2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全19件 (19件中 1-19件目)
1
やっとミフリのあるカレイチでもADSLがつなげるようになった・・・なんて偉そうに書いているけど、私はADSLが何なのか、実はよく知らないのである。トルコに来て13年。1980年代半ばから90年代初めまで日本でライターやっているときはまだパソコンで書き物をする、という状況はなかった。日本語ワープロが仕事道具。最後の1年間は28万円ぐらいで買ったパソコンで書き物をし、それを相手のファクスに直接送れる・・・という方法を試したような、試さないような・・・そんな時代であった。ワープロでDOSファイルのフロッピー渡し・・・・というのが最先端の技であり、一部の編集部じゃファクスしてください、もしくは手渡しの世界であった。トルコに来て、仕事の必要性から1998年ごろからパソコン、インターネットを使い始めたが、ADSLがアンタルヤに来たのは今年らしいし、それもまだまだ限定地区と限定電話番号。たまに行く日本ではADSLという文字は見ていたが、それがパソコンと電話を同時に使えるとか、インターネットつなげっぱなしで均一料金とか・・・・・。それも最近、教わったから知っているだけで、実は去年まで何のことだか知らなかったのであるから、おめでたい。さてさて、トルコでのインターネット経費はサーバーのパッケージが1か月あたり10ドルぐらい? 初期は月に20ドルぐらいと高かったけど、今年はもっと安かったかな? それに電話料金。それがバカにならない。ミフリはネットショップもやっているけど、なんていうか見ている人は決まっているので、パソコンに張り付かなきゃならないような事態はないけれど、その他の取引、やりとり、メールへのお返事など、もろもろ毎日最低2時間ぐらいはインターネットにつなげる。(楽天日記も合間を見つけての投稿で、本当にみなさまに不義理していますが、日記を見にいったり、コメントする機会もあまりないのです。・・・その割には書いている日記が長いぞ・・・!? って)HPの更新もあるし、画像を送ることも多いので、月々のインターネット専用の電話代は日本円で15000円をくだらない。パソコンの使い方もよくわからないので、本当だったら回線を切ってやればいい作業も、電話代を払いながらやっていたりする。しかも電話は会社名義のものだけで4本あるから、毎月の支払い額を、見て見ぬふりのミフリ社長である。仕事だから仕方がないや・・・と思っていたのと、ADSLが何かわかっていなかったおかげで、今までこれでやってきたけど、このところの電話料金を見ていたアドナンが、これではいけない! と思ったのか、いろいろ調べてきてくれた。結果、ADSL地域で電話番号も使えるとわかり、料金も月々3800円ですむらしい。これは申し込むしかないわけである。というわけで、遅ればせながら、人生で初めてADSLのお世話になる。日本じゃ、もっといろいろあるのでしょうね。よくわからないけど・・・・。
2004年10月31日
なんだかミフリ社長は遊んでばっかりいるみたいである。またまた国内出張の予定をたてることになった。実際はまだ先の話であるが、その間に細かい作業と、近場への出張などが続くので、先延ばしにせず、できるときにできることしてしまおう・・・というのであるから、なんて偉いのだろう・・・と自分を誉めてみる。なんて、実は外回りのクセがついてしまって、店にじっとしていられないのである。・・・って、店番しないで、どこが絨毯屋なんだ! と言われそうだが、実際、店にいないし、店が閉まっていることが多いのであるから、やる気は見事に・・・ない。目指すは予約制絨毯屋。いずれは会員制絨毯屋というのも考えている。だからいいのだ・・・って、本当に絨毯屋か!?旅の予定はいつものコースに+中央アナトリアの某都市も含まれることになった。地中海からマルマラ海、エーゲ海、塩湖も見て、再び地中海へ。走行距離は村への出入りを含めず約2000キロ。村への出入りも含めるとトータル2400キロの予定。これを5泊6日でこなすから、1日400キロも走ればいいわけである。この計算が、トルコの場合、郊外を走るのに1時間で60キロで計算すると、ほぼ時間が出る。1日7時間走る。ところが普通のトルコ人は平均時速100キロで計算するので、私たちの算出する時間とかなり食い違う。でも実際に走ると、そんなに速く走れないものだよ。それともレーダーに捕まって罰金払っていることは内緒か・・・!?夕方、新聞記者のフセインが来ていたので、「さあ旅に出るから、一緒に計画を立てよう」と言ったら、「ボクはもう二度と旅に出ない」と言われてしまった。先日の失恋の痛手からまだ立ち直っていない・・・。しかたがないので、ミフリ社長の中で、年中行事として一番大切な年越し新年のパーティーの計画でも・・と思って「2005年の新年パーティーはどこでやる?」と聞いたら、フセイン「・・・・・・」と無言。いい加減に2か月前とか、3か月前とかに計画するのはやめてくれ! と言わんばかりである。まあ、いいや。自分たちだけの出張なら、毎度のこと実にいい加減。行き当たりばったりだけど、お友達も同行するのだから、計画は早めに、しっかりと・・・。計画しているうちが楽しいのです。(実際の旅は寝不足と疲労でボロボロになるだけだって!)
