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はじめちゃんの東京騒動記第822回第66回 ●劇画の世界 その2はじめちゃんの東京騒動記 第66回●劇画の世界 その2この日は学校が終わると、井上と佐藤、渡辺は早足で、中学校から5分ばかりの渡辺清の家に集まった。 二階の清の部屋で三人は寒さに震えながら頭を寄せ合った。 「いいかい、マンガを描く道具は……」と言って、井上は新聞広告の裏に書いて説明をした。 ひとつ道具を説明すると渡辺は質問を繰り替えした。 佐藤は静かに聞き入っていた。 説明が終わると渡辺は早速、道具を買いに行こうと言い出した。 同じクラスの丹野の姉が勤めている相川文具店に行くことにした。日光の温かさでザクザクと溶けた雪道を歩きながら井上は渡辺に訊いた。「清くん、お金は大丈夫かい?」「ああ、大丈夫さ!修ちゃんの分も立て替えておくぐらいは持ってきたから」と言って、1000円札をポケットから取り出した。「清は金持ちだなあ……」と佐藤はニヒルな笑いを浮べて羨ましがった。 あいにく丹野の姉はいなかった。 井上は以前に丹野の姉から道具を揃えてもらった経験がある。ペン先やペン軸、製図用インクに墨汁、そして模造紙のある場所がわかっていたので、まごつくことなく渡辺と佐藤にその場所を案内して買い物を勧めた。 冬の夕方はすぐに暮れる。 外は暗くなっていた。 店内の電気の明るさが一層増して感じた。 日中の天気で晴れた雪道を、自動車が走るたびに雪を蹴散らし、それが歩く人々の胸ありを襲ってくる。 そのたびに歩く人々は飛び上がって汚れた雪を除けようとする。 三人はなぜか興奮して歩いていた。 渡辺だけがひとり話続けていた。 翌日、学校が終わるとすぐに渡辺の家に集まることにした。井上の班が掃除当番のために遅れていた。 その間に佐藤は「巨人の星」の主人公星飛雄馬の顔を模造紙いっぱいに鉛筆で下書きを始めていた。 渡辺はそれを傍で見ながら佐藤を励ましていた。 井上が渡辺の家に着いた頃は、佐藤は下書きを終えていた。 「井上、ここまで描いた。 我ながらよく出来た! さあ、後はお前が手を入れて直してくれ。 遠慮はいらないから、どんどん直してくれよ」佐藤は信頼しきった目で井上を見て言った。 「ああ、修ちゃんがそう言うなら遠慮しないで直させてもらうよ」井上は4Bの鉛筆で、デッサンの多少違うところに線を新たに描き足していった。 それを真剣に見ている佐藤と渡辺だった。 「線の流れが違うぞ……」渡辺が言うと、佐藤は続けてこう言った。「ウン、確かに違うね。描き慣れている線だ。 オレの線とは違うなぁ。 それに線が堂々としていて、線が生きているようだ!」 ■(文中の敬称を略させていただきました)はじめちゃんの東京騒動記●第66回 完 つづく 第67回にご期待下さい!!
2006年01月31日
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大雪と共同購入第821回 1月30日 都市生活コミュニティセンターの事務局のお二人は最後のボランティアと視察です。 今日は生活クラブやまがた生活協同組合の共同購入のトラックに同乗してもらい、雪国の共同購入を体験してもらいながら、組合員の雪の生活を見ていただきました。 生活クラブやまがた米沢支部の組合員の半分以上は働いていない「年金生活者」です。その予備軍を入れればゆうに70%近いのではないかと思われます。そのような状況下にこの大雪です。組合員の生活はたいへんな苦しみにもがいています。特に高齢者の一人や二人暮しの雪の中の生活はたいへんです。掃いても、掃いても積もる雪に家は埋もれてしまいます。悲痛な叫びで「助けてください」と叫びたい気持ちではないかと想像しています。 灯油を貯蔵しているホームタンクとプロパンガスも雪の中に埋もれて危険な状態です。人力ではどうしようもないので、建設業者に依頼して重機によって雪を退かすしかないです。 池田さんたちが米沢にいる間は晴天だったので、吹雪や雪の降る中の作業はありませんでしたが、私たちは悪天候の中でも積雪量に応じて屋根に上り雪を下ろし、道や家の周辺の雪片付けをしなければ、この地には住めないのです。 このような状態でも、共同購入は配達をします。組合員はそれを待っています。私が配達している時は道路条件が悪かったのでスノーボートをトラックに載せていました。そして路地や雪の多いところはスノーボートに配達物を移して運んでいました。 特に班長や当番のところは自宅に届くので便利です。 今日も朝から雪が降っています。いつ止むともわからないこの大雪に今日も共同購入のトラックは走っています。生協都市生活の職員のみなさんにも、この雪の配達を経験していただきたいものです。都市生活コミュニティセンターのご協力に感謝申し上げ、ぜひ「除雪隊」の組織をツアーでお願いしたいものです。 2006年2月4日記
2006年01月30日
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雪害ボランティアの二日目第820回 1月29日池田さん 雪害対策の研修にわざわざおいでいただいた、兵庫県西宮市の「都市生活コミュニティセンター」の事務局の池田さんと小松さんの二日目のボランティアが始まりