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一体何を考えているのか。兄、頼朝は弟の動向に首をひねる。検非違使に従五位の下、後白河法皇に近づき過ぎる義経の思惑を考える。弟、義経は兄が大事でありながら、政事のパワーゲームに振り回されて、身動きがとれない。これからの私を。兄のために働く私を。義経の気持ちはおそらく変わらないのだろう。家族を身内を大事にする心優しい青年は、出世よりも兄が大事なのだろう。だが、書状には九郎判官義経、法皇からの官位が記されている。兄に確実に届いたのは気持ちではなく、書き加えられた「判官」の署名。どんな言葉も行為も、裏表がある、思惑がある。幼き大姫は父、頼朝の思惑を知らず、木曽義高の死に自分を失っていた。もう母、政子の愛情も、父、頼朝の狼狽も何もかも、彼女には届かない。義高の供養塔も意味を成さない。本当の気持ちはどこへ行くのか。伝えたい人に伝えたい人に伝わらないまま。後白河法皇の手練手管は、心ある者ならば、見通せたはずである。義経もまた心得てはいた。だが彼は受け入れてしまっていた。頷くということは、受け入れるということ。本心であるか、どうかではなく、頷けば契約は成立する、だからこそ、駆け引きが必要なのだ。一ノ谷で武功をたてられても、婉曲に断り、社交辞令で交わせないのが、源九郎義経のようである。稀代の武将のはがゆいほどの愚かさが、法皇を前にして露呈する。北条政子は、夫を見抜く。幾重にも重なった「理」の武装を。頼朝の熱き「情」を覆う「理」の武装を。側にいて、感じることが出来れば、理解することも叶うというのに。一体何を考えているのか。これからの私を。兄のために働く私を。兄と弟の思いは交錯する。屋島の戦では総大将となる義経。どれだけ武功をたてようとも、彼の本心が伝わるとは限らない。例え伝わったとして、幸せな未来が訪れるとも限らない。
2005.07.31
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この際だから、もうひと遊び、させてもらとうかと思ったりして。心にのこった映画は映画でも、ちょっと扱いに困っている映画ってないかな?と。例えばね、「冒険王」ジェット・リーと金城武が共演して、金城武はともかくも、ジェット・リーが女装してた。ジェット・リーの女装が目に焼き付いて離れないっす。ジェット・リーの女装と金城武の女装がペアで観られるっすよ!B級テイストの愉快な映画でございました。「わたしが美しくなった100の秘密」キルスティン・ダンスト主演で、彼女はカワイイ。でも、100も秘密入れて、映画なんかできるか!!!ってわけで、この邦題は完璧に配給会社さんの作戦みたいです。とにかく、松田聖子がチョイ役なんです。ストーリーと全然、関係ないチョイ役なんです。「さくや妖怪伝」安藤希という女優さんが主演の妖怪もんで。この作品のキモはなんといっても松坂慶子です!!土蜘蛛の妖怪で、もちろん、大ボス。ただし、土蜘蛛に松坂慶子さんの顔がくっついていたような。普通は、土蜘蛛っぽい衣装をデザインするだろうが。。。「ミステリー・メン」ものごっつい、豪華キャストですわ~。ベン・スティラーとか、グレッグ・ギニアとか・・「X-MEN」のパクリジャケットの中にオバカ満載で。愛すべき映画の1本となっております。「ダークマン」画像は、「ボーン・アイデンティティー」とくっついてますが、右側の「ダークマン」の方!!リーアム・ニーソン+サム・ライミ監督の豪華タッグで、おそらく、このコンビでこの企画は、今なら絶対に成立しないだろう、と思ってしまう怪作。リーアムダークマンの叫び声が今も耳に残ります。ながながとおつきあい、ありがとうございました。また、こういう機会があれば、遊ばしてもらえたらと思います。では、またです!
2005.07.31
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バトンをいただくって、嬉しいですね~。ミュージカルバトンのときも嬉しくて嬉しくて。気持ちの上では、ハシャイジャッテんの、バカだよね~。なのに、いざ、書こうとすると五里霧中状態、なぜ?ああああ、そうか、私は物覚えが悪いのだ~~。なんか、全然、思い出せないぞ~。ってことで、まあいつもみたいにきどらず、素のトーベのミーさんで、しゃべらしてもらいます。-----1・過去1年間で一番笑った映画2・過去1年間で一番泣いた映画この二つの質問は、無理だあああ。だってさ~、観たばかりの「きみに読む物語」と観たばかりの「宇宙戦争」※しか出てこない。※大阪がトライポット3体倒した!って奴ね。-----3・心の中の5つの映画「ショー・シャンクの空に」やっと、ビデオ屋に返却されたと思ったらテープが切れてた!諦めかけたところで、テレビをつけると突然文字が。“○×映画劇場、『ショー・シャンクの空に』”「私は日頃のオコナイが良かったんだ~~!!!」っと意味不明に叫んでました、アホだな。「犬神家の一族」あんまりよく覚えてないのですが、隣りはボルノ上映っていう地元の映画館にて。当時小学生だった私が、友達数人と鑑賞。当然、友達も小学生、オトナは一人もいませんっっ!ロードショーだったのか、名画座だったのか、なあんも覚えていませんが、ある意味問題児でした(笑)「天井桟敷の人々」こういう映画を入れると、作為っぽいぞ。あ、クロウトね、トーベのミーさん、みたいな。実はコレ、大阪のある名画座の、最終上映作品だったっす。上演が終わったとき、劇場のお客さんは拍手喝采。もちろん、私も拍手、拍手。