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関西の学生さんがキリム織り研修でいたときから始まった糸の草木染め。彼らが滞在中に2色を試した。1色目はピュレンオトと魔法の粉によるサーモンピンク。2色目はエゼンテレとタマネギの皮で濃黄色。そして3色目を試している途中で、期間が終わり、学生さんたちは帰国。そのあともアイシェと私で糸染めは続いていたのである。そして今日、アイシェを訪ねた。昨夜、電話をして糸を引き取りに行くから、乾かしておいてね、と頼んでおいた。行ってみると、さすが「絨毯畑」ができるアンタルヤの太陽である。すっかり乾いていた。3色目は藍がめで還元藍(ここではインディゴ)とドライレモンで濃藍色。4色目は黄色に藍をかけて濃緑。(5日間つけ込んだもの)5色目は黄色に藍を淡くかけて黄緑色(2日間つけ込んだもの)6色目は藍を1晩だけつけて水色。7色目はサーモンピンクに魔法の粉をほんの少々。で黒味がほんの少しついてトルコ風に言うと「赤ちゃんのくちびるの色」。写真を撮るのを忘れたので、色をお見せすることはできないが、草木染めのしっかりした色の糸は普通の糸と本当に違う。色の深みが全く違う。日本では草木染めというと淡い色をイメージする人が多いが、トルコのは堅牢度が高く、骨董業界やコレクターの間では基本的には色が退化しないものを「草木染め」と言い、いくら草木が材料でも色が褪せてしまうような弱い染色は「人工染料」に分類する。だからトルコの伝統的な草木染めの糸の色を見ると、多くの人が「こんな濃い色がでるんですか?」と驚くけど、出るんですよ。今はトルコの染色もキリムの織りのこともきちんと知らない素人さんたちが気軽にキリム、絨毯を売る時代である。私は人のことはどうでもいい方なのだけど、一応この世界で飯を食わせてもらっている立場として、ちょっとこれはなあ・・・って思うことが多々ある。間違った情報が提供され、それが堂々と行き交ってしまっているのである。人工染料である青や紫が時とともに褪せてグレーに変色するのは「時を経てよい色になった草木染め」ではないし、そう言った方が高く売れるからと「ブルガリアのトルコ系移民のキリム」を「シャルキョイ」と言うのもそろそろ辞めたらどうだろう・・・・。その時代時代の染色、糸のより、デサインが両者では明らかに違うのだから。基本的な染色のこと。織りのこと。糸のこと。織られている状況。当然、女性たちの気持ちもそれを取り巻く環境も・・・知らない。それも商売のやり方なんだろうし、稼いだが勝ちの世界である。興味がないのは仕方がない。でも知らないものは知らないことにしておいて欲しいなあ・・・って。でも全てがちょっとの好奇心と探究心。あとはちょっとの行動力なんだけどなあ・・・って。商売とは無縁で個人的な興味や大学の研究などで何度も通ってきて、各地に出向いている人もいる。そういう人たちは基本的な勉強や知識、さらに語学力(トルコではトルコ語とその専門用語)を十分持った上で歩くから、情報の収集力がすばらしいのである。しかもトルコ国内だけのことしか知らない私と違い、グローバルな視点から全体的に眺められるので、教わることが実に多い。そこでとくにモチーフなどに関しては謎が解けることもある。彼ら、彼女らとのコンタクトは本当に楽しいものになるし、彼らのために私が役に立てることがあるとわかるとうれしくなるものである。モノを売るだけの時代は近い将来終わりが来る。伝統的なものはどこの国でもなおさらのことである。そのとき、みんなはどうするのか。私はどうするのか・・・・。それがアイシェの伝統的でかつ素晴らしい7色の草木染め糸を見て、思ったこと。この色を見ずに何が語れるのだろう・・・と。まあ、いつものように、負け犬の遠吠えだと思ってください。
2005年09月29日
Zちゃんは、無事退院した。あと4、5日は食事制限ありだけど、歩けるようになったので、なんとか帰国はできそうである。この場をかりて、日本で心配しているだろう、ご家族やお友達にご報告。さて今日はアドナンが午後から歯医者なので、Zちゃんを家まで送ったあと、一度家に帰った。私も面倒になって出社せず、そのまま家に帰った。家が近所だと行動が同じになってしまう・・・。ご近所といえば、元会計士のメフメットも近所に引っ越してきた。ミフリのある建物の管理人のハムディおじちゃんも実はご近所さん。知らなかったけど我が家隣のビルには、カレイチの絨毯屋である知り合いの青年が住んでいた。この前スーパーでばったり会って、「キミが隣のビルに引っ越してきたの、知ってるよ」と言われて驚いた。さらに夫の長年の友人夫婦も近所に住んでいる。昔からの静かな住宅地で、近所にはスーパーでもなんでもある便利なところだし、カレイチにも近いので自然とそうなってしまうのだろう。冗談で「朝、みんなの家を回ってピックアップして、カレイチまで送迎をしようか」なんて言ってみたけど、実際、アドナンとは毎日通勤一緒だし、ハムディおじちゃんとは時間が合えば、一緒に帰る。話が横道に反れた。酢貝腐の話をしようと思っていたのである。昨夜、ちょっと頑張って普通電話、ケイタイにもパソコンから電話できるようにした。もちろんすぐに試してみた。雑音なくて声もクリアで、私にとっては全く問題なし。しかも安い。リストには日本へかけると10ユーロで530時間話せる計算だが、実際は1分で0.04ユーロだった。それでも10ユーロのカードで250時間は話せるから、全く問題ない。トルコ国内へは高くつくので、友達にはIDを取得させ、パソコン同士で無料通話ができるようにした。これも試したけど、マイクの状態が悪くない限り、声は普通電話と変わらなかった。とくに私のマイクからは声がすごくクリアに伝わるらしく、先の海外旅行傷害保険の話じゃないけど、世の中のこと知らないと損することがあるんだな、って実感。もちろん、私ができることはほんの一部で、もっともっといろんなことができるはずなんだろう。でもパソコン音痴、インターネットがなんだか未だによくわかっていない私にしたら上出来! って、自分で誉めておこう。
2005年09月28日
