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面倒臭くなって、やめた家探し。情報がいくつか入ったので、仕事の合間に行ったり来たり。アンタルヤ市の東から西まで。過去にも、アンタルヤの端っこがまだ野原ばかりだったころ。こんな風に不動産を見て歩いた。そのときに見た100万円、200万円のアパートが、今では手に届かない雲の上。今日はララに近い場所。辺鄙なところだし、ここなら安いと思ったら、とんでもなかった。そのなかでも建築業者から直接、自分の取り分となっている部屋を2つ見た。新築の4階建て。その2階部分。南と東向き。120平方メートル(約36坪)と小さめ。でもさすが新しいビルだけあって、丁寧できれいだった。3LDK。都会では大人数の集まるお客さん用サロンなるものは、単なる家具の陳列室になりつつあるので、家族用のサロンがあれば十分という考え方になっている。部屋は全て小さめで、これじゃ、うちの大家具は入りきらない。入っても人間が座るところがない。4階建てなのにエレベーターもついているし(でも2階だからあんまり関係ない)。新築は気持ちがいい。さて同じビルで1階と地下。合わせて160平方メートル(約48坪)。1階にサロンと台所、寝室、風呂。地下に部屋2つと、トイレ、シャワー室。きれいで広いけど、地下というのが気になる。光は入るようになっているけど、窓から外が見えないのはなんだかつらそうである。これは問題外。この辺りは最近開けてきて、あと5年待てば、かなり整備されるだろう。天然ガスも引かれるそうで、ビルの新しさは気に入った・・・けど。ちなみにお値段は2階120平方メートルが75000リラ(約600万円)、1階と地下160平方メートルが85000リラ(680万円)。この価格は、この地域ではかなり安い。建築業者の自前のものだからという理由もある。他の同じようなビルの価格を調べたけど、安いところで95000リラ(約760万円)よりである。300万円ぐらいでいいところが見つかるだろう、なんて探し始めて。300万円じゃ無理だ、予算を500万円にしよう。500万円じゃ無理だ、予算を700万円にしよう。ってことになってしまったわけだが、今では予算を1000万円に設定しないと、気に入ったところは買えないねえ・・・という結論に達してしまった。ところで正直言うと、ミフリ社長はお金は手元にあればあるだけ遣ってしまう性格なので、貯金というものは1円もない。1円もないというのは嘘ではない。通帳は持っているけど引き落としと、振込みが目的のものであり、貯まったのを見たこともない。残高として3000円ぐらいはどこかにあるかもしれないけど。したがって家を買いに、なんて言っているけど、お金があって探しているのではないのである。それだけお金を持っていたら、とっくの昔にカレイチの古い家を脱出している。・・・何を隠そうお金の工面はこれから・・・いい加減でしょ。というわけで、コレクションの一部を放出しますので、現金を出してくれる方はご一報ください。狙っているものがある方も、この金額でなら買ってやろう、というご連絡をください。今ならそれでもいいかな・・・なんて思うかもしれません。・・・なんてこと言ってみても、手元にあったら遣ってしまいます。1万円、5万円をコツコツと貯めることははっきり言って、できません。まとめてお願いしますよ~。
2005年03月31日
トルコ語が話せても、日本語が話せても。お互いに言葉がわかっても、その言葉への解釈には、かなり違いがあると思う。同じ言語で、同じような環境と習慣を持つ、日本人同士だって、言葉をちゃんと理解しあうのは簡単なことではない。人間というものは、自分の都合のよいように聞き、自分の都合のよいように解釈する。それで、あとで問題が起きたりする。ましてや、トルコ語と日本語。カタコトのトルコ語とカタコトの日本語で意思疎通をする。言葉の意味はなんとか、おおまかにでも通じる。でも不足の部分はそれぞれが自分式に解釈するしかない。埋める部分が多ければ多いほど、ひとつの話が全く違う話としてそれぞれの心にしまわれる。私も10年以上、この地にいる。滞在が短い人よりは多少、トルコの習慣、クセ、考え方をある程度はわかると思っている。もちろん日本人だから、トルコ人よりは日本人の習慣、クセ、考え方はわかっているつもり(つもりだけかも・・・!?)。それでも100パーセントは伝えられない。相手が日本人のクセを理解してくれるまでは、解説をいれながら。友達つきあいをしながら相手が日本人に慣れてくれば少しラクになるけど。お互いに理解をしあうということは。時間を重ねていかなければならないことで、またそれぞれの環境を知る必要があって、でもそれは容易なことではない。お互い相手の土地に10年ずつ住んだってわからないかもしれない。そんな状況では自分の話が通じているはずだと思うのは危険である。また相手も自分の話を、自分が意味したとおりに理解したとは思わないほうがいい。その逆もいえる。相手の言葉通りにとって、自分は理解したと思うこと。「私は言った」「ボクは言った」。「彼は言った」「彼女は言った」。これは意味がない。「言った」ことではなく、相手が「どう感じたか、どう理解したか」それを考えなければならない。言葉の壁、習慣の差がある以上、これらは考えなければいけないことで、言葉の壁、習慣の差がない日本人同士だって、考えなければいけないこと。あなたの言葉は通じていますか?
2005年03月30日
日本で見つからなかった「探し物」を探しに来る。その探し物は何ですか?見つけられましたか?でもそれは本当に探していたものですか?そうじゃなかったら「探されてしまったもの」はあまりにも哀れです。今朝(28日)から、サマータイムだった。もちろん私は忘れていた。朝、目覚ましは7時。外で聞いたことのあるエンジン音がしている。子供の保育園のお迎えバスに似ているけど、こんな早いわけないしなあ。と思いつつエンジン音が同じなので、窓からのぞく。するとタイミングよく、隣のホテルの送迎バスが来ていて、なんだ、このクルマの音か・・・・って思ったわけ。そしてケイタイ電話が鳴っているような・・・・。あとで見るとお迎えバスからの電話で、そこでハッと思った。「もしかしてサマータイムになっている!?」テレビも新聞も見ない(というか見れない)生活していると、こういう日常のことに疎くなる。それに今回は誰も言ってくれないんだもん。(人に頼りきりの生活)仕方がないので、クルマで息子を送って、そのとき近くにホームステイしているTさんの家のそばを通った。まだ家にいたら、戻りついでに学校まで送っていこうと思ったのである。でも時計を見て、「Tさんはまさかサマータイムになったこと、知らないわけないよなあ・・。もう学校へ行っただろう」と、電話をしなかった。ところがあとで聞いてみると、その時間、まだあと1時間あると思ってトイレにこもっていたころだという。「もう8時よ。遅刻しちゃうわよ。早く起きなさい!」というホームステイ先のお母さんの声に「また1時間あるのに、何を言っているんだろう・・」と思っていたという。そして気がついたときには遅刻。いつもならドルムシュなのに、タクシーをすっ飛ばすハメになったそうだ。店に行って、まず時計をなおした。針を1時間先に進めるのである。日が長くなっていくということである。暗くなるのが遅くなるということである。アンタルヤの夏は夜の9時ごろまで明るい。エーゲ海沿いに住んでいたころは、もしかして、もっと遅くまで日が沈まなかった? 野外映画館の会場が10時半とか、11時だった気がする。じわじわと暑さを感じる。クルマに乗ればエアコンをつけてしまう。新聞記者のフセインが道路で目玉焼きを作る季節が、もう目の前(それはまだ気が早いって!)。
2005年03月29日
