしどろもどろしている僕を見て、翔ちゃんがため息混じりで呟く。
「考え事してんだってよ!」
その言葉は何故か冷たく、そんな翔ちゃんと目を合わせることができないままただ俯くだけ。
昨日のことを思い出すたびに、頭の中はぐるぐると回転をはじめて止まる気配はない。
その時、突然頭の中に1番古いあの記憶とは別の、新たな記憶が浮かんできた。
見知らぬ部屋の入口に立っている父さんと僕、ベッドが2つ置いてある病室のような部屋。
「ダメだったんだね……そうなんでしょ?」
震えたようなその言葉に、父さんは悲しそうな表情をしていた気がする。
僕はただ、ベッドの上で泣いている誰かを見ながら、必死に泣きそうになるのを堪えていた。
「和樹? 和樹!」
「え!?」
「下りるぞ?」
健が僕の顔を覗き込みながら首を傾げる。少し冷たかった翔ちゃんも心配そうな顔をしている。
僕は何事もなかったかのように平静を装い、作ったようにニコリと笑って見せた。
それを見て安心する健の横で、翔ちゃんはまだ心配そうに僕を見つめていた。
(翔ちゃんごめん……言えなくてごめん……)
心の中で何度も謝りながら、作り笑顔のまま学校へと続く道を歩いていく。
学校に到着するまでの間、僕の心は不安でいっぱいになってしまっていた。
破裂寸前の風船のように、向かってくる針に怯えながら緊張感の渦に飲まれていく感じ。
でもそんな不安でいっぱいの風船に、誰かがやってきてそっとテープを貼ってくれた。
針が刺さっても破裂することなく、ゆっくりと小さくなっていく心の風船。
「和樹……俺やっぱ気になるんだけど……心配だし……」
思いがけないその言葉は、昼休みの屋上で翔ちゃんに投げかけられた。
蒸し暑い空気の中で、時々涼しげな風が顔の当たりをすり抜けていく。
真剣なその表情は、朝の顔に少し似ている気もする。
今はむしろ、それ以上の感情が翔ちゃんの中にあるように思えた。
翔ちゃんの問いかけに、昨日の家でのことが頭の中に全て蘇ってくる。
数枚の写真も、様々な文字や色で埋め尽くされた楽譜も、微かな記憶も全部。
突然溢れ出た涙に、翔ちゃんも僕自身も驚きを隠しきれなかった。
「翔ちゃん……僕……昨日……」
涙を必死に拭いながら、それでも止まらない涙に動揺しながら、僕は話を続けた。
翔ちゃんは真剣な表情のまま、時々黙って頷きながら僕の話を聞いている。
勝手な推測から作られた結末や、不安な心を全てぶつけるように話す僕を見つめながら。
すると今まで黙って頷いていた翔ちゃんが、僕の頭をグシャグシャッと撫でた。
これが男女なら微笑ましく見えるんだろうけど、男同士だから何だか変な感じがする。
「大丈夫だよ!」
翔ちゃんの言葉が、僕の心の不安を優しく包み込むように流れてきた。
何の根拠もないけど、ただの気休めでしかないのかもしれないけど、少し不安が消えた気がする。
そして何かを決意したような表情でフェンスを軽く叩くと、突然声を張り上げた。
「和樹行くぞ!」
「え?」
「まだスケッチブックと携帯が残ってる……全部見てから考えればいいじゃん!」
「うん……そうだけど……いきなりどうしたの!?」
少し強気な翔ちゃんの言葉に、さっきまで溢れていた涙が一気に吹き飛んでいく。
やっぱり翔ちゃんには、人を勇気づける力があるんだと改めて思った。
「俺も行く!」
「行くってどこに?」
「お前んち! 今ならお前の母さんいないはずだろ?」
「え!? 今から!?」
翔ちゃんの言葉に驚き、思わず僕も声を張り上げてしまった。
確かに母さんは町内会の集まりで出掛ける予定、調べるなら今がチャンスかもしれない。
でも心の準備もできないまま、あの引き出しを開けるのには少し抵抗がある。
昨日は何も知らずに開けてしまった。それは興味本位や好奇心がそうさせたもの。
今の僕にはもう、そんな好奇心や勇気は残されていない。
もしかしたら傷つくかもしれない、知りたくないことを知ることになるのかもしれない。
新たな不安で体が震えはじめ、翔ちゃんが直ぐに気付いてなだめてくれた。
「大丈夫だって言ってんだろ? 親友の言うことは聞くもんだぜ?」
「翔ちゃんは……知りたいと思う? 翔ちゃんが僕だったら……」
「もしそこに真実があるなら、俺は絶対に確かめる……お前はどうしたい? 1番はそこだろ?」
「僕は……今怖くてまた泣きそう……でも知りたい……」
乾いた涙でカピカピになった頬を軽く擦りながら、徐々に押し寄せる不安に肩がまだ震えている。
けれど自分で知りたいと思ったことに間違いはなく、僕は何とか翔ちゃんの腕を掴み頷いた。