前回の日記の続きである。Zちゃん、入院4晩目。明日は退院できそうである。今日、お見舞いに行った。昨日よりはかなりよくなっているようで、ひと安心。本人もなんとか食事をとったり、立ち上がることができるようになり、明日以降、家に戻っても大丈夫かな・・・・? というところ。でも下痢はまだまだ続いているようだから、体力が帰国に支障がない程度に回復するまで、家で療養と飲薬が必要だろう。そうは言っても、帰国のためにアンタルヤを離れるのは今週末だし、荷物の片付け、送付などもあり、忙しくなりそうである。急病で他に予定していた場所を訪ねることもできなくなり、本人もがっかりしているが、それでも元気になってきたことを幸運に思おう。夫の日本での絵の展示会と、キリム展が迫っており、そちらの準備も大詰めである。・・・夫の絵の準備はまだしも、それ以外はまだまだ終わってなく、今週末までやることが津波のように押し寄せては、私のなかでひいていく・・・。忙しいと逃げを決め込むミフリ社長。そしてギリギリになって大慌て、ひとりパニックをするのが常である。いつもならそんなミフリ社長をフォローしてくれるアドナンが今回は役に立たない。最近少し変で・・・どうやら恋わずらいをしているらしい・・・・。家で一人ビールの回数が増えているようだし、もしかしたら叶わぬ恋なのか・・・・などど想像を巡らしてミフリ社長は勝手に楽しんでいる。だから相手は誰なのか聞かないけど、やたら日本への電話で安くかけられる方法を探っているので、その辺はわかりやすい。メッセンジャーでコンタクトできる相手ではないらしく、最近、彼のケイタイの通話料金がやたら高いのもそのせいか。ところでアドナンとは関係なく、私は 酢貝腐 を試してみることにした。夫が帰国するので、日本に電話をかける機会も増えるからである。夫はここでも何度も言ってるけどパソコンは触ると感電すると思っているから使わない。だから用事があれば電話するしかないのである。いままではインターネット回線を利用する、トルコのスーパーオンラインの格安電話を利用していたが、安くていいけど、アンタルヤの場合、利用料金の支払いでちょっと問題があり、最近使っていなかった。 ス回プ はいろいろ言われているけど、なんでもいいのだ。用件が伝われば・・・・。音の悪さはスーパーオンラインも同じだったし・・・。まあ、調子良さそうだったらアドナンにもすすめてみよう、っと。
2005年09月27日
正式にはなんて言うのでしたっけ?海外旅行に行くときに任意で入る保険のこと。実はアンタルヤに旅行者として滞在している日本人女性が病気になった。早朝7時にケイタイにSOSの電話。彼女、南東部からの旅行から戻ってきたばかりで、どうやら途中で食べた鶏肉料理があたったようで、重度の食中毒。40度近い熱とひどい下痢、吐き気、頭痛などなど・・・。脱水症状も起こしていたから、病院に連れていったら即入院。点滴を打たれて動けない彼女の代わりに、入院の手続き、保険会社との連絡、病院への直接支払いの請求などをした。そこで保険のシステムなどを改めて知るわけである。私は海外旅行保険なるものに入っていないし、過去加入したときも幸いにもお世話になったことはないので、こういう機会がないと関わることがない。以前も病気になった旅行者を病院に連れていき、通訳ついでに手続きをしたことが何度もあるが、たいていが高額ではないため本人が支払いし、日本で請求するという形がほとんどで、必要書類だけ揃えればよかった。今回は現時点で最低2晩は入院しなければならない状態。それにもうじき帰国なので彼女の手持ちの現金が少ない。病院に直接支払いをしてもらう方法しかないため、国際電話をかけたり、かけてきたり・・・。おかげで保険の手帳なるものをじっくり見る機会ができた。彼女の手続きはスムーズな対応のおかけで、すんなりできたが、関係ないところで新発見。海外旅行保険って飛行機の遅延での損害まで賠償してくれるらしい。そうすると、先日ルフトハンザの遅れでトルコ航空の最終便に乗れなかったCさんの場合も、保険に入っていたらこの請求ができる可能性があるのじゃないかって・・・・ふと思ったわけ。世の中知っていないと損することがある・・・。旅行慣れしている人にとっては当たり前の世界なんだろうけど、私は知らなかったもんね。これでひとつ賢くなれた!?
2005年09月23日
上の画像は昨年の絨毯畑の様子。大急ぎの出張行き帰り。アンタルヤへ戻り、村の絨毯畑をCさん、日本からアンタルヤへ着いたばかりのKさん母娘と見にいった。絨毯畑・・・・昨年の日記にも書いたと思うのだけど、トルコ各地の絨毯業者の依頼で、キリム、絨毯などを太陽に当てて、色を落ち着かせる作業を行う業者があるのだが、広い敷地にそれらを広げた様子がまるで絨毯の畑のようで、トルコでもそのままの言い方をする。2日前に大雨が降ったばかりで、行ったときはちょうど一度集めてビニールシートをかぶせた絨毯を広げなおしに、作業の人たちが集まってきているところだった。アンタルヤは夏の間、ほとんど雨が降らない。そのために絨毯畑に適しているわけであるが、今回のような雨が降った場合、天気を読んで事前に絨毯を片付けるのである。一部が広げられていたが、ほとんどが山と積まれている状態であった。これもめったに見れる光景でないから、かえっておもしろかった。画像もとってきたから、そのうち弊社のホームページに載せたいと。さてこの絨毯畑。見渡す限りの広さに絨毯が重ならないように敷かれて、6月中旬から今年は10月20日まで太陽の下にさらされる。画像では十分にお見せできないが、山すそまで続いている。枚数はトルコ最大規模で、ボドルムなどにも絨毯畑はあるが、規模が全く違う。ここではこの業者だけで40000枚から50000枚。見ていて驚く広さの土地に絨毯・キリム・・・・。それだけで楽しくなってしまう。(でも買えないのですけどね・・・・)それからアイシェの家に寄り、チャイだけのつもりが、昨夜焼いたというパンとオリーブ、トマト、いちじくジャム、チーズなどを出してくれて、簡単な食事になった。ほんとうにここにくると、何もしないで木陰で寝ていたくなる。夕方になる前にアンタルヤへ戻る。Cさんは夜の便でイスタンブルに戻り、そのまま乗り換えで帰国。ビールを一杯ずつ飲んで、お疲れ様。
2005年09月21日