2004年10月30日
日本に送るキリムの何枚かに、修復が必要だったので、キリムの修理職人を呼んだ。彼は腕がよく、仕事にこだわりを持っているので、手を抜くことをしないので、気に入っている。修理職人というのは、トルコに掃いて捨てるほどいる。でも仕事を任せることができるのはトルコでも名前を挙げられるほどしかいない。しかも古いものを任せるとなると、なおさらである。日本ではイラン人、トルコ人の修理職人の修復したキリム、絨毯を見る機会があるが、プロの仕事をまだ見たことはない。実際、修理職人である人は稀で、たいていが見よう見まねの修復で、穴は埋まっているけど、糸が合っていない、色が合っていない、修復箇所が明らかである。本当の修復を知らなければ、そんなものかと思って納得してしまうのだろうけど、基本的に素人目には修復箇所がわからないレベルでないと、私たちは修復と呼ばないし、それができない職人はプロと呼ばれない。新しいキリム、絨毯なら、ほつれの進行が止まればいいとか、穴がふさがったから・・・というので構わない場合もあるが、骨董になるとそういうわけにはいかないのである。修復をしないほうがよい状態のものもある。が、それらの例外を除くと、どんなコンデションのものでも、たとえボロボロのものでも完全に修復することが可能である。糸の様子、モチーフの有無により、修復の技術が困難、簡単。または修復箇所が明らかになりにくい、なりやすい・・・リスクを抱えるもの。なども当然だがある。だが腕のよい職人は、それらを経験から知り、もっともよい状態に持ってきてくれるのである。修理職人はたいてい、小学生のころから親方のもとに、丁稚として修行に入る。無報酬に近い形で、親方の技術を盗み(誰も教えてはくれない)、経験を積む。性格的に向き不向きはあるし、最終的にはセンスの問題であるから、経験が長ければいいというものでもない。センスのよい人は、短期間で、修復がなんであるかを身につける。ミフリには日本からキリムの修復を勉強しにくる人も訪れる。一般的には最低5年程度やらないとどうしようもないのであるが、日本人はよほど器用な人種なのだろう。トータルで半年~1年も勉強をすると、一通りの技術と、実際に骨董の修復をやれるかな、ってレベルになる人が少なくない。勉強に来ているという意識の差かもしれないが、日本人が本格的にやったら名人が出てくるに違いないと思う。ただ日本人で不足しているのはキリム、絨毯をたくさん見る機会がないということ。文化としてのキリム、絨毯もないし、見分け、良いものを見る目を養えていない。いくら日本でキリム、絨毯がブームになったところで、見る、もしくは手に触れることのできるものは知れているし、とくに古いものを見る機会はトルコでも減ったのだから、日本では本当に少ないと思う。事例をたくさん知ることも大切な修行のひとつだと思ったりしている。キリム、絨毯を知ることは、手に触れ、その糸の状態、質、よりの違い、染色の差などを身体で体験して覚える。というのがミフリ社長の持論である。いくら本で見たところで、その質感、糸の状態を思い浮かべることができないだろう。そういう意味では、修理職人は自分のものでないにしろ、たくさんのキリム、絨毯に触れ、実際にどんな糸を使うべきか色のことなどを考えるのであるから、キリムを知るもっとも近い場所にいる人ともいえる。修理職人にとって大切なのは、糸をどれだけ所有しているか、ということである。当たり前のようなことで、当たり前でないのだが、糸は売っているようなものではないということ。修復用の糸屋さんとかないですよ。自分でいろんなツテ、コネで古い糸、もしくは修復にも使えるようなウール糸を探すが、親方から譲りうけるか・・・・。適した糸がなければ、修復しても明らかになるし、腕のよい修理職人は自分の仕事に納得できない結果になる。糸が命です。ミフリは修復屋でもあったので、糸のストックは十分にあり、現在は修理職人にその糸を渡して、修復をしてもらっている。足りない分は染めるし、古くて糸の状態が良いキリムから解いて使うこともある。うっかりすると、糸代がバカにならないこともある。でも出来上がりを見たときに、満足いくものであれば、ミフリの社長もうれしいし、うちの修理職人もうれしい。キリムの修理は満足いかないときはやり直しをさせるし、骨董などの場合、下手な修理で壊された場合(価値を下げられた場合)訴訟もありえる。ヨーロッパのコレクターのお客さんの場合、修復にはなかなか厳しい。修復ひとつとっても、どの部分をどのような形で直すか、修理職人を交えて、事前に話し合いをする。お客さんによって、購入目的が異なるので、手を加えないでくれという人ほつれそうなところ、そこから穴が広がりそうなところだけ押さえをしてくれという人フリンジ部分はオリジナルを残して、中だけを修復してくれという人オリジナルにこだわらないから目立つところは全部修復してくれという人とそれぞれである。修復の仕方もお客さんの要求によって変わるし、またキリム、絨毯のコンデションによって、こういうやり方の方がいいですよ、とアドバイスさせていただくこともある。それは修復の代金にも影響するからである。通常、その作業にどれだけの材料費がかかり、何日働かなければならないか、で見積もりを出す。トルコの場合、有能な修理職人であっても、あくまで職人であるから、賃金は安い。しかも一人でできる作業は限られているので、たいていの修理職人はギリギリの生活を強いられていたりする。これだけの技術を持っていたら、日本だったら特殊技能者として日当2、3万円で計算しなきゃなあ・・と思うけど、トルコの場合、500円~3000円ぐらい。生活を豊かにするためには、丁稚をとって、自分が親方になっていくしかないのであるが、一人前の修理職人に育てる手間を考えると、一人でやっていたほうがいい、という人も多いし、今どき、トルコで修理職人の丁稚に入る子供や若者を探すのも難しい。修行を積んで、手に技術をつけるより、学校を出て高給の会社に勤める方がいいし、高給でなくとも工場で働いたほうが今日、明日の給料が手にはいる・・・と考えるのはトルコに限らず、万国共通であろう。・・・・とおまけの話がついつい長くなってしまったが、修理職人を呼んでキリムの修復について、打ち合わせをしたわけである。1枚1枚広げて、どこをどの程度に修復するか・・・その代金について、云々。ときには喧嘩をしながら、ときには怒鳴りながら、ときにはおだてながら・・・・。双方納得して、修復を任せるのである。もちろん出来上がってきたものを点検、確認する作業もある。それでまた喧嘩になることもある。でもこの喧嘩は実は楽しかったりする。うちの修理職人はキリムを愛しているし、自分の仕事に誇りを持っているので、根本的なところで理解し合える人物である。だから修復のことでモメても、最終的には納得してやり直しをしてくれるし、最初の打ち合わせも手を抜かない。どんなことでもそうなのだけど、仕事を愛し、誇りを持ち、相当の能力もある、そんなプロ意識を持つ相手との仕事は、本当に楽しいものである。ああ、今日も怠けるつもりが仕事をしてしまった・・・・。
2004年10月28日
