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“アホは国境を越える”ドエラいキャッチコピーですわ~。まあ、しゃない。山本政志監督、1990年作品。この監督ってね、当時からインディーズで強烈な「異彩」とか、「鬼才」って言われたりしてなさったが、今でもそのままのようだ。それってスゴイじゃございませんか。なにせ、アホ、扱ってるんですから。(アホは決して悪い意味じゃございません)国境を越えるといっても、返還前の香港大阪、釜が崎、東京、浅草というラインナップ。この映画の中じゃ「魔都」にさえ見える。はじまりは、香港で水上生活している一家の長男が、日本旅行をゲットしたことだった。でもね、代理店が個人商店で、連れてこられた飯やは通天閣の串カツ屋。おまけにワケわからん奴に金盗まれるが、ホンマにワケわからん奴だった!!「二人一役」なのである。「一人二役」の間違いではなく。鈴木みち子さん(♀)室田日出男さん(♂)が釜が崎の(おっちゃん/おばちゃん)を交代で演じるのだ、前半と後半で。でまあ、そんなこんなで香港の青年とカタコト広東語の日本人通訳と、釜が崎の(おっちゃん/おばちゃん)が憧れの東京ディズニーランド目指すねんけど、行ったのは浅草の花やしき、そこで香港旅行が当たる!え、香港では日本旅行、当たってんよな?ウダウダウダが続く日本編から、一転、香港編は、日本人からの二人をまじえ、巨大地上げ組織と香港水上生活者のバトルとなる。ちなみに香港の家族、インチキ占い師やスリなど誰一人、まともな商売してない三世代所帯!この地上げ組織の親玉が「タッタタラリラ~♪」で有名、近藤等則さんというスゴサ(音楽もいいよ~)バイタリティあふれるアホな戦いで、相手側に2,000億円の損害を与えてしまう。プロの役者がホントに少ない。鈴木みち子さんに至っては教育評論家である。近藤等則さんは、ミュージシャン。香港側と日本側の若い二人もたどたどしい。でも、それがどうした!なのである。欠けたものが多ければ、欠けたものの代わりに人間の根っこのエネルギーが湧いてくるのである。逆境に立たされても、悲痛にならない、生きて生きて生き抜いてゆく、真っ直ぐなエネルギー。アホとは。余計なこと考えず、突き進むエネルギー。だからこそ、2,000億円だ、まあ、そんなに上手く実際はいかないだろうが、世界規模の金額をインチキ家族が動かした。国境を越えたのである。
2005.04.30
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麻薬しか、彼らにはない。他に何かあれば、別の道はあったのだ。他に何が?何がある?スコットランド。ショーン・コネリーを輩出した国。長きに渡り、イギリスに統治されていた国。古い町並を彼らは疾走する。マーク・レントンは、何度も何度も何度も何度も何度も、麻薬を止めようとした。何度も何度も何度も何度も何度も何度も、止めようとして止められないものがある。止めなければならないと思って、止めようとしたのは、マーク・レントン。彼への当てつけに「禁ヤク」をするシック・ボーイ。スパッドは無垢なまま、トリップを続ける。身体に毒を入れるなんてバカだ、といい放つベグビーには、毒は必要なかった。彼自身が毒だったのだ。SEXよりいいものなのかと、トミーはレントンに麻薬をうってくれと乞う。リジーと別れてしまった彼には、何かが、必要だったのだ。何かが必要ならば、探せばいい。だが、今は、この苛立ちを、なんとか、したい。だからもう、一回だけ。ユアン・マクレガーが疾走する。ダニー・ボイル監督の映像の中、音楽の中。時代が変わろうが色褪せぬ若さがフィルムに鮮明に焼き付けられている。汚れた便器にダイブし、干からびた赤ん坊に怯える。顔の歪んできたトミーと、切れたベグビー、せせら笑うシック・ボーイに、囚われのスパッド、ヤクの代わりのものを手にいれようとしている。手にはいるのか、望みのものは。マーク・レントン。彼が最後に見せたのは笑顔だ。疾走を止めて扉の前に立ち、笑っている。仲間を裏切ることで、やっと、そこに来れたのだ。でないと仲間は、麻薬持参でやってくる。仲間だからさ、一緒にやろう、と。仲間のいない場所へ彼はいく。それは彼が求めていた場所だったのか。そんなことは、誰もわからない。誰も、わかりっこない。そうだ、麻薬をやらなかったトミーがエイズで、いろんな麻薬を試したレントンが陰性だったように。簡単なものは何もない。たとえ、お決まりの人生であろうとも、四苦八苦するものなのだ、間違いなく。しかももう、麻薬のない場所のハズだから。
2005.04.29
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ジョンとビル、汚れきった部屋で、またビールの栓をを抜いている。飲むのが人生の中で、一番、楽しそうだ。今まできっと、あんまり、良いことなかったのだろう。そんなオッチャンたちに、どういうわけが、上手い話が転がってきた。ビルの知り合いのアレックスから、ドッグレース用の犬を訓練して、試合に出してくれないかというのである。預かったのはグレイハウンド、空気抵抗を最小限に止める、見事なボディラインを持っている。「蛇の如き頭、雄鴨の如き頸、猫の如き脚、ねずみの如き尾」とは、良きグレイハウンドを表現していると言う。だが、オッチャンたちは酔っぱらい。来る日も来る日も酔っぱらっている。だから二人が、ドッグレースに燃えて、勝利を勝ち取るサクセスストーリーにならない。犬のことはとても大事にしていて一生懸命勉強しているけど、所詮、素人だ。それでも彼らの「サイレント・パートナー」は、なかなかいい成績をあげてくれていた。2001年のオーストラリアの作品。舞台劇をそのまま、映画化、二人の酔っぱらいを演じる役者もまた舞台からのシフトだという。見事な酔っぱらいである。何かと言えばビールの栓をあけて飲んで、ベラベラと中味のないことをクッチャベッテいる。演技なのか、本当に酔っているのか。不思議な空気感が映像をまったりとさせている。だが、映画は思わぬ展開をすることになる。レースに勝つために、アレックスからもらった薬を与えたら、「サイレント・パートナー」は死んでしまった。それも、あっけなく。二人は酒を飲みながらも、その死を真剣に悼んでいるが、実はそれどころでなかったりする。アレックスはどうやら、町の顔役のようで、預かった犬を死なせたのだから大ピンチである。しかもレースの掛け金の問題もあって、二人は多大な借金を背負ってしまった。それでも、酒を飲んでいる。しょげているけど、酒を飲んでいる。人生に勝つとか負けるとかの問題じゃない。とにかく、酒を飲んでいる。最初から仕組まれていたとしても、彼らにこれから、悲惨な運命が待っていたとしても、今はとにかく、酒を飲んでいるのである。勝てば、人生は逆転だったかも知れないが、負けても、今までと何も変わらないのである。ただ、アレックスと呼ばれる男は、ロクでもない飲んだくれを利用してまで、金儲けを企んでいるのは確かななような気がする。酔っぱらいだからこそ、利用しやすかったような気もする。だが、二人はお構いなしである。死ぬまで彼らは酔っぱらっているのだろう。
2005.04.28
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メールが来た。顔も見たことない相手なのに、その人がどんな人だか、想像している。「NY152」彼の本名は、ジョー・フォックス。全米にチェーン店持つ『フォックス・ブックス』の御曹司。「ショップ・ガール」彼女の本名は、キャスリーン・ケリー。亡き母親から受け継いだ小さな本屋を経営してる。トム・ハンクス、メグ・ライアン、息のあった二人は、顔を合わさなくても、息のあった演技を軽快に見せてくれる。そう、顔を見ていなくても。年齢や職業、それから容姿。それらは人の印象を左右する、間違いなく。見る情報もあれば、読む情報もある。モニタ画面に表示される文字は「記号」なんだけど、その行間には、その人の想いがある。彼女は本当に困っている。「ショップガール」の店は『フォックス・ブックス』の進出でピンチだ。「NY152」のアドバイスは、戦え。ジョー・フォックスにはただの競合店のピンチ、それもとるに足らない小さな絵本屋。だが、画面の前では、「NY152」なのだ。彼は、「ショップガール」の味方で友達なのだ、だから、最高のアドバイスをする。キャスリーン・ケリーは、ガゼン、勇気が出てしまって、「小さな書店を潰すな」とマスコミまで動員、徹底抗戦を始めてしまった。メールが来た。そのメールが本当か、どうか、顔も知らない相手だと思って騙す輩もいっぱいいる。けど、それでもだ、温かい気持ちが、文字の間からあふれて伝わってくることがある。You've Got M@ilキャスリーン・ケリーの背中はパソコンに向かう時、楽しそうに揺れている。わからないのだけど、どんな人だか、わからないけれど、彼は、彼女が困っているときに、戦え、と励ましてくれた。仕事では渋面のジョー・フォックス「ショップガール」の前では穏やかになる。その気持ちが文字になって、彼女のもとへ、運ばれてゆく。たくさんの嘘がネットにはある。たくさんの嘘が現実にもある。ネットの嘘も現実の嘘も、避けることは出来ないし、寧ろ必要なこともある。それでも、モニタ画面の言葉が温かく感じることがある。嘘か、本当か、確かめることも出来ないのに。画面の外からでた二人は、商売敵、お互いに反発しあう。反発しあう二人は、まさしくジョーとキャスリーン。だが、「NY152」と「ショップガール」が画面の外から出てみれば、もう二人は十分、大人のはずなのに、お互い夢みがちに、どんな人かと想像している。それほどに、人は、きっと臆病なのだ。夢みたいなラブストーリー。だが、社会という器を脱ぎ捨てた人間を、ノーラ・エフロン監督は、巧みに見せる。音楽と映像の馴染ませ方も巧み、細やかに、生活感を描き出してもいる。都合の良さが、軽やかな魅力に変わっていく。メールが来た。まだ、会ったこともないけど、よく知っている人、よく知っているのに、まだ会ってことのない人。いつのまにかお互いの人柄だけは知っていた。文字という「記号」にあふれていた人柄。不思議なものである。
2005.04.27
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ここにあるのだ。なんだかわからないけど、ここに。湿ったアイルランドの空気にくるまれたなだらかに広がる緑の絨毯。自分のミュージックホールを失った若いプロモーターは、その景色を見つけるまで、途方に暮れていた。ミッキー・オニール。イギリス、リヴァプールのミュージックホール「ハートリーズ」のプロモーター。自分はまだ、30歳だと力説している。なんだかどうも胡散臭い奴である。契約していた歌手の声が出なくなり、自分が舞台に立って、しかも好きな女性にプロポーズ、そのへんは、また可愛げがあったが、次には、スペル違いのフランク・シナトラで客を集めて、勿論、客を怒らせ、その次は、脱税で逃亡中の人気歌手、ジョセフ・ロックの偽物で客を集めて、客を怒らせて、しかも、好きな女性の母親を怒らせてしまったから大変。客の信用も失い、「ハートリーズ」は営業できなくなる。途方に暮れるミッキー・オニール。どうも、人生でまかせに生きてきたようだ。口は達者で、でも、中味がない。でも、憎めない。彼は故郷、アイルランドまで出向き、一文無しのまま友達をアテにして、本物のジョセフ・ロック探しを始めてしまったのである。。「Shall we Dance?」の監督、ピーター・チェルソムの第一回監督作品。ベタなコメディに笑わされ、それでもどこか気持ちが温かくなるのは、素朴な表情で演じる登場人物たち魅力だろう。ネッド・ビーティのジョセフ・ロックは、吹き替え丸出しなのに、高らかに歌っている。エイドリアン・ダンバーのミッキー・オニールは、ダメ男なのに、やっぱり、憎めない。ワザと映画を感動に導く言葉はないのに、何気ない顔が、登場人物の心となる。ただし、コメディシーンはベタベタなのだけど。湿った空気に充たされたアイルランドの緑の絨毯。彼の探していたものはそこにあった。ミッキー・オニールは見つけた。ジョセフ・ロックを見つけた。その夜の「ハートリーズ」のショーは無料になる。最高の歌手と最高の歌手をプロモートしたミッキーと、最高の歌手の伴奏をしにきたオーケストラ、そして、最高の歌手を歌を聞きにきた観客。ミッキー・オニールは見つけたのだ。彼の故郷、彼の原点。だが、ジョセフは逃亡中の犯罪者。警察が見逃すはずはなく、しかも警察署長は、デイヴィッド・マッカラムが演じているという面白さ。ベタなコメディと最高のジョセフ・ロックのステージ。だが、最後の最後は、痛快な逃亡劇となる。スペル違いのフランク・シナトラとジョセフ・ロックの偽物が大活躍するのである。それで、いいのか?と思うのだが、でも、それでいい!と、思わせてくれる。上手くいかないと、途方に暮れるものだ。それをミッキー・オニールは口でごまかしてきた。でも、ごまかしきれないものがある。彼は歌が大好きだった。だから、今夜のショーは無料。夢の「原点」というものを見る思いがした。
2005.04.26
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善と悪が戦うならば、悪と悪が戦うのも当然のことか。セスとリチャード、銀行を襲撃し、人質をとって逃亡する凶悪な犯罪者の兄弟が戦うのは、凶暴な吸血鬼。さらに噛まれた人間もヴアンパイアとなるのだから、凶悪な犯罪者も凶暴なヴアンパイアとなる。無差別に、無軌道に渾然一体。狂乱の一夜が始まろうとしていた。荒野の真ん中にネオンサイン。原色のけばけばしさ、店の名は「ティティ・ツイスター」日本語に直すとオッパイグルグルらしい。セスが客引きを叩きのめして入れば、蛇を巻き付けた妖艶な美女がお出迎えである。だが、その美女が豹変する。従業員やダンサーたちが豹変する。客たちは次々のヴアンパイアの餌食になっていた。だが、セスとリチャード、ゲッコー兄弟、簡単に噛まれるような輩でない。股間に銃を仕込んだ男や、ベトナム帰りの黒人も参戦、戦いではあるのだが、善と悪ではない。悪と悪、ワルとワルが戦う狂乱の一夜、狂乱のカーニバルである。実に楽しそうだ。ロバート・ロドリゲス監督作品。ゲッコー兄弟はジョージ・クルーニーと、クェンティン・タランティーノ、あり得ない兄弟だ。この三人が仕掛けた狂乱の一夜、ハメを外して、タガをハズしてカーニバル、善など、つまらない。善など、人生をスポイルする。人質に連れてこられてのは牧師一家である。ハーヴェイ・カクテル演じる元・牧師は、妻を亡くして信仰心を失ってしまっている。家族を救おうを奮闘する姿は美しいが、ゲッコー兄弟の姿の方が、楽しそうに描かれる。また一人、また一人、吸血鬼の餌食に。ついには、リチャードも噛まれてしまうが、凶悪で凶暴なヴェンパイアが誕生しただけのこと。凶悪で凶暴!しかし、まあ、楽しそうだ。ゲッコー兄弟の逃亡劇から、閉ざされた空間での一夜となる。いかがわしく、おぞましく、息詰まる空間から、再び、朝を迎えるは、ハチの巣の屋根から差し込む光。その光に、希望があるわけでもない。ただ、狂乱のカーニバルが終幕を迎えただけのこと。ほんの少しジョージ・クルーニーは、彼のイメージ通りの伊達男の顔を見せてくれるが、やはり、セス・ゲッコーの顔に戻っていく。弟の死を悼むような男じゃない、次の獲物を狙う、凶悪犯に。次の獲物を狙う。ヴァンパイアたちもまた、同じだ。悪と悪が戦う。そこには正義も大義も何もない。ネオンライト彩られた、狂乱のカーニバル。
2005.04.25
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出会いの瞬間から、惹かれ合っていたから記憶にあった。義経と静御前、9年ぶりの再会、ゆっくりと馴染むように距離が狭まる男と女、だが、時間というものが必要だった。平宗盛は御しやすいと、鼻で笑うかのように洩らす後白河法皇。父に愛されぬと思い続ける彼に、父のような顔で接している本心は別のところに。本心をそのまま、さらけだしはせず偽りの表情と言葉を操っている。真っ直ぐにはならぬもの、義経と静の出会いには時間が足らぬ。真っ直ぐなど、ありえない。時代に見捨てられるか、否か、後白河法皇の腹蔵にあるのは焦りか、野望か。本心を、と。捨てられた京は、盗賊の巣窟に、福原の都は、誰にも受け入れられずに。平家一門を集め、やっと清盛入道は意見を聞く。本心と保身と世渡りとさまざまに、入道は自分の目で、本心を聞いていた。心に生まれる感情がある。生まれた感情は、無垢のまま燃えている。政子が観たのは夫、頼朝と仲むつましい亀の前との姿。彼女の大きく凄まじい愛情は、激情となって表情となり行動となる。良くも悪くも計算高い女性の感情は、夫の将来と天下の動向をつねに見据えているから、無垢のままあふれだすことは、きっとあり得ない。頼朝様は優しい、と言う、亀の前のことを微笑ましいと静は言う。真っ直ぐに人を愛し、真っ直ぐに、人生を見つめる。それはとても微笑ましいことだろう。兄弟仲むつましく。頼朝と義経、兄弟が仲むつましく、そんな人生を二人が望んでいたとしても、もはや、それだけに収まらなくなっていた。兄が弟を気づかい、弟が兄を慕っていたとしても、その感情はそのまま真っ直ぐには届かない。真っ直ぐにはならぬ、人の心。生まれたままの感情が形を変えてゆく。そのまま受け入れるか、疑心暗鬼となるか、本意を正確に掴み取れるか。馬を引く、源九郎義経、鎌倉様の弟君は、御家人として命を受ける。周囲も、彼の郎党も、動揺を隠せない。だが、義経は彼らを諭す、自分はまだ、これからだと。真っ直ぐには届かぬ、兄の心を掴む間もなく、前を向いて歩くしかないのである。
2005.04.24
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家にいれば、家族仲良く。厳格ではあるが争いのない世界から、一歩外へでたばかりに少年は目撃する。殺人事件の現場を。少年は、閉ざされた共同体にいた。アーミッシュ。ドイツ系住民の一派で、キリスト教の再洗礼派に属しているという。ペンシルバニア州やオハイオ州に居住し、17世紀そのままの生活スタイルを守り続けている。電気はなく、交通手段は馬車、質素な服装、男たちは襟なしの黒のジャケットに帽子、女達は長いワンピースにオーガンジーのキャップ。マスコミもないから過度の情報もない。彼らもまた、好んで外との交流をとろうとしない。未亡人となった母、レイチェルとともにボルチモアに旅行にきた6歳の少年サミュエル。アーミッシュの少年は世界の外の闇に触れる。彼が目撃したのは、麻薬絡みの警察内部の犯罪だった。事情聴取を担当した刑事はジョン・ブック、レイチェルとサミュエルを守ろうと奔走する。だが、逆に彼自身が負傷してしまう。彼のアーミッシュの村での日々が始まる。閉ざされた共同体、宗教的な理由で文明を拒否した村。ジョン・ブックが傷を癒すのは、美しい自然の村、彼が訪れることがなければ、きっと、誰にも知られることのなかった場所。いくら彼が、レイチェルを愛し村に馴染もうとも、刑事である男が、外の闇を惹きつけぬはずはない。映画は皮肉にも、閉じた世界の通路を開く。アーミッシュという知識が人々の間に広まった作品。非暴力、平和主義を貫き、家族を愛する人々。「現代」が忘れてしまいがちな価値観が、彼らによって、壮絶につきつけられることになる。だが、何かを受け入れれば何かが犠牲になる。ジョン・ブックとレイチェルは心を通わせるが、アーミッシュである彼女は簡単に、よそ者を受け入れられない。1985年、ピーター・ウィアー監督作品。優れた脚本を生かし、観る者を立ち止まらせる。アーミッシュという存在を通して、「現代」を熟考させようとしているようだ。ただし、アーミッシュの人々にとっては、受け入れがたい側面も多大だと感じさせる。資料を見る限り、文明は若いアーミッシュには、良くも悪くも変化をもたらしていると言う。教会もなく礼拝は家で。彼らは幼児洗礼を認めず、成人してから、自らの意志で洗礼を受けることから「再洗礼派」と呼ばれているという。映画ではよく教会そのものが取り沙汰されるが、アーミッシュにあるのは信仰のみだ。しかし、閉ざされた世界。一歩外に出れば、少年は闇に遭遇する。非暴力・平和主義が通用しない場所がある。それでも父親のいない少年に、ジョン・ブックは父親の顔を見せる。ハリソン・フォードは繊細ながらも骨太な演技で物語を引っ張ってゆく。家族から離れ、社会にでること。信仰を重んじる村から離れ、外の世界へ。人を闇に染めるのは、その闇が強かったからか、果たして、人が弱かったからか。比べることで、浮き彫りなるのだとしたらなんだか試されているようでもある。自分にとって、何が大事かと。
2005.04.23
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生まれてから死ぬまで。クルッと回ってつながるのか、それとも途切れて消えてしまうのか。どこかに、見える場所があるのか。それとも、見られぬまま消えてしまうのか。居心地のいい棺桶の中。窓から4人の仲間たちの顔が覗いている。ゆったりとした環境の老人ホーム、ここの入居者は皆、裕福なようである。奥さんととっても仲のいい源田さんは、とにかく人生設計を立てるのが好き。だから、自分の骨壺と棺桶を用意して仲間に披露した。そしてやがて、その棺桶の中の人となった。全て、源田さんの計画通り。元・映画プロデューサーに山崎努、濡れ衣を着せられた元・銀行マンは宇津井健。そこに、エロジジイに徹する青島幸男とホラをふき始めたら止まらない谷啓が絡んでくる。計画好きな源田さんは藤岡琢也、ひたすら桃と食べるホームレスは長門勇、物語のキーパーソンは森繁久彌、99歳白寿の役で登場する。この顔ぶれ、なんと個性豊かなことか。全て、源田さんの計画通り。「死に花」と名付けられた遺書を残していた。『さくらんぼ銀行』17億円強奪計画。金庫に向かってトンネルを掘らなければならない。一人でやれば大変だが、四人ならば四分の一。必要な機材やら方法は遺書に書かれている。残った四人にホームレス一人が加わって、エッサホッサとトンネル掘りが始まった。そんなムチャな。いや、ムチャじゃない。源田さんは生前、釣りで、とっても大きな魚を釣り上げた。みんなで応援した、そして、ワクワクした。そしたら、ホントに釣れたのだ。諦めずに、やってみればいいのだ。自分の人生なのだから。それは過酷な穴掘り作業だったが。四人はヘトヘトになるまでの作業を強いられる。だがヘトヘトになるまで遊んだら、深い眠りと充実した気分が得られる。物語の前半は、源田さんが主役だ。自分の葬式までプロデュースしている。最愛の奥さんとともに行くことになるのも、計画通りだったかも知れない。白寿の老人の秘められた悲劇の過去も、彼によって癒されることになる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1順番には数えられても、逆さまから数えられなくなるという。強奪計画は、老いと台風に邪魔されることに。だが、この厳しいご時世である。なんと、銀行が傾きだしてしまうのだ。銀行そのものでなく、銀行のビルが。残された時間、台風の最中、再び銀行強奪計画が始まる。見事17億円、老人たちは奪取する。犬童一心監督作品。随所にコメディが散りばめられる。同じ位に、人に訪れる老いにも焦点があてられる。現実とファンタジーがない混ぜになる。なんだか、「苦笑い」がこぼれるくる。生まれてから死ぬまで。クルッと回ってつながるのか、それとも途切れて消えてしまうのか。「遊ぼ!遊ぼ!」生まれてからずっと生きてきて、ここへきて、時間が逆行した老人を山崎努が名演。まだ、わからない場所にいるならば。最後の最後まで遊べるはずなのだ、きっと、きっと。17億円を手にした彼らは、まだ、ひと花もふた花も咲かせようとしていた。
2005.04.22
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いろんな映画がある。涙があふれてこぼれる感動作や、社会へ目を向けさせる問題作。ワクワクドキドキ、大娯楽作やら、腹もよじれるコメディ作品。ほんとうに、いろんな映画がある。でも、スグ内容を忘れてしまう映画がある。すごく、面白かったのに。JもKもスゴクカッコよかったのに。エイリアンたちは、なんだか、グロいんだけどカワイかったのに。もしかして、記憶が消されたのかな?Kのペン型ライトの光を見てしまったせいなのか。刑事のジェームズ・エドワーズは、観た、確かに観た、やたら身の軽い男のまぶたは2枚!そして彼はKと言う男から記憶を消される。ベン型ライトがチカッと光って。人の記憶に残らないから、秘密組織の秘密は維持されるのだ。MIB、宇宙人との接触を目的に設立された政府の機関。そこにリクルートすることになったジェームズは、過去の記憶を消されてJとなる。勿論、一緒にテストを受けた候補生たちも、記憶を消されてもとの職場に復帰する。犬だったりネコだったりゴキブリだったり。頭が吹っ飛んでもまた生えてきたり、頭がパカッとわれて、中に小さな宇宙人がいたり。何かとノリのいい音楽が絡んでいると、地球滅亡の危機もどこかへ飛んでいきそうになる。ウィル・スミスにトミー・リー・ジョーンズ、息のあってなさそなコンビが、フロアでDJでもしてそな感じのテンポで地球の危機を救ってる。圧巻は、ヴィンセント・ドノフリオ演じる農夫、エイリアンが人間の皮だけ拝借した、という設定。いかにもサイズあってないぞ!と言わんばかりだ。服じゃなくて、顔と身体が。ほんとうに、いろんな映画がある。でも、スグ内容を忘れてしまう映画がある。それでも面白かったのである。映画の醍醐味は感動や、ドキドキワクワクにある。笑いにもあるし、社会に怒ったりするのもいい。でも、そればっかりだと疲れるのだ。例えば、上手にマッサージしてもらうと、ウトウト気持ちよくなって居眠りしたくなる。だからこそ、疲れがとれたりする。細かい内容は覚えてないのである。もしかして、記憶が消されたのかな?バリー・ソネンフェルド監督作品。オカネつかって、名優に演じてもらいながら、アンチ名作を貫きそうな監督さんである。
2005.04.21
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...FIRST DO NO HARM原題は「ヒポクラテスの誓い」の一節。『有害な治療法は決して選びません』医学の父が残した、医師の倫理観の雛形は、さまざまな批判を受けながらも後世に受け継がれてきたのである。ローリーの目の前で、ボビーが突然倒れる。彼女の小さな息子は、突然、口から泡をふいていた。てんかん、である。病院で、抗てんかん剤が処方される。効かない。別の薬が処方される。やはり、効かない。それでは、と、また新しい薬が処方される。医者は丁寧に薬について説明する。だが、薬によっては副作用もでてくる。副作用を抑えるために、また、薬が増える。ローリーの小さな息子は、また、泡をふいて倒れている。痛ましい、本当に、痛ましい。ローリーを演じるのは、メリル・ストリープ。この作品の彼女は、女優であることを忘れさせる。名優には、度々あることだろうが、それ以上だと、あえて言えるだろう。彼女はもう、ボビーの母親なのである。息子を助けたい、ただ、助けたい。作品は、自ずとドキュメンタリーの色彩を帯びてくる。息子を助けたい、ただ、助けたい。だが、治らない。彼女と医者、病院との戦いが始まる。何故、治らないのか、気が狂いそうは母親。彼女の気持ちと医者の立場を、客観的に描こうとする努力は見出される。現状を知るスタッフの温かい看護、医師は医師で、診療方針を話している。てんかんの病状は多様だと、資料にあった。難しい問題だと言ってしまうのは簡単だ。客観的に、医療現場の現状と母親の気持ちを語ることは不可能だと思う。それでも、だ。ボビーのてんかんは治らない、ひどくなる。それどころか、薬漬けになってゆく。ローリーはすがるように、ジョンズ・ホプキンス大学で行われている「ケトン式食療法」をさせるため転院を願いでる。だが、病院は許可を出さない。ローリーと病院とが対立することになる。映画は「ケトン式食療法」を紹介しようと意図している点もある。医食同源という言葉もある、薬とは確かに、副作用と伴うものなのだ、だが、医学的な治療法というわけでもない。ただ、この映画の出演者の中に、「ケトン式食療法」により手術を免れた、本物の患者さんや関係者が登場しているという。事実であることを、言葉ではなく、人間そのものの姿で、訴えかけてくる。悪いものが抜けてゆくように、ボビーの表情が変わっていく。愛らしい小さな坊や、彼の未来は、やっと開かれた。客観的に語るのは難しい作品。演出やメリル・ストリープ、子供たちの演技によって、並々ならぬ感動が押し寄せてくる。だが、きっと大事なのは、この作品の原題に込められた想いなのだろう。『私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。』人の命ほど、ままならぬものはない。だが、その誓いの想いそのものが、あるか、ないか。誰かとともに生きている限り、忘れてはならないことだと思った。
2005.04.19
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人には不思議な力がある。見えぬものを形にする力というか。「コンスタンティン」天国と地獄を、映像というもので再現して見せる。行ったことのない場所だからこそ、枝葉末節が気になるのである。■救世主は不便な存在だ。救世主というのは、不便な存在なのだ。もっと感謝されてもいいはずなのに、名前を売れば、売名行為となるわけだし、人知れず、去りゆけば、孤独のヒーローとなる。■救世主はクソ仕事なのだ。天使と悪魔、均衡を保つには、天国と地獄を出てはいけないらしい、しかし、どこの世界でも、勝手するバカがいるのだな。そういう汚点を認めないのが、世界の主、すなわち、神とルシファー。オイシクない仕事は全部、コンスタンティンにやらせてる。■キアヌの特撮ポーズ。ガブリエルを召還するジョン・コンスタンティン。腕のイレズミをかさねあわせて、ポーズをとっている。キアヌ・リーブス、1964年生まれ、もう若者じゃないのに、とにかく、決まっている、サマになっている。日本の若い特撮アクター、がんばれ~って感じかな。■救世主はふてくされる。とにかく、見返りがないからさ。無報酬ってか?■天使は何故、嫉妬したのか。天使ガブリエルは力説する「なぜ人間は許される?」許されなかったのね、ガブリエルちゃん。■罪を許されてもなお、罪を繰り返す。人間の世界に滅びをもたらそうとする者の大義名分。許すから罪を繰り返すのだ、そしてまた、許されるのだ。許されるとわかっているから、罪を犯す者もいる。だが、思うのだ、許されるとわかっていても、罪を犯さぬ者もたくさんいる、たくさんいるはず。■ハーフブリード、曖昧模糊な境界線。天国と地獄、くっきりと境界線があるようで、実は、「線」なんて、曖昧なものである。だが、曖昧がなければ、交流は、生まれない。ハーフブリード、彼らがいるということは、相反する世界もまた、それらを包む世界の断片である。■レイチェル・ワイズ、悪魔になる!女優さんには、綺麗でカワイイ役をいっぱいやる人と、ハードで、ワイルドで、ダークな役をやる人がいる。レイチェル・ワイズさんはとってもキレイなのだが、どちらかと言うと後者なので、私は好きなのである。■見えている?見えてない?たくさんの人が見えてないものを見ることができたら、こどものうちは「空想屋さん♪」くらいで終わるだろうが、大人になれば、要注意人物とされるのだ。アンジェラ・ドットソンは見えないと嘘をついていた。ジョン・コンスタンティンはエクソシストとなり、性格が歪んでしまった。■け、タバコでも吸わないとやってらんねえ。救世主のお仕事はストレスがたまるのだ。命がけなのに、見返しはないし、もし、死んでも地獄だから、敵の渦中のようなもの。ジョン、コンスタンティン、ボロボロ。■自らを殺すという、大罪。自殺をすると、天国に行けないという。しかし、裁判もせずに、イキナリ地獄行きのようだ。ジョン・コンスタンティンの気持ちになれば、自殺も考えたくなる、悲痛な孤独があっただろう。アンジェラの双子の姉妹、イザベラの死は、マモンを孕まないための、いたいけな自己犠牲。■コンスタンティンの後始末。どうか、席を立たずに。■フランシス・ローレンス監督の手際。PV出身の監督らしく、映像はシャープで美しい。だが、それで終わらない視点の面白さ、冒頭のメキシコの青年の、土まみれのリアル感、「運命の槍」がくるまれたハーケン・クロイツの旗、くるまれた槍が現れるその瞬間までの流れの時間の丁度良さ。そうだ、グロテスクな悪魔を長く描写しない。頃合いを知る、演出だと思った。■神様の手際というのは。神様はひとりひとりを設計しているのだという。コンスタンティンは打たれるほどに成長する。ならば、ヘネシー神父の死も、ビーマンの死も彼を強くしてしまっただけなのか。彼を強くするための悲劇だったのか。そして、最後に若いタクシードライバーの青年の、運命が神によって変えられる。それは、救いではあるが、少し、切ない。■天国と地獄、世界の均衡。凪ぎの海は、均衡を表している。平穏な日常もまた、均衡を表している。そのバランスが崩れてしまったとき、住人は、どちらかに引き込まれてゆくのかも知れない。天国か、地獄か。見えぬものではあるが、近いのだと思う。
2005.04.18
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兄、頼朝の陣に馳せ参じても、草繁るアバラやに通される義経主従。奥州平泉にても同じ処遇を受けた彼らだが、今度もまた同じように畑を耕し壊れた家の修繕を始めていた。本陣と離れれば気兼ねがいらない。ニコニコと笑うのは、駿河次郎。相変わらず、地元の子供らと仲良しなのは、伊勢三郎である、歌まで歌い出す。佐藤忠信、継信兄弟は呆れるを通り越して、納得しているかのように見えた。 のびのびと生きていた、と、対面した弟の話を聞いて洩らす源頼朝。自分は流人だったと、目を曇らせている。1192年、征夷大将軍に任ぜられるまで、彼には考えねばならぬことが山ほどある。本当に、山ほどあるのだ。水鳥の音が、陣を乱す。平家の総大将は平維盛、敗走する郎党を呼び止める声も虚しく、逃げ帰ることを余儀なくされる。桜梅少将と呼ばれた踊りの名手。ならば、舞いこそ彼を光らせてきたはず。この後も敗走を重ねる悲運の武将は、戦って生き抜く時間を持たないまま富士川にいた。源氏が立てば、兄が立てば。九郎義経は、そのために時間を費やしてきた。戦の経験はなくとも、彼は、彼の思い描いた場所に来るために時間を費やしてきたのだ。これまでの時間。そこに至るまでの時間。人を形づくるのは、その時間の中味。どこで生まれたか、何を生業にしてきたか、何が出来るのか、優しいのか、厳しいか、強いのか、弱いのか。人がそれぞれに持つ「力」はその時間の中に詰まっている。富士川の見張りを命じられた義経主従。駿河次郎は川の様子を観察し、伊勢三郎は、人に交わり、情報を得る。そうだ、馬を知るのは喜三太、戦場では、弁慶に佐藤兄弟がいる。それぞれの力は、それぞれの時間の中にある。兄を身近に感じ、兄を思うのは、九郎義経のこれまでの時間、そのもの。嘘偽りなく。北条政子の前でも臆することなく。涼やかな目が、彼女を射抜く。苦を楽にすればいい。食べ物がなければ、育てればいい。海は近いのだ、漁も出来る。壊れた家は、治せばいい。そうして、明るく、暮らしていけばいい。まさかの時に働く力は、負の感情の中では決して生まれるわけはない。戦はまだ、始まったばかり。現在という時間もまた、過去に変わる。そして、人の未来を形づくってゆく。
2005.04.17
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何故、自分なのか、と。ジョン・コンスタンティンは頭を抱える。幼い頃から、他の人には見えないものが見えた。例えば、バスに乗るご婦人。彼の前の座席に座る彼女の顔はただれ、崩れている。見えてしまうのだ、天使と悪魔を。彼の名は、天国でも地獄でも有名になった。肺ガンでもうすぐ余命幾ばくもない。しかし、死後の行き先は、決まっている。過去に自殺を2分間だけ成功させたことから、地獄は、手ぐすね引いて彼を待っている。なんとか、許されたい、と。どこかで思っている彼の姿が見て取れる。天国と地獄の微妙な均衡。コンスタンティンもそれを心得ている。だが、その均衡が壊れ始めていた。ルシファーの息子、マモンの復活。見えてしまうことは、物凄いストレスだろうと思う。コンスタンティンの悪魔払いを手伝った男が、好奇心から悪魔の姿を見て恐怖で白髪に変わる。15歳の頃から1日30箱のたばこ、確かに、止められないだろう。自殺も考えてしまうだろう。自己中心的にもなる、誰にも理解されないのだから。見えていたのに、見えていないといい続けた女性がいる。アンジェラ・ドットソン、刑事。マモンは彼女の腹からの再生をもくろむ。天使ガブリエルの力を借りて。天使の反乱は、神へと愛と同時に、人間への憎悪に起因しているように見える。悔い改めれば、罪が許される人間。そんなことで、罪が許される人間。カメラアングルの動きは曲線的。遠近も多様して、絶妙の緊張感を生む。フランシス・ローレンス監督作品。PV出身とあり、映像そのものも美しいが、絵づくりに先走ることない姿勢が明確に見える。天国と地獄という何度も使われた題材も、見つめる視線が変われば違うものとなるのだ。文学でもなく、SFやホラーでもなく。だが、そのどれかでもある。神はどの人間も計画しているのか。何が基準で、計画されているのか。誰にも知るよしはない、この映画でも答えはなく。だが、コンスタンティンは生き残り、相変わらずエクソシストを続けるのだろう。キアヌ・リーブスの演技は、彼自身の立ち振る舞いの造形にある。渾身の力を込めて叫ぶ姿が、絵になるのだ。レイチェル・ワイズが悪魔に憑かれる姿も熱演。見えてしまったから。天国と地獄、均衡が前提の世界なのに、抜け道から出てくるように人間の世界にやってくる者がいる。バランスが崩れてしまう、世界。特殊な能力を持ち、戦うヒーローは、報われない仕事を押しつけられているように見える。だから、天使にも悪魔にも評価されない。だから、誕生した、ふてくされたヒーロー、心の優しさは滲み出ているけれど。悲劇はいくつかあれど、最後の最後には救いのある映画になっている。それがどこか、悔しくもある。すべては、神の御心のまま、なのか、と。
2005.04.16
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私は、王だ!王なんだ!1788年のイギリス、国王はジョージ三世。妻のシャーロットとは15人の子を成した。アメリカが独立したことをまだ認められていない。国民に愛されている王のようだが、国民に憎まれている王のようである。一人のご婦人が彼に果物ナイフを突き立てる。そんなもので、死ぬことはなかったが。とにかく、舞台は絢爛と。宮殿の内装は勿論、王族や取り巻きの華やかさ。男も女もかの白髪のカツラをかぶり、男性の頬にもうっすらと化粧が施されている。恭しく働く侍従たちではあったが、王の頭にあった王冠を仕舞う時はゾンザイだった。最高権力の周辺あるのは、些細ではあるが、膨大な数の意識のズレ。人間なのである、オシッコもするのである。そのオシッコが空色になったときは既に遅し。ジョージ三世の神経疾患は悪化していた。国の最高権力者が、突然、政務をとれなくなってしまった。今はなくなった名画座セレクトの作品。見逃していたのが記憶にあり、借りてみた。やはり、一筋縄でいかない作品。1994年、イギリス・アメリカの合作。主演、監督ともども、舞台劇のままだと言う。ヘレン・ミレンの王妃、イアン・ホルムの精神科医ルパート・エヴェレットがドラ息子の皇太子を演じる。王に太った太ったと言われる役回りを好演。なかでもナイジェル・ホーソンには舌を巻く。テンションの高い王だが、目には知性の光、緩急自在の演技で、正気と狂気の間を行ったり来たり。王とは直接、喋ることが出来ない。王の顔を直接、観ることが出来ない。なんでもかんでも、侍従達が世話をする、服の着替え、食事を食べさせる。かしづかれ、跪かれ、尊敬される、そんな、毎日。勿論、周囲もそんな毎日だ。かしづいて、跪いて、尊敬して、そんな毎日。そんな毎日がひっくりかえったのだ、王の錯乱に。議会は紛糾し、医師は困惑し、保身を心配する者たち。ここぞとばかりドラ息子皇太子は、王位奪取を狙う。精神科医は言う。実際に王である者と、自分を王であると言う、患者と。その二つは、紙一重。心を打たれることで、性格が強くなる。それがないままに生きていれば、どうなることか。牧師だったというウィリス医師が王妃たちに派遣され、彼は、拘束具を用いながら、スパルタで王と向き合う。しっかり、彼の目をみながら。王と、精神科医、見事な演技の対決である。もし、この二人の演技が舞台で観れたなら、観客は惜しみなく拍手を送る羽目になると、思うほどの。だが、オシッコの色に慌てて、保身のために、詭弁を弄している者たち、最高権力の場は、本物のドタバタ喜劇となる。いや、国の存亡をかけた、悲喜劇だ。そこじゃない、ここだと。侍従達が世話して食事する場所じゃなく、自分の手で食べ物を口に運ぶ場所だと彼は言う。自分をしっかり見つめることで王は、正気を取り戻す。アメリカが合衆国となり、独立したことに、もう、慣れないといけないと、言い聞かせる。遺伝的な神経疾患とされる彼の病気は、記録の上でも、正気となり、再び、政務に戻ったと記されているらしい。彼は王妃を愛し、ドラ息子も含めて家族を愛する、イギリス国民の偉大なる父親に戻っていく。どうもそれも、政策のようでもあるが。自分を見つめ直した王は、王に戻っていく。オシッコを人前でする、老人ではいられないのである。なんと、壮絶な場所なのだろう。
2005.04.15
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ユダヤ人虐殺が、もうすぐ始まる、だが、始まっていない頃の物語。シジェは伝説として語られるほどの力持ちだった。鍛冶屋の息子、朴訥な大男。田舎からベルリンへ、大志を持って向かう。ハヌッセン、「オカルトの館」へと。ハーシェル・シュタインシュナイダーその名が彼の口から語られるの、後の話だ。夜毎、政財界の要人や軍人を集め、「オカルトの館」はミステリアスなショーで人気を博している。彼は、ヒトラーの台頭を予期し、その政権下で、権力を狙い画策していた。シジェを雇ったのも、その一貫だろう。「ニーベルングの指輪」英雄のジークフリート。ドイツ生まれの無敵の男がシジェの芸名。舞台の上の彼の力の凄さに、戦意を鼓舞されたドイツ人たちは、ヤンヤヤンヤの喝采を見せるが、シジェは面白くない。ドイツ人じゃない、ユダヤ人だと、彼は、自分の出自に誇りを持っている。千里眼、未来を見通すハヌッセン。ユダヤの血の運命を知る者。やがて自分に訪れる未来を切り開くために、ドイツ人しての自分を作り上げた。ドイツ人に崇拝される自分を目指していた。もうすぐ、もうすぐ。ユダヤ人の大虐殺が始まる。ドイツ人と偽ることは出来ずに、ユダヤ人として舞台に出ることになったシジェ。彼はまっぷたつに別れた観客を舞台上で観る。ドイツ人とユダヤ人は別れている。シジェを罵倒するドイツ人とシジェを応援するユダヤ人と。ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品。クラシックに彩られた音楽に、芸術性さえ感じさせる映像が挟み込まれる。ハヌッセンが予知を行う部屋の様子は、無駄のないライティングで、神秘性を漂わせる。逆にユダヤの村を描けば、素朴な味わいを見せる。巨匠の映像は、その映像の裏まである。彼もまた奥深さを感じさせてくれる。ハヌッセンを怪演する、ティム・ロス。隙のない身のこなしで、ドイツ人と偽るのは、切ないほどの「生」への執着に見える。シジェを演じるヨウコ・アホラは俳優ではなく、本物の力持ち、彼の恋人のピアニストも本物の奏者、だからこそ、虚飾を演じる本物の役者が際だち、それ以外の登場人物のリアリティとなる。もうすぐ、大虐殺が始まると、シジェは、自分の村の人たちに伝えた。戦うことが可能だと、伝えた。だが、誰も、信じない。誰も何も用意することなく、ガス室に追い込まれていったのだ、彼らは。ときどき、挿入されるのはシジェの夢。海岸にざわめく、小さな赤い蟹の群、群、群。そこにただ、立っている、立ちつくす、シジェ、がいる。ハヌッセンもシジェも、何も出来ぬまま死んでゆく。彼らは、未来を予期し、動こうとした。だが、何も出来ないまま、そして、その後の大虐殺を知らないまま死んでゆく。過ぎ去った時代が残した歴史の刻印は、例え未来を知っていても、消せはしないことを物語るように。この映画は、実話を元にしていると言う。
2005.04.14
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とりとめのないことばかり考えてた。マイケル・ムーア、この監督は、「編集」というワザの達人だろうな。ストーリー通りに、フィルムを繋ぐだけでなく、説得力という付加価値を刻み込んでる。「編集」というのは、「錯覚」と作り出す技術。「編集」の巧さは、逆にワザとらしい。何か企んでるんじゃないか、と、観る者に思わせてしまうこともある。だとしても。あの、情けない顔のジョージ・ブッシュの姿が、フィルムになり、多くの人に触れる、という事実が残っている。あれは、何だ?どうして、あんな顔してるんだ?マイケル・ムーア、あいつは胡散臭いけど、ブッシュのアレは紛れもない事実だ。みたいな感じで、観客の心にアクションを起こさせる。事実を救い上げなきゃあ、ね。かと言って、事実というのも幻想に過ぎない。とりとめもないことだけど、「幻想」についても考えた、「共同幻想」。社会のみんなが、そうだ!それがホントだ~と、思っていること、ってあるのである。戦争をしちゃあ、イケナイとか。テロは、ダメだよ、ダメ、とか。アメリカの兵士たちは、「国のため」イラクへ赴いた。だが、「国のため」、も「共同幻想」だと知る。そして、ムーアは、別の「共同幻想」も利用する。アメリカにもイラクでも、たくさんの方が亡くなった。残された遺族の哀しみは、この戦争の愚かさを見せつける。家族の死は、辛いのだ。みんな、そう思っているから、彼は、家族の傷みをしっかり拾い上げる。それが、観客の心にストレートにテーマを刻みつけると、テクニックとして知っているのである。だから、上院議員に問うていた。「おこさんをイラクに送りませんか」とりとめのないままに、ブッシュが、イラク派兵を決めたときの、自分の怒りの中身を思い出していた。人が死ぬんだよ、人が。絶対に、人が死ぬんだよ、人が。それ、わかってる?わかってない、のだ。わかってないから、自爆テロの土台が出来る。わかってないから、自分の子供以外をイラクに送る。「生命の尊さ」も「共同幻想」、そんなこと、思ってない奴がいる。「生命の尊さ」よりも「オイルマネー」ムーアのロジックはそういうことになる。石油のある国のお金は、それこそ、桁違いだ。そもそも、お金が札束なのも「共同幻想」なのである。市場で毎日動くお金は、ただの数字なのだ。サキモノデ、ミコミデ、ソノマタ、ミコミノオカネ。売れる小説なら、まだ、売れてなくとも、バカみたいな金額がつく。そういうふうにオカネを動かせる人を、「権力者」と呼んでも差し支えないだろう。「権力者」になったら、「戦争」が出来るのである。少なくともワタシには、出来ない「戦争」その時点で、ワタシは「権力者」になれないし、「オカネモチ」にもなれないのだな。「戦争」をすれば、もっと、儲かるようだし。そのへんの仕組みを表現する技術は、マイケル・ムーア、かなり長けていると思う。胡散臭いと思わせるくらいの温度が、観る者の思考力を刺激してくれるから丁度いい。戦争をしちゃあ、イケナイとか。テロは、ダメだよ、ダメ、とか。思っていない人がいるわけだ。思っている人がいるとすれば、思わない人がいる。これは、どんな映画でも、面白いと思う人と面白くない人がいるのと同じ、常に、相反するのが普通。だとしたら、「戦争」は、思っていない人が、世の中にいる限り、終わらないことになるぞ。スゴク、悔しくなってきた。「戦争」は、なくらない、のか?だからこその「選挙」なのだろう、と思う。思う人と思わない人がいるならば、「生命の尊さ」を知っている人がいい。「オカネモチ」じゃないはずだから、政治的に影響力なさそうなのが、難点だろうけど。全くもって、とりとめがない。だが、それでいいのだと思ったりする。一つの明確な結論ってのは、胡散臭い。例えば、「反ブッシュ」マイケル・ムーアのように。だが、明確な結論の方が、影響力を持つ。賛成か、反対か。賛成か、反対か。賛成か、反対か。「編集」というのは、「錯覚」と作り出す技術。マイケル・ムーア、「編集」が巧みだ。観て飽きない、引き込まれる。思わず、笑いさえこみ上げてきたと思えば、遺族の哀しみに、切なくなってくる。何かを伝えようとすれば、「編集」は必要になる。客観報道などありえないのが、マスコミの現実。アメリカの大手メディアは、どちらか、なのである。だが、今さら、心配など必要ないのだ。何事も、全て、そうなのである。(しかし、結論まで、とりとめない文章だ)
2005.04.13
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我を張って生きてるんだから、性格悪いのは、当たり前なのだ。っていうか。そもそも、性格悪かったっけ?竜ヶ崎桃子。BABY, THE STARS SHINE BRIGHTのメルヘンティックロリータファンションに身を包み、下妻の田んぼに挟まれた道をご機嫌に歩いているだけ。ロココの世界に心を飛ばして、完璧な自己中心個人主義に浸って、ニコニコ微笑みながら歩いているだけ。ただし、一人だった。白百合イチゴと出会うまでは。性格がいい=友達がいっぱい。性格が悪い=友達が出来ない。そういう方程式にあてはまったように、学校でもいつも一人だった竜ヶ崎桃子、17歳。生まれは尼崎、身近なとこだからこそ言えるが、年がら年中、阪神の応援しているファンキーシティ。ダメ父のもとから不倫母は去り、さよなら、関西、祖母を頼って下妻へ。どうみても「負け」の父親の元に残ったのは、その方が面白かったからという変な子供だった。何もかも、ヒトゴトのような子供だった。そうなんだ、子供にとっては、大人の人生なんて、ヒトゴトかも知れない。ムチャクチャヘタクソな字。白百合イチゴは最初、文字で登場する。桃子は、ロリータのお洋服を買うためにバッタモンの有名ブランドの在庫を売ると雑誌に投稿して返事してきたのがイチゴである。下妻最強レディース『舗爾威帝劉』所属、なんかもう、燃えちゃってるヤンキー、桃子とはタメ。彼女は有名ブランドの服をとにかく安く買いたかった。バッタモンだと説明されても、安く買えたらよかった。安く譲ってくれた桃子に、とにかく、返せないほどの「恩義」を感じてしまい、その上に何故か、彼女にまとわりついてしまった。もちろん、桃子はロクに相手はしないが。一人が、二人になる。いつのまにか相手のことを知る。くだらなさそうな顔をしても、イチゴが語る「亜樹美さんのこと」、「伝説のヤンキー、妃魅姑(ヒミコ)」のこと要約して語ってくれちゃってる桃子である。中島哲也監督の演出は、軽快で楽しい。ロリータ、ヤンキー、女の子の友情、限定されたキーワードを笑いでくるんで、どの世代にも通じる心の部分に切り込んでゆく。2004年に公開された邦画の中でも、キラキラと輝く宝石のような作品となった。もう、ヒトゴトじゃない。友達のピンチ、桃子は信じられないようなハッタリで、イチゴを救い泥だらけになる。性格が悪い=友達が出来ない、そんな方程式は、嘘っぱちだったのだ。我を張って生きてるんだから、周囲と協調できなかたっただけ。BABY, THE STARS SHINE BRIGHTの社長、磯部さんは、仕事を選んだから自分には友達はいないという。だが、それは、友達に出会わなかっただけ、桃子は、もう、友達に出会っていた。遠近感のある映像は、独特。桃子とイチゴは、その極端なファッションのせいで、オモチャ箱のオモチャのようだ。柔らかいニュアンスの中に、笑いを織り交ぜ、現代に生きる人の心の部分に切り込んでゆく。我を張って、一人、自分の足でたち、向かい風に立ち向かう二人の甘くない友情。だが、嘘のない、友情。深田恭子と土屋アンナはピタッとくる演技で、この作品の一番の宝石となっている。我を張って生きてるんだから、周囲とうまくやれないのは当たり前なのだ。それは、なかなか、生きにくい。ツルんだほうがラクなのだ。だが、それでは、自分を曲げなきゃならない。ニコニコ笑って、大好きなお洋服を着て、桃子は一人、そう、一人で道を歩いている。幸せになるのは、勇気がいることだと知った彼女は、やっと当事者になり、大人になり、いままで以上に強くなったように見える。そう言えば、イチゴも、モデルやりながらスタッフをぶっ飛ばしていた。