さてさて、私たちは無事、Cさんをアンタルヤ空港で拾えたのか・・・・。もちろんです。そしてそのままCさんを乗せて、クルマは海岸線を東に、さらに山越えをし、目的地の都市へ到着することができた。山越えはちょうど夜の7時から9時ごろであった。すれ違うクルマもほとんどなく、道はすいていて快適ドライブ。全てが順調であった。普段なら、ダラダラと休憩したりしているせいもあるが、6時間ぐらいかかる道である。しかし快適すぎて1時間の食事休憩をいれても4時間半で着いてしまった。空にはまんまるお月様。電灯のない山越えである。なのに、やけに空が明るい。お月様の光で周りの景色が浮かび上がっているのである。道もよく見える。「みてごらん、満月かなあ・・・」などと、言いながら、月夜の道をひたすら走る。帰ってきてみたら、「十五夜」「中秋の名月」をテーマにかかれている日記があるのを見て、そうだったのか・・・と納得したわけである。本当にきれいなお月さまであった。普段は真っ暗な空に鳥肌が立つほどの満点の星。真上にかかるミルキーウェィを観ながらの山越えドライブはいつものこと。今回のような月夜の山越えドライブもいい感じ。これが出張でなくて、相手が仕事仲間じゃなければ、もっとロマンティックなんだろうけど・・・。月の光をいっぱい浴びて、昨日からの疲れも癒された・・・・かな。
2005年09月19日
本当なら早朝に地方に向けてクルマを走らせているところなのだが、午後を過ぎてもまだアンタルヤを出発できないでいる。というのも、昨晩、日本から来るCさんの乗ったルフトハンザの飛行機がイスタンブルに数時間遅れて到着し、乗り換えのトルコ航空国内線最終便に間に合わなかったためである。私たちはアンタルヤの空港にCさんを迎えに行くために、深夜1時15分着の飛行機に間に合うよう家を出るため待機していた。そこへ電話が・・・・。「実は国際線の飛行機が遅れて、国内線に乗れなかったのです。朝一番の飛行機もチケットがとれるかどうかわからないようです・・・」Cさんである。時間を見ると、国内線はイスタンブルを飛び立っているし、じゃあ早朝の飛行機に振り替えてもらって、そのまま空港から拾って地方へ直接出かけましょう・・・と予定を変更。その晩のアンタルヤのホテルをキャンセルし、私はとりあえず横になった。朝までの間に何度かCさんから電話があったが、かなり苦労したようである。ルフトハンザはイスタンブルまで着けば、あとは知らない。トルコ航空も私たちには関係ない。チケットの買いなおし、それから予約してお金を払ってある分のチケットを払い戻ししろ、ということであったが、提携していない航空会社同士のトランジットなので、出発後の払い戻しはできるのだろうか・・・・。私はそれらの事情を聞いて、明日の朝、チケット会社に行って交渉だ・・・と心を決める。帰国への国内線の変更、ホテルの予約変更、地方でお世話になる人たちへの事情説明と予定変更、日がズレこんで日曜日になるため、休日出勤のお願いなどもしなくてはならない。飛行機が遅れたせいで面倒なことになってしまったけど、一番大変なのはCさん本人であろう。昨夜は疲れた身体で空港で夜明かしをしたのだろうか・・・。アンタルヤに着くまでに気疲れ、身体疲れしてはいないだろうか・・・・(・・・当然疲れているのだろうけど。時差と疲れとの戦いはよく理解できるだけに自分のことのように感じてしまう)。朝の7時過ぎ、Cさんから電話。トルコ航空の早朝7時45分の席の空きを待ったが、結局、席がなく、別の飛行機会社アトラス航空の午後3時50分のチケットをとったと。私もトルコ航空、アトラスなどのサイトから空席状況を見たが、たしかに満席。週末のアンタルヤ行きだもの、当然なんだけど。アトラスで午後に席がとれただけでも奇跡である。アンタルヤ到着が午後5時。その時間に合わせて彼女をアンタルヤ空港へ迎えにいくことになった。その時間までチケット会社へ行き、ホテルへ連絡をいれ、地方の知り合いに連絡を入れて、ちょっと強行だけど計画の立て直しをした。それで乗れなかった国内線の結果だけを言うと、払い戻しは不可であった。チケット会社は親しくしているところで、朝顔をだすなり、「あなたのお友達、乗れなかったようね。チケットも残念だけど無効になっちゃったわ」と言われた。ここで交渉をしたが、返事は予想通りで、返金はできないとのこと・・・・。現場でのルフトハンザとの交渉次第では、提携している飛行機会社があれば、アンタルヤ行きのチケットはなんとかしてくれたか、もしくは出発前であれば、キャンセルという形でキャンセル料をいくらかとられるにしても払い戻しはできるのだが、まあ、今回は残念でしたの結果になった。トルコ航空でのトランジットなら、以前も他の友人が体験しているが、遅れた場合でもイスタンブルでホテルをとってくれて、チケットも無料で振り替えてくれるのだけど、他会社同士では上記のようなリスクもあるってこと。じゃあ、トルコに来てから国内線チケットを買えばいいじゃないか・・・って思うけど、確かに時間があるとき、日程が変更になっても差し支えないときは私もそうする。でも朝チケット予約しにいって、空がなく、夕方とか暗くなってからの便しかとれないのがいままでの経験。それまで子連れで時間つぶしも辛い。それでもあと数時間後には彼女がアンタルヤに到着する予定である。そのままクルマで地方出張へ出る。約6時間の距離であるから、ホテルに入れるのは深夜になる。用事は明日の朝に持ち越した。十分大変な目に遭ったので、今後の旅程はスムーズに、楽しく進むことを神頼みする。
2005年09月17日
ミフリ社長は毎年歯の治療と点検を日本でしている。肌とか髪とか体型とかに気を遣わないくせに、どういうわけか、歯だけは大切にする。それはもちろん「おいしいものを一生食べ続けたいから」という思いで、である。歯が悪くちゃおいしいものもおいしくいただけない・・・・。というわけで、普段、歯の問題がないため、他人の歯の痛みがわからないという都合のいいんだか、悪いんだか・・・の状態である。ミフリの正社員1号(実はミフリの正社員2号が9月に入社)のアドナンは、4年前に抜けた歯がそのままになっている。治す気もなかったようだが、最近日本人のガールフレンドに言われた「歯医者に行かないと顔が崩れるよ」という言葉がずっと頭の中にひっかかっていたようで、中華屋のペリンが歯医者に行くというので、一緒に治療に出かけた。歯医者さんは女医さんで、良心的な治療内容と評判の人らしい。アドナンは抜けた歯のことで行ったのだが、親知らずが奥に1本はえて、さらに抜け落ちた箇所を4年も放っておいたので、歯がズレで差し歯をする場所がなくなっているので、本人に問題がなければ差し歯は必要ないだろうという結論に達したという。しかし、左奥歯の親知らずが舌にひっかるため、それを抜き、かつて他の歯医者で治療した虫歯を治療しなおす箇所が2か所。タバコのヤニと歯垢の掃除をすることになった。うちの会社で保険に加入しているので、公的な病院に行けば一部負担で済むのだが、治療の間隔が長く、評判がよくないもので、彼はいままでも保険の利かないプライベートの歯科医を利用していた。全額自己負担であるので、それなりに費用もかかるわけである。今回はこの治療で、約6~7回通って、250YTL。約22000円だそうだ。アドナンに言わせると、以前通った歯科医では虫歯1本の治療で、2年前に350YTLかかったから、それに比べたら良心的だ。という。初日は左の親知らずを抜き、翌朝まで痛がった。今日は二度目の治療で、左の以前治療した虫歯跡の治療準備と歯垢とりをした。歯はきれいになっていたが、磨きっぱなしで、それが空気を吸うと刺激を受けて脳に響く・・・・とかなり痛がっていた。痛み止めを飲んでも聞かず、痛みが指先まで影響して、指先の刺激が口の中と脳に伝わって、桃の表面を想像しただけで我慢ができなくなる・・・・と。週末はお客さんがあって、ハードな地方出張が待っているのだけど、こんなんで大丈夫かなあ、辛そうだなあ・・・と心配しているところ。笑うだけで、口のなかに空気が入って浸みて痛いと言うので、ハムディおじちゃんと私は、アドナンを笑わせるためにあらゆる手を使ったことは言うまでもない・・・・・。(ちっとも心配してないって!?)「治ったときに、覚えておけ!」と言われたけど、私もハムディおじちゃんもモノ忘れが激しいからそんなの覚えてるわけないのだ。
2005年09月15日
キリム織り研修の学生さん4人はカッパドキアへ旅立ち、Mちゃんも今朝イーネオヤをもとめてメルシン、アダナ、マルディン方面へ10日間の旅に出た。Tさんはエーゲ海方面、新聞記者のフセインはアンカラで日本駐在のために、トメルの日本語コースに通いはじめて、アンタルヤにいない。今日はペリンとアドナンは歯医者へ行ったし・・・・。ハムディおじちゃんは今日はお休みの日。夫はいるけど、息子は朝8時にお迎えがきて保育園に行った。気がついたら誰もいない(夫はいるけど)・・・・。一人で気がラクって考えれば、それも正解なんだけど、トルコへ来てからというもの、人が常にいることになれてしまっているし、時間関係なくプライベートもなにもない生活が当たり前なので、一人でいなきゃならないのは、結構苦痛かもしれない・・・・・。一人の時間が欲しいとも、ゆっくり誰もいないところでお昼寝したいとか・・・・。全く思わない。(お昼寝は誰がいてもどこでもできる)環境が人を作る。我が家の母など、普段自由気ままに暮らしているから、私たちが来たり、大人数で生活すると最初は楽しいらしいが、3日目あたりから一人の生活が恋しくなって、ストレスがたまるらしい。私はその逆で人がいて、構ったり構われたり、ごちゃごちゃに慣れてしまったから、1時間も一人にされると人恋しくなる。環境で人間変わるものである。日本にいたころは、普通の日本人らしくプライベート空間を大切にしたし、一人でいる時間も必要だった。仕事が家にこもりがちな孤独な作業だったけど、それに慣れたら人とつきあうのが面倒になったり、出不精になったり。それが今じゃ、声がかかればよほどのことがなければ断るということはなく、2分で出かける準備OK。フットワークはかなり軽い。話は変わるけど、アンカラに行ったフセインは、時々電話をかけてきてくれる。トメルの初日にひらがなの勉強になり、「あんなのどうやって覚えたらいいんだあ~!」と泣き言を言っていたけど、よく考えたら、1年半ほど前に冬で暇だったのでみんなで日本語を勉強していたとき、フセインはひらがなをマスターして読み書きしていたはず。(ただしマ行を最後にくじけたけど)もう忘れたのか・・・・。頑張れフセイン!
2005年09月13日
長年隠し続けていたのだけど・・・・(そんな大げさな話か!?)。実は我が家にはチャイダンルックなるものがなかった。チャイダンルックとは何ものかというと、トルコのチャイ(お茶)を入れる2段式のやかんのことで、トルコでこれがないと生きていけないというぐらい常識的にどこの家庭にも存在するものだと・・・・思う。じゃあ、チャイダンルックを買ったことがないのかというと、そうではない。店に台所があったころは、毎日のようにチャイを5回も6回も・・・ときには10回でもわかしていた。自分たちでも飲むし、お客さんが来ても飲むし・・・日本人ながら色といい、味といいチャイのいれかたにはちょっと自信がある。絨毯屋といえば、どういうわけか保守的な地域の古いタイプの人間が多いので、1日何杯ものチャイは必需品。しかも美味い不味い温い、色が悪いと口うるさいので、かなり気を遣った。おかげで鍛えられたわけだけど・・・。今の店に越して、台所がなくなった。チャイダンルックでチャイを沸かすことはなくなったが、人の家にいけばチャイをいれることもあるし、チャイの味にも一応うるさい。ところが外ではいれるし、飲むくせに、どういうわけか家庭内ではチャイを飲まない。私はインスタントコーヒー派、夫はイギリス式紅茶派、息子は牛乳とオレンジジュース派。お湯を沸かすのは1段式の普通のやかん。トルコ人のいる家庭じゃないから、チャイをいれろ、という人も誰もいないし、トルコ人のお客さんだってたまにしかこない。来てもチャイよりコーラが好きなトルコ人だったりするし・・・・。たまのお客さんがあったときも、「チャイダンルックがないから、フィルターコーヒーか、ポシェットチャイ(ティーバッグ)か」ってやり過ごしてきた。・・・・チャイダンルックのない家庭・・・・これを見るに見かねてか、アドナンのお母さんが週末に我が家に遊びにきたときに、チャイダンルックをプレゼントしてくれた。「遅ればせながら新居へのプレゼントよ」と。これでチャイがいれられる・・・って思うでしょ?私も一瞬、チャイダンルックが来たことだし、チャイでもいれようかと思って気がついた・・・・我が家にはチャイの葉も砂糖もない・・・・!? (それぐらい買ってこい! って)こうして、チャイをいれるために我が家へやってきたはずのチャイダンルック。しかし上も下もやがてお湯沸かしの普通のポットになる運命・・・。・・・・今日はネタなし。暇だったってこと。