今日はキリムの見本1点を博物館鑑定に出して、書類を貰い、通関で許可を受けて、郵便局から送って、仕事は終わり。中華レストランで遅めの昼ごはんを、アドナンと、滅多に家から出ない夫を誘って食べに行く。そこへ、断食をしている新聞記者のフセインが登場。満腹でつまようじでシーシーしている私たちに耐えられず、先に店に行っている・・・と立ち上がる。そのあと、イフタルの時間まで店先で、フセイン、アドナン、夫とチャイを飲み、グタグタ。(フセインはもちろんチャイなし)話の中でフセインが夫に「明日は一緒にイフタルの食事をしよう」と誘いをかけている。私たちの周囲で断食をやっているのはフセインぐらいのもので、フセインはイフタルを一緒に過ごす相手を見つけられないのである。孤独なイフタルを過ごしていて、たまにはつきあってあげたいのだけど、私たちの昼飯はたいてい3時ごろなので、6時20分ごろのイフタルでは、まだお腹がすいていないのである。フセインもミフリに遊びにくるものの、イフタル時刻になるとちょっと寂しい。で、ムスリマンであるはずの夫に誘いをかけているのであるが、夫は先にも書いたようにムスリマンであることを忘れようとしているので、のってこない。ついに誘いは私へも。「週末のイフタルは一緒に過ごそう」独身で、彼女はいないし、友人たちは断食なんかしない、家族はコンヤ。普段から仕事帰りは我がミフリに通うしかないフセイン。この私がイフタルにつきあってあげなきゃ誰がつきあう・・・って母心。ご飯は一緒に食べたほうが楽しいもんね。今週末は、似非ムスリマンの夫と、近い将来割礼をするだろう息子と、無宗教者のミフリの社長と、フセインのイフタルご飯につきあおう。腹が破裂するほど食べて、苦しがるのがオチであるが、イフタルご飯の風景は、この時期だけの楽しみでもある。
2004年10月26日
断食月なんだけど、周囲にやっている人がほとんどいないもので、(新聞記者のフセインぐらい)、本当に断食月なのかどうかも、わからない。もちろんアンタルヤの観光地区のなかにいるから、というのはあると思う。地方や村に行ったら、また事情は違うだろうし、むしろ大都会でもイスタンブルの方が保守的な人が多かったりするので、断食はもっと身近かもしれないけど・・・。トルコは信仰の自由が認められているから、イスラム教徒でない人もいるわけで、宗教行事だけど、日本のクリスマスみたいに感じているトルコ人がいてもいいわけで・・・。うーむ、でも少なくとも10年前のアンタルヤはもっと断食月っぽかった。やっている人ももっと多かった・・・というのは気のせいじゃないと思う・・・。食べる、飲む、吸う・・に関しても周囲に遠慮するという感覚が以前ほどなくて、日本人の私が遠慮しているのに、断食していないトルコ人たちは気にしていなかったりする。もちろん、断食は当人の問題だから、周囲で食おうと飲もうと、吸おうと勝手であるし、それに対して、誰かが何かを言うことはないのであるが、心優しきミフリの社長は、断食している人がいるかと思うだけで、自分も断食している気分になってしまうのである。断食していないトルコ人でも、アルコールは断つという。あの酒好きのジェムでさえ、断食はしないにしても断食月にはアルコールをとらない。アドナンも同じ。もちろん、ミフリの社長も(・・・って普段から酒は飲まないけど・・・)。我が家は日本人一家であるから、断食とは無関係。・・・といいつつ、ここだけの話、実は夫は15年ほど前にトルコのイスタンブルの偉い画家先生のすすめでイスラム教徒になったはず、である・・・。イスラムの勉強も一通りしたみたいだし、ムスリマン名も持っているし、モスクにお祈りに何度か行ったことがある、断食していた時期もあった・・・・。もちろん割礼もしている。当時はテレビや新聞でニュースになったはずである。最近はムスリマンになったことを隠しているのだが、そりゃそうだろう。普段の行動はムスリマンとは言えないもん。トルコでドムズ(トルコ語で豚の意味)は食わないけど、日本で豚は食う。ドムズと豚は別ものだ・・・というわけのわからない論法で、結局とんかつを食う。トルコ人でムスリマンを名乗る人たちの中にも、ムスリマンとしての義務を何もしないし、ドイツで豚肉食ったとか、トルコ国内でも豚肉を売るようになったので、それを食っているとか言うぐらいだから、夫もその中の一人として数えることにしよう。信仰はそれぞれの心にあるものだから、私としては一向に構わないことであるが・・・・。ところで、今日、久しぶりの休日になったので、クルマでスーパーに出かけた。金持ちトルコ人たちが集まる地区で、やはりレストランも普通に営業しているし、そこで飲み食いしている数も普段と変わりない。ここら辺はヨーロッパ化しているなあ、断食月を感じないなあ。で、唯一、断食だったのを思い出させてくれたのが、スーパーの商品揃え。フルマ(ナツメヤシの実)が大量に陳列され、シロップのたっぷりかかったデザート類が前面に出されていた。日本で年末に、紅白のかまぼこが並んでいる感覚(ちょっと違うって!?)、それで、ああ正月が来るんだなあ、て思う。フルマを見て、ああ、断食月だったんだなあ、って思ったわけである。買い物をして、混雑しているバーガーキングでランチにハンバーガーを食べて帰宅。明日も臨時休業。数ヶ月ぶりに家の掃除でもするかな。
2004年10月24日
11月下旬頃に、今年の初夏にアンタルヤへ来た人たちの再訪がありそう。KさんとRさん。ついこの間までアンタルヤに滞在していて、しかも帰国の際には鹿沼にも遊びにきてくれた。そしてまたトルコへ来るというので、一緒に旅でもしましょうか・・・という話になっている。日本とトルコは遠い。でもこういう来訪があると、実は近かったのかな・・・なんて思ったり。来たい気持ちでいる人たちはたくさんいると思う。でも日本に帰ると、みんな仕事だ学校だ家庭だ、となにかと忙しく、休みがとれないようである。KさんとRさんも、用事の合間をぬってのトルコ訪問。約3週間の予定。私もトルコに最初に来て、日本に帰ったとき、なぜか「早くトルコへ戻らなきゃ!」と日々思いながら、トルコへ思いを馳せたものであった。きっと、このときの私の気持ちと同じなんだろうな、と勝手に想像する。また来たいなと思う彼女たちの気持ちもよくわかる気がする。それぞれの事情、それぞれの環境がある。加えてそれぞれの性格も・・・。私は考えるよりは行動する派だから、トルコへ来たいと思った瞬間、本当にトルコに来て、そのまま10年以上が経ってしまった。よかったのか、わるかったのか。それは人生を終えるときまでわからないかもしれないけど、結構、どんなときでも自分の現状に満足する性格でもあるので、後悔はしていないし、将来もしないと思う。それぞれ、それぞれである。年内に来訪予定の方、お待ちしています。早めに予定をご連絡くださいね。今年は何もないときは別荘にこもってしまうかもしれませんので・・・。
2004年10月23日