2005.04.12
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ひょいひょいひょいと、ベルトコンベアの部品のナットを、慣れた手つきで締めているチャーリー。単純作業という奴だ、ベルトコンベアの流れに遅れてはならない。経営者の指示一つでスピードアップし、経営者の指示一つで工員は全力を出さされる。あれれ、ボタン一つで、フルパワー、人間という機械は、指示一つで全力モード。「人間の機械化に反対して、個人の幸福を求める物語」冒頭から鮮やかに宣誓されている。1936年のチャーリー・チャップリンの勇ましさ。大きな歯車のナットを嬉々として締めているチャーリー。あの映像はあまりにも雄弁で、しかも今まで、語りつくされてきた。もう教科書の世界なのだと思う。だが、単純作業の連続が彼の精神に影響し、気が狂ってしまう経緯から、喜劇色が強くなる。社会からの逸脱した彼は、変身したかのような山高帽とチョビ髭、へんてこりんな帽子をかぶったあの、チャップリンとなる。チャーリーがいた世界は巨大な工場。だが、町には失業者があふれ、職をもとめている。職を得たものも、職を得られぬ者も、とてもじゃないが楽しい人生に見えない。刑務所はまるで、その中間地点。脱獄者を発見して警察に協力したことから、優雅な独房生活を与えられ、刑務所万歳となるが、いつまでも中間には居られずに、社会に放りだされる。そこで知り合うは、放浪の少女、彼女と二人、支え合うように生きる姿に、やっと、人生の楽しさが見えてくるものがたり。気が狂ってゆくチャーリーと、食事導入機なるものが製品化され、実用が検討される社会もまた狂っている。さらなる効率化のために、食事時間が減らされる。とまあ、真面目な場面であるが、実はこの映画の最初の方のメインのお笑いシーン。まるで、ショート・コントの一人芝居、喜劇王の残したものの偉大さは、拍手よりも笑いの方が、賛辞になるだろう。その後も度々、軽妙な動きと間合いで、楽しいシーンはずっと続いてゆく。社会からはみ出し始めててから、彼の笑いは際だって輝き始めてる。チャーリー・チャップリン、彼の回りには、社会に在る者と社会を逸脱した者がいる。社会とは、内と外があることを、社会の中心で、彼は見せてくれているかのように。そして、彼の回りには笑いがある。美しい音楽、美しいモノクローム。声は少なくても雄弁すぎる、モノクローム。喜劇というのは、社会を見る特等席、人間が、今、どうなっているかを、一番シンプルに見せてくれる場所かも知れない。
2005.04.11
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炎とともに物の怪が、清盛入道の寝所を脅かしていた。死んだはずの源頼政たちが彼を見つめている。耳役の五足は「呪詛」だと言う。それほど、京の町は荒れ果てていた。温もり慈愛にあふれた目で、源九郎義経を見つめるのは、藤原秀衡。嫁をとり、子を成し、三代に渡り土地に根ざす。血の脈流が、その土地に目指す。そうすれば、土地は人に応え、居心地の良さを与えてくれるものかも知れない。京を離れるのが怖ろしい、と懇願するように時子は清盛入道に頭を下げる。玄武朱雀白虎青龍、四方を守護神に守られ、長き間、帝の居た場所を離れるのが怖ろしいのだと。なぜ、そんなことを。一族のためだと、清盛入道は云う。政治を重んずるならば、情勢に応じた判断が必要とされるもの、合理的かつ、冷静な判断が必要とされるもの。だが、そこに怒りや憎しみが伴えば、正しい判断も、別の様相を帯びてくる。「呪詛」だと。怒りや憎しみを心に持てば、全ての事柄が鈍よりと曇ってくる。どんなに正しいことであろうと、簡単に受け入れるが、出来るはずはなく。平家の女たちは必死だった。菊見の宴は優雅なれど、表情は憂いている。まといついて離れぬ、どうしようもない曇りの正体を、直感で気付いているのだ。そして、彼女は気付いていた。北条政子は、以仁王の生死の不明の意味を語る。生きているとすれば、令旨も、生きている。生きていて欲しいという世論も、見える。今こそ、夫、頼朝が起つべき時。怒りや憎しみが呪詛を生む、その言葉は言霊となり、力を持つ。力を持った言霊こそ、本物の呪詛となる。兄のために、と。源九郎義経、奥州を出立する。あふれんばかりの秀衡の愛情を受け止め、感謝することを忘れずに。武蔵坊弁慶をはじめとする郎党に、佐藤継信、忠信兄弟も加え馬を走らせ、戦乱に飛び込んでゆく。温かいぬくもりから、飛び出してゆく。どんな温かい感情も、必ず、相手に伝わるわけがない。まだ見ぬ兄へ寄せる想いも、歴史が全てを物語ってはいるのだけれども。藤原秀衡と義経の間にあるものは、しかと通じあった本物の感情。そして今、平家の周囲は、怒りと憎しみに充たされている。
2005.04.10
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夢を叶えるためには、一体、どれだけ費用がかかるのか。大きな夢であれば、あるほど。それに、時間も。ハワード・ヒューズが映画界で一躍有名になったのは、『地獄の天使』だった。空中アクションショーとジーン・ハーロウの抜擢。24台も用意されたカメラだったが、まだ、2台足りないと言い出した上に、公開されれば30台以上も動員されたいた。トーキー映画の息吹を感じた彼は、完成まで2年かかった映画をもう1年遅らせる。到達した目標の、まだ、先の未来へと、猛スピードで走り出す姿が見えた。1905年、テキサス州、ヒューストンの生まれ。父親が残した油田掘削機のメーカーを継承した彼には、莫大な遺産があったのだろう。既に、『地獄の天使』に関わっていても、ビジネスマンとしたの感覚も忘れてはいなかった。撮影が伸びたら、1日につき、幾ら掛かって、総額どれだけの費用がかかるか、計算するが、それでも、頭の中に描いた壮大な絵図面を裏切るような真似はしたくはなかったようだ。ハワード・ヒューズ・彼はお金と時間と未来という平原に、それも無限に広がるただ広い平原に立っていた。どこまでも飛んで行きたいと思っているのに、握った操縦桿をいつまでたっても離さないから、休みなしのまま走り続ける人生。どこまで、行くのか。スピードへの挑戦や、新しい飛行艇を設計、デザインし、大空を思うがままに飛び回ろうとした。そのための航空会社TWAの買収と、パンナム社との対立。子供の頃の記憶が、ハワードを激しく悩ますようになったのは、キャサリン・ヘップバーンと別れたあたりだろう。彼と近い目線で操縦桿を握り、夜空の景色を楽しむことの出来る彼女も、彼とともに旅を続けることは出来なくなっていた。過度の潔癖症。手を傷つけるまで、洗っていた。描いたのは大きすぎる夢。夢を描き、その中心を歩くだけならば、まだ、容易かったろうに。だが彼は、その夢を実現するための技術と、お金と時間と交渉と政治と、実行を全部やろうとした。相反する情報を全部受け止め、操縦桿を握ったままで、処理をしてゆく。一人の人間には、到底、正常に処理できるものではなく。マーチン・スコセッシ監督の絵づくりと、レオナルド・ディカプリオの表情が上手く絡み合う。五月蠅いほどのカメラのフラッシュと、笑顔を取り繕いながらも顔を歪めるディカプリオ、演出と演技は、隙間なく一つになり、ハワードの心の闇を的確に見せてゆく。キャサリン・ヘップバーン演じるケイト・ブランシェットと、ディカプリオの大声のかけ合い、表情のかけ合いは、山場ではないにしろ、見せ場ではある。一つの成功が、次の道への扉。彼の描いた壮大な絵図面は未来へと広がる。パンナム社との争いに勝利し、自らが設計した、偵察機XF-11のテスト飛行に成功はした、成功はしたが、もはや、その成功は、経過でしかない。ただ広い平原に再び投げ出され、かろうじて信じられる者に囲まれている間はいいが、それ以外は、彼にとっては、忌まわしき生き物となる。夢を叶えるために。莫大な費用と時間と難問を切り抜けて。心も体もヘトヘトになってゆくのか。では、何の為の夢か。しかし、彼は公聴会で断言した。私は、飛行家だから、そのために私産を使うことはなんでもない、と。夢とは、そういうものでもあるのだ。
2005.04.09