トルコ人の女性画家の友人がいる。近所の有閑マダムたち相手に、絵画教室を開催している。その生徒たちの夫は政党のお偉いさんだったり、ホテルの経営者だったり、事業の成功者だったり、やたらお金だけは持っている人たちが多い。週に一度は、課外活動として、ホテルに泊まったり、誰かの別荘に集まったりという会を催している。課外活動といっても、みんなで団体行動というのではなく、先生である女流画家が中心になり、「今週は○○に行くつもりだけど」というと、何人かがそこに集まり、1泊の人、1週間泊まる人、行動は自由だし、帰路もそれぞれ・・・といった具合。夕食時にお酒を飲んだり、おしゃべりしたり、踊ったり、歌ったり・・・。今回はアドラサンのバンガロー村に集合であった。私たちも誘われて、クルマ2台で、約1時間半。着くと、今年新装開店したというバンガロー&レストラン。バンガローは新しく、ベットは硬くてしっかりしたもの。お湯は熱いのが24時間でた。エアコンつき。石浜のビーチまで徒歩1分。静かな入り江である。食事が3食ついて1人30リラ(2400円)であった。今回は生徒が17名に私たち4人。何をするというのではなく、一緒だったのは夕食の時間のみで、食事をし、それぞれ好きな時間に部屋へ行き、朝も海へ行く人、ラクダ牧場へ行く人、あひるにパンを投げる人、オケイをする人たち、ハンモックにゆられて新聞を読む人・・・。アドラサンはツリーハウスで知られるオリンポスの4、5キロ先。周囲は新緑と、黄色、緑、ピンクの花々。ビーチでは透明で静かな海を目の前に、貝殻拾い。何にもしない一日。新鮮な空気を吸って、海を眺め、ハンモックに揺られた。テレビもなく、パソコンもない。朝4時までおしゃべりして、9時に起き、今、ここにいること以外にないも考えない時間を過ごせた。こういう時間が必要なのはわかっている。でも時間に追われ、心の余裕を失っている。まともな睡眠時間もなかったこの1年半。一人で追いつけない細かい仕事と、その管理。さらにお客さんラッシュ。追い討ちをかけるように、頭を悩ませる友人のモメごと。実際はこの1泊の休暇は、明日以降のスケジュールに影響をして、私にとっては余計忙しくなるだけであるが、なぜか、そんなことを考えることすら、忘れていられたのである。
2005年03月27日
2005年のリメイク版を2月の帰国のさいに、飛行機の中で観た。映画とは全く関係ないことが脳裏に浮かんで、一人でウケてしまった。R&Kへ伝言、伝言。ぜひ観てください。突然ですが、週末は地中海のブルーと新緑を見ながらトルコ人のお友達とこっそり休暇です。休暇・・・なんて素敵な響きでしょう。現実の物理的、心理的な忙しさからの逃避です。ではみなさま、ご機嫌よう。
2005年03月26日
240平方メートルのペントハウスが気になる私たちだが、アンタルヤでは最上階は嫌われる。なぜかというと、真夏の暑さと夏シーズンの期間の長さ。南向きの日当たり良好の家は、アンタルヤでは逆にエアコン効かせてもなかなか涼しくならないという欠点になる。それに冬は冬で長雨で、水がビルに浸みてきて、雨漏り。雨漏りはトルコのビルの造りから、避けられない問題である。そうなんだよなあ、でもやっぱり憧れるなあ。と思いつつ、他の一般的なアパートも見ることにした。3LDK。エレベーターなし4階建ての2階。140平方メートル(約42坪)。南と東向き。隣は小学校。室内は手入れがしてあり、床も壁も状態はよい。デラックスではないが、こぎれいな使いやすい構造。つくりつけの収納もたくさんあり、部屋も狭くはなかった。ビル自体もそれほど古くない。きれいである。10年前後。窓には網戸がついている。大家の言い値は68000TL(約544万円)。実はペントハウスは顔見知りであるアンタルヤの不動産協会の会長からの紹介で、かなりのお得物件。この価格を基準に見てしまうと、他のアパートが安っぽく、そして価格が高く感じてしまう。50000TL(約400万円)ぐらいでないのかなあ・・・ってぼやくと、どこの不動産も大家も馬鹿にしたように笑うので、本当にいやになってしまう。ああ、昨年の今ごろ買っておけば、半額だったのになあ・・・・。ってもう遅い。一件、ほぼ新築状態、エレベーターつき、よろい戸つき、ソーラーシステムつき、内装きれいのアパートを見つけた。3LDKで145平方メートル(約44坪)。価格も65000TL(約520万円)。これならいいかも、と思ったのだけど、外国人が買うには問題の場所である。軍事施設に近いのである。外国人が買うには規制がある。地図にコンパスでぐるって円を書かれて、そこに入るとアウト。そういえば、この地区は以前も見た。ビルは新しいし、いいのだけど、買えなかったんだよなあ・・・・って思い出した。明日も見に行く約束がある。150平方メートル(約45坪)。3LDK。4階建ての2階部分。南と北向き。大家の言い値55000TL(約440万円)。ただし値引き交渉可らしい。外観だけは見た。ビルがちょっと安っぽいかなあ・・・・。と、ここまできて・・・・なんだか面倒臭くなってきた。なんだか価格が以前と比べて高くなったせいか、見てピンと来る物件もないし、いいか賃貸で、って。カレイチの今住んでいる家だって、広いし、土壁だから夏は涼しく、冬は暖かい。テラスからは地中海が一望できる。日当たりも最高!だし。上記の物件たちだって、5年前の相場は100万円~200万円だった。昨年のいまごろまでに買っていれば、300万円前後で買えた。過ぎたことは言っても仕方がない。でも見てあるくのも面倒になってきたので、不動産協会からのお得物件情報待ちにすることにした。今回だって本当は中古物件を見るつもりはなかった。新築ビルを建てるとき、大家でもある建築業者が費用の捻出のために安く物件を売ることがある。その情報待ちをしていたのに、会長さんに掘り出しもののペントハウスを紹介されて、なぜか中古物件巡りをしてしまった。これも勉強。でも本当に面倒になったので、ちょっと休憩することにしよう。そんなことより、仕事と出張のスケジュール調整しないと、大変、大変。ということで、相変わらず切り替えが早いけど、ちょっと家を買いに!? はこれが最終回。
2005年03月25日
ちょっと思うところがあって、アンタルヤの売りアパートの一室を見にいった。アンタルヤの中心地。カレイチまでクルマで10分。住宅地の大通り側。6階建てのビルのさらに上のペントハウス。エレベーターつき。4LDK。約240平方メートル(約72坪)。240平方メートルの室内以外に約80平方メートル(約24坪)はある巨大なテラス。東西南向き。日当たり良好。窓は外からはミラー状に反射してみえる、室内を覗かれる心配のないガラス(名称はなんていいましたか?)。各窓には鎧戸(雨戸みたいなやつ)。最上階なので暑さと湿気予防に屋根にそれようの対策あり。ソーラーシステム、セントラルヒーティング、なんだかすごい飾りの扉を開けるとクローゼット。廊下と台所、風呂、トイレは特注の大理石。部屋はフローリング。お金がかかっているのはよくわかる。大家の言い値は75000YTL(約600万円)。不動産が昨年の2倍になったアンタルヤでは、なかなかいい。部屋自体はとても気に入ったのだけど、問題はビルの古さ。どう見たって最低15年は経っているだろう。しかもビルが古いだけではなく、手入れを怠っているのか、汚い。せめて外側だけでもペンキでも塗っていてくれたらなあ。って思ったけど。この条件でビルが新しかったら、この価格じゃ買えないのもわかっている・・・。先日見にいった、カレイチから徒歩7分、9階建てビルの最上階。約140平方メートル(約42坪)の狭いフロアにぎっしり3LDK。ベランダは落ちそうだし・・・。眺望はとてもよかったけど、これで値引き交渉後の最終価格73000YTL(約584万円)よりは、いいかなあ、ぐらい。かなり悩みます。あなたなら買いますか?ちなみにアンタルヤ市はイスタンブルから南に約600キロ。地中海沿岸の観光都市。人口は約60万人。次回は新しいアパートが並ぶ、ララ方面の低層アパートの1階(日本式には2階)と、元野原を切り開いてアパートが建ちはじめたカレイチからそんなに遠くない地区の新築アパート。
2005年03月25日
ボクはキミに嘘をつく。でもボクは、キミがそれを調べたり、第三者に真実かどうか確かめないとでも思っている。だって、この広い世界に存在するのは、ボクとキミだけ。もしくはキミがボク以外の人間を信用しないという絶対の自信がある。もし嘘がばれても「冗談を言ったんだよ」と言う。「シャカ。シャカ」ってね。これで相手は怒れない。・・・・・・。以前から思っていたのだけど、A,B,Cという3人の人がいるとすると、AとBは会話をし、AとCも会話をする。でもAはどういうわけか、BとCが会話をするとは考えないわけ。だから何って話じゃないんだけど。トルコ人の癖?来週、私たちの友人Aのガールフレンドが日本から遊びにくる。今年2度目である。遠距離恋愛は、まして国際間になると経済的にも、体力的にも精神的にも大変だと思う。傍観しているだけでも疲れてしまう。離れているから、お互いのことが見えない。今は便利なもので、インターネットでチャットだ、電話だと話はできるけど、不安はつきものであろう。よほど精神的に強くなければ、この状態を続けていけないだろう、と思う。だって会えるのは年に2回か3回か・・・。日にちにすれば1年のうち1か月間もない。そして、これを続けて近い将来何か結果を得られるのなら、それもよし。でもどうなるかわからない先のために、しかも飛行機に乗って年に2、3回しか会えない相手のところへ行くのだから、やるせない。そのときが楽しければいいじゃない。と言うのも正解。会いたいから会いに行く、それも正解。