素晴らしい映画を素晴らしい空間で、素晴らしいお客さんと観た至福のひととき♪「ブレードランナー」こういう映画を入れると、作為っぽいぞ。あ、クロウトね、トーベのミーさん、みたいな。ンナことないか、ただのミーハー?人間か、レプリカントか?体験した記憶なのか、移植された記憶なのか?どうでしょう?どうなんでしょう?「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」いやあ、私は正直モノなんで、画面から目エ、離されへんかった映画と言えば、コレになってしまうんですわ~。※関西弁のイントネーションでお読みください。せやかて、しゃーないやん、ブラビとトムさんやもん。好きとか嫌いとかやあらへん、って。しゃーないんやて、しゃーないって(しつこい?)----4・見たい映画ホンマか嘘かワカランけど、岩明均原作のマンガ「寄生獣」がハリウッド映画になるというニュースを見かけてしもた。いや、ヤバイ、ヤバスギ。期待膨らましたら、破れたときのショック大きいから、このヘンで!ほな、サイナラ~~!----5・このタスキをつなぐ方々ホントゆーたら、よくお話させていただく方、全てに!コレ、本音です。つーことで、もし良かったらお楽しみください!ただ、そんなにタスキを持ってないので(笑)、ミュージカルバトンくれた方にお礼を込めて、いや、お礼がどうか、疑問だけど、タスキもっていっちゃおう!あああ、ヘンな奴が来た~とか、思わないでね~。バトンをいただいたのは、iso777さん「エンタメ系のススメ」。タスキは「イージー★ライダー」ao_6さん、「中年よ、大志を抱け!」断言児さんとこにトトトと運んできます。みなさん、ブックマークでリンクさせていただいてます!
2005.07.30
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幸せな姿が見えたなら、そのままを伝えれば良かっただろう。だが、もうすぐ、誰かが死ぬ。あなたはもうすぐ死ぬのだと、見えたままそのままを伝えたとしても、誰が信じてくれるだろうか。2才の頃に失明した20才の女性マンは、角膜移植によって視力を取り戻す。だが、視力と一緒に彼女は、死にまつわる力を身に付けてしまう。路上で彼女の身体をすり抜けた、白いシャツの太った少年はその後、交通事故で命を失い黒い人影に連れ去られていく。病院で知り合ったインインという明るい少女が手術の後死ぬことも彼女は直感する。エレベーターの隅に立つ男、通信簿を探し続ける少年、とマンは次々と現れる死者から逃げ続けていた。オキサイド&ダニー・パン監督作品。アンジェリカ・リー演じるマンが死者に怯える演出はまさしく、ホラーだ。だがハリウッド風の音とCGの洪水ではなく、タイミングとカメラワークが際だつ。ジャパニーズホラーにも通じる、アジア発のホラーの演出の特徴に思えてくる。だからこそ、コワガラセルのではなく、何故、そうなったのかにも重点が置かれる。マンに移植された角膜は、どんな人生を歩んだ誰、のものだったのか。人は死ぬ直前まで、命を持っていたのだ。黒い人影に連れられていく直前まで。「世界はキレイ」まだ幼いのにインインは、明るい笑顔で病気と闘っていた、生きて、いたのだ。死がクローズアップされれば、生の輪郭はもっと明確になっていく。マンの角膜は自殺した少女のもので、その少女の能力が彼女に受け継がれていた。幸せな姿が見えたなら、彼女は誰にも気味悪がられなかっただろうに。それでも彼女はみんなの「生」を守るため、必死で「死」を防ごうとした。同じ力を得たマンもまた、渋滞する道路で大事故を予感する。彼女はみんなの「生」を守るため、必死で「死」を防ごうとした。けれども二人とも、運命を変えることは出来なかったのだが。死は悲劇とともに語られる。例えやり直すことは出来ない悲劇であっても、死者の情は生きる者によって癒される。それもまた、アジアの特色かも知れないが。誰も救えずに自らもまた視力を失っても、マンはまた歩きだしてゆく。たくさんの「死」を観た彼女は、世界にあるたくさんの「生」を知っている。
2005.07.29
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結婚すれば、何もかもハンブンコ。夫婦なのだから全てハンブンコ。だから上手く離婚すれば、財産はハンブンコしないといけない。つまり、資産家と結婚して、相手のシッポ(デメリット)を掴んで、メデタク離婚すればどうなるか。ジョージ・クルーニとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ二人の華やかな俳優を配してコーエン兄弟は、愛情とお金を天秤にかける。離婚専門弁護士マシューの作る婚前契約があれば、お金のある側の財産は離婚しても守られる。だがマリリンはどうしても自立したかった。自立にはお金が必要、だから、ゴージャスな美貌を武器に資産家で、バカで、シッポを掴みやすい男を探す。しばらくは貞淑な妻のフリ、でもシッポを掴めば、豪邸に居座り、番犬をレンタルし夫を家から閉め出してしまう。そんなマリリンの計画を法廷で見事に暴いたマシューだったが、思わぬことに、美貌は勿論、性格ごと彼は彼女に惹かれてしまった。そうしてメデタク、マリリンのカモになるマシュー。二人は結婚して離婚することになるのだが。愛の証として、何度も破られる婚前契約。石油王はマリリンのために、マシューの婚前契約を破り捨てる。だがマリリンは離婚し、大金持ち。そこでマシューとの結婚。なのに彼女は愛の証として婚前契約を破り捨てる。だが、それこそ彼女の計画だった。つまり石油王との結婚は嘘だった。本当の資産は、マシュー>マリリンなのだ。ビリー・ボブ・ソーントンジェフリー・ラッシュまで顔を揃え、役者の個性が強烈に映画を引っ張っている。だが視点はまさしくコーエン兄弟、愛がどれだけ強くても、お金の問題は避けては通れない。マリリンは自立のためのお金といい、マシューにはステイタスになっている。愛は心を潤しても、生きていくための糧にはならない。お金>愛お金<愛微妙な天秤の揺れ具合、匙加減。じゃあ、お金も愛もあれば?結婚すれば、何もかもハンブンコ。資産家の側の財産を守るための婚前契約。それは愛の証として作成され、愛の証として破棄される。愛とお金の愉快な駆け引き。キスも契約も実は愛の証にはならないようだ。ただどちらも、結婚すれば夫婦のもの離婚すれば、ハンブンに分けられる。結ばれるマシューとマリリン、どうやら離婚までは、一つなのだろう。