昼休みは残り10分、授業が始まる前に学校を出なければ先生に見つかってしまう。
それに気付いた僕たちは、慌てて階段を下りて教室へと向かった。
僕たちの慌てふためく姿に、健が気付いて歩み寄ってくる。
「何? お前らどっか行くの?」
「あっ……ちょっと……」
言いかけた所で翔ちゃんが叫ぶ。
「早くしろ!」
健の言葉に答える余裕もなく、僕は教室を出る間際に手を合わせてごめんと言うのが精一杯。
その直後の悔しそうな健の表情に罪の意識を感じながらも、昇降口へと全速力で走った。
授業開始5分前の予鈴が鳴ると、必ず生活指導の先生が窓の外を覗く。
出歩いている生徒がいないかをチェックするためで、見つかった生徒は厳重注意を受ける。
ただでさえ厳しいのに、僕たちのように鞄を持っていればさらに厳しく注意される。
厳重注意を逃れるためには、予鈴が鳴る前に校門の外に出るしかない。
広場の方から校内に向かってくる生徒達の間を抜けるようにして、僕たちは校門を目指した。
門を出た直後に予鈴が鳴り、僕たちは門の陰に身を潜めて先生の監視が終わるのを待つ。
5分後、授業開始のチャイムと共に窓は閉まり、僕たちはハイタッチを交わして駅へと向かった。
登下校時にたくさんの生徒で賑わう通学路も、今は静かなただの道。
いつもと違う雰囲気に、しばし忘れていた緊張が再び押し寄せてくる。
電車に乗り家との距離が近づくに連れて、僕の心はゆらゆらと揺れ始めていた。
頭が真っ白になり、意識が薄れて行く様な変な感覚の後、窓に喉頭部を強打し正気に戻る。
「大丈夫か!?」
翔ちゃんの問いかけに弱々しく頷くと、翔ちゃんに腕を引かれてドアの前まで移動した。
もう覚悟を決めなければいけない。もう逃げてはいけない。
(立ち向かう勇気を下さい、神様)
心の中でそう思った時、僕の脳裏にまた幼い頃の記憶が蘇ってきた。
まわりにいる大人達が皆、同じ様な黒い服に身を包んでいる。
その光景に少しだけ恐怖を抱いた僕は、隣にいたお婆ちゃんの手を握る。
お婆ちゃんは僕の手とギュッと握り返すと、泣きながら静かに呟いた。
「神様……あんたなんて残酷な……」
その言葉を思い出した直後に電車のドアが開き、僕は翔ちゃんと共に改札へと向かった。
階段を登りながら、今まで思いだしたいくつかの記憶を整理してみる。
いつも側にいて優しくピアノを教えてくれた。
病室のような部屋のベッドで悲しそうに泣いている姿。
もう二度と会うことはできないと言う、お婆ちゃんが見せた悲しそうな表情。
蘇った微かな記憶が、少ないながらも必死に繋がろうとしている。
曲がりくねった数本の線が、真っ直ぐな一本線へと姿を変えていくかのように。
「お母さんだ……」
「和樹?」
「やっぱりお母さんだ!」
「どうしたんだよ急に!! 和樹!!」
気が付けば僕は、さっきまでの不安を忘れたかのように、バス停に向かって全力で走っていた。
魂が震えるような沸き上がる感情を抑えきれず、バスが来るまでの間も落ち着くことができない。
突然の僕の変化に、翔ちゃんは驚きつつもどこか心配そうな表情を見せている。
正直まだ不安は消えていない。でもそれ以上の自分でも解らない不思議な感情が現れた。
バスの中でも落ち着くことはできず、どこかソワソワしてしまう。
20分後、バスを降りた僕は、さっきの興奮が少し冷めた状態で歩いていた。
変に泣いたり興奮したせいで、体が少し疲れている状態。
それでも早く行かなければという思いは強く、僕の足は自然と早くなっている。
翔ちゃんは何も言わずに付いてきてくれているが、きっと心の中では驚いているだろう。
さっきまで行くことを不安がってた僕が、早く行こうと必死になっている。
いつもならバス停から走って10分の距離を、我武者羅に走りわずか5分で到着。
いつもと同じ家の外観が、今日はどこか違う雰囲気に感じられる。
家の中は静かで、テレビの音も聞こえてこない。
「和樹、大丈夫か?」
「ごめん……でも僕気づいたから……早く知りたくて……」
「気づいたって……もしかして……」
「うん……」
翔ちゃんの言葉にしっかりと返事をすると、僕は深呼吸をして鍵穴に鍵を差し込んだ。
カチャッと言う音を立てながら鍵は開き、ドアをゆっくりと手前に引く。
少し生暖かい空気を感じながら、音を立てないようにドアをそっと閉める。
すぐに鍵を掛けると靴を脱ぎ、脱いだ靴を片手に2階へと上っていく。
途中で母さんが帰ってきても、僕たちがいることを悟られないためだ。
まずはそのまま自分の部屋に行き、鞄や靴を床に置いて部屋を出ていく。
まるで泥棒のように、音を立てずにゆっくりと父さん達の寝室を目指した。
うっすらと開いているドアの向こうに、あの引き出しが見える。
今日はしっかりと閉まっていて、見ていても特に気にはならない。
あの時、あの引出が開いていなかったら、きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。
今まで通り何も知らないまま、何の変化もない日常を過ごしていたに違いない。
たった1つの引き出しが、僕の感情をこんなにも変えてしまうなんて。
僕は迷わず1番上の引き出しに手を掛けると、ゆっくりと手前に引いていった。
中身はあの時と変わらず、写真も僕が戻した状態のまま入っている。
写真に写る父さんの笑顔が、僕の胸を切なく締め付けるような感覚。
「なぁ和樹……本当なのか? だとしたらお前の母さんは……」
「わかんない……でもこの人が……」
僕が最初に見た写真を翔ちゃんに手渡すと、他の写真を手に取り翔ちゃんの反応を待つ。
翔ちゃんは金髪にピアスだらけの父さんの姿に、今の姿を思い出しながら驚いていた。
そして隣に写っている女の人の姿を、何度もじっと見つめている。
他の写真の時も同じで、特に最後の僕が写っている写真には目を丸くしている様子だ。
この写真を見ているだけで、僕の心は動揺して感情を抑えられなくなってしまう。
翔ちゃんは何度も僕をなだめながら、僕が前に見た楽譜をじっと見つめていた。
楽譜の読めない翔ちゃんは、いつも口癖のように「目が疲れる」と言う。
そんな翔ちゃんが真剣な表情で見つめているお母さんの楽譜。
きっとお母さんが書き綴った言葉から、何かを感じているのかもしれない。
全てを読み終えて、楽譜を閉じた翔ちゃんの目から少し涙がにじんだ。
「翔ちゃん!? どうしたの?」
「これって……お前の父さんだよな?」
この楽譜を最後まで読まないとわからない、最後のページに行き着かなければ理解し得ない感情。
僕も最初はただ流し読みする程度で、深く内容を考えたりはしなかった。
でも最後のページに綴られた言葉を見て、僕は慌てて最初のページへと戻った。
再び最後のページに辿り着いた時、僕の目からも涙が溢れて止まらなかった。
この楽譜を 愛するあなたに贈ります
ありがとうの一言じゃ伝えきれないから 楽譜に目一杯書いてみました
いつか あの子と一緒に 読んでもらえたら幸せです
いつか僕とこの楽譜を読んで欲しいと、お母さんが思いを込めて父さんに贈った楽譜。
最初にこの楽譜を見つけた時、僕は何度も読み返してあることに気づいた。
必ず1人の”少年”が登場すると言うことと、その少年がいつも何かを守っていると言うこと。
それが時には1人の少女だったり、妖精や花だったり、壮大な世界だったりと様々。
きっとその”少年”は父さんのことで、この物語は父さんの性格を表したもの。
どんな時も一生懸命に、お母さんや僕のことを守ろうとしている父さんの姿を表したもの。
僕はそんなことも知らずに、ただ何も教えてくれなかった父さんを疑ってしまった。
「一番辛いのは父さんなのかもしれない……」
「辛いって……お前に何も言わなかったんだぞ? 普通怒るだろ!」
「でも……お母さんが怒らないでって言ってる気がする……」
「じゃあ他の人に聞くしかないよな!」
翔ちゃんはそう言うと、スケッチブックのページを捲り僕の目の前で広げた。
そこに書いてあったのは父さんの住所録、実家の方の住所や電話番号が書いてある。
だが翔ちゃんが指さしていたのは、隣のページに書かれた違う人の名前。
「この人がどうかしたの?」
「隣に書いてあるってことは、父さんの知り合いかもしれないじゃん!」
「そうか!」
小さな希望の光が、不安でいっぱいだった僕の心をそっと照らしていく。
改めて父さんの住所録を見ると、少し雑な字で『こんなオレだけどよろしく』と書かれていた。
頭の中で何度も父さんの顔を思い浮かべながら、何度も写真を見つめる。
この金髪の父さんは凄く楽しそうに笑っているのに、僕の知っている父さんは心から笑わない。
僕が忘れているだけかもしれないけど、心から笑う父さん姿を思い出せないことに気づいた。
「どうする? とりあえず行っちゃう?」
「ううん……まずは電話してみないと……」
必死に平静を装ってはみたが、まだ不安な気持ちを隠し切れていなかった。
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