恋愛って、つきあうってなんだろう、と思ってしまう。そばにいて欲しいときに会えて、うれしい、悲しい、楽しい、つらい・・・・ひとつのことを一緒にわけあうこと?国際遠距離はこれにはあてはまらない。声だけ、文字だけ。今日あったできごとを語りあう。せつない気持ちを伝え合う。でも触れることも、明日会おうね、っていうこともできない。この状態でつきあうこと、って、一体なんだろうと思う。我が家は妻と夫、両方が単身赴任のようなもの。日本の家から見たら、商売のために妻がトルコに子連れ赴任。トルコの家から見たら、夫が日本の店を開けるために単身赴任。夫がパソコンに触れないので、用事があれば国際電話。安い回線の契約をしていても、通話時間と回数が多いから、電話代はそれなり。お~い、電話代だけで破産しちゃうよ~状態なのである。・・・と話がずれたが、恋愛中のせつない二人と違い、夫婦の場合、国際遠距離はなかなかよろしい。我が家の場合、もともと年寄り夫婦なので、喧嘩は面倒だからしないし、相手のことをピリピリ監視したり、やきもちをやくこともない。で、久しぶりにあうと新鮮で、結婚して6年になるが、そんなに経ったのか信じられないほどである。・・・とまたまた話が横道にそれたが、おり姫とひこ星のように、年に一度だけ。それが何万年も何億年も続いて、その先にあるものは永遠の年に一度だけの逢瀬。それはそれでいいじゃない、の世界であるが、遠距離恋愛の場合、普通は状態を打開するために、あるとき決心をするわけである。どちらかが相手の国に行く。国際結婚。その決意はできないから、とりあえず、会ったときだけ恋人でいましょう。現実はお互い干渉しないで、ネット上でつきあい続けましょう。・・・それ以外の選択肢もあるのだろけど、ちょっと思い浮かばない。結論。世の中に存在するのはボクとキミだけじゃないってこと。(わかんないだろうなあ~)
2005年03月24日
最近、正確には3日前から、われらが新聞記者フセインの食欲がない。昨晩も一緒にレストランへ行って、スープのエゾゲリンを半分飲んで、メインをとらずに、クネフェを食べた。クネフェだって、いつもは2皿ぺロリなのに、半分食べたか食べないか・・・・。しかもコーラを飲みたいと言わない。これは絶対、病気に違いない・・・・!?心配したミフリ社長は、アドナンとMちゃんと私の親戚Eを連れて、フセインの家に夕食を届けにいった。夕食は白米のご飯とボルシチ風牛肉と野菜の煮込み、親子丼とコーラ。食べ物には保守的な彼は、鍋の中身を見て、「う~っ」とうなったが、作ってくれたEの手前、食べないと悪いと思ったのが、白米と煮込みを食べた。「胃の調子が悪くて、食べられない・・」といいながらも、お替りしていたので、なんだ元気じゃないの!?でもコーラは2杯で終わっていた。コーラは2.5リットルを寝る前に飲むのが日課なのに・・・・これは、おかしい!聞くと、昼間に取材で「エビ」を食べさせられて、それは全て吐いてしまったそうだ。朝も朝ごはんが食べられなかったというし、これは神経性の胃炎か・・・・。気のせいか、お腹まわりも少なくなったし、顔もすっきりしている。太っているのは変わっていないけど、たるみが減ったような・・・・。今日は夜は仕事はないそうだが、食事時もそのあとオーケイをやっているときも、電話や無線が入り続ける。明日も本当は休暇日なのに、朝からケメルへ行かなければならないらしい。食欲不振は実は仕事で疲れているせいなのか・・・!?明日、今度はフセインの大好きな牛肉のドネルとコーラの組み合わせで攻めてみるか。それでも食べなかったら、フセインの病名は「恋わずらい」か「若い娘の前でご飯が恥ずかしくて食べられない病」と勝手に決めることにしよう。人前で(ただし若い娘がいるときだけ)恥ずかしくてご飯が食べられないなんて。今どき、村の娘でもなかなかないぞ。純情フセインは健在であった!?ちなみに若い娘とは、ミフリ社長のことではなく、MちゃんとEのことである・・・念のため。(えっ!? わざわざ注釈を書かなくてもわかるって!?)
2005年03月22日
先日、村のアイシェから電話があって、「土曜日にボレキを作るから、たまには顔を見せにおいで」と。まいどのことだけど、定休日でもないのに店も開けずにみんなでお出かけ。アイシェは一人で、家の裏のカマドの前で、ユフカの皮を台の上で広げながら、ボレキを作っていた。今日のボレキの中味は、ほうれん草とたまねぎと香草、白チーズのミックス。全部自家製である。ここでは「ボレキ」と言うが、正式には「サチボレイ」。一般に言う「ギョズレメ」である。ブルジュは大学に戻っていたので、近所の若い娘がチャイの準備などに手伝いに来ていた。すぐにボレキと、これまた自家製ヨーグルト、チャイでブランチ。長袖シャツを2枚着ていったら、暑くて暑くてたまらなかった。それもそのはず23度~25度という気温。灼熱の夏はもう目の前である。昨夜は徹夜で作業をしていたので、食べたとたん、睡魔に襲われる。私が家の中で寝ていると、アイシェが毛布をかけてくれた。それからいったいどれぐらいの時間が過ぎただろう。起きると、カマドの前ではユフカ作りが始まっていた。小麦粉の薄いパンを作るのである。この作業は流れ作業で行われる。事前にネタを丸くしたものを作っておき、一人がそれを細長い木製の棒でお皿大に広げる。次の人がそれを直径70cmぐらいに広げる。もう一人は巨大な中華鍋をひっくりかえしたような丸い鉄板で、からからなるまで焼く。近所の女性たちが手伝いにきていた。今日はアイシェを手伝い、明日はファトマを手伝い・・という具合に、みんなで協力してその家のパンを焼いていくのである。このユフカは保存食である。カラカラの状態で置かれ、食べる前に水でぬらし、布でくるみしっとりさせる。パンとして食べられるのである。アイシェの家に昨年、通い続けて絨毯織りを習ったTさんは、ユフカ作りを覚えて、次回は手伝いに来ることを約束した。トルコへ来るたびにアイシェに会いにきていたMちゃんは、ボレキをお腹いっぱい食べて満足。トルコ滞在で心配するのが食欲不振である。食べられるうちは安心である。アドナンは普段は台所にも立たないのに、アイシェに言われてボレキ焼き。帰りにアイシェが作ったグリーンオリーブを山のようにもらった。塩分をおさえてあり、オリーブ自体の甘みも感じることができ、そのままいくつでも食べられる味だった。もちろんボレキとユフカもお土産にしてくれた。今日、仕事で来れなかったフセインにも食わせてくれ、とのお土産である。ボレキもオリーブも普段は食べることがほとんどないのだけど、なぜかアイシェの家で食べるとおいしく感じる。アイシェの笑顔と村の空気がそうさせるのであろう。なんにせよ、久しぶりにアイシェに会って、村の空気を吸って、リフレッシュできた一日であった。アイシェの家に遊びにいったことのある人にとっては、目の前にその風景がすぐに浮かぶことだろう。変わったことといえば、家の玄関の方に、広範囲でブドウ棚を作っていた。夏は家の前にぶどうの葉の木陰ができる。アイシェのスカーフの下の髪の毛は、とても短くなって、男の子のようにかわいらしかった。飼い猫のバティが妊娠していた。もうすぐ産まれるみたい。昨年産まれたパティの子は1匹はもらわれていったが、もう1匹はアイシェ宅にいて、パティそっくりに少し大きくなった。
2005年03月20日
今日、古くから知り合いのトルコ人絨毯屋Bに誘われて、ランチを共にした。店にいたアドナンとMちゃんと3人で出かけて、ごちそうになってきたのだが、食べたところはカレイチでも地元業者しか姿を現さない、隠れ家的オジャクバシュ。囲炉裏端焼きとでもいいますか?そこででた話が、私とBの共通の知り合いである「ペテン師」くんの話。簡単に言えば、人のものを自分のものにしてしまう名人である。国内業者間ではかなり有名な話であるが、Bはそれが本当なのかどうか事実を知りたいという。というのもペテン師くんこと、Pくんは、Bを始め商売仲間には自分の潔白を長々と説明するので、Bも最初は話を信じたという。でもいくつかの矛盾点や彼の地元の業者から聞く話に差がある・・・。それにまつわる噂話を延々と聞かされた。本当はどうなんだ・・・? という話であった。どうなんだ・・・と言われても、私にとってはどうでもいい話だし、絨毯屋間の噂話ほど、みにくいものはないので、Pくんのことはさておき、私がトルコで体験してきた一般的な話をしてみた。「私はメッカ巡礼にも行ったし、毎日5回のお祈りもする。ムスリマンとしての義務も果たしている。嘘をついたり、人を騙したりもしないのだよ」という60歳過ぎのハジュ(メッカ巡礼の義務を経た人への呼び方)がいた。何度か会って、さすがハジュだという周囲の評判も納得できた。ある日、彼の家のリビングで二人きりになる時間が10分ほどあった。奥さんは台所にいた。