2005.07.28
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「また、会おう」夏の、祭りの夜。1940年、ノースカロライナ州の町にて。青年は、誰よりも自由に笑う彼女に恋をした。メリーゴーランドに乗って、大きな口を開けて勝ち気そうに笑っている。彼女の名前はアリー。裕福な家に生まれた彼女は、夏だけこの田舎町にやってくるのだ。材木置き場に働くノアにとっては、高嶺の花のような存在だったというのに、二人は様々な経緯を得て、心から愛し合うようになっていた。デュークと名乗る男は、療養施設で暮らす初老の女性に、ノアとアリーの物語をゆっくり語っていた。女性はアルツハイマー病に罹り、多くの記憶を失っていた。アリーの両親は、ノアを「屑」と言う。彼と結婚して、小汚い子供を産むのか、とも。二人は育ちも考え方も違い過ぎ、いままで本当によくケンカをしたが、すぐ仲直りしたものだったが、その日のケンカを境に二人は別れ別れになった。ノアは戦争に行き、アリーは新しい婚約者を得た。それでも運命は二人を再会させる。長い川の近くの白い家で。その白い家のポーチで、デュークは物語を読んでいる。愛しい女性に物語を読んでいる。デュークはもう、失いたくなかったのだ。生まれや育ち、性格が違うから、何度もケンカをしたノアとアリー。けれどもいつのまにか、仲直りをしている。別れれば、それで終わり、けれども仲直りして、またキスをして、またケンカするのに、離れられない。本当に離ればなれになっても、再会すれば、甦る最高の感情。それを「愛」と呼び、幸せの代名詞にするほど、現実はそう甘くなかったけれど。彼女はアルツハイマー病を煩い、再び、ノアのもとを去っていく。ノアの記憶を全て忘れて、デュークが誰なのかもわからない。ニック・カサヴェテス監督作品。夕陽や川面、白鳥と風景を美しく取り上げる。ライアン・ゴズリング、レイチェル・マクアダムス若い二人の俳優が好演している。監督の母親でもあるジーナ・ローランズと、ジェームズ・ガーナーの細やかな演技が、紆余曲折の恋愛に現実味を添え、感動を呼ぶ。ノアとアリー。愛し合った二人の歴史はもう彼女にはない。時折思い出しても、5分と覚えていない。それでもまた、二人は再会する。老いた二人の人生はもう、長くはなかったが。「また、会おう」不思議なものである。生まれや育ち、何もかも違うのに、ケンカばかりして、何度も別れたはずでも、必ずまた、再会する二人がいる。それを「愛」いう幸せの代名詞にするほど、現実は甘くはないというのに、きっと二人はまた、出会うのだろう。
2005.07.27
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冒頭からこの映画は、結末に対して、ストレートである。おそらく結末よりも、その過程に重きを置いているように。時代という、目に見えぬもの、けれども、それは、人間によってつくられる。スティーブン・スピルバーグ監督は、明らかに作る側の先頭集団にいる。その彼が、何を創ったのか。宇宙人の襲撃がテロに置きかえられる。地中から出現した殺戮兵器を、侵略者ではなく、テロリストと解釈される。CGで描かれる自然災害は、現実のニュースとほんの少し違うだけ。地面が割れ、建物が崩れ落ちる様子は、かつて見たことのある情景と同じ。飛行機は墜落し、列車は炎をあげ爆走する。爆音と爆発も、まさしく、世界のどこかで起きている戦場と同じ。迫力の映像で再現される破壊は、サイエンスフィクションというよりは、地球全体で起きている悲劇の集大成にさえ見える。H・G・ウェルズの古典SFを描く材料は、現実の中に溢れかえっているのである。だからこそ、スピルバーグ監督は、その目に観たものを描いているようにさえ見える。たくさんの悲劇が故に、引き裂かれる親子を含めて。愛やら勇気やらで、危険を乗り切るという演出ではなく、動く車に群がる群衆や、船に乗ろうとタラップにぶら下げる人、そのままの素の状況のみが、ある。実際、天災人災戦争と、世界が悲鳴を上げているのである。その現実がこの映画にある。その現実を監督は描いている。それらの現実を前にして、宇宙人の侵略が失敗する原因など、たいした価値はないように思える。これまで数々と用意周到な宇宙人がいたが、それらの多くは他愛のない理由で、作戦を失敗させている。全ての真実は、決して、簡単に納得できるところにあるとは限らない。世界の仕組みの全てを知ることなど、人にも宇宙人にも不可能に思える。それにしても。スピルバーグ監督の演出は、アソビゴコロと優れた娯楽性に満ちている。手に汗握るシーンのなんと多いことか。ブルーカラーの父親を演じるトム・クルーズをはじめとして役者は好演。家族の絆が強まることと、地球を守った存在のアップで、この映画は終わる。全体の構成はあまりにもストレート。だが、ティム・ロビンス演じるオグルビーや、子供たちの反応などの細かいエピソードにも、数多く現代の姿を感じさせる。この映画は結末ではなく過程なのだ。そしてその過程の中にはぎっしりとスピルバーグ監督のまなざしが詰まっている。
2005.07.19
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上手くはいかないものだ夫婦も親子も、ビジネスもナンモカンモ。コツコツ積み上げてきたものだって、拒否されてしまったりする。そんな世の中で、カラオケは生まれた。グウィネス・バルトロウの父、ブルース・バルトロウ監督作品。しかも、公開後まもなくして父親が他界、彼女にとっても最初で最後の、父親の監督作品への出演になってしまったという。ほとんど主役と言っていいほどの、ポール・ジアマッティの歌と怪演が見物。ヒューイ・ルイスがグウィネスの父親役で出演している。オマハで5000ドルもの賞金がでる、カラオケの決勝大会が開かれようとしていた。全く無関係に見える3組6人の男女が、そこに集うまでのロードムービー。小学校の恩師が、万引きの常習犯になっていた。タクシー運転手のビリーもまた、かつて聖職者になろうとしたが違う道にいる。「この世はドブまみれよ」と彼女は言う。何がなんでもオマハに行こうとするスージーは、セックスで金を稼ぎながら決勝へのチケットを得た。ビリーのタクシーに強引に乗り込むが、彼のイチモツが受け付けない。ヒャッホー!!とコカインでラリって車をぶっ飛ばすのは、真面目なセールスマンだったトッド。仕事に失敗した上に、家族は相手にしてくれない、80万も貯まったマイレージではどこもホテルは泊めてくれない。オマハに向かう脱獄犯レジーを乗せてからは、彼の持っていた拳銃でやりたい放題。そして母の死をきっかけに、リッキーとリヴの父娘は再会した。美しい娘に育ったリヴもまたオマハへ向かう。カラオケで賞金稼ぎをするだけのリッキーは、どこか娘に素直になれない。上手くはいかないものだ夫婦も親子も、ビジネスもナンモカンモ。80万も貯まったトッドのマイレージでは、どこのホテルも彼を泊めてくれない。けど、カラオケの舞台に立ち、自分流で歌えば気持ちイイ、最高!全ての企業がフランチャイズ、チェーン店、そのコマとして働く小さな存在だとしても、今、彼だけが、スポットライトを浴びている。上手くはいかなかったけれど、それでも彼はレジーとのデュエットがきっかけで、妻から気の遠くなるほど久しぶりに、愛の言葉をもらうことが出来た。リッキーとリヴの、笑顔いっぱいのハーモニー。ビリーとスージーが女性トイレの中で、本音を交わし自分を見つける。群像劇のロードムービーとしては、他の秀作と比べると混雑気味ではある。だが、その欠点を覆い隠すほど、人生に対する真摯な姿勢にあふれている。ヒューイ・ルイスはもちろんのこと、グウィネス、ジアマッティの歌も心地いい。悲劇は悲劇であったけれど、コツコツ貯めた80万のトッドのマイレージは、航空会社でちゃあんと使えたのである。●映画の雰囲気はこちらの写真で!
2005.07.18
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九郎義経の心の中で、兄、頼朝へのわだかまりが大きくなる。何気なく気付いていたわだかまりが、どんどん育って大きくなる。清盛入道の世は幻なれど、着実に進む新しい世は源氏の世だと、親兄弟が争わず暮らす世だと願う義経が、現実の壁に次々とぶちあたる。源平の争いではあれど、義経と知盛、重衡の間にはまだ、兄弟の感情が色濃く残っている。深く政情を知る知盛でさえ、重衡の命を義経の情に頼ろうとし、義経、重衡もまた幼き日に思いを馳せる。それぞれの立場はわかっていても。幼き大姫、凛と立つ。愛する木曽義高の命を救わんとして。人は情によって動く。情のない者の生死に関心は薄くなる。情があればこそ、心が動き、願いが生まれ、言葉が生まれ、身体が動く。なんとかしようと、なんとかしようと。娘の心を察しているから、北条政子も義高の命を乞うていた。母の気性を色濃く受け継ぎ、幼き大姫、凛と立つ。愛する木曽義高の命を救わんとして。戸惑いながらも、九郎義経は願っている。平重衡という兄の命と、木曽義仲という従兄弟の息子の幼き命が救われんことを。されど、頼朝は違う。人は、情ではなく存在の価値にある。三種の神器との交換は不可能でも、平重衡という武将に価値を見出す。源氏平家など関係ない、価値ある者は、これからも価値を生む、価値なき者は、これからも損失を生む目に見えぬ不確実な情ではなく、その後に益があるや否を見定めようとする。京にて鎌倉にて義経主従、皆揃い、相も変わらず笑顔が絶えない。彼らは、素晴らしい働きをした。だがそれは源氏のため、義経のため。そうではなく、頼朝が考えるのは。ひとえに、もののふの新しい世のために、と、義経の情、政子の情、そして大姫の情、深き情を慎重に天秤に乗せ、幼き義高の命を奪うと決断した。どんな決断も人生に関わっているのだ。まっぷたつに別れゆく、二人の人生。最後の対面とは知らぬ、頼朝義経兄弟である。是が非ではないのだ、何事も。どれをを選ぶかに過ぎないのだろう。
2005.07.17
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トーベのミーさんは、今、目が回ってます、ヒマなときはトコトンヒマなのに、ここんとこ、なんだか、目が回ってます。でも、丁寧に毎日、がんばっていこうと思ってます。また、遊びに行かせていただきます。その時はよろしくです。来てくださった方ありがとうございます。感謝してます!