日本からアンタルヤへ戻って以来、約5週間。出張、輸出、出張、輸出・・・で息もつく暇なかったけど、今日、キリム織りと修復研修できていたTさんがアンタルヤを離れると、1週間ほどはゆっくりできそうである。家の掃除、洗濯、買い物。村の別荘への荷物の運び込み・・・。実は何にもできていない。家の冷蔵庫は空っぽだし。洗濯は洗剤を買いにいけないから出来ない。ホームページの商品の入れ替えもしなきゃ。約束している出張先からのお土産プレゼントとか、旅の写真とか。その前に新しいデジカメの使い方を調べなきゃ・・・とか。昨日はひっくり返っている店の中をTさんとアドナンでお片付けをしていた。Tさんはキリムの積み方、畳み方まで学ぼうとしている。キリム織りのおこもりから戻ってきて、いろいろと話をする機会もできて、別れがたくなっているところで、別れが来るのである。Tさんには次回のアンタルヤ訪問予定もあるようで、また近いうちに会えそうであるが・・・・。誰かがいることに慣れると、誰もいなくなったときにつらい。トルコに来てからの私は、とにかくいつも誰かがいて、しかも大人数で時間かまわずの生活が普通になっていたので、一人でいることは滅多にない。ゆっくりできる・・・なんていっているけど、本当は淋しがり屋なので、ある、うちの社長は・・・。ゆっくりしたとたん、10歳も老けてしまうのがオチである。何もしないアイルランドのアラン島での老後生活を考えていたけど、どうなることやら。寒いだろうしなあ・・・。アンタルヤはお昼寝するのに、心地よい季節です。寒くもなく、暑くもなく、湿度も高くなく。昼間は半そで。夜も思ったほどは涼しくなく、半そでで十分だったり。これから序々に寒くなっていくのが怖いけど、冬の静まり返ったアンタルヤで、アイルランド生活の練習でもしておこう(・・・って環境が全く違うってば!?)。
2004年10月21日
今回、クルマで移動していて(いつもクルマで移動しているのですが)思ったのが、断食月の初日の昼間の、スピード違反取締りの多さ。いつも旅では罰金を食わないように・・・・というのが、目標で、元ラリー屋のミフリの社長も90キロで走るし、ミフリ社員のアドナンも100キロを越さない上に、レーダーつきの覆面パトカーに異様に反応するので、いまのところ捕まったことはない。今回、旅の後半から断食月に入ることはわかっていた。初日、「断食月に入ったから取締りはないよ」と何の根拠もない、ミフリの社長の発言。ところがブルサ~バルケシール~イズミール~ウシャクという行程で、少なくともスピード違反取締りを20か所で見た。しかも昼休みになると、飯食いにどこかに行ってしまうのが普通なのに、断食しているせいか、昼休み時間でも覆面パトカーがいたりする。しかも幹線道路でも村や町があるところでは70キロ、50キロと規制がある(普通は100キロ?)。急にスピードを落とすわけじゃないので、規制のあるところでも100キロで飛んでいくわけであるが、そういう場所で取り締まりをやっていたりする。私が運転している途中で一度止められた。スピードを出した覚えはないのだけど。スピード違反の取締りだったけど、私の顔を見たとたん「行け!」と警官が言うので、ただそれだけで何もなかった。ところで断食月に入ったわけだけど、私の周囲でやっているやつがほとんどいないので、今年は特に断食月という意識がない。・・というか、毎年毎年、断食月に入ったんだなあ、という意識が薄れていく。これは単に私が気をつけていないから・・というのではなく、実際トルコ人でやらない人が増えているからのように思ったりするのだけど、どうなのでしょう。アンタルヤだから・・・というのもあるのだろうけど、今回の旅の途中で田舎や地方でもやっていない人が増えている気がする。だから以前は周囲を気遣って食事をしていたが、今年はそれすらも忘れている。仕方がないので、コンヤ出身の新聞記者のフセインを呼んだ。フセインは断食を絶対する。彼を見ていたら断食月であることを確認できるだろう・・・と。フセインは「腹へった~」という顔でミフリにやってきて、夕方になって近くの食堂で食事をすませて「ああ、食いすぎた!」とうれしそうな顔をして戻ってきた。断食月はこれでなければいけない。ところでフセインは明日、キリム修復の勉強にきているTさんを取材するという。ついこないだ日本人のヤセミンに失恋してからは「もう絶対に、意地でも日本人ネタの取材はしない!」と言い切っていたくせに・・・・。ついでにアドナンに言われていた。「今年はカレイチの日本人(私のこと)が断食している、ってニュースはやらないのか!?」昨年は無理矢理イフタルの食事風景を設定させられ、ニュースで流れた。おかげで地方周りのときとか、ガイドブックの取材のときに「キミはもしかして断食している日本人か!?テレビで見たぞ」と見ず知らずの人に言われ、お茶を飲もうとした手を引っ込めざるおえなくなったことがあった。フセインは丸い顔をまた膨らませて「オレはイクミが断食しているなんて書いてないぞ!」と口を尖がらせる。いやいや別に構わないよ。フセインの丸い顔見ているだけでみんなが幸せになれるのだよ。(疲れているせいか、オチのない日記になってしまったぞ・・・!)
2004年10月19日
今回の出張は、頼まれていた商品の調査と、私個人の欲しいもの買い物ツアー。古いもの好きの友人にとっても買い物ツアー。で、ブルサではイーネオヤをまだ続けている村があるというので、行くことにした。村と言っても、普段行っているような山奥の村ではなく、湖畔の、しかも湖の中に島があり、そこにかかる橋で行き来する不思議な集落。その昔はローマ時代かなにか(いつものことながらいい加減ですみません!)城砦があったらしいところで、村人は今でも当時の名前で呼んでいたりする。村は漁業でなりたっていて、朝、漁に出て、昼頃までにセリが始まり、業者や個人が魚を買いにくる。ピチピチはねて、魚は箱から飛び出してくる。それを狙ってネコたちが集まってくる。村の家屋は、だいぶ新しいものに変わっていたが、古い家屋がそのまま残っていて、それが興味深かった。木組みで泥か土かで作った家。パーツだけでも欲しいと思っていたら、「先日、そこの一軒家を3ミリヤル(約23万円)で売った」と村人に言われて、その安さに驚いた。もちろん、手直ししなくてはいけない状態だけど、いまどきアンタルヤ近郊の村だって庭付き一軒屋を探すとなると200万円台である。ブルサはアンタルヤの2倍の人口をかかえる大都市で、町中の家賃や分譲住宅はアンタルヤより相場は高い。そのブルサからクルマで1時間。幹線道路から少し入った湖畔の村でその価格か!一緒にいったトルコ人たちも「別荘に欲しい! 1年に数回しかこれなくても構わない」と言いはじめたほど。私も家の安さだけではなく、こういう伝統家屋に住みたいと思ったりしていたので、心が動くが、わがミフリはそのお金も捻出できないぐらい貧乏なので、一瞬だけでも夢見たことでよしとする。この際はトルコ人の友人に買ってもらって、たまに遊びにいくことにしよう。村の一軒でお茶に呼ばれる。そこの家の嫁さんが、今でも頼まれるとイーネオヤを編むというので見せてもらった。新しいオヤは確かにきれいであるが、古いものがもつ雰囲気に欠けている。でも家に古いのがあるだろう・・と尋ねると、見せてくれた。2枚だけであるが、家に伝わっているものだという。シルク布に、昔のシルク糸を使って細かく編んでいるもので、花の形も立体のしかも、最近のものに見ないタイプであった。100年は過ぎているなあ・・と思って、いったいどれぐらい前のものか、伝えられている話をもとに計算したら、約150年前のものとわかった。ギョルヤズ村は、特殊な環境から、数は少ないけど観光客も訪れる。村に入ると、男性、女性すれ違う人全てが「ようこそ!」と声をかけてくれる。日本人はまず珍しいので、あちらこちらから声がかかる。女性たちも思ったより解放的で、実際は黒い布を全身に被ったりするのに(この地方の村の女性の風習)、その一方で船を漕いで漁に出たりもする。画像はミフリのホームページの「現場からの報告」のページで。そのうち公開いたします。
2004年10月18日
この間、旅から帰ってきた報告をしたと思うけど。しかも旅の話も終わっていないのだけど。さきほど6日間の国内出張からアンタルヤへ戻ってきた。昨夜は村のアトリエに泊まり、ゆっくり帰ってきたので、アンタルヤに着いたのはお昼過ぎ。それから旅の途中で「さあ、アンタルヤへ行こう!」と無理矢理クルマに乗せてつれてきたトルコ人の友人と一緒に中華屋でランチをとって、店でぐたぐた・・。アトリエの村からはワンボックスカーの後部座席に座って、眠りながらの帰還。友人一家をイズミールで見送ったとたん、緊張が解けたのか、頭は痛いし、眠たいし、脱力状態。明日から博物館鑑定と輸出の準備と手続き。ミフリスタッフの休暇は当分お預けである。今回の旅の報告は・・・・・。ホームページで写真入りで紹介する予定。ブルサのギョルヤズ村の話。
2004年10月17日
いろいろあって、今日、約500枚のキリムを見た。見たって・・・絨毯畑見学じゃあるまいし、ただ眺めたわけではない。絨毯屋だもの、ある目的があって(それは購入を目的とした品選びってことか!?)脳みそもかなり使った。アンティーク、オールドのみ。大小さまざま。産地も様々。なかには博物館でしか見られないようなものもあった。簡単に500枚といったが、これは単純計算で1枚あたりに1分かけたとして、8時間半。振り返ってみると、昼の2時から始まって、夜中の11時過ぎまでだったから9時間半。たしかに夕食の30分とトイレに行っていた時間以外はキリムを見続けたので、1枚1分のペースで見たこと、間違いないのである。息子が最後にぐずりだしたので、切り上げたが、もしそれがなかったら、あと3時間は見ていただろう。頭の疲労・・・・。幸せの極致・・・・。ふらふらの頭で、実は何を見たかすら、覚えていなかったりする(わけないでしょ!)。明日は何枚見れるのだろう。おやすみなさい。
2004年10月11日
・・・ってアンタルヤに台風が上陸したわけではない。もちろん、関東に上陸した台風の話。実家は千葉だし、夫のいるところは栃木だし、友人たちの多くも関東にいるので、家の屋根が飛ばされないか・・・なにかと想像して、どうか被害がないように・・・と祈るばかりである。情報が手に入らないと、余計な心配をしてしまう。日本からのメールで「トルコはテロで危ないのでしょ?」と尋ねられ「へっ?」と何のことだかわかないでいるのが、普段の私だけど、今回は立場が逆転。「関東に大型台風接近。9日は外出を控えるように・・・」というニュースをインターネットで見ただけで、「風速50mだって!? 屋根が飛ぶ、壁が壊れる、体重50キロの夫も空を舞う、関東は水浸しだ・・・房総半島は房総島になってしまう!」と想像だけが空回り。実は今日の成田発の昼の便で、友人一家がアンタルヤへ来ることになっていた。日本にいるならもっと詳しい情報が入るから、そんなに心配することもなかったのだろうけど、こちらではインターネットで追うのがせいぜい。成田空港のフライト状況を追っても、時間がこないと表示されなかったり、アクセスが殺到したのか、なかなかつながらない。友人の飛行機は飛べるのか、それとも欠航になるのか・・・。18時以降の便が欠航になる可能性がある・・・という情報を手にいれ、それなら飛べるだろうと・・・安心したのは、朝になってから。それまで2時間寝ては起きてパソコンを開き、また2時間寝ては起きて・・・の繰り返し。なんでそんなに神経質になったかというと、飛行機が飛ぶかどうかで、こちらで買ったトルコ国内のエアチケットを変更しなくてはいけない。チケットオフィスに変更の可能性があることを告げつつ、いざというときの変更方法、時間など打ち合わせもしておいた。当人たちから欠航も遅延も連絡がなかったので、無事飛んだということで、変更なしで処理し、ようやく一安心。今ごろ、インド洋上空あたりかな(実際にはどこをと飛ぶのか知らないけれど)・・・・などと思いながら、友人一家のアンタルヤへの到着を待つ次第である。
2004年10月09日
どういうもんでしょう。昨日は特別な用事はなく、私はただ店の前か中でウトウト居眠りでもするしかなかった。出入りの商人が5人ほど来たけど、あとはやることがないのである。来週から1週間の国内出張は、人数の都合でパリオくんではなく、ワンボックスカーでのお出かけ。クルマの手配も、ホテルの予約も、飛行機チケットの手配も、その他、仕事がスムーズに進むように、各手配も電話連絡ですませたし・・・・。フセインは弟の結婚式でコンヤに帰っているし、キリムを勉強に来た日本人のTさんは毎日村へ通い、絨毯を織り、夜は深夜まで修復の授業を受けに行っているし・・・・なんだか、私だけ暇である。暇であることは、怠惰な生活が本当は好きなミフリ社長にとっては最高の出来事であるが、日本からアンタルヤに戻ってきて以来、留守中のもろもろの処理、出張準備、来客、出張、村通い・・・と忙しくしていたので、それに身体が慣れてしまい、暇だと、何か物足りない・・・・もしくは、何かをし忘れているのじゃないか・・・と不安になる。これはいけない! まるで13年前までの日本での生活と一緒ではないか!!日本の慌しい生活がいやでトルコに逃亡して、トルコの時間の緩やかな流れに、何もしない時間に、身を任せる至福の時・・・・。トルコ人は働かないでチャイばかり飲んでいる・・・・という批判も、今では私のもの・・・だったのに・・・。結局、生活習慣、慣れ・・・がその人のペースを決めるのであろうか。でもトルコに来て、日本と同じ生活をするようでは、怠け者社長の名が廃る・・・。怠けよう。何もしないでチャイを飲んでよう。暇な人のそばに行って、意味のない話題で笑ってよう。今日と明日の2日間ぐらいは・・・・。
2004年10月08日
新聞記者のフセインがヤセミン(仮名、日本人女性)に好意を持っていたことは、すでにばらし済み。・・・で一緒旅をした結果、フセインの恋は「いい友達」として終わってしまった。それはそれでいいんだ・・・と強がるフセインだが、私から見たら、フセインは離陸しないまま自爆してしまった・・・というところ。告白するぞ・・・・というその時のセリフ。「ぼくは君を親友だと思っている。君はぼくのことをどう思っているの?」「もちろん私も親友だと思っているわ」「・・・・・・」そしてフセインは私のケイタイにメッセージを送ってきた。「ぼくたちは親友のままの関係でこれからもいることになった」私は告白して振られたのだなあ・・・と思っていたけど、実は上記のやりとりがあっただけだそうで、フセインはヤセミンが「親友だなんて言わないで! 私はあなたが好きなのよ。恋人と言ってちょうだい!」というのを待っていたのであろうか・・・・? フセインらしいと言えばフセインらしい展開であるが、彼の恋はこれで終わったのである。さて、私たちの周囲で日本人女性に恋をしているトルコ人がもう一人いる。アンタルヤへの帰路、通り道だったので、彼Gのところに遊びにいくことにした。地方都市でキリム問屋を経営している。性格が良く、礼儀正しく、正直者で、学歴もあり、好人物である。その彼が昨年、キリム織り研修で来ていた日本人男性を、私が彼のところに預けた縁で、日本語に興味を持ち、独学で、わずか1年で80%理解できるほどの語学力を身につけた。今年も彼のもとに、キリム織り研修の日本人女性を預けたら、その彼女と恋仲になったようで、遠距離恋愛になった今、毎日メールのやりとりをしているという。彼がエラいと思ったのは、外国人との恋愛に浮かれず、「相手をよく知った上で先のことを考えていきたい」と言ったことである。「でも結婚なんて、同国人同士でも勢い、っていうかタイミングってものがあるし、あまり考えると結婚できなくなるってこともあるよ。それに絶対別れない結婚っていうのもないわけだし・・・・」とは、41年も生きてしまった経験豊かなミフリの社長のお言葉。さらに彼は日本人女性の考え方を知りたいようで、同行した日本人女性に恋愛や結婚に関する質問を繰り返した。本当に真面目なやつである。私はGがいい人なので、とにかく幸せになってもらいたいと常に思っている。冷静な彼が将来的には結婚まで考えているのだから、もし相手の日本人女性も同じように思っているとしたら、キューピットであるこの私は、この二人の結婚披露宴に出席して、踊りを踊って、胸にお祝いのお金をつけさせていただきたい・・・と心から願ってしまう。トルコ人男性と日本人女性のカップルはたくさんいる。日本人は噂好きだから、何かとダメになるケースを耳にするが、うまくいっているカップルもたくさんいる。うまくいくカップルは、お互いの文化を受け入れて歩み寄れる同士か、はたまた自分をまだ確立していない、どちらかが年齢的にも精神的にも幼いカップルか(この場合、いずれ目覚めてしまって終わりになるケースもあるだろうけど)・・・・・。また日本人女性に捨てられたかも・・・と傷ついているトルコ人男性も周囲にはいる。私にしたら、騙したわけではないけど、日本に帰ったら彼女には現実が待っていて、トルコでのことは一時的な夢の世界であったりする。そして冷静に考えると、日本の安定した自分の境遇を捨ててまでトルコで先行き不安な相手と結婚するのはどうしたものか・・・などと思うのも無理ない話。自分の生活を持たない若い世代ならまだしも、30、40代になって仕事も友人も彼氏も住むところも遊び場もある生活を、捨てるって、本当に覚悟がいる。日本国内でだって、自分の住むところ以外のところに嫁ぐのは、それなりの覚悟がいるだろうし・・・・。それを捨ててでも彼と新しい人生を送りたい・・・と思うのであれば、それは本物だろうし、結婚に至るのだと・・・。いずれにしても思うのは、日本に帰った彼女が、トルコとトルコ人の彼を現実世界の存在として見つめられるかどうかにかかっているように思う。ではトルコ人の彼は何をしたらいいのだろう・・・。自分がトルコで何をしていて、どうやって暮らしていて、家族はどんな風で、嫁に来た場合、彼女はどんな風に生活するのか・・・・これらが実感させることができれば、彼は彼女と結婚するチャンスに少し近づけるかもしれない・・・?。・・・などなど・・・私は勝手に思っているだけで、実際はおせっかいにならないように、ただ見守るつもり。いやいやおせっかいにならないから頼むよ・・・というのであれば、お尻を叩くけど・・・!?
2004年10月07日
今日も村へ草木染め作業に行く。昨日のエゼンテレを灰焙染で処理し、さらに藍色と掛け合わせて緑にする。・・・その準備作業。本当に草木染めは面倒くさい。作業内容を書くのは簡単だが、灰焙染をするには灰が必要である。しかも5キロの糸に、50×100cmのチュワル(穀物袋)に2つぐらい用意しなきゃならない。アイシェが先日、パンを焼いたときの残りの灰だけでは全く足りなく、町のドネル屋や炭を使うレストランに連絡をとり、今日の分をもらえるように話をつける。それを夜中に回収して、でも熱いので冷めるのを待つ。朝になったって、そう簡単に冷めはしないけど、それを燃えないように袋に移し変えて、クルマに積んで、さあ村へ。まずアイシェを起こし、次に外で火を起こし。水を沸騰させ、灰を入れ、煮続ける。2時間煮て、さらに沈殿するのを待ち、上澄み液をとるのである。冷めたところで昨晩、遅くに釜からあげた糸をつけ、待つ。黄色が灰焙染でさらに別の黄色に変わる。この黄色は、この村では黄色としては通常使わない。これにウルバダの根を使い、さらに藍をかけて、緑にして使うのである。黄色としては他の染料を使う。アーモンドの皮、胡桃の皮、パラムット・・・。染料により、染め方も処理の仕方も当然だけど、変わる。アイシェはこれらを学校や染色教室で習ったわけじゃない。子供のころから、村で行われてきた染色を、忘れないように自分で続けてきただけである。だからどうしてこれを使うのか? どうしてこの方法なのか? 分量は・・・? などということを質問しても「わからない」というのが彼女の返事。でもこれでずっとやってきたし、分量なんかもいい加減だけど、彼女なりの適量があって、それでほぼ同じ色を出すのであるから、経験というものがいかに大切なことか・・・。灰汁につけている間、暇になったので、アイシェと話しをした。世間話が進むにつれ、アイシェは「娘が大学に進学したことで、私は親友を失った」という。どういうことかと話を聞くと、私も知っている歯科医の奥さんで、アイシェの友人Hという人がいる。アイシェとは10年来の知り合いで、週末のほとんどはアイシェの家で過ごしていた。信用していたし、なんでも相談した・・・。彼女のためにできることはなんでもした・・・という。ところがブルジュが大学に合格したころから、関係が変になったという。「大学に娘を進学させるってことは、いずれ娘に中絶を経験させる、ってことよ。大学の購買部では中絶の斡旋をしているの知らないの?」とか。「農学部に進学したって、何にもならない。それなら行かせない方がいいわ」とか。「お金がないのに、無理に行かせても意味ないわよ」とか・・・。他の人たちが「よかったねえ」と進学を祝ってくれるのに対して、親友であるHはアイシェにそういい続けたという。村で暮らし、世間を知らないアイシェは、最初はHの言ってくれることが本当なのかとも思ったという。ようするに「嫉妬」である。歯科医の奥さんとしては、村の教育を受けていない無知なアイシェとは付き合える。でもそんなアイシェの娘が大学に進学するなんて・・・許せないし、おもしろくないのである。Hの魂胆が見え隠れし始めたころ、アイシェは決意をしたという。娘が旅立つときは、新しいカバンに新しい衣類や日用品を詰め込んで、送り出したい・・・・と。実は娘の合格が決まってから、アイシェはお金の工面で困っていた。最初に支払う200ミリオン(約15000円)ばかりのお金が作れなくて、手続きができないかもしれない・・・という状況があった。でもなんとかして大学に行かせたい。Hの嫉妬で、逆にここで行かせなかったら、彼女の思う壺だと思ったという。でもお金がない。どうしよう・・・というとき、偶然、村を通りかかったドイツ人旅行者が外にかけてあったアイシェの手織りの絨毯を欲しがって買ってくれた・・・のである。こんな話、普通にあることじゃない。これにはアイシェも「神は見てくれている」と言ったが、無神論者のミフリの社長も同じ思いである。・・・このお金でブルジュは大学の手続きをとり、新しいカバンに荷物をつめ、旅立つことができたのであるというから、全てが映画のようである。Hはブルジュが大学に行くと決まってからは全く連絡もよこさない。ブルジュとアイシェが旅立ちにあたり、「でも最後にちゃんと挨拶をしよう」と彼女に電話をしたところ、「よかったわね」とか「気をつけて」の言葉もないまま、いきなり電話を切ったのである。自分が優越感を感じられる存在であった無教育で無知な村の女性アイシェ。たかがアイシェの娘のくせして、大学に行くなんて・・・って気持ちが嫉妬から攻撃に転換したわけだけど、本当に醜いとしか言いようがない。「気にしないことよ。彼女が嫉妬と攻撃を繰り返そうと、縁を切ろうと、一番大切なのはブルジュの現在と将来なんだから」と、最近、なんだか説教臭いミフリの社長である。私に嫌がらせを続けた例のトルコ在住日本人女性とトルコ人の絨毯屋。私がトルコで一人で、弱い者・・・だとでも思ったわけであるが、私は人様に後ろ指さされることもしていないし、貧しくも心静かに暮らしているおかげで、力を貸してくれる人たちが周囲にたくさんいる。誰に何を言われても、自分がそうではないから動揺もないし、お好きにどうぞ!の世界である。それに私自身も無駄に40年生きてはいない。だいたいトルコで女一人でヤクザな絨毯屋稼業をやろうという根性である。しかも10年続けてきた。それなりの知恵と度胸も持ち合わせている・・・・はず・・・である。(言い切れる自信はないけど・・・)神さまがいるかどうかはわからないけど、その人間の生きる力、強い心、変わらない良心・・・・そんなものが作用して、その人のことを守っているんのじゃないか・・・なんて思ったり。だからその逆説で悪いことをすると、誰がやらなくても、いつかどこかで自分に返ってくるんだよ。私は歯科医の奥さんHを攻める気持ちより、どうか自分のやった過ちに気がつき、平穏な心を取り返すことを祈っている。(でもこういうことやる人って、自分が人をたくさん傷つけたってわからないし、言い訳して自分を正当化し続けるのだろうなあ・・・)・・・・そして、私は近い将来「説教ババア」になるのかも・・・って。
2004年10月06日
旅の話はちょっとお休み。今日は早朝から、アイシェの旦那のバイラムと山で植物採集。なんのためかというと、もちろんウール糸の草木染めのための材料集め。エゼンテレという黄色の材料になる植物だけど、夏前に採集したときより、葉に黄色味がおびて、まさに採り時である。50×100cm大のチュワルにぎっしり詰め込んで、村に行く。糸を洗い、エゼンテレと糸とミョーバンを交互に釜に入れ、外に組んだ火に釜を設置する。・・・・と簡単に書いてしまったが、エゼンテレ摘みに合計3時間。糸洗いに2時間。釜に材料を並べてくべるまで2時間。気がついたら夕方になっていた。これから8時間ぐらいに火を絶やさないようにする。これはバイラムに頼むことにして、私たちは休憩。ところでアイシェの娘のブルジュは今年、大学に入学した。今日から新学期で、土曜日に娘を送り出したところである。初めての娘との別離。バイラムは「これはうれしい旅立ちなんだから、悲しんではいけない」といい、アイシェは「わかっているのだけど、娘の影を追って、いないことに気づくと自然に涙が出てしまう」と目を潤ませる。この旅立ちにあたって、最初アイシェは大学まで自分もついていくと言った。アンタルヤからバスで約12時間の場所である。手続きのときに一度一緒に行き、体重100キロを越すアイシェには苦痛の旅となった。「アイシェ、ブルジュはもうあなたの手から離れたと考えたらどう? これからは何かあってもすぐに飛んでいけるわけでないし、全て彼女自身が乗り越えていかなきゃならないのよ。一緒についていきたい気持ちはわかるけど、ブルジュは一人で行きたい、って言っていることだし、ここで見送ったらどうかなあ」私はアイシェにそう言ってみた。アイシェはそれには納得したらしく、アンタルヤで娘を見送った。それが2日前のことだけど、今日のアイシェの目は赤く、朝夕、泣いているのは明らかであった。私たちはアイシェが一人で何もしないと、余計落ち込むだろうと、草木染め作業をさせることにしたのであるが、やはりいつもの元気がない。チャイを用意したり、朝食を用意する度に「ああ、ブルジュだったら、スプーンを忘れたり、オリーブを出し忘れたりしないのに・・・・」と、おどけながらも目が潤みだす。そんなときにバイラムのケイタイが鳴った。ブルジュからである。バイラムが私にケイタイを渡すので、私が最初に話すことになったのだが、入学式が終わり、オリエーティングのあと、寮に入る・・・と、元気な声が聞こえてきた。私との話が終わり、待ち構えているバイラムにケイタイを返す。バイラムとアイシェが交互に話をする。バイラムが話すときは、アイシェが隣でケイタイに耳をあて、声を聞いている。アイシェが話すときはバイラムが・・。娘を遠くに見送った両親の喜びと悲しみの表情。なんだか胸がしめつけられる思いであった。裕福でないアイシェ一家は、娘に十分なお金を持たせることができたかどうか・・・それを気にし、これから卒業までの経済的負担を思い悩んでいた。でもそれがまるでうれしいことのようにも語るのである。次にブルジュがアンタルヤの村の両親の元に戻ってこれるのは、年末。村に行くたび、作業をするたび、ブルジュがいるのが当然になっていた私にとっても、彼女の旅立ちは喜ばしいことであり、また寂しさを感じるできごとである。
2004年10月05日
旅の日程の途中で、日本からキリム、草木染め研修のために日本人女性Tさんがアンタルヤに来ることになっていた。そのとき、私はアンタルヤにいないぞ、どうしよう・・・・。・・・ってことで、アンタルヤではなく、ブルサで待ち合わせをすることにした。Tさんがイスタンブルに着くころに、私たちもブルサ方面に進行中。Tさんにはイスタンブルからブルサに来てもらい、そこで合流しよう・・・ということになった。こういう待ち合わせはなんだか楽しい。日本人同士、外国の関係ない土地で、しかもこの日のこの時間ぐらいにここにいるよ・・・・っていう手がかりで。そのとき会えなくても、そのうち会えるだろう・・・ぐらいの。長期旅行者はこういうこと、普段からやっているのだろうけど(っていうか、日本人宿とか行くところが同じだからまた会ってしまうのだろうけど)、日本での知り合いとやると、なんだかワクワクする。ブルサのガイドブックでは高級ホテルとかかれている常宿に泊まり、オープンビュッフェの朝食をとるために最上階に上がると、そこにTさんがいた。「おはよう! いつ着いたの?」「今朝です」って、なんだか毎日会っているみたいな会話。でもこれでいいのだ。出会いのあとには別れもある。出会いも別れもあっさりとした方が、別れの辛さが少しは減る・・・っていうのが私が体得したことのひとつ。また会える・・・また「おはよう!」って言えるって。ヤセミン(旅を一緒にしている日本人女性)と別れるとき、どうしたらいいのか考えていた。