するとハジュが私に言う。「これは悪いことではないのだよ」「へっ?」「キミならわかってくれると思うけど」「なんですか?」「みんなやっていることだから」・・・・と、まわりくどい言い方。要するに私に、愛人になってくれる日本人女性を紹介してくれ、という話である。紹介というか、キミは私に愛人を割り当てる義務がある・・・・って展開で、妙な説得のされ方をされた。でも奥さんがいるじゃないですか?と言うと、ハジュは「私の奥さんは病気で、ほら、わかるだろ? 夜の相手ができないんだ」と。そうじゃなかったら、こんなことは言わないよ、と言う展開であった。奥さんが病気なのが悪いのであって、愛人を求める自分は悪くない。なんだか変なことを言っているなあ、と思うわけ。それよりなんで日本人の愛人なんだかわからない。「お金を払うから」とか。「週に3回でいいんだよ」とか。「本当はこんなことはしたくなのだけど、奥さんが病気だから、仕方がないのだよ」とか。で、私が言うわけ。「それは奥さんも承知していることなんですか?」「もちろんだよ。病気で夜の相手ができないことは本人が一番よくわかっている」私はポン引きじゃないんだから、ハジュに日本人女性の愛人を見つけるなんてことは考えないけど、ハジュなんて言って、ただのエロ親父じゃないか、って。だって奥さんが台所から戻ってきたら「今の話は内緒だよ」って言う。で、私が「奥さん、身体がわるいのですってね?お大事に」と奥さに言うと、奥さんはいったい何のこと? って顔をしていた。ハジュはあわてた顔していたし・・・・。愛人紹介しろ、しかも日本人女性・・・なんて、日本人をなんだと思っているのだ、と気分も悪かったので、この話を周囲の人に言った。でもほとんどの人が言う。「彼はハジュだし、人間的にも立派な人だ。奥さんを大切にしている。そんなこと言うわけない。キミの聞き間違いだよ」・・・ってわけで、私が「嘘つき」にされてしまうのである。男性世界で見せる立派な人の顔、そのかげで女性をモノ扱いする心、平気で嘘をつく口・・・抑制されている人ほど、裏側のひずみは大きいのだと感じる。某地方都市。これは私たちだけでなく、トルコ人たちも言う話だけど、宗教家の顔と実際の行動(ただし隠れた行動)の差がこれだけ大きい地域はないだろう・・・と。厳しい社会だから、家族、親戚、知人、地元の友人間では「私はお酒を飲みません」「私は断食をしています」「私はモスク出のキリムを扱いません」などと言うのだけど、地元から離れたり、知っている人がいない場所では、その行動は全く逆。ようするに自分の確かな信仰、信念より、他人に見られるか見られないか。なのである。自分の信念であれば、他人がいようがいまいが変わることはないはず。彼らのは、誰かに見られていなければ、何をやっても構わない、っていうヤツである。だから外国人になら何をしても周囲にはバレないだろうとか、って話になる。外国人が何か訴えたところで「あの外国人は嘘をついている。私はムスリマンだから嘘をつかない」って言えばいいんだもんね。積極的な詐欺師でなければ、人を騙して、自分がつらくなると思うのだけど、都合のよいように「私は悪くない」と自分自身を騙す。いろいろ言っても自分が罪人になるのは宗教上、こわいみたい。そこでどういう言い方をするかというと、自分がこうなったのはあいつのせいで、自分が悪人だったら、500万円だけじゃなくてあいつの親の財産まで全てとっていた・・・・って実際にそう言っていた男がいたけど。もしくは「自分は家を1軒もらっただけで、オレの知り合いの○○は女から家とクルマと現金をとった。だから自分はそいつよりいい人間だ」とか。・・・ね? 自分の信念がないわけ。「自分は人を騙さない」「人のものを自分のものだとして奪わない」という自分の心のルールが。だから「あいつよりはいい」とか。「根こそぎとらなかったからいい」とか。「誰にも知られていないからいい」とか。「騙された方が馬鹿だから、オレは悪くない」とか。しまいには「相手がオレに騙されなかったら、オレもこんなことをしないですんだのに」とか。日本で普通に生まれ育っていると、のほほんとして、こういうことに出会う頻度も低い。(もちろん事件はいっぱいあるけど)。いまはトルコで日本人を見ると、日本でも良い悪い、いろいろあるにしても、世界的には日本人はピュアだし、信じやすい性格なんだと思う。それが日本人のいいところなんだけど、世界はいろいろ、感覚の差も、思考の差もあるわけで、日本での常識は世界の非常識って言葉の意味も今はすごくわかる。そんなことが理解できないうちは、私自身だってトルコで金銭的な被害で痛い目にあったこともある。(そのせいで未だに賃貸でない家も店ももてないし、自慢じゃないけど銀行にもどこにも蓄えもない。そして相手は一文無しだったのに、なぜか自分名義の店と豪華な家を持っている・・・グチっているわけである)。その話になると、たいていの人が「あいつは信用できない人間だ。そういう人間だってわかっていてやらせたキミにも罪がある」という。・・・ちょっと待って、私がどんなに間抜けでも最初からわかっていたら関わらないよ。信用したからじゃない。って思うけど、これは私が平和な時代の日本で生きてきて、人を簡単に信じてしまうピュア(場合によってはバカと言われてもしかたがないけど)な日本人だったせいで、まったくその通りなのである。その経験から周囲に注意をうながすこともあったけど、余計なお世話って思われるのが関の山。あとで体験されて「その通りでした」と言ってくる人もいたけど。自分で体験しないとわからないことなんだろう。まあ人間ってそんなもの。・・・キツイ言い方をしたけれど、そういうトルコ人男性たちを見てきた(対して女性は純粋な宗教家が多い気がする)。宗教を盾に自分がいかにいい人間かを説明する人ほどそうなんだろうな、って思っている。(いい人かどうかは自分で説明するものじゃなくて、相手が言動、顔つきを見て理解するもの・・・・)これもトルコに10年間いると、それを間近に見つつ、感じつつ、でもそんなものかと諦める気持ちになっているので、強い非難、批判はもうしない。トルコ人の一般的なイメージが日本でも固定されつつあると思う。いい人たちが多いなか、悪いイメージの方が先行してしまうのは仕方がないことなのか・・・。とても残念なことだと思う。各地のつきあいの長い友人たち、村のおばさんたち、私はいやな思いをしたことないし、いつもどうしてこんなにピュアなんだろう、正しいのだろう、って思うこと度々。これほど優しくて温かい人種はいないと思うのに、パーセンテージでいえば、ほんの僅かな人たちのために・・・・。で、Bとの話に戻るけど、トルコ人、日本人って話でなくて、人間には二面性があるのだよ、って話。とくに世間向けの顔があり、でも他人にはわからないもうひとつの隠れた顔もあったりする。あなたにとっては「信じられない、まさか彼がそんなことを!」って話でも。私にとっては「そういう人なんだよ」って。とくに外国人で女であり、トルコ人のクセとトルコ語を理解する私にとっては、普通のトルコ人や、日本に住む日本人が見えないものを見ることになる。それが見たくないものであっても。というわけで、信じるか信じないかは自由なんです。おまけの話・・・・。日本人女性の愛人が欲しいハジュの話を、似非ムスリマンの夫にしてみた。「それは宗教的には普通ですよ。面倒みれるなら4人まで妻を持てますからねえ」納得していいのか、どうかわからないけど、「なるほどねえ」と答えてしまった私です。
2005年03月19日