2005.07.13
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一一八四年二月七日、源氏と平家、雌雄を決すべく、一ノ谷にて、戦が始まる。源九郎義経、当時二十六才とある。平家方の隙をついて、「鵯越の逆落とし」背後より攻めかかり身の軽さ生かして相手方を切り捨てる。義経伝説の一つが映像となる。戦場に立つもののふは、その場所を自分の舞台にする。己の器量を最大限生かして、刃を交わし刃を貫き、刃を受ける。戦わなければ死ぬしかない、死ぬも生きるもその瞬間。さて、その瞬間。戦場でもののふが刃を交わすまでの瞬間。戦いは既に始まっていた。後白河法皇の書状が平家に届く。「戦をせずに待て」自ら源氏平家の和睦を計っているという。書状の真偽を確かめず、平宗盛が信じてしまったのは、再び京を夢みる心の隙をつかれたからだろう。そして、法皇への思慕のカケラだろう。宗盛をそう育てたのは、後白河法皇のかねてからの策略。「日本国第一の大天狗」はその触手を源九郎義経に伸ばそうとしている。いや、既に伸ばしている。一ノ谷の地形が故に、戦略のおおかたは決まっていた。前後を海と崖に囲まれれば、戦場は左右となる。けれでも義経は、誰もが想像できる、常識の範囲に囚われず、太鼓と歓声と火矢で、夜襲をかけ、心理的に追い込み平家方を敗走させ、現場にたち、直感を信じ、「鵯越の逆落とし」を決行する。決戦の場、その時に、木曽義仲の兵力は極端に落ちていた。逆に、義経の郎党は、彼の進む道なら、どんなに険しくてもついて行こうとする。その差は、普段の関係によるのだろう。持ち駒として育てた宗盛に書状を出し、動かせぬ頼朝に何もせぬ後白河法皇、彼らだけではない、一人一人全ての者たちが、毎日の日常でも戦を始めていた。そして戦場で、もう一つの刃が交わされる。駆け引き、という刃、信頼と、謀略、そして、さまざまな感情。勝者必衰、勝者もまた敗者となる。戦場はその瞬間にある。だが、駆け引きという刃は、常に交わされている。
2005.07.10
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映画やドラマの登場人物たちは、深刻なときに深刻な顔をしているのだな。そりゃあ、そうだ、演技だし。なぬ?演技、演技でもすればいいのか、まあ、そこそこみんな演技をしているな、たぶん。選択を迫られている気がする。もう、コムスメでもないのだしウダウダと、つまんないことは考えてないけれど、手にしたモノは全部大切で、出来れば全部大切にし続けたいけれど、そうはいかないのだ、これもたぶん。そうだなあ、これしかない!と真っ直ぐに、進んでいけそうで行けないんだな、と、たぶん、たぶん、たぶん、と思っている。結構、捨て身の選択かも、と、どっかで自分で自分を笑いながら、進もうとしているけど、どれも、たぶん、だ。これから「義経」のレビューを、書かせていただこうかと思っています。つねづね、書くよりも読むほうが楽しくて、図にのってコメントを書かせていただくのも楽しかったりしているのですが、日記をまず書かせていただいてます。とにかくなんか書かせてもらってると、心頭滅却なのだなあ、いう感じです、たぶん。レスもゆっくりと書かせてください。ヘタクソなのですが、楽しいのですよ、自分では。これは、たぶん、ではないです。それでも、本当のところ、オフラインでもオンラインでも、なんだか、有難いなあ、と思う日々です。これも、たぶん、じゃないです。かなり、ホンキです(笑)
2005.07.08
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金田一耕助が走っている。右から左へ、屋根瓦の下を真っ直ぐ。緊張感のある直線が画面を分割する。角川映画第一作は1976年、横溝正史原作の探偵小説から始まった。豪華なキャストとオドロオドロしい人間関係。しかしながら、市川崑監督は、ストップモーションや細かいカット割りで、邦画ならではの映像美を紡いでいる。直線の緊張感。松子、竹子、梅子が三姉妹も、彼女の息子、佐清、佐武、佐智の三人も、真横に並び、正面をカメラは捉える。昭和二十年代の日本家屋を、人物とともに真正面から捉える。菊人形の首に、佐武の首が置かれ、静謐なる湖面に、足がV字に突き刺さっている。犯人の意図しなかった死体の偽装は、市川監督によって、オブジェとなり、過剰な効果音や演出ではなく、そのオブジェそのものが、驚愕を生んでいた。複雑な人間関係の基盤は、まぎれもなく、愛と憎しみによる。成功はしたが報われなかった、犬神佐兵衛翁の怨念。それは形をかえ、後の一族に染みていく。青沼静馬は復讐の機会を待っていただろうし、松子は、佐清の幸せを願っていた。野々宮珠世は、今までもそうであってように、事件の後も佐清を待っているだろう。無表情な佐清の仮面。戦争で大火傷を負った顔はケロイド状に。事件の真相は、その仮面の男が隠し続ける。仮面をつける二人の男もまた、母親への愛を背負っている。金田一耕助は、石坂浩二、この作品のバランスを担っている。重厚な存在感で松子を演じるのは、高峰三枝子、彼女が作品に大作の風格を与えた。島田陽子の野々宮珠世は可憐だった。金田一とホテルの女中はるを演じる坂口良子の会話も楽しい。後々まで名物となる名台詞、「よし判った、犯人は・・・」と勘違いを続ける加藤武の警察署長のご愛嬌と、見どころをあげればキリがなくなってくる。それに加えて、怨念や執念も、愛情の裏返しと、陰影の隅々まで目を配られた映像の美しさと、映像そのものによる驚愕の演出と、面白い邦画の原点は、この作品の中にも詰まっている。幾層にも重ねられた瓦屋根、窓に壁、日本家屋が丁寧に映し出される。オドロオドロしい人間関係は、戦後まもない国の状況が故の悲劇でもある。母親がいくら息子を無事を祈ろうとも、当時の男たちの寿命はあまりにも短かった。殺人の偽装を、リアリティよりも、寧ろオブジェに仕立てた画期的な作品。様々なジャンルでリメイクされ続けているがおそらく、この一族の悲劇は、常にビジュアル的でもあり続けるだろう。
2005.07.07
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悪党がヨットで逃亡している。追いかける1974年型フォード・グラン・トリノ、ド派手な真っ赤な車は一応覆面パトカー。運転するのはスタスキー刑事、助手席には相棒のハッチンソン、ハッチ刑事。このまま取り逃がすわけにはいかない、車をジャンプさせてヨットに乗り移れ!否が応でも高まるカーアクションへの期待感。痛快爽快のエンディングと、という予想なんて見事に裏切ってくれる。ドボーン。ヨットを飛び越え海に墜落。まんまと笑いながら逃げおおせる悪党。そんなのあり?事件を解決しない主人公たち。勿論、オチはもう少し後。ベン・スティラーとオーウェン・ウィルソンで往年のGパン刑事を再現される。作品を再現したのではなく、作品の設定と70年代を徹底再現。スタハチコンビのファッションはともかく、トムとジェリーにディスコバトル、テレビ版「チャリエン」的女性のヘアスタイル。もちろん音楽はアノ曲コノ曲も70年代。トッド・フィリップス監督作品。リメイクはリメイクでも完全コメディ化。真面目に70年代を再現するほどにコメディになる。そこまでやるか~である。70年代をわかってなくても、あの手この手と繰り出されるコネタたち、意味なく現れる『イージー・ライダー』パロディ。作品というのは崇高な社会性や、愛やら感動や、エンタメのためでなく作り手が自分のやりたいことをやりたい放題するというジャンルがある。観る側はその楽しそうな映像を脱力しながら愉しめばいい。黙っていたらカッコイイベン・スティラーとオーウェン・ウィルソン彼らは全く事件を解決しないのだ。事件の解決は情報屋ハギーが持ってく。つまり悪党がどこへ行く予定が知っているから、そこで待ち伏せすれば、事は簡単。スタハチコンビを振り切り逃げる悪党は、ハギーの一撃でのされてしまう。演じるのはスヌープ・ドッグ、オイシイところを全て持っていく。ラッパーの空気感は、そんなムチャさえOKにする。悪党の愛人の女優が目に付くと思えば、ジュリエット・ルイスである、上手いはずだ。ちょっともったいない、いや、大分もったいない。カーアクションのクライマックス、情報屋ハギーによる事件解決、それで、映画が終わるかと思えば、忘れてならない、ご対面コーナーがある。海に落ちたはずの1974年型フォード・グラン・トリノ同じ車がスタスキー刑事に戻ってくる。運んできた男二人の衣装は、スタハチコンビとまるまま一緒。テレビドラマ版スタハチの役者が登場する。新旧スタハチコンビのご対面。本人たちも嬉しそうである。作り手が自分のやりたいことをやりたい放題するというジャンルがある。観る側はその楽しそうな映像を脱力しながら愉しめばいい。
2005.07.06
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NYは人種のるつぼ、シドニー・ルメット監督は、3人の俳優を親子にして泥棒にした。ショーン・コネリー、ダスティン・ホフマン、マシュー・ブロデリック。1989年の作品。Danny boy, Oh Danny boy, I love you so.アイルランド民謡に見送られ、祖父であるジェシー・マクマレンは獄中で逝く。残された父ヴィトーとアダム、新しい親子の関係が始まろうとしている。泥棒稼業から足を洗って、精肉店を営むヴィトーはとにもかくにも、息子のアダムを全うな人間にしようとした。彼も期待に応えて、か、マサチューセッツ工科大学へ。だが、アダムは父よりも、今も泥棒稼業を続ける祖父が好きだった。保釈金を出せと、息子に金の無心をするような自由だけど気ままな男だったが。全く似てない親子三代、自称スコットランド人のジェシーは、シチリア島の女性とNYにやってきた。二人の息子ヴィトーはユダヤ系の女性と結婚。そうしてアダムが生まれた。それでも三人揃うと血のつながりが見える。アダムは父の期待を裏切って、大学中退、祖父に研究開発中の酵素細胞とデータブックを盗みだす計画を持ちかける。さんざん反対したヴィトーも、アダムを守るため計画に参加する。そうして親子三代のファミリー・ビジネスは、成功したかに見えたのだが。「人は愛されていることを武器に、なんでも言えるのさ」ジェシーは、自由にアダムと接し、ヴィトーは、息子に厳しくあろうとする。やりたいことをしようとする孫に、手をかすこととと、息子の将来を考えて道を指し示すこと。祖父も父も同じようにアダムを愛している。その深さを比べることなど出来ない。成功したかのように見えたファミリー・ビジネスだが、取りこぼしがあった。アダムが捕まり、ヴィトーとジェシーも。判決は祖父に過酷な運命をもたらす。まるで、息子の孫の身代わり。アダムの心に父へのわだかまりが生まれる。But come ye back when all the flowers are dying,If I am dead, as dead I well may be.自由気ままな祖父と真面目な父に、前しか見えない若者。三者三様の姿を魅力ある俳優が演じる。アクションは少な目、ほどよくコミカルだ。ストーリーに強さはないが、後に強く残る「愛情」がある。祖父の愛情、父の愛情、成長した若者も愛情を与える側になる。そして、死は全ての人間を故郷の大地に連れ戻していく。Danny boy, Oh Danny boy, I love you so.ラストシーンの『ダニー・ボーイ』見送る側と見送られる側は順番だ。NYは人種のるつぼ、さまざまな血が混じり合いながらも、人生の節目はジンワリやってくる。ヴィトーとアダム、新しい親子の関係が始まろうとしていた。
2005.07.05
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喧噪が店内に満ちている。美味しい食事には、言葉がつきまとう。目に鮮やかな盛りつけに、「おいしそう」と食べる前から賛辞を送り、口に運べば頬がおち満足が生まれる。ワインの味もまた格別。ウェイター、ウェイトレスが運ぶ皿にも目を奪われる。皿とフォークとスプーンの音、そして、こぼれてくる言葉たち。極上の喧噪がその店にはあった。ニューヨーク、トライベッカ。賭けの胴元でもあるルイは。イタリアンレストラン《ジジーノ》のオーナー。家庭の味が好きだった彼は、息子でシェフ長のウードが演出する、“ヌーヴェル・キュイジーヌ”が面白くなかったりする。しかも、長年のビジネスパートナーが殺される。いろんな問題を抱えていた。店は極上の喧噪でごったがえす。厨房では、炎が鍋を熱し、食材が鍋の上を舞う。シェフたちも、喧噪にある。ウエイトレスたちも喧噪にある。料理は喧噪の中から生まれている。その喧噪。たくさんの無軌道無方向な音。いろんな人がいろんな問題を抱えている。いろんな問題。ギャンブル、夢、金。もちろん、愛情、男と女の、オーナーとシェフ、父と息子。色鮮やかなシーフード、歯ごたえの心地よさそうなパスタ、テンポのいい音楽と細かい編集に乗せられ、無軌道も無方向もまとまらないまま、《ジジーノ》のオーナーは、オーナーとしての、最後の仕事を仕組んでいた。絶えず喧噪が満ちている。喧噪の中で料理は生まれていく。そのことをルイはとても良く知っていた。知っているというよりも、その方法しか知らないのだ。銃声。ビジネスパートナーの死に、ルイが下した復讐と、何よりも大事な息子へ店を渡すため、《ジジーノ》の抱えた問題を一掃するため、父親は、巧妙なワナを仕組んでいた。活気あるリストランテは、常に喧噪に満ちている。皿とフォークとスプーンの音、そして、こぼれてくる言葉たち。厨房では、炎が鍋を熱し、食材が鍋の上を舞う。店は喧噪に満ちている。料理は喧噪の中で食されている。無軌道なままに見えても、オーナーの目は店の全てに行き渡っている。シェフを演じる俳優がカッコイイ。何よりもルイを演じるダニー・アイエロが、無軌道な作品を上手くまとめている。イタリアンレストラン《ジジーノ》美味しい料理には、喧噪がつきまとう。
2005.07.04
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郎党は舞い踊る。人の歌があり、笑い声がある。呆れ顔の義経を傍目に静は、ひとときの幸せを噛みしめているようだ。目に見えぬものであっても、暖かい空気は確かに其処にある。木曽義仲の首が晒される。京の町の人々は死者をも罵倒し石を投げる。ただ一人かつての女武者は涙をためて運命を呪っている。巴御前、義経に刃を向けようとする。義仲の傍らにいつも彼女はいた。その幸せを奪った源氏が憎い。幸せも憎しみも哀しみも。同じ場所に同じまま在ることはない。ひとときの幸せ、消えた幸せ、生まれてしまった憎しみや哀しみ。父親の死を受け止めたかのような義高も、身をひそめ息を殺し床下で泣く。幼い心なりの生き抜く術を考えながら、抱え切れぬ哀しみは、押さえきれない。一日を一生と。静御前は義経に言う。永遠の幸せも永遠の哀しみも、人は決して得られない。源頼朝は我が身を振り返る。栄華にある平清盛と対面する自分の姿を。抱えきれない憎しみを押さえて、射るように仇の顔を観ていた。あの時の感情が彼を動かし、同じ感情を木曽義高が持っている。いつしか頼朝は、憎まれる側に立っていた。いずれにしても、修羅の道。鞍馬の師、覚日禅師は義経に語る。白髪混じりの老いた師は、世俗で戦う源義経の哀しみに触れる。ひとときの幸せ、消えた幸せ、生まれてしまった憎しみや哀しみ、流転する人の感情は、人そのものを傷つけてゆく。西国で勢力を盛り返す平家、十万の軍勢で都に近づいている。明日をも知れぬもののふの命、源義経もまた、戦へと向かっていく。永遠を人は抱きしめられないそれでもうつぼは、義経を想っている。幼い頃より変わることなく。一日を一生と。静御前は義経に言う。母より受け付いた白拍子の装束、明日をも知れぬ別れに涙をこぼす。今この時の哀しみに涙をこぼす。想いだけを、胸に抱いて。
2005.07.03