ヤセミンは予定を変更して、イスタンブル2泊をキャンセルし、ブルサを1泊増やし、さらにイズミールまで来て、そこからイスタンブルの空港に直接飛ぶことになった。運よく、国内線の飛行機も取れ、お別れが1日延びたね、もう1日延びたね・・・って、私たちはドつぼにはまり、完全に別れがたくなっていた。「帰るのやめたら?」ってつい、思ってしまうほとであったし、冗談のように口にした。さて別れの日の朝、空港まで送っていこうか・・・とも思ったのだが、絶対、ヤセミンにとっても私たちにとっても、辛くなることがわかっていたので、タクシーで見送った。「じゃあ、またね。気をつけて」それぐらいしか声をかけられなかったけど、「じゃあ、またね」それが精一杯の本当の気持ち。案の定、彼女は一人になって涙を流したようだけど、これはトルコが楽しかったから・・・の涙。現実の日本に戻るのだという感傷・・・私も大昔(!?)に経験したことであるから、痛いほど気持ちがわかる・・・。出会いと別れはあっさり・・・私の基本姿勢。ただし気持ちはあっさりではなかったりする。実はとっても情が深い(手足の毛が濃い・・・!?)ミフリの社長は、涙を流すし・・・・(えっ!?そんなの見たことないって!?)相手への愛情が短期間で芽生えやすいので(男女の愛情に関する情は実はあまりない・・・)、別れのときには人一倍寂しさに苦しむタイプである。だからこそ、あっさり。明日も会うみたいに別れるのが鉄則。言葉と態度で大げさに表すのは、私の場合はトルコ人相手のときだけ(そうしないと納得してくれない・・・)。心の中で「また会えるよね」って、そっと思う。だって、また会えないときに、今度は私が傷つく。絨毯屋を始めて、いったいどれだけの人がやってきて、どれだけの人と再会できただろう。「キリムが好き」というキーワードでの再会度はかなり高い。お客さんともキリム仲間とも友達とも分けられない存在の人もたくさんいる。過去にはこの人、どうしてこういう裏切り方をするのだろう・・・という人も何人かいた。利用するだけして、自分でたいがいのことができるようになると、いきなり後ろ足で砂をかける・・・。そういうのは悲しいけど、日本でもそういう人なんだろう・・・お友達つきあいをしなくて、よかったと思うことにしている。でもね、絨毯屋として本音でいうと、お友達が増えるとお客さんが減る・・・。まっ、それでも実は全然構わない。将来、食うのに困ったら、お友達の家を回って、飯を食わせてもらうことにしているのだし・・・・。(そんなことが本当にできるかどうかはわからないけど・・・)
2004年10月04日
彼女・・・仮の名をヤセミンとでもしておきましょう(注:れっきとした日本人です)・・・・がアンタルヤへやってきました。フセインは、仕事を途中で投げ出して、しかも会社のクルマと運転手を使って空港まで迎えにいきました。予定では大きな花束を持っていくはずが、そんなこんなで時間がなく、野の花一輪。それでも渡し方を考えれば、格好がつくものの、つっけんどんに差し出して、ヤセミンには意味がわからなかったようです。・・・・さすがフセイン!そしてそこからフセインの苦行が始まります。ヤセミンがフセインへのお土産に浴衣セットを持ってきてくれました。その浴衣を来て、トルコの地方を回るというのが今回のメインプランです。それを知らなかったフセインは(一応、心の準備で1か月に渡り、浴衣とか着物とかの良さを語っていた私・・・)、この計画にびっくり。「ホテルの中で着るっていうのはダメかなあ?」「ダメ、一緒に着て、町を歩くのよ」惚れているから「NO」とは言えない・・・。浴衣を着て、イスタンブルやアンカラならまだいいにしても。外国人がほとんど訪れないような地方に行くのですから、トルコ人から「何だこれは?」と異様な目で見られることは間違いなしです。日本人のヤセミンなら「これが噂の着物か・・・」で終わるでしょうが、フセインはトルコ人。「トルコ人に似た日本人だなあ・・・」と思われるか、「トルコ人だけど変な奴だ・・・」と思われるか。ちなみに私も銀行や、お役所でよく話かけられます。「キミは日本人によく似ているねえ」そんなにトルコ語がうまいかというとそういうわけではありませんが、外国人ならもっとお上品に話すはずだ・・・ってところでしょう。旅の初日、フセインは浴衣を着せられました。本人が「うえ~ん!」と嘆くほど、変ではありません。むしろ体格が浴衣に合っていて、とても似合っているのですが・・・・。案の定、その姿で某地方都市を歩くと、まず日本人の集団だ(実際はトルコ人2名、日本人3名なのですが)と、みなが振り返ります。しかもヤセミンとフセインは浴衣姿。驚き方が面白いです。からかったり、野次を投げるという人は一人もいず、ただただ口をあけて、声もでない・・・・という感じで、目を見開いているのです。なんなのか聞きたいけど、声もかけられない・・・。だから見られても、不愉快な印象ではないのです。フセインもそれに気がつきはじめ、序々に浴衣姿に慣れてきました。そのうち、私もフセインが浴衣姿であることを忘れてしまったほどです。町にも自然に解け込んで(!?)いました。2日目は、また別の地方都市の友人の姪の結婚式があり、それに参加しました。ヤセミンとフセインはもちろん浴衣姿です。たくさんの人が集まるなか、浴衣姿で踊るヤセミンに注目が集まります。フセインは踊らないですみっこにいたそうですが、それでも注目度は花嫁以上だったとか・・・。これが事前にわかっていれば、地元の新聞記者とかテレビ局とか取材に来たことでしょう。そんなことになったらアンタルヤに戻ったときに上司に言われるかもしれません。「ニュースネタになるため、にこの忙しいときに1週間も休暇をとったのか?」心優しいミフリの社長は、そんなフセインのために、地元の新聞記者を呼ぶのをやめることにしたので、アンタルヤへ戻ったフセインは現在、無事、職場復帰しています。フセインの浴衣姿は「フセインを称えるアドナンのHP」で、そのうち見られるかもしれません。
2004年10月03日
アンタルヤを丘の上から見たとき、「ああ戻ってきたのだな」という気持ちでいっぱいになります。普段はアンタルヤはくそ暑いとか(言葉が悪くてすみません!)、観光都市だから金が全てでいやになる! とか、文句を言っているのですけど、私にとっても故郷になってしまったのだなあ・・・と思います。そりゃそうです。アンタルヤに来て、はや10年が過ぎようとしています。・・・・というわけで、6日間のキリムとキリム、絨毯織りの村を訪ねる旅から戻ってきました。走行距離は約1600キロ。移動していない日もあるので、距離的には少ないのだけど、イベントたっぷり、エピソードたっぷりの充実した旅でした。さきほど戻ってきたばかりなので、内容は明日以降に少しづつ書いていきます。われらがフセインはどうなったのか!?旅の空の下、話をしたこともない、絨毯屋らしき(?)トルコ人から突然ケイタイに電話がありました。気の毒なので詳しい内容はここでは省略しますが、アンタルヤを出て数日たっているのに、昨日アンタルヤでキミを見た・・・と言われてしまいました。う~む。もう一人の私がいるってことですかねえ。いろいろ不思議なことがあります。世の中には・・・。
2004年10月02日
全19件 (19件中 1-19件目)
1