今日はMちゃんの生活用品のお買い物につきあって、昨日、買えなかったものや不足したものなどを買いに行った。飛行場に向かう大通り沿いにホームセンターがある。そこへ引き出しのついた小さな棚を探しに行く。こういうホームセンターや、中国製品はトルコへはまだ入ってきたばかりで、日本に比べて高い。日本で同じ本棚が3、4000円なのに、8000円ぐらいした。100円ショップで売っている、同じ小物類も500円から600円。・・・・そんなことを嘆いてもしかたがない。ここは日本じゃなくて、トルコ。小さな棚は一番安いもので32リラ(約3700円)洗濯ばさみ2リラ(約170円)2mの延長コード6リラ(約520円)それからミグロスへ日用品などの買出し。明日がアパートの前のバザールの日なので、野菜、フルーツなどはそこで買うことにして、洗剤、柔軟剤、石灰分を分解するカルゴン、シャンプーなどなど。カルゴンは商品名だが、これはトルコでは重要である。石灰分の多いトルコの水。とくにアンタルヤはかなりパーセンテージが高く、カルゴンなしで洗濯機を使っていれば、管などが石灰で真っ白になって、すぐに壊れてしまう。またまた買い物につきあってくれたアドナンとフセイン。フセインなど、本当に関係ないのに、まるで新婚所帯に必要なものでも揃えているかのように、Mちゃんが「いらない!」と言っているものまで「でも、きっと必要だよ」と自腹で買おうとする。つい「お前は亭主か!?」と言いたくなってしまう。加えて「棚が小さすぎる」と、私に「Mは生活していくのに、あの棚ではモノをしまう場所が足りないことを知らないに違いない。それを教えてあげてほしい」という。思わず笑ってしまったが、Mちゃんは20数年、日本で生きて生活してきたし、一人暮らしの経験もある。少なくともフセインよりは生活に何が必要か、知っているんだよ・・・・。トルコ人たちのおもしろいことは「彼女は外国人でトルコに不慣れだから・・・」と、余計な心配をしすぎることである。家まで帰れるだろうか、電話をかけられるだろうか、バスに乗れるだろうか、スーパーで買い物ができるだろうか、両替の仕方を知っているだろうか・・・・・。そのたびに私は言うのである。「彼女は遠い遠い日本から、一人で飛行機に乗って、トルコまでやってきたのよ」そこで「そうだったよな。彼女の方が旅行経験も外国滞在の経験も俺たちよりあるんだった。トルコの各地も旅行しているし・・・」と我に帰る彼ら。まあ、そんな風に心配してくれる優しさがトルコ人の魅力でもあるのだけど・・・ね。ところで、買い物の荷物をMちゃんのアパートに運ぶついでに、洗濯機の使い方を教えることになった。私の洗濯機と同じ・・・と思ってみたら、なんとグレードがひとつ上のやつではないか・・・・。間違ってもってきたのか・・・それならトクをしたというもの。Hさんの話によると、在庫がないため、グレードの高いものを代わりに持ってきたそうだ。そりゃ良かった。散々な値引きの上に、もっと高いものを買えたことになるのだから・・・。
2005年03月18日
Mちゃんは、アンタルヤ滞在中、トルコ人Hさんとアパートをシェアをすることになった。私もHさんのアパートを下見にいったが、壁の塗装を新しく塗ったばかりで、豪華ではないけどきれいで陽のあたる2LDK。約120平方メートル。お風呂はバスタブつき。ベランダも広く、見晴らしもよい。エレベーターは2基ある。町の中心部にあり、ミフリのあるカレイチまで徒歩で10分ぐらいと便利でもある。Mちゃんのアンタルヤでの仮住まいとしては十分。Hさんの支払っている家賃が350リラ(約30000円)、光熱費が50リラとして、それを半分ずつ持つとして、Mちゃんの毎月の負担は200リラ(約17400円)である。金曜バザールも目の前で開かれるし、食費も安くあがるはずである。今日はMちゃんのアンタルヤ滞在のためのお買い物に一緒にでかけた。なぜかアドナンと新聞記者のフセインも同行して、買い物のたびにMちゃんに代わって、交渉したり、質問したり、色の好みにまで口を出すので、それこそいったい誰の買い物なのかわからないほどであった。でもおかげでミフリ社長もMちゃんもラクして、仕事が全て済んでしまった。これを一人でやっていたら、何日たっても終わらなかっただろう。もつべきものは干渉癖のある友人たちである。まずトルコの有名メーカーの洗濯機を買った。一番安いのを選んだけど、キャンペーン価格が580リラで、交渉後425リラ(37000円)になった。私が昨年400リラで買ったものだから、安く買えた。それからベットと、シーツセット、枕、毛布、ケイタイ電話。ベットは固めのシングルで140リラが110リラ(9500円)。シーツセットはシーツと枕カバーと布団カバー3点で30リラ(2600円)。毛布は25リラ(2200円)。枕は中味が綿でないもので5リラ(400円)。ケイタイ電話は2か月間だけ使われた中古を買ったが75リラが70リラ(6000円)。ケイタイのカードが25リラ(2200円)。トルコは電化製品とケイタイ電話は高い。みんなどうやって買っているのだろう・・・と疑問に思うことがあるが、ローンというのはお金のない人にも買い物をさせてしまう魔法のようなものなのだろう。一日中、探しまわって、店に戻る。何にもしていないようだけど、みんなかなり疲れていた。フセインなど無関係のくせに、まるで自分の新婚家庭の家具でもそろえるかのように楽しそうだったし、アドナンは粘り強い値引き交渉をして、Mちゃんの方が「もうその価格で十分だよ」と言っても、まだまだ頑張っていた。暗くなってからMちゃんを送るついでに、私とアドナン、Tさんも一緒にHさん宅へお邪魔した。Mちゃんの部屋は日本風に言うと6畳ぐらい。窓があって、新品のカーテンがかかっていた。そこにMちゃんが買ったベットと、彼女のトランク。玄関にはHさんがMちゃんのために買ってくれたと思われるピンクの新品のスリッパ・・・・。トルコ人のHさんはMちゃんとの同居に、かなり気をつかってくれていて、ゆったりしているMちゃんに対して、かなり緊張しているようだった。一緒に行ったピザ屋でも緊張のあまり、食べ物がのどを通らなかったので、Hさんの大食いぶりを知っている私はビックリ。Hさんは一人暮らしから二人暮らしになって喜んでいる。慣れない同士・・・・と言っても、Mちゃんが初めてアンタルヤへ来たときからの友人ではあるが・・・・1週間ぐらいは仕方がないことかもしれない。まっ、楽しそうである。共同生活がつらくなったら、Mちゃんには村の別荘にでもこもってもらおう。明日はMちゃんの新生活の日用品、洗剤、洗濯ハサミなどの買い物に、ミグロスへでも行ってみるか・・・。
2005年03月17日
Mちゃんのアンタルヤ着を、アドナン、フセインと店で待っていた。・・・・・と、最近はめったなことではミフリに顔を出さないジェムがなぜかやって来た。これはMちゃんのためなんだな、とピンときたが、もちろんミフリ社長は気がつかないふりをしてあげる・・・・。ジェムはミフリの古くからの知り合いで、それこそまだ子供だったころから知っている。途中兵役に送り出し、怪我をして戻ってきたときも、その後の数年もずっとずっと一緒に過ごしてきた。その間にミフリに来た人たちにとっても、ジェムはミフリの顔だったと思う。Mちゃんにとってもそうだったし、私の母にとってもそうである。夕食後、母を連れて、ジェムたちが待っている中華レストランへ行った。母はジェムを見て、「会いたかったよ」と涙涙・・・・。これにはミフリ社長もビックリであったが、まあしかたがないことかも・・・。約4年半ぶりの再会であったし、当時も店でジェム、スーザン、フセイン、数人の日本人と毎日食事をしたり、ビールを飲んだり、話をして過ごしていた仲である。ジェムが兵役に行くときも、オトガルまで見送りにいったっけ・・・。アンタルヤでの楽しい思い出が、ジェムの顔を見て、よみがえったのであろう。泣かれたジェムも驚いていたが、やさしく母の思い出話につきあってくれて、私もホッ。ありがとうジェムちゃん、である。さて一方、Mちゃんとジェムは「兄妹」の契りをしている。普段は嫌味ばかり言っているジェムだが、Mちゃんを大切にしているのは一目瞭然だし、今回も「兄」として彼女の訪問を指折り数えていたに違いない。人と人とのつながり。普段は仕事に明け暮れて、考える余裕もないけれど、私がトルコを、アンタルヤを離れられない理由は、案外こんなトルコの友人たちの思いやりをうれしく思っているから、そして彼らとの絆を切れないから・・・なのかも・・・・なんて。こうして、本当にひさしぶりにジェムを含めてみんなが集まった。(アドナンとフセインはいつもミフリにいるけど・・・・。)ジェム、フセイン、アドナン、ペリン、Mちゃん、母、私。息子がトイレに行きたがると、「オレが連れていく」とうんちのおしりまで拭いてくれた中国人のジャン。退屈する息子を呼んで風船をふくらませて、一緒に遊んでくれたレストランのお客さんである、身なりのよいトルコ人男性。ありったけのお金で「チョコは子供には毒だ」といいながらも息子にチョコレートを買ってくれたフセイン。なんだかとても温かい時間を過ごした。これでまた、トルコを離れたくない理由ができてしまうのである。また母にとってもアンタルヤの思い出がひとつ増えたことだろう。
2005年03月16日
なんだか、最近いい感じだな、とは思っていた二人なんだけど・・・。結局、遠くにいる人より、いつもそばにいる人なんだな・・・ってこと。いろいろあったけど、落ち着くところに落ち着いたのかな、って結果です。あとは彼の誠意を信じたい・・・・。でも、それが一番あやしい・・。優しさといえばいいのか、都合のいいやつというのか・・・・。ストーリーはいよいよ佳境に・・・社長の一人言でした。
2005年03月15日
民族衣装の一部と、巨大イーネオヤの画像を弊社のホームページに載せましたので、興味がある方はのぞいてみてください。左の「トルコキリムの店ミフリ」から入って、表紙の現場からの報告4と5でご覧いただけます。今日は仕事は終わりです。おやすみなさい!