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命が輝く。命は、どんな形であれ、繰り返し繰り返し、輪郭をなぞることが必要なのだと思う。美しく輝く命があれば、鈍く醜悪に輝く命もある。多数に埋没した平凡な命もある。グリーンマイル、処刑室に送られる受刑者が最後に歩く、緑色のリノリウムの廊下。1935年、コールド・マウンテン刑務所。大柄の黒人、ジョン・コーフィーが、看守に両側を挟まれて歩いている。慈愛あふれる目をした彼の罪は、幼い双子の少女を虐殺したことだった。限りあるからこそ、命、だが、命そのもの、その「中身」は何か。入れ物ではなく、その「中身」。だが、答えを得ることは永遠に無理だろう。例え、ポール・エッジコムが、永遠の命を得たとしても。1935年、その刑務所の看守主任だったポールの、長年、悩んできた尿道炎は、その日を境に消えた。コーフィーの力を、初めて彼は知る。その大きな身体、大きな手に秘められた力を。ミスター・ジングルス、芸のできる小さなネズミにも命がある。その命は、刑の執行が近づくドラクロアに愛されていた。彼が真横に伸ばした両腕を、器用にに走ってゆく。Eブロックの監獄を和やかな笑みで充たしたことが、そのネズミの命の「中身」の一つだろう。輝く、命。その命をないがしろにする者もいる新人の看守のパーシーはドラクロアを焼き殺した。刑の執行の段取りをわざと、省いて、惨い苦痛を与え、惨い死に様を作り出した。それもまた、命の「中身」、醜悪な命は、無論、彼だけではない、もっと、いる。トム・ハンクスの丁寧な演技が、ポールとして、たくさんの、命をなぞる。囚人たち、看守たち、そして、彼の家族。虐殺された双子の姉妹、犯人を捜すひとびと、弁護士、刑の執行を見守る、別室の関係者たち。美しく輝く命があれば、鈍く醜悪に輝く命もある。多数に埋没した平凡な命もある。60年の歳月を経て、ポールが久々に観た『トップ・ハット』の名場面。アステアとロジャースの芸は、焦ることなく人々を惹きつける。命の「中身」は、入れ物を失ったとしても、なおも、そこに留まり続けている。美しい命も、醜悪な命も、等しく。「いつも頭の中に、ガラスの 破片が刺さっているようだ」命をなぞり続けて。コーフィーは疲れてしまったのか。自らの力で、双子の姉妹を救えなかった彼は、そのまま、犯人として捕らえられてしまった。彼の刑の執行を前にポールは自問自答する。職務としての刑の執行と、無実の男を処刑することの悔恨と。自分の命の、その「中身」を知ろうと、最後まで、必死にもがいていた。命の輪郭をなぞることを忘れれば、命そのものの価値が下がっていくというのに。形のないものを人は、忘れがちになる。いろんな、命がある。スティーブン・キングの原作、フランク・ダラボン監督作品。
2005.04.08
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ハリウッド版、ゴジラなのです。「綴り」は間違ってないっす。ローランド・エメリッヒ監督、1998年度作品。エメリッヒ監督にも、エメリッヒ映画と名付けたくなる素晴らしい~ジャンルがあるのだな、きっと。「デイ・アフター・トゥモロー」だもんね~「インディペンデス・デイ」だもんね~。とにかく、規模だけはデカイ。観ながら、以下の映画を思い出しました。「ジュラシック・パーク」「ターミネーター」「エイリアン」エエとこどり、してるからって、映画が面白くなるわけでもなく、なのに、かといって、一睡もせずに観れるほど、デッカイ映画に仕上がっているエメリッヒ映画!つまりは、魚が大好きな巨大イグアナっす。フランスが核実験して、被爆する日本の船が「小林丸」。そう言えば、「デイ・アフター・トゥモロー」でも、「香港」みたいな、「新宿」が登場したが、「小林丸」の乗組員さんたちは、ほとんど皆さん、日本語がカタコト。涙が出そうでございますのでございます、と、変な日本語になっちゃったです。こんなこと言ったら怒られるかも。ライミ監督、ロドリゲス監督と肩を並べて、エメリッヒ監督も愛すべきB級を作ってくださる、「イイ仕事してますな」殿堂(そんなもんあるのか?)に入っていただきたくなるくらい嬉しい作品。どうも、忙しいと、しっかりとしたレビューが書けなくて、だったら、この愛すべき作品をぜひ、記録に止めたくなりました。ジャン・レノに、マシュー・ブロデリックもいました。エンドクレジットに田中友幸さんの名前が出てきました。実質上のゴジラの発案者とのこと、エメリッヒ監督って、スゴイって、単純に思っておりました。
2005.04.07
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もう、簡単に言ってしまおう。見どころは、4人の女優のガンファイト。有名なコーディネーターの特訓を受け、なかなか凝ったセットでドンパチ。男VS女で撃ち合う西部劇である。まずは、女優陣お名前をリストアップ。マデリーン・ストウメアリー・スチュアート・マスターソンアンディ・マクドウェルドリュー・バリモア。1994年度の作品となる。1890年代、西部のエコーシティ。かっこよく、嫌な軍人を撃ち殺すマダム。彼女の名はコーディ、いわば、セクハラ男を殺したわけだが、その理由がとやかく、というよりも、彼女への扱いがこの時代の女性の地位を物語る。ホトンド、一直線に絞首刑が言い渡される。女の職業と言えば、娼婦が定番で、男に何をされても文句が言えない、と、そういう状況の中での報復の一発だったのだ。コーディの仲間の娼婦たちは、彼女を救わずに居られなかった。その一人、アニータの亡くなった夫が、土地を持っていたからと、四人の女たちは、オレゴンで製材所を営もうと思うのだが。物語は、何故か思わぬ方向というか、コーディの元彼のキッドという強盗が、これまた、親子共々悪い奴で、彼女たちとドンパチとなる。でもまあ、ジョシュという若者が、コーディとイイ仲になるけれども、キッドに殺されてしまうのいう筋書き。ラストに向かう大活劇のキッカケはなんと、男の嫉妬によるものである。なんとも不思議な西部劇、勧善懲悪というよりは、男VS女だけど、男がカッコワルイというわけじゃなく、女がとにかくカッコイイ。マデリーン・ストウがとにかくカッコイイ。この時代では珍しいとされる、パンツスタイルのドリュー・バリモアが、大活躍してくれるのが爽快。その彼女たちのガンアクションと対比するように、この時代の女性の地位の低さが描きだされる。女の職業は娼婦が定番なことも、軍人を撃ち殺したコーディは、娼婦をベッドの上で殺した軍人よりも罪が重い。そして、何よりも。アニータが所有していた夫の土地の権利書は、妻が持っていても意味がなかったのである。男名義でないと、土地は所有できない。女性ガンマンの西部劇の敵は、男というよりは、時代そのもの、なのだ。そんな状況でも、戦う女性たち。映画は、なんとなく、まとまりが悪い。だが、4人の女優達は自分の見せ場を生かして、凛々しいガンファイトを見せてくれる。それが、この映画の大きな価値になっている。なかでも、ドリュー・バリモア、「火の玉」という言葉が似合いほどの、大活躍!
2005.04.06
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ドンデン返しは数あれど。ドンデン返し。観客って奴はいつも思いもがけないドンデン返しを期待する。しかし、期待通りのドンデン返しなど、もう、残っちゃいないのだ、実際んとこ。だからこそ、この作品のそれは、「してやったり!」というところだろう。冒頭から、ジョン・トラボルタは、まさしく彼が演じるに相応しい胡散臭さである。ゲイブリエル・シアー、横柄な謎の男。結末が良識すぎる映画はクソくらえだと、カメラに向かって語っている。心持ち意に染まぬ顔をして付き従う男は、ヒュー・ジャックマン、彼の方は、どちらかとイメージとは少し違う、コンピューターハッカーと言う役柄である。スタンリー・ジョブソン、現在仮釈放中。彼らの周囲はS.W.A.Tに取り囲まれている。銀行には、22人の人質。人質にはC-4爆弾が仕掛けられ、彼らの首輪は、ゲイブリエルによって起爆する。そして、彼から離れても起爆する。実際、人質を救出しようとした、S.W.A.Tの安易な行動が大惨事を招く。冒頭は、衝撃的に。ありえないようなカメラワークと視覚効果。観客の度肝を抜こうとしている。時間は遡る。スタンリーがゲイブリエルに目を付けられたのは、最高のハッカーなら60分で侵入できるという128ビットの暗号のデータベースを60秒で破れる男だったからだろう。しかも下半身は美女の唇に責められ、頭に、拳銃と突きつけられた状況で。彼から逃げ出してポルノ王の元にいる妻から、娘を取り返す裁判の費用も用意するという。蠱惑的に、彼に近づくのはジンジャー、ゲイブリエルの秘書的な存在を演じるのはハル・ベリー。彼女がドンデン返しに絡むのは、誰もが予想できる展開だろう。ゲイブリエルが狙うのは、国家組織DEA(麻薬捜査局)が不正に儲けた裏金。スタンリーはその金を奪取するために、ワームを作ることを依頼される。そのDEAの潜入捜査官だと言うジンジャー、彼女がキーワードとなって、スタンリーが二重の決断をする。彼女を助けるための決断と、怒りの決断と。まるで彼が、このクライム・サスペンスの主人公であるかのように。だが、違う、全然、違う。「フーディーニを知っているか?」稀代のマジシャンの名がゲイブリエルの口から。ハリー・フーディーニ、又の名を脱出王。『ショーマンシップの秘密は、実際に演者がやってみせたことにあるのではなく、好奇心に満ちあふれた観客に、演者が本当にやったのだと思い込ませるところにある。』あえて、引用する、フーディーニの台詞。スタンリーも、映画を観る観客も、ゲイブリエル・シアーの“観客”に過ぎなかった。魔術師に指名され、舞台に上がるスタンリー。観客をこれみよがしに、驚かせて、去り際まで、ゲイブリエルは演出する。バスに人質を乗せて逃走のため、と見せかけて、そのバスが空を飛ぶことになる、という奇想天外なショー。最後には、ドンデン返し。だが、この映画に、ドンデン返しがあるのは、最初から決まっているのだ。最後の最後のドンデン返しの結果を、観客は物の見事に信じてしまうのだから。「してやったり!」だろう。そしてもうひとつ。ゲイブリエル・シアーの思想が、テロリズムであることは見逃せない。すべて計算されたものなら、犠牲も計算されている。彼が狙ったのは、政府の裏金、観客が感情移入しやすいスタンリーは、天才ハッカーという犯罪者。そして、死んだはずのジンジャーは生きている。世の中はミスディレクションに、すなわち、錯覚に満ちている。
2005.04.05