2005年09月12日
今日はキリム織り研修の学生さん4人が、村を離れる日。朝、9時に家を出て、彼らを迎えに行った。ちょうど朝ご飯の最中で、機を見にいくと、キリムは4人とも完成していた。彼らが朝食を終えるのを待って、機からキリムを切り離す。完成である。フリンジ部分に結び目をして、それぞれ編みこんだり、結んだり。できあがったところで、アイシェと旦那のバイラムと、それぞれ織ったキリムを手に記念撮影をした。それから準備をしてクルマに乗り込むまで、出発しそうで出発できないでいる彼ら。ジュースを飲んだり、手品をしたり、ダラダラと時間が過ぎていく。お昼を過ぎて、さあもう行きましょう・・・と立ち上がる。クルマに荷物を積み込み、お別れのとき。家族と近所の人も集まって、見送る。それぞれ抱き合い、手を握り、キスをしあい、別れを惜しむ。アイシェは今にも泣きそうなのを我慢して、「あんたたちが行くまでは泣かないから、あんたたちも悲しまないのよ」とクルマに送りこむ。クルマが家の前から離れたとたん、アイシェがスカーフのすそで顔を被うのが見えた。それを見て学生さんたちもじんわり。普通の旅行では出会えない人たちと出会い、生活を共にし、そしてお別れ・・・。今度はいつトルコに来るの? トルコに来たら私たちに会いに来てくれる?アイシェはそう彼らに尋ねたが、それが現実になるかどうか期待してはいけないことも知っている。でも、いつかそんな日が来るといいな、と思いながら、時々彼らのことを思い出しては、笑ったり、泣いたりするのだろう。学生さん4人にもいい思い出になってくれていたら、私もうれしい。そして日本でふとしたときに、アイシェやアイシェの家族の笑い声や怒鳴り声や、村の空気や、食事のこと、思い出してくれたらと・・・。
2005年09月10日
今日はキリム織りの最終日。朝は店へ行き、そのあとにMちゃんを彼女のアパート前でひろい、アイシェの村へ向かった。家に行くと、ベランダに組んである織り機の前に誰もいない。台所をのぞくとみんなで軽食をとっていた。キリムの方は男性2人が完成させたようだ。女性2人はあと5cmほどを残すのみ。明日までには終わりそうであった。地方の村見学とキリム織りのコツをつかんでから、織りが早くなった。もちろん時間とともに手が慣れたこともある。藍がめには、しぼりたてのレモン1キロ分の汁を加えた。試しに入れておいたウール糸は藍色に染まっているが、まだまだ不十分。作業はそんなところで、アイシェがトルココーヒーをいれた。私に占いをさせるためである。どういうわけか、私の占いはあたるらしい。どこの村へ行っても、女性たちは私の姿を見ると、トルココーヒーをさりげなくいれてきて、占いを催促する。そのまま人生相談になることもある。今日はアイシェの番が来る前に、学生さん4人とMちゃんの占いをし、それでエネルギー切れになってしまった。さて明日は午前中に完成したキリムを機から切り離す作業。記念すべき瞬間である。今日の日記は短め・・・・実はかなり疲れているのかもしれない。いよいよ明日はキリム織り研修の4人の学生さんが村を離れる日。
2005年09月09日
午前中は店での用事を済ませて、午後アイシェの村へ向かう。学生さん4人は、自分たちのキリムを黙々と織っていた。仕上がりまであとわずかを残すところ・・・・よく頑張ったねえ。さて今日はインディゴのかめを準備する。このかめの設置場所でかなりもめた。というのも、金属容器を使えない染めのため、土製のかめを使うわけだが、地面に設置すると小さな石があたっただけで割れたり、飛んできたゴミなどが入って台無しになってしまう。加えてできるだけ日向に置くことで発酵の期日を早めたい。かめの下部は小さく、置くだけだと不安定である。普段置く場所だと、今の時期、日の当たりが悪い。アイシェと旦那さんのバイラム、かめの設置場所をめぐり、提案しては喧嘩になって・・・・と、時間だけが過ぎていく。みかねたアドナンが「オレに任せてくれないか」と、家の屋上にかめを設置する場所をかなづちを持ち出して作り始めた。かめを保護するためにクッション材を利用し、金属棒に紐で固定し。屋上だから日の当たりもよい。やっとアイシェが納得する置き場が決まった。まず、かめに羊のおしりの部分の毛を燃やしたものを煮立てては冷まし、さらに煮立てて冷まし・・・を1週間ほど繰り返した水を入れる。発酵に必要なものである。特定の木を燃やした灰汁の上澄みで薄め、インディゴの粉末を入れる。さらにレモンの皮を乾燥したものを、砕いて入れ、レモンを絞った液も加えていく。これで約3日間待つのである。これに先日黄色に染めた糸をつける。黄色に青をかけて、緑になるのである。媒染に灰汁に上澄みを使い、染め後の糸は先に、白糸は後につける。灰汁は濃度が濃いものを用意したので、あまり長時間つけられない。時間をはかりながら、待った。待ち時間に、アイシェはサチ・ボレイを夕食に作り始めた。地域によってはギョズレメと呼ばれるものであるが、小麦粉に塩と水を混ぜ、練り、饅頭大の玉にする。それを麺棒で広げ、直径約70cmほどの薄い生地にする。その生地に、事前に用意していた、ほうれん草と西洋パセリ、白チーズを混ぜたものをちりばめ、上からオリーブオイルをかける。それを半分に畳み、熱した円形の鉄板の上で焼くのである。焼くときには、生地の表面にマーガリンをたっぷりぬる。生地を玉にする人、生地を薄く広げる人、焼く人の最低3人が必要な作業である。近所のお友達が手伝いに来てくれて、サチ・ボレイが次々出来上がっていく。見た目には薄いクレープ状なのだが、実際に食べると1個を終わらせるのが精一杯。食べ盛りの学生さんたちも「おいしいし、見た目よりもずっと重たいですね」と大満足の様子。アイシェの家庭料理は評判がいい。彼女の絨毯織りと同じで、食事ひとつひとつにもこだわりがある。素材を選び、丁寧に準備する。自家製ものが多いのもうまさの秘密だと思う。一番おいしいと思う方法で材料を欠かない。調理の作業・時間を惜しまない。実はみんな予想通り、体重が増えているらしい・・・・。食べられなくて痩せていくよりは、おいしく食べられて健康でいてくれるのが一番だから、それでいいと思うのだけど。そうこうしているうちに私たちの帰宅時間は23時近くになった。最近、まともに子供の顔を見ていない・・・・ミフリ社長はまるで働きすぎの日本のお父さんみたいである。明日はキリム織り、いよいよ最後の日。あさっての午前中には機から織り終わったキリムを取り外し、フリンジ部分を固定する作業。さてさてどうなることやら・・・・。