2005年03月13日
3日3晩の村の結婚式を途中で抜け出してアンタルヤへ戻った。お客さんからの連絡で、急用ができたためなんだけど、戻ってよかったなと思ったのは、久しぶりにハムディおじちゃんに会えたこと。日本からアンタルヤへ戻って、ハムディおじちゃんが心臓の病で入院したのを知った。電話で無事なのを確認したものの、それから出張とハムディおじちゃんの顔を見ないまま、今日に至った。店で、Tさんとアドナン、Eと座っていると、フセインもやってきた。1週間ぶりに会ったフセインはやはりフセインで、顔を見て、ほっとした。それはアドナンにとっても同じだと思うけど、この二人は考えてみたら1年前はお互いに好きではなかったはずだけど、なんだか今はとても仲がいい。久しぶりに店の前で日向ぼっこしながら、みんなでチャイを飲んだ。あまり長い時間はいられなかったけど、ハムディおじちゃんを含めて、いつものメンバーでおしゃべりの時間。怠け者タイムも、こんなときはとても素敵で、心が洗われる。忙し過ぎたなあ、と反省しながら、ハムディおじちゃんの復活を心配してくださったみなさまへの報告です。あさってにはMさんがアンタルヤに到着。彼女は11月末までの滞在である。住居の決定、荷物の移動など、数日かかる作業があるが、環境的には月末にはなんとか落ち着くであろう。
2005年03月13日
国内出張から戻ってきて、洗濯だけなんとか済ませたと思ったら、また村へ出かけることになった。今回の村はアンタルヤから80キロほどなので、その前の出張に比べたらラクなものだけど、睡眠不足と疲れのたまった身体にはきつい。今回の村行きの目的は、アドナンの親戚の結婚式。3日3晩続く、この村の伝統的な行事になるというので、興味を持って参加することにした。アドナンとお母さん、トルコ語勉強中のTさん、私と親戚のEと母と息子。2台のクルマでアンタルヤから雪降る峠を越え、120キロですっ飛ばしながら到着。式・披露宴の内容は簡単に書くと以下の通り。1日目。嫁の実家で女性だけの披露宴パーティー。女性だけのバンドを呼んで、チャドルの中も女性のみ。男性は家の中で待つのみ。ここではダンスと、お嫁さんに結婚のお祝いを渡すのがメイン行事。お婿さんのお母さんが(つまり義母になる人)が、お嫁さんに金のネックレス、腕輪などをつける。その後、親戚の女性たち(主にお婿さんサイドの親戚たち)が、金の腕輪などをプレゼント。最期に親戚、遠い親戚、友人、近所の人たちがお金や金のコインを胸に飾っていく。別に参列していてもプレゼントをしなくてはいけないというわけではない。そしてお祝いのキスと写真撮影。一方、お婿さんの家では、今度は男性だけの披露宴パーティーが始まる。寒い日だったので、外で焚き火をたいて、バンドの演奏でチャドルの中で男性たちが踊る。お婿さんサイドの女性たちは家で座っている。しばらくすると夕食の時間になり、ピラフ、クルファスリエ、スープ、つけもの、ヘルワ、パンが訪問客、全てに出される。食事が終わるといったん、家にこもった女性たちも外でダンスを始める。ただし、女性と男性は別々のチャドルのなか。また花嫁さんは3日目まで、花婿の家へ来ることはないので、女性の披露宴は花嫁ぬきである。ダンスの披露宴は深夜の12時まで続いた。2日目。それぞれのチャドルで食事が振舞われる。内容は昨日の夕食とほぼ同じ。それから人が集まったり、それぞれの親交を深めたり、ダラダラと時間が過ぎていく。一方、花嫁の家では深夜11時ごろから「クナゲジェシ」ははじまる。花嫁さんの手足にクナ(ヘンナ)をぬるのである。地方によっては、クナゲジェシで伝統的な民族衣装を着るのであるが、ここでは花嫁さんは新品のパジャマを着て、手足にクナをぬり、その上に婚礼クナ用の手袋、足袋を巻き、寝室に入る。3日目は花婿サイドが花嫁を迎えに行く、もっとも重要な日。クルマを連ね、プレゼントを持って、花嫁の家へ行く。花嫁は白いウェディングドレス姿。花嫁が花婿の家へ入り、今度は両家合同の披露宴が始まる。でも男女は別々である。通常、花嫁は男性の披露宴に顔を出すことはない。しかし女性の披露宴に、花婿が来て、花嫁とダンスを踊ったりする。この二人はどうやって結婚するに至ったか・・・・。花婿の母親がまず、女性の家へ下見に行く。気に入ったら翌日、息子と一緒に見に行く。それで気に入ったら、翌日又は適当は日に「クズイステメ」、結婚の申し込みに父親と3人で出向く。話ができあがっている場合はすぐにOKの返事。そうでない場合は娘側が「少し考えさせてくれ」と返事をする。これでOKが出ると、次に結納の儀。この地域では全て男性サイドが負担するそうである。結納から結婚までの間に、犠牲祭があると、男性が娘のために犠牲のヤギか羊を買い、娘の名前で切らせるそうだ。また結婚まで、会いにいくたびに男性は女性にプレゼントを持っていかなければならないし、婚約式や結婚式のドレスから靴、美容院代なども全て男性サイドが負担する。もちろん1対1のデートはできないし、婚前交渉などもってのほかである。儀式の内容や、花婿、花嫁の負担は地域によっていろいろである。ここは男性が全て負担するということで、これじゃお金のない人は結婚できないねえ、と聞くと、基本的にはそうなんだけど、状況によって話合いで負担を軽くすることもするそうだ。とにかく、3日間、花嫁と花婿の家を、花婿サイドの親戚が行ったり来たり、大変である。今回は近いところから花嫁をもらったのでできることだが、遠くからもらうときは10回いくところを5回にする・・・というように、負担の軽減をはかるそうだ。結婚の儀礼が面倒くさいけど、考えたら、これだけやったら、花婿の方も簡単には花嫁を裏切ったり、離婚できないだろうなあ・・・って。実際、それが目的で面倒で負担の大きいことをさせているのかもしれない。この村の結婚式に参加することで、久しぶりに村の別荘に泊まった。寒い日だったけど、薪ストーブのおかげで汗をかきながら、ビールなど飲んだりしたのだけど。この村では伝統的な衣装を着ることは、最近ないそうだけど、参加した女性たちのスカーフのふち飾りをたくさん見ることができた。白ガーゼにビーズオヤが多かったけど、イーネオヤでも立体はないが、平はあった。どうしてもそういうことに目がいってしまうけれど、3日3晩の婚礼儀式も珍しくなってきていることだし、見れてよかったと思いながら(実際は来客の都合で、途中でアンタルヤへ戻ってきたのだけど・・・・)、疲れてヨロヨロの身体で帰宅したのである。ところで、女だけの披露宴は、実は年頃の息子がいる母親の、花嫁候補下見会でもある。こんな娘がいたよ、と息子に知らせる。別々の会場ではあるが、独身男性たちもチラチラと見ていたりする。もちろんアドナンも・・・・。
2005年03月12日
トルコの西アナドルのイーネオヤの話なんですけど・・・。「ナスの花」モチーフのイーネオヤのスカーフを持っていない娘は嫁に行けないって話です。イーネオヤに興味がある人は個別にどうぞ。イーネは縫い針で、オヤはレース編み・・・。簡略化して言うと、縫い針によるふち飾り。トルコで民族的なスカーフの周囲についている飾りで、普通に見られるのは簡単な「かぎ針」で縫われたものだけど、縫い針だから貴重。目をひとつひとつ結ぶ面倒な技術で、細かく、テクニック的に立体の複雑な形も可能。平面的な幾何学モチーフはアンタルヤ地方でも見られるけど、立体的なお花をモチーフにしたものがおもしろい。イーネオヤ自体が特殊な技術で、地方が限定される。さらに立体的な花を編む地方、村になるとさらに限定されるし、現代でその技術を持っている女性となるとさらにさらに貴重である。イーネオヤできるわよ、というトルコ人女性はいないことないけど、じゃあ、このモデルは出来る? って聞くと、できないのである。だからいいの・・・。その地方まで出張して、村や各家庭を訪ねながら、古いものを探して歩く。それも楽しみ。以前のように村民パザールでは、古いものは出てこない。家庭に隠してあるものを探すしかないのだもん。今回の出張で、とある湖畔の田舎町へ行ってきた。イーネオヤの伝統があるところで、未だにやっている人もいる。でもミフリ社長は新しいものには全く興味がない。・・・というか、見ると素敵なんだけど、求めているものと違うので、手にとることはない。で、今回、訪ねた家というのが、祖母、母がイーネオヤの名人で、最近も嫁入り道具として、近所のトルコ人女性たちからのオーダーを受けて編んでいる家庭。