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青い空に向かって、高い旗竿が伸びている。その上から下まで、本当にぎっしりと、結びつけられているのは黄色いハンカチ。夕張の風に、棚引いている。“もし、おまえが一人なら、ハンカチを掲げておくれ。”網走刑務所での六年の刑期が終わる直前に、島勇作が、妻の光枝に書いた手紙。“だが、もし、ハンカチがなければ・・・”「あれっ?」最初に見つけたのは欽也だった。その彼に釣られて、朱実の顔も綻んだ。島勇作の顔がジンワリと変化する。あまり表情に変化のない男は、大きすぎる感情を表しかねているようだった。だが、まぎれまく眼前に広がるのは、黄色いハンカチ、風に棚引いている。すぐに、彼は、愛する女性を見つけた。赤いファミリアの三人の旅、陽気な旅だったのは、欽也のせいだろう。旅で知り合った朱実にしつこく迫るような軽率な青年ではあったし、毛ガニを食べ過ぎて、北海道の美しい景色も、愉しめないほどトイレに駆け込むが全く、憎めない。同僚からあらぬ誤解を受けて、北海道への一人旅にでた朱実だったが、奇妙な男達に巻き込まれて道連れになっていた。1977年、山田洋一監督作品。若い武田鉄矢と桃井かおりが、個性を生かした演技で映画を楽しくしてくれる。その楽しさが観る者を巻き込み、最後には、島勇作の肩とポオンと叩いてやりたくなる。「良かったな、良かったな、勇さん」高倉健は、みんなの想いをしっかり抱いて、愛する女性のもとへ駆けだしてゆく。“だが、もし、ハンカチがなければ・・・”この男はきっと、そこに戻らなかっただろう。そして、彼女なら、待ち続けていただろう。高倉健と倍賞千恵子は、そんな気持ちに私たちをさせる。武田鉄矢と桃井かおり、同様に、役者の持ち味が、ピッタリと作品にはまる。きっと、この作品は、おとぎ話に近いのだと思う。物語の登場人物は、その登場人物でしかない。複雑な、裏表は必要ない。どんな物語よりも純粋な「存在」だと思えてくる。例え、おとぎ話だとしても、そのおとぎ話が、人を育むことがある。子供も、大人も、変わりなく。Tie A Yellow Ribbon Round The Ole Oak Tree「幸せの黄色いリボン」の歌詞そのままに。原作はニューヨーク生まれのピート・ハミル、小説家だけでなく、ジャーナリストなどの顔も持つ。日本映画の代表作にも挙げられるこの作品も、ハリウッドリメイクが決まっているという。黄色いハンカチが棚引く。黄色いハンカチが棚引く。カメラは、長い間、そのハンカチを写す。ほんとうに貧相なあばら屋。だが、鮮やかな黄色いハンカチは幸せというものをはためかせている。
2005.04.04
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1180年、散らばる源氏に以仁王の令旨が源行家によってもたらされる。不遇の後白河法皇の皇子を動かしたのは、源頼政、齢、七十を越えている。その目にあるのは、最後の闘志。自分の散り際の舞台を、自分の手で演出しようとしているかのよう。奥州にいる源義経の顔に、まだ闘志なく。藤原秀衡に問われた質問に、源氏として立つと答える。再度、父と仰いだ清盛入道へ刃を向けるかと問われ、兄、頼朝を理由に、挙兵の意志を表す。心優しき青年は、まだ現実を知らない。源行家、新宮の酒席にて、以仁王の令旨、大っぴらに見せびらかす。頼朝には、彼こそが嫡流といい、木曽義仲には、義朝に父を殺された者同志といい、義経には、今こそ頼朝とともに、源氏が立つときと、豪語して見せる。その言葉の中に、真実は見つからない。何事にも予兆がある。源頼政、挙兵。健やかに育った平知盛、重衡兄弟は即座に知る。頼政の嫡男、仲綱に対する宗盛の仕打ちは、驕れる平家の姿そのもの。「そう言えば、この馬、仲綱に似ておる」仲綱に貰い受けた名馬「木下」に「仲綱」と命名して、むち打たせ笑い者にした。理由なく人を貶めることの意味を、平宗盛は、学ばぬまま、大人になった。不敵なるは、後白河法皇。側に仕えるは、丹後局、院政停止の折りに清盛に夫を殺されていた。それもまた、戦乱を指し示す予兆である。含み笑いの二人は腹の中で、源氏平家の潰し合いを欲している。不遇なる皇子、以仁王。親王の地位なきままの彼の処遇が、頼政を近づけ、源氏挙兵のきっかけ、となる。それもまた、予兆。源氏の手にもたらされるは、行家の言葉。だが、その言葉に信じるはなく。あるのは、清盛入道の意志。あるのは、後白河法皇の意志。時代を担う男達の決断は、深く、重い。容赦なく、厳しく、そして、強い。予兆を知り、その予兆を、確実に我が手に引き寄せる力ある者たち。予兆を携えるは、源行家、彼に真実はない。時代を動かす者は他にいるのだ。惑わされるな、そう、惑わされるな。藤原秀衡は、源義経に教える。確実なのは、人がそれぞれ、どう動くか、だ。その動きが絡まり合い、時代が動いてゆく。源九郎義経、試される時が来ていた。
2005.04.03
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それは、まるで。好きな料理でもないのに、その人が勧めてくれるのなら、食べてみようかな、と思うときがあるような。だとしたら理由はきっと、その人と過ごしたいからだ。アレックスのお母さんが、ショックで心臓発作を起こしたのは、反社会主義運動のデモに参加して、警察に捉えられてしまったからだった。1989年。東ドイツ。長期政権にあった、エーリッヒ・ホーネッカーが退陣。国内の混乱は、止まるところを知らず、11月10日未明には、どこからとなく、ハンマーや建築機械が持ち出され、世界中に発信された「ベルリンの壁崩壊」となる。ただし、アレックスのお母さんは、そんなことも知らないまま昏睡を続けていた。取り残されたアレックスと妹のアリアーネ、若い二人は劇的な変化にも対応して、部屋を改装、新しい恋や、新しい仕事を手に入れる。だが、8ヶ月の昏睡の後、お母さんは、奇跡的に目を覚ました。ただし難問があった。もう一度、強い刺激を与えたら、彼女の心臓はたえられない、それこそ命取りだった。さあ、大変だ。お父さんに単身、西ドイツに亡命されてから、ガチガチの社会主義者だったお母さん。アレックスは、大忙しで、母がいた頃の部屋に戻し、周囲に協力を依頼する。「東ドイツは崩壊していない」社会主義の理想は壊れてはいないのだ。母が欲しがる、東ドイツ製のピクルス探し、そんなものはないから、ゴミの山からビンを拾って、シールを貼り替え、缶詰のピクルスを詰め替える。看護士の彼女を紹介するも、胸の空いた服じゃなく、フリマで買った地味な服に着替えてもらう。あんまり彼がガムシャラ状態なんで、妹や彼女が、つい反発してしまうほどに。お母さんのために。別に好きでも何でもない社会主義が、まだ、ピカピカに生き残っているかのように、演出しようとするアレックス。ダニエル・ブリュールは、青年の等身大の姿でありながら、細やかな感情を見せ、観る者を引っ張る。母親を演じるカトリーン・ザース、慈愛あふれる目で、息子の奮闘を見守る。昏睡から醒めて以降、普通に見えても、異様な疲労困憊姿で居眠りをするアレックス。彼女にもずっと、秘密があった。アレックスの嘘よりも重い、誰にも言わずに隠し続けていた秘密が。本当は夫とともに行きたかった。東ドイツで党員ならず、迫害されていたお父さん。彼の後を追って、愛しい夫の後を追って、子供と一緒に、彼のもとへ行きたかった。だが、当時の西ドイツの状況で、子供二人連れた女性にビザを発行してくれる保障はなかった。それをずっと黙って、社会主義者であり続けたお母さん。お母さんと過ごすために、アレックスは。子供たちと過ごすために、お母さんは。別に好きでもなんでもないはずの社会主義をそれぞれの形で受け入れるという嘘。固い意志をしっかり持ち、嘘をつきつづける。崩壊した東ドイツ、統一後のその国の貨幣は10分の1の価値だったという。それでも変わらなかった家族の姿が浮かびあがる。時に、時代は、劇的に移り変わる。どの国も多かれ少なかれそんな歴史を持つだが、それでも、隣りにいる人や、ともに暮らす人はそのまま、なのだ。家族というもの、それは、そのまま、なのだ。アレックスの嘘はきっと、彼の彼女や再会した父親から綻びたことだろう。「資本主義の競争社会を拒否した人々が」「西ドイツの難民が、東ドイツにやってきた」最後の最後にアレックスの嘘を繕ったのは、幼い頃、彼が憧れた、東ドイツのコスモノーツである。好きでもない料理であっても、ともに過ごしたい人が好きだと言えば、美味しく思えたりするものだ。よっぽど、嫌いじゃなければ、の話だが。
2005.04.02
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なんて、スゴイことなのだろう、と。軽い興奮さえ、感じることがある。検索エンジンにキーワードを入れてみれば、いろんな方の様々なお話が聞ける。さて、これから自分も何か書こうとしていても、つい、夢中になって、そこに溺れるときがある。ああ、これは上手い表現だなあと感心したり、語り口調で、当を得た表現に頷いてみたり、興味深い考察に、新鮮な刺激を受けたりする。日常の何気ないお話に耳を傾けてみれば、その方が身近に思え、笑ったり、心配したりしている。さもありなん。そんな言葉が浮かび、辞書を引いてみる。「然も、ありなん」きっと、そうだろう、もっともである。普段使わない言葉が、急に浮かぶのも心地よい刺激。自分の喜怒哀楽、どこかに引っかかることは、人が感じることの出来る「幸せ」の一つなのだと思う。さあ、書こう。とりあえずは、誤字脱字と格闘する。格闘しながら、無様に負けること、度々。カタカナで外国の方の名前を表記するのは難しい。信頼できそうなサイトからの「コピペ」で対応。心の中で、手を合わせ、感謝するしかない(笑)何を書こう、と考えをまとめる。公開している日記なのだ、発信しているのだ。グルグルいろんなことが回る。映画の話をさせてもらうなら、その映画の面白さのを、どんな「言葉」を使って話そうか、と思う。書くことは、探しものをしているのに似ている。書くことが楽しくないはずはなく。ただ、最近、ふと、読む楽しさがジンワリくる。なんて、スゴイことなのだろう、と、やはり、思わざるを得ないのだ。素直に「感謝」という二文字が頭に浮かぶ。いつもお世話になっている方々へ、それから、通りすがりの書き手の方々へ。読ませてくださって、ありがとうございます。心無き書き手の方もいらっしゃいますが、心ある方々がいる限り、心地よい場所は増えていくものだと思う。忙しい日が続くとき、読ませていただくことが少なくなる。そういうときは、旅行に行けなくてウップンがたまるような、そんな、ヘンな感じになる。グルグルいろんなことが回りながらも、なんか、書き始めると、それは楽しくて、しんどいのに、楽しくて、後はすっきりする。書くことは、なんと不思議なのだろう。書くことは、なんと不思議なのだろう。とりあえず、であり、書きたくて、たまらなく、であり、連絡でもあり、報告でもあり、いろいろ。自分であって自分でないようなものが、文字になって、文章になっている。「もしも」も読むことができなかったら。「もしも」も書くことができなかったら。「もしも」という言葉は掴めぬ希望を思い描くときに使う。だが、在るものの価値を測るときにも使えると思う。そして、あって、良かったと思うのだ。
2005.04.01
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