2005年09月09日
その町までクルマで5時間、そこから村へは1時間。未舗装路を土ぼこリを撒き散らしながら、山を上っていく。村というより、集落がいくつかあるだけ。マーケットもなにもない。1本道を間違えたら迷路のようで、一番近い幹線道路まで戻るのが大変。見渡す限り山々、360度、山波が続いている。そこへキリムを織る女性たちに会いに行った。今年はまだキリム織りが始まったばかりで、限られた人しか織り始めていなかった。この村では農業と牧畜で生計を立てている。夏は畑が忙しく、女性たちはキリムを織らない。農閑期になると、男性は家にこもり、女性たちも家でキリム織りの内職をはじめる。工賃の安いキリム織りは、現金収入が得られない時期に、ほかに収入手段がない女性たちに限って行われる。もっとよい仕事が見つかるなら、父親や夫が工場で働くことを許してくれるなら、キリムなど織らない生活がしたい・・・というのが本音であろう。同じ道を1時間かけ、ふもとの町まで戻る。それから定宿にしているホテルへ行くと・・・・なんと満室。いままで一度もこんなことはなかったので、予約をしておくなんて頭がなかったわけであるが、他のホテルでもいいや、と何軒があたった。ところがどこへ行っても、町で一番高くて誰も泊まりそうもないところでも満室・・・・。いったいこの町に何があるのだ・・・。どうやら商工会議所関係の集会があるようで、トルコの各地から商人、会社関係者たちが集まっていたよう。・・・・それはいいけど、困ったのは私たちである。地元の友人がうちに泊まっていけ、と言ってくれるのだが、同行者もあるし、疲れていたのでホテルでダラ~ッと過ごしたいと思っていた。どうしても見つからなかったら、友人宅に行くことにして、ホテルを探した。同行の4人の学生さんたちには本人たちの希望でとにかく安いところ・・・・と1人5リラ(約420円)のホテルで部屋を見つけた。が私とアドナンの分がない・・・・。小さな地方都市なので、ホテルの数にも限りがあった。どうしても見つからず、8キロ先の幹線道路にあるモーテル形式のホテルがあったのを思い出して、電話番号案内で聞くが登録がなく、ホテルのある場所まで出かけていった。シングルが1部屋、ツインが1部屋あるというので、迷わずチェックイン。そのあと来たお客さんには満室です。の返事。ギリギリ宿無しにならずにすんだわけである。よほどのことがない限り、どのホテルも満室。なんてことはないのだけど、今回の教訓。チェックインは早めに。もしくは予約しておくこと。・・・・なんだか、当たり前のことなんだけど、普段気にもしないこと。翌日は村民バザールの日だったので、学生さん4人と見に行って、オヤつきのスカーフを買ったり、バザールで買った野菜やフルーツを焼き鳥屋(?)さんに持ち込んで、お皿に切って盛り付けてもらい、屋外のテーブルでピクニックもどきをしたり、スーパーにお土産を探しにいったりした。もちろん町なかでキリムを織っている女性にも会いにいき、ついでにこの地方独特の織り方を、学生さんたちに覚えてもらった。左右の手の使い方を覚えると、キリム織りがかなりラクになる。コツをつかむまで分からなかっただろう、私が言う「軽快なキリム織り」の意味が少しわかってもらえたかな・・・・って。これでアイシェのところに戻って、自分たちのキリムを完成させるのに、早く軽快に織るための役に立ってくれるといいのだけれど。夜は道がすいていたので、飛ばして飛ばして予定より1時間半ばかり早く村のアイシェの家に戻った。実は今日、娘のブルジュがアンタルヤの病院で耳の手術をした。入院はせず帰宅してベットで横になっていたが、手術が長引き、母親であるアイシェもブルジュ本人も疲れ果てていた。しかも朝7時に家を出て、夜の7時に家に帰ってきたところだという。娘の手術の心配で泣いてしまったというアイシェは、学生さんたちが戻ると笑顔になって、疲れているだろうに、夕食の準備をしはじめた。チキンのスープ、いんげんのトマト煮、トマトやビベルのピラフ詰め、ジャジュク。私とアドナンは、ブルチュと学生さんたちがそれぞれ食卓についたのを確認して、アンタルヤへ戻った。アイシェは私たちが一緒に食事をしないと知り、猛烈に怒った。「食わないと帰さない。食事をしないで帰るなんてできると思っているの!?」そりゃ私にとっても、アイシェの作る村の家庭料理を目の前に、空腹をかかえ、立ち去るのは至難の業。でもレンタカーの返却の都合があるんだもん。仕方がないんだよお・・・・。明日までトマトのドルマ(私の好物)は残ってないよなあ・・・・って。
2005年09月08日