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チャン・イーモウ監督作品。金城武、アラン・ラウ、チャン・ツィイー。衣装はワダ・エミである。見始めて、ほどなく、画面から目が離せないことに気付く。唐の大中13年中国各地で、内乱の気配が生まれていた。叛乱勢力「飛刀門」の討伐の命を受け、捕吏の劉と金が動き出した。頭目の娘とされる盲目の踊り子、小妹を使って、「飛刀門」の拠点に潜入を試みようとしたのだ。しかし三人の関係は、複雑にもつれ合い、思いもよらない愛憎が交錯する。間断なく続くアクションに、チャン・イーモウ監督流の武侠映画らしさを観る。友情や愛情も素直に表現されている。色彩、衣装、独特のストップモーション。全てが一つの「分野」なのだと思う。チャン・イーモウ監督流を愉しむ。興味深いことに、その風情を愉しむことで、この物語は、時代背景という枠から、乖離していくように見える。通常なら、時代背景は、人物像やストーリーを規定するものだ。独自の解釈を加えたとしても、歴史は避けてとおれない。だが、主要キャストの三人は、時代の観念に囚われない。三者三様に彼らの選択は、自分の意志に忠実。映像の美しさをあいまって、歴史から乖離し、現実からも乖離する。ファンタジーにさえ見えてくる。美しい自然の美が続く。美しい色彩、舞うように揺れる衣装。捕吏たちは剣を後にかざし、小妹、金を追う。実直な劉の視線が絶えず彼らを追う。うずたかく積まれた落ち穂の流線、計算された竹藪のしなり、放たれた矢の動きは、全て映像に刻みつけられる。投げられた飛刀が、どこへ行くかも。時代背景に縛られず、美しい舞台を得た役者たちは、自分たちの魅力を存分に表現し、観る者を刺激する。金城武、アラン・ラウ、チャン・ツィイー三者三様のフェロモンがある。そもそも映画というのは、役者の魅力を観るものでもあるのだ。「英雄~HERO~」にあった物語の深みを、この作品に見出すことは難しいだろう。だが、見始めて、ほどなく、画面から目が離せないことに気付く。驚異の激闘を続ける劉と金、最後の最後まで死なない小妹、唐突なラストシーンには、驚かされる。しかしながら、三人が醸し出す緊迫感は素晴らしい。役者の魅力というものは、物語に圧倒的な生命を吹き込むのだ。髪のもつれ、肌の赤み、衣装の波、何気ない吐息さえも、物語を語る力だと、改めて思った。
2005.07.02
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「今脱がなかったら、いつ脱ぐの」イギリス・ヨークシャーの田舎町ネイプリー。そこの婦人会主催のイベントと言えば、ケーキ大会や「ブロッコリーの作り方」などの講義。退屈そうに顔を見合わせるクリスとアニー。毎年恒例のカレンダー作りの企画も、去年までとそう変わりがない。夫がいて子供がいて、家事をして、働いて、趣味をして。そんなに、変わらない毎日が続いていた。大切な毎日ではあったが、退屈な毎日になりかけていた。最愛の夫ジョンを亡くしたアニーを、元気づけようとしてクリスが考えたのは、婦人会のカレンダーの収益でジョンのいた病院に寄付をすることだった。けれども今までの企画だと収益が見込めない。「ヌードカレンダーを作ろう」クリスは猛烈な勢いで行動を始めた。私は55才よ。今脱がなかったら、いつ脱ぐの。婦人会でオルガンを弾いていた女性が言う。はじめは戸惑っていた女性達も、次々と賛同を始めた。“今やらなかったら、いつやるの”年齢の数字が問題じゃない。やろうと思ったことを、今やり逃せば、今度いつ出来るかわからない。どんなことも何もかも、必ずできるとは限らない。ジョンの友達のカメラマン、ローレンスは、彼女たちの日常を撮ろうと提案する。花に水とやっている、料理している、編み物、オルガン・・・、イキイキとした表情と微笑ましい仕草、ヌードといっても、ほとんど隠れているが、彼女たちの「裸」の姿がカレンダーになってゆく。細身の身体で誰よりもエネルギッシュに、ヘレン・ミレンの演じるクリスは突っ走る。デザインや印刷の発注、記者会見の手配もこなしている。目的をしっかりと持っているから、達成するために何をしたらいいかわかってる。有能に働く彼女を夫も息子も止められない。カレンダーは反響を呼び、収益をあげ、彼女も夫や息子のことを、考える時間がなくなっていった。全てを上手くやるのはとても難しい。クリスの成功が息子を孤独にし、夫はあらぬ詮索を人から浴びせられることに。カレンダーに参加した妻を持つ男性陣も、集まって複雑な表情をせざるを得ない。もちろん、女性の中にも反対する人がいる。「今脱がなかったら、いつ脱ぐの」行動する勇気は、考えすぎると萎えてくる。だからこそ、行動した彼女たちの明るさが、動けなくなった心を照らしてくれる。太陽に向かって咲くひまわりがとても、良く、似合っている女性たち。“ヨークシャーの女性たちは 花に似ている。 満開の時が最も美しい” アニーの最愛の夫ジョンの言葉。本当に美しいカレンダーが仕上がった。彼女たちの「裸」の姿、年齢を刻む数字など問題じゃない。ひと騒動の後、女性達集まって、ヨークシャーで太極拳をしているようだ。ゆったりとした動きをしながら、いままでの自分を見直しているように見える。家事をして、働いて、趣味をして。そんなに変わらない毎日と、今やれることを思い切りやって、満開の花を咲かせた時間の中にいる自分を。
2005.07.01
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