でも目的は今編んでいるものじゃなくて、過去に作ったもので隠し持っているものである。まず通されたのが、イーネオヤの展示部屋。10畳ほどの部屋にイーネオヤのスカーフ、イーネオヤのタオル飾りがところ狭しと並んでいた。まるでお店である。でも見せてもらう約束をしているものは、それらではなく、隠し、しまいこんでいるもの。だからそれが出てくるのをじっと待つ。待つこと30分。やっと出してきたくれたダンボール箱に入っているものは、それは見事なオールドものであった。シルク地のもあれば、手押しヤズマに縁取られたイーネオヤの数々。祖母と母親が作ったものだけど、現在の所有者は娘ということである。娘の事情で、売りに出してもいいという話であったから、来たのだけど、それを見ながらその由来など、いろいろ話を聞けたのもよかった。さてここの地域のオヤの特徴は、細かくないけど、大胆である。私の好みから言うと、近年のは大柄で雑なのであまり好きではない。でも箱から出てきたのは、同じようなモチーフなのだけど、どこか違った。雑は雑であるが、きっちりしていて、とにかく1つ1つのオヤ部分が大きいのである。普通のオヤは1つの花が1cmぐらいからせいぜい4cmほど。ところがここのは12cmから15cmぐらいのがある。婚礼などの特殊なものであるが、名前を聞いているときに「ナスの花」というのがあって、それがとにかく欲しくなった。ところがどうしても売ってくれないし、欲しいなら新しく作るという・・・。違う! 新しいのはいらんの! と言って、いろいろな方法で説得をしたのだが(欲しいものがあると何時間でも何日でも説得して、なんとしてでも手に入れる・・・・強欲で強引である)どうしてもダメである。ナスの花のオヤは一人の女性にひとつだけ所有できる。意味は「結婚への希望と夢」。この地域で結婚を望む若い娘は、これをもたずに嫁に行けないそうである。どうしてナスなのか・・・?昔からそうだから・・・・という返答しかもらえなかったけど、かならず意味はあるわけである。それはあとの課題。ナスの花のオヤはどうしてもダメだというので、40~50年前のその他の巨大オヤを狙った。まずは旦那を説得すると、旦那はOK。所有者の娘も納得。そのまま強引に持って帰ることもできたのだけど、母親が「それは私のお母さんの思い出だから・・・・」と、拒む。はっきり言って、提示した金額はかなりいい。売るというから行ったのに、いざ、買われそうになると、拒んでいる。ときどきはこれが値を吊り上げるための方法だったりするけど、この母親のは本物の拒否であった。母親が首を縦に振らないので(トルコじゃ、縦に振られたらノーの意思表示だったりするけど・・・)、こちらもあきらめることにした。私たちは皮肉なことに、こういうものを交渉に交渉を重ねて手に入れることで商売になる立場であるが、もともとは個人のものであり、売るために作られたものでないから、それぞれの思い出がこめられているものである。大切にしている人の手から、それを奪うことは、なんだかつらいことである。だから今回はあきらめたわけだけど、思い入れのあるものだから、私もひかれるし、それらをコレクションする人たちがいるし、だから私の商売が成り立つわけである。変な話だよね。毎回、わざわざ情報を聞きつけて、遠くから出向いて、時間をかけて、こういう交渉をしながら、今回のようにあとで自問自答することもある。お金に困って売られるし、私が買い、また誰かに売られていく。だけど、これが本来ある場所はそこじゃなない・・・・・・。誰のために作られたのか・・・・その人の手元にあるべきもの、もしくはその思い出を持つ人に・・・。オヤに限らない。キリム、絨毯、その他いろいろ・・・・。・・・・って考えて、今回は古い、ナスの花もいくつかのおもしろいものも手に入れることはできなかったのだけど、大切にしている人のもとに残ったわけだから、私の商売にはならなかったけど、気分は悪くない。でもね。思うわけ。いつかは誰かに売るのだろうな・・・・。悔しいなあ・・・・。・・・・って書いてみて、また思った。まあ、いいか。ナスの花の話が聞けただけでもよかった、って。
2005年03月10日
毎回毎回同じことを書いているかもしれないけれど、トルコといえども伝統文化は廃れつつあり、村へ行っても以前のような村の生活を見れるチャンスは少ない。それでもどこかに何かがあるのじゃないか・・・・と、日ごろ駆け回っているわけであるが、今回、とある場所で知り合ったおばあさんの村へ行くことにした。アンタルヤから600キロの都市から、さらに山奥に100キロほど入ったところにあるらしい。おばあさんの話では、この村では未だに結婚式、部族の行事などで村の女性たちが民族衣装を着るとのころ。この地域はたしかに8つの部族の遊牧民がそれぞれの村に点在し、暮らしており、その伝統文化を今も守って暮らしている・・・・というのは知識としては知っていた。期待はするとガッカリする結果になるので、期待こそしないけれど、初めていく村でもあったので楽しみにしていた。西トルコの山奥である。町から100キロほどなのに、山の上の村なので、クルマで行けども行けども着かないのである。しかも天気が曇りから雨、山頂では雪に変わり、モヤがかかっているから、5メートル前は何も見えないのである。右サイドは崖で、天気がよければ山すその景色がいいのだろうなあ・・・などと思いながら、ダート道を進むこと約2時間。今回はトルコへ戻ったばかりで体調が十分でない上に、アンタルヤから8時間をクルマで走ってきてすぐだったので胃がムカムカしていた。さらにダート道である。自分で運転すればクルマ酔いしないのだけど、うっかり楽をしようと運転をアドナンに任せたので、途中で2度吐いての村行きであった。何もないと思った山深くに、集落があった。隔離された空間である。きこり、牧畜、農業などで生計を立てている村である。おばあさんの家を訪ねると、その途中で薪を運ぶおばあさんとすれ違った。「今、戻るから、先に家で待ってておくれ!」と、薪を背負った姿を写真に撮れとポーズをとってくれた。65歳で、とにかく明るく、元気なおばあさんなのである。家ではお嫁さんが待っていてくれて、私たちが来たのを知ると、村の女性たちが次々集まってきた。キスをするあいさつをし、座っていると、隣の部屋に私たち女性だけが呼ばれる。行くと、それぞれが持参の民族衣装に着替えているところであった。民族衣装は他の地域、もしくは他の民族のそれと変わることなく、何枚も何枚も重ねていく。着方も興味の対象であるから、それを写真に撮るからね、と言うと、若い娘さんたちは「キャー」と恥ずかしがるのであるが、年寄りたちに「撮らせろ」と言われて、顔を赤らめながら、腰の紐の結び目を撮影させてくれたり、頭部のオヤスカーフの巻き方を見せてくれたり。ここの民族衣装は、刺繍などの面では特に優れたものではない。ただ簡単な刺繍とプルを刺していて、ベルトはウールの織物に飾りをつけたもの。それを鳥の尻尾のように腰に巻いて端をたらす。そして色が鮮やかな赤系で、それを若い娘だけでなく、お年寄りまでが着るのである。この衣装を着るのは、結婚式、部族のお祭りなどの日に限られるが、1人に1着あり、自分で作ったり、お古を手直ししたりする。だから「譲ってくれ」と言っても、それぞれの思いがこもっているから、お金では譲ってくれないのである。それがまた私たちにとっては残念であるが、うれしいのである。衣装を着たあとは、太鼓と歌が始まり、それにあわせて、踊りが始まった。適当に踊っているようで、やはり歌やリズムによって、ステップがある。若い娘たちはいくつかのステップを知っているが、多くを知らない。そうすると、60歳台のお年寄りが出てきて「こうやるんだよ」とステップを見せる。それにあわせて若い娘たちも踊りだすのである。女性だけの踊り、男性だけの踊り。みんなで踊る踊り。誰が何を言うでもなく、集まってきた約20人が歌い、踊り、私たちも輪に入った。同行した日本人女性2人にも民族衣装を着せ、一緒に踊った。歳も関係なく、太鼓ひとつで楽しむ様子がとても気持ちよかった。最初は恥ずかしがっていた娘たちも、じょじょに写真を撮られることにも抵抗なくなり、お年寄りたちにいたっては誰かが来るたびに「この子も撮ってくれ」と言うほど。聞けば、もし10年前に来たとしたら、写真は絶対撮らせなかったよ、と言う。娘たちが村の麓の工場に働きに行くようになり、テレビの普及。かなり開放的になってきているのだろう。衣装を見て、踊り、合間には娘やおばあさんたち、それぞれに世間話とインタビュー。とにかくピュアで温かい人たちであった。帰るといっても「何か食べていかないと返さない」「帰るなんて言うと怒るよ」と、冗談でプリプリ怒ってみせたり。村のマーケットのおじさんがやってきて、店の売り物のフルーツジュースを差し入れしてくれたり、そこらの無関係な人まで、飲め飲めと缶ジュースをあけて手渡してくれたり。おばあさんが自分の手作りのネックレスをはずしてかけてくれたり・・・・。村では同じような光景に出くわすことが多いが、リーダー格のおばあさんのおかげで、笑い声の絶えない、楽しい時間を過ごせた。再び、霧の中を下界に下る。霧の中の幻想の村から抜け出した気分になる。下界は130万人の大都市。この大都市と民族衣装を着る村の伝統的で素朴な生活とのギャップに、人間の生活って何が必要で何が必要ないのだろう・・・などと考えながら。