今日は村通いはお休みをもらって、昼過ぎまで家で掃除をしたり、お風呂に入ったり・・・・。さすがに疲れているなあ、って思った。まるで日本で通勤電車に乗って往復している感じ。アドナンも同じことを言っていて、本来夜型なのに家に着いたとたん、ぐっすり眠りこむという。そりゃそうだ。毎日往復90キロの道のりをクルマで通勤(!?)しているのだから。しかもアンタルヤは暑い・・。外で火をたいたり、池で糸洗ったり、デカイかぼちゃを切ったりしているんだから、肉体労働、重労働。学生さんたちはさすがに若い。在学中であり19歳、21歳、23歳とみんな20歳前後・・・・・大学卒業してすぐに結婚でもしていたら、これぐらいの子供がいたのだろうなあ、と思ってしまった。アイシェの家でも時間があると昼寝をしてしまう・・・・キミたちのお母さんと同じぐらいの年齢であるミフリ社長を許してほしい・・・。夜、アイシェの家に電話をかけて、家族と学生さんたち本人に様子を聞いたら、ちょうど夕食の時間で、元気な声が聞こえてきた。特別問題もなく、わからないこともなく、キリムの進み具合だけが心配だとのことで、まあ安心した。(まったく母親の心境である・・・)さて私たちは何をしていたかというと、午後、出社。といっても看板も出さず、ドアを片方開けて、店に中に入っただけ。明日からの出張に必要な書類と道具を出して、クルマに積み込んだだけ。私たちの姿を見つけて集まってきたみんなに「どこまで行っていたんだ? イスタンブルか? ブルサか? コンヤか?」と問われ、「アンタルヤにいたんだけど・・・」と答える。「明日はいるんだろうな?」との質問に、「・・・・・・・」。2時間ぐらい店にいたが、私が来ているのを聞いて、みんなが用事を済ませに来てくれたので、今日はラクだった。そのあとはレンタカーの到着を待って、フセイン、ハムディおじちゃん、アドナン、私でオーケイ勝負。当然、私の負け・・・・・。
2005年09月06日
なんだかもう1週間ぐらい経っているような気がするのだけど、なんとまだ4日目。それだけ充実しているってことかな・・・。今日は10時ごろ、アイシェの家に着く。学生4人は朝食のテーブルを囲んで、なんだか盛り上がっている。ひまわりのタネの食べ方をマスターしたとかで、テーブルはひまわりのタネの殻だらけ。このひまわりのタネ。食べ方にコツがあり、できないと口のなかがトゲトゲしてしまうだけ。とんがった方を前に縦に立てた状態で、歯でカリカリと割っていく。それから舌を使って殻をズラし、さらに舌で中の白い部分を取り出す。昨日は村で、知り合いの娘の結婚式があった。私たちは早めに帰ったので、出れなかったが、代わりに学生さんたちに声をかけておいた。行ったら、村の若い子たちに引っ張りだこにあい、ダンスの輪に参加して踊りまくってきたらしい。バンドの人も彼らのために特別に歌を捧げたとか。楽しんでもらえたようだ。さて今日の課題は、昨日染めた黄色を釜から取り出し、乾燥させ、さらに前々日のピンク色の糸とともに、十分乾いたとことで、清流で洗い、トクチュという平たい面のある三角の先がついた棒で叩きながら、水分を出す作業。釜から出した黄色の糸はとてもよい色に染まっていた。エゼンテレと混ぜて煮るために、植物が糸に絡まった状態であるが、これを乾燥させ、村から3キロほど行った湧き水の池に洗いに行く。これをよく乾かしたあと、いよいよインディゴのカメに漬ける。今日はランチに、バーべキュー用の肉と白飯、コーラ、パン、メロンを差し入れした。バーべキュは鶏肉を6キロ、炭火を起こして焼いた。米は自宅で使っている炊飯器を持参して、11合炊いた。パンはフランスパン大のトルコパンを8本、これにサラダを作り、コーラが5リットル。計13人がお腹いっぱいになるまで食べられた。・・・・と炭火焼きに夢中になっている間に時間が過ぎ、インディゴは次回まで持ち越し。どちらにしても黄色の色がしっかり乾くまで待たなければならない。明日は私もそろそろ店に行かないと仕事がたまってやばいので、村通いはちょっとお休みをもらう。学生さんたちもアイシェ一家に慣れてきたころだし、お手伝いでついていなくても1日ぐらい大丈夫かな・・・。特別な作業もないし、明日はちょっと遅れ気味のキリム織りで一日過ごしてもらおう。あさっては、内陸部の山奥の村へ1泊2日のキリム織り見学へ向かう。
2005年09月04日
今日は新聞記者のフセインも同行。10時ごろ村のアイシェ宅に着くと、ちょうど朝食の時間だった。学生4人は食事の最中。それから屋外に設置された釜を見に行く。朝からアイシェが用意していたピュレンオトを煮た釜で、その様子をみつつ、糸洗いの続き。十分に油をおとし、汚れをすすぎ、準備完了。3キロの糸を染めるのに、高さ1メートルほどの袋に詰められたピュレンオトを2袋ほど使う。ビュレンオトの場合は、最初に煮出し、植物を出してから媒染剤を約500gと糸を入れる。それだけだと茶色っぽい色になるのだが、そこに魔法の粉をチャイのスプーンに1杯いれると、なぜかバラ色になる。植物の煮出しに3時間、糸の煮出しに2時間半。3キロの糸に対して、本来はもっと多くの植物を入れなくてはいけない。昨日の植物採集の成果が悪く、今回はちょっと薄めの糸になった。午後はエゼンテレで黄色を染める準備。エゼンテレは今、ないので、春先に私たちが集めておいたものを使用。エゼンテレの場合、植物、糸、媒染剤を交互に重ねていく。最後に色に渋みを出すため、タマネギの皮をのせる。この煮出しには約12時間はかかるので、糸の取り出しは明日の朝。それまではアイシェに任せることになる。学生さんたちはキリム織りに精を出し、それを見ていた新聞記者のフセインは記者魂が我慢しきれず、取材をしてしまう。実はフセインは約3か月の休暇に入ったばかりで、今日ももう仕事はしない!との決意のもと、遊びにきた。私によくからかわれるので「もう二度と日本人ネタで取材しないぞ」というのが口癖であるが、日本人を見ると記事にしてしまうという癖もなおりそうもない。カメラもオフィスに置いてきたらしいけど、私のカメラを奪って、写真を撮って、インタビューした。というわけで今回も4人の大阪の学生が、村で染色をやったりキリム織りをやっています・・・という記事が全国、アンタルヤ地方版に配信される。(だろう)明日は黄色に染まった糸をとりだし、その半分をインディゴにつけて、緑にする。さらに単色でインディゴ染めをする。
2005年09月04日
朝は6時45分に家を出る。アドナンの家と我が家がご近所さんなのが、こういうときに助かる。まずカレイチの弊社の店に行き、染色に使うウールのキリム糸などをクルマに詰め込む。今回は12キロと少なめ。いろんな色を少しずつ染める予定である。それからアンタルヤ入りしたMちゃんを拾い、村のアイシェの家へ。家に着くと、4人の日本人学生さんたちはすでに起きて、朝食を待っていた。昨夜は疲れたのだろう、星空の下、みんなぐっすり眠ったそうだ。屋上の蚊帳の寝床は、家のなかに比べて涼しいし、毛布を被ってちょうどよいぐらい。アンタルヤ市内だとこうはいかない。朝食後は、体調の悪いアイシェを残して、みんなでピュレンオトの採集に向かう。暑くならないうちにと言っても、太陽が上がったとたん、気温はあがるし、日陰を選んで歩く。ピュレンオトのあるところをアイシェの夫のバイラムが案内してい、大きなチュワル2袋を満杯にした。そして帰宅。染色は屋外作業になるので、夕方まで待つことにして、昨日の縦糸にいよいよキリム織りを始める。課題にしておいたデザイン画は、あくまで理想。実際は不可能。修正をしてもらいながら、糸を選び、実際に織りにかかってもらう。キリム織りの指導をMちゃんに頼んで、私たちはアイシェと一番近い町(というか大きめの村)の移動バザールに買出しに行くことにした。人数が多いと、食料の減りも激しい。今日はアドナンが大きなスイカ2個と、鶏肉1羽を差し入れに持ってきたけど、野菜のまとめ買い、洗濯機の洗剤などがなくなっていたので、それを買いに行った。一番近い町なのに、何もない道をクルマで30分近く走った。郵便を出すのにも、国際電話をかけるにも、この町まで来なくてはいけない。バザールではトマトを5キロ、きゅうりを3キロ、パセリを3束、レタスを5つ、なしを2キロ、さやえんどうを2キロ、白チーズを3種で4キロ、オリーブを1キロ(アイシェの自家製もあるのだが息子が別の種類のオリーブを好むため)、洗剤を30キロ分、漂白剤、その他、いろいろ、調味料、ケーキの材料、なんのかんのとクルマの荷物室がいっぱいになった。しかも村の女性であるアイシェはバザールでのモノ選びにもこだわりがあるらしく、気に入るまで探し歩く。バザールでモノを買わないし、行っても手前にあるものを買って5分で帰る私とは大違いである。時間も荷物を持って1時間は歩かされた。さらにクルマで荷物を運んでくる、アドナン、アイシェの娘と息子を待ち、トータル2時間のお買い物。アイシェの家に戻ってみると、学生さんたちのキリムは2cm~3cmぐらいすすんでいた。始めたばかりだし、初めての経験なので手はゆっくりである。あと6日間で織りあがるのか、それが気になるところだが、4人とも集中力があり、ご飯とお茶など以外はほとんど織り機の前に座っていた。夕方になって、明日の染色のために糸を洗った。糸12キロ分を、油とりの洗剤でよく洗うのである。毛にまじった油分と汚れを徹底的にとる。そうしないと、染料が糸にしみこんでいかないからである。これがなかなかの重労働。アドナンとアイシェが洗い、しぼる。途中から学生さんたちにも作業に参加してもらうが、アイシェのダメ出し連続。それでも頑張っていた。今回染めるのは紡ぎの回転数の少ない太めの絨毯糸ではなく、硬くよったキリム用の細糸。染料がしみこみにくく、洗いもいつも以上に念入りになる。でも途中から雨がポツリポツリと降り出して、半分が終わったところで作業は明日へと持ち越し。時計を見ると19時を過ぎていた。2晩目で少しは慣れただろう学生さん4人を残し、私たちはアンタルヤへの帰路へとついた。明日は染料作りと糸の煮出し。・・・実際の染めである。そして時間が許す限り、とりかかったキリムを作り上げる作業。夜はトルコのサッカー試合があるので、それに間に合うようにアンタルヤへ戻るか、戻れなければ、村でテレビ観戦。帰宅は0時過ぎになるか・・・。
2005年09月02日
キリム織り研修の短期で、関西の学生さん4人が来アンタルヤしている。今日はその初日。研修の様子、村滞在の様子を報告したいと思う。お昼ごろ、クルマでアンタルヤから約45キロの村へ向かう。向かうは絨毯織りの名人、アイシェの家である。家について、まずは家族とご対面。今日は夫も娘も息子も勢ぞろい。学生さんたちが来るのを楽しみに待っていてくれた。名前と年齢、家族の関係などを簡単に紹介しあう。それからお昼ご飯とチャイの時間。ゆっくりしたいところだけど、実は草木染めの合間に、キリムをそれぞれ織りあげるという目標があるので、今日のうちに縦糸張りをしなくてはならなかった。別の村への見学をのぞくと、正味8日間しかないので、暑くて、みんなが疲れているところをちょっと無理してもらった。幅約3メートルの金属織り機に、4人分の糸をかけることにした。幅はそれぞれ40~50cmぐらい。そのためにまずは木陰にクイを打ち、縦糸用のウールを張る。今回は一気にまかず、それぞれに130本程度の縦糸を、4回張った。それを鉄棒にとり、いざ機へかける。木製機なら慣れたものだけど、大きい絨毯を織るために、他の地域からとりよせた機だったので、誰も使いなれていない。かけて、繰り出しの糸を設定するまで、いつもの2倍の時間がかかった。でも人数も多かったので、持ち上げる、回転させるなどの力のいる作業はなんとかなったし、学生さんたちも自分からすすんで糸をかけたり、鎖をかけたりしてくれたので、アイシェの座っていられる時間もあった。最後にアイシェが点検、調整して縦糸はなんとか整った。明日からいよいよキリム織りが始まる。夕方になって村の湧き水のプールと雑貨屋の場所を教えるために、クルマで一回り。と言っても歩いて周れるぐらいの村なので、ほかに見るものもない。牛とかヤギとか・・・・。暗くなって、気がつくともう夜の8時過ぎ。あわててあるものとフルーツで夕食をとり、屋根の上でチャイを飲んだ。屋外はアンタルヤ市内に比べて、涼しく、とても気持ちがよかった。希望者には屋上にカヤをつり、その中で夜空を眺めながら寝ることにした。室内に比べたら、本当に涼しく、帰宅予定の私たちまで、そのまま寝てしまいたいと思ったほどだった。アイシェに洗濯機を回してもらい、それぞれシャワーをあび、睡眠時間。私とアドナンは帰宅。アンタルヤに戻ったら、23時を過ぎていた。明日は8時~午前中のまだ暑くならないうちに(といっても十分暑くなっている時間だけど)、草木染めの材料であるピュレンオトを採集に家族と山歩きをする。そのためにミフリ社長は6時半に家を出るのである。・・・・どうして商売じゃないと、こんなに張り切れるのだろう・・・・。商売でもこれぐらい頑張ってくれたら、我が家の家計も少しはラクになるだろうに・・・・。でも楽しみがなければ生きる意味もないというもの・・・・。まるで外で無駄なことばかりしている男の言い訳である。
2005年09月02日
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