2005年03月10日
待っている時間って、無意味に長い。今回の出張の出発はいろいろ用事があって今日になってしまったのだけど、いざ出発、と思ったら、まだクルマが来ていない。それで待っている。ワンボックスのレンタカーを借りた。アンタルヤに着く前から、知り合いのレンタカー屋に予約だけはしていたのに・・・。実はまだクルマが到着しなくて、出発ができないのである。クルマ待ち。準備はとっくにできている。時差でもう眠い。クルマが来るころには、きっと熟睡中。でも予定ギリギリの出発。人との待ち合わせがあるので、昼には600キロ先のかの地に着いていないといけない。寝てしまうわけにはいかない。雨天気で、内陸部や峠越えで雪を心配したけれど、気温が高いせいか、各地との雪は降っていないとのこと。チェーンを巻くための軍手も日本の100円ショップで買って用意したけど、必要ないことを祈るばかり。
2005年03月06日
日本のと同じ。数字を当てるやつ。大昔、日本の教育テレビで放送された古いトルコ映画で、男が新聞で宝クジの発表を見て、全身全霊がっかりしているシーンがあった。宝クジにそんなに期待をしなきゃいけない人生か・・・その前に働けばいいのに、と思ったものなのだけど、最近、その気持ちがわかる・・・。本当のトルコを知るには文面や映像の知識じゃなくて、この地で生きてみること・・・なのかもしれない・・・なんて。宝クジでも当たらなきゃ、人生の改善もないし、お金も手に入らない。働けども働けども・・・・である。私たちの生活は、お金には関心が薄く、家族で食えればいい・・・だったけど、そのせいで、気がついたらトルコ人のなかでもかなり下の方。生活を変えるには、なんか情けない話だけど、宝クジでも当たらなきゃ・・・なのである。でも実際は思うだけで、宝クジは当たるわけないと思っているから、真剣にはならないけど、実は私こそが真剣に宝クジを買わなきゃいけないのかも・・・って。トルコでは年末宝クジを買うことはある。でもそれも友達が買うときに、共同で買う。一人で買っても楽しくない。毎週のロトも誰かがやるときは、一緒にロト6を買ってきてもらう。日本では滞在中に忘れなきゃ、ロト6を買う。今回も1回だけ買って、結果を見る暇もなかったので、実家の壁に貼り付けてきた。結果を知らないことで、「アレが当たっているかもしれない」と次回の日本行きまで夢を見れるのだから、それも悪くない。ロト6。日本だと1枚のカードで5枠。200円×5枠=1000円・・だっけ?トルコのは1枚のカードで8枠まで遊べて、50クルシュ×8枠=4リラ。4リラは約340円。安いので、トルコでロトを遊ぶ方が気が楽である。今日、土曜日はロト6の日。トルコに戻ってきたので、久しぶりに買ってみようかと思ったので、こんな日記になってしまった。でもたぶん、買うのを忘れる。忘れなきゃ・・なんだけど。そんなことより、働け!である。追加Tさんのトルコ語コースの進級テストは無事、合格ラインを越えた。来週からは2段階目のクラスが始まる。結果の書かれたリストを見ると、16人中、1名がテスト不参加、2名が不合格(子供2人らしい)だった。
2005年03月05日
やっぱりADSLはいいなあ。つないだままでいいのだもん。そろそろ日本にも専用パソコンか!? って、留守中は使う人がいないから、つなぎっぱなしにしても意味なしである。さて明け方に睡眠をとり、午後までゆっくり寝ていようなんて甘かった。日本タイムで起きた息子に「腹へった」と起こされ、適当にあるものを食べて、アドナンもまだ来ていない9時台に出勤。短い期間だから、何も変化はなかったものの、ひとつだけ悲しいこと。管理人のハムディおじちゃんが入院し、顔を見ることができなかった。火曜日に病院に運びこまれたそうで、今のところ無事であるが、ハムディおじちゃんに会えないのは残念であった。できるだけ早く、お見舞いに行きたいところである。Tさんは明日に進級テストをひかえ、緊張気味。でも合格ラインが60点ということで、なんとかなるでしょう。クラスも脱落者はほとんどなく、16名が明日の試験を受けるらしい。11年前に一度だけ受けた進級テストを思い出す。日本人の例にもれず、ペーパーだけはほぼ満点だったっけ。会話はいまだにダメなんだけど。加えて言えば、今は書くのも全くダメなんだけど・・・。それでもなんとかなっている。それでいいのだ。留守中のいろいろの報告を聞き、また日本でのできごとなどを話をしていると、夕方になった。家に帰ってみると、息子と母は爆睡中。日本の深夜だからねえ。私はと言えば、飛行機の中でも今朝もほとんど寝ていないのに、なんだか今日は眠れない。ご飯もペリンの中華レストランで白飯と羊肉の鉄板焼きを食べただけ。何か食べたいけど、それも面倒くさい。・・・で、日記を書いている。今回、日本より同行してきた我が一族の独身女性Eは、身が軽く、よく働くアドナンを一目見て気に入ったようだった。普段から男性を簡単に気に入らないし、信用しない警戒心の強い女性なので、これにはビックリ。店に来ていたTさん相手に、なぜ日本人女性がトルコ人男性に魅力を感じて、いかにして恋に陥るかを、かなり真剣に語っていた。フセインは仕事でアンカラに滞在中。明日にはアンタルヤへ戻るらしく、店で会う約束をしたが、実はEを狙っているのでは・・・とこちらも心配。フセインは5年ほど前にEとアンタルヤで会っているし、私が今回、Eを連れてアンタルヤへ戻ることも知っている。身内の話なので、遠慮なく、今回はいろいろ日記に暴露してしまうかもしれないけど、笑える話になるのか、それとも意外な展開で純愛物語になってしまうのか・・・。そしてその相手は誰だ・・・!?それより出張準備である。伝統的な民族衣装を着て、待っていてくれる村への訪問。また別の村ではイーネオヤの名人に、過去の作品を見せてもらう手配をした。ホテルの予約もOK。行くだけじゃなくて、記録を残さなければならない作業なので、その手順を頭の中で繰り返す。今回は初めていく村が2か所。初めて会う人たち。通い続けられる場所になればいいなあ、と思いつつ、あとは天気さえ良ければ最高なんだけど・・。
2005年03月03日
トルコ航空、イスタンブル経由アンタルヤまで飛行時間トータル約14時間。無事到着した。アドナンが深夜にもかかわらず、クルマで迎えにきてくれて、助かった。アンタルヤは温かい。日本からコートも着ずに来たけれど、それで正解。留守中も15度~20度ぐらいの気候で、寒い日はほとんどなかった・・・と、言っていた。天気予報によると、数日、寒い日が来て、それから春になるという。さすが、アンタルヤ。家に着いたのは深夜2時ごろだけど、大家が水道の元栓を開け忘れたみたいで、ソーラーのお湯は出るけど、水が使えない。大家が来るのを待っているところ。Tさんも元気らしいし、南東部を旅行中のMさんからも無事の連絡があるらしい。K先生は今頃東欧を旅行中。トルコでの待ち合わせにはこれで間に合いそうである。トルコ日記の再開である。相も変わらず、トルコ旅行情報、生活情報を期待されている方には、全く、役に立たない日記ではあるけれど・・・・。
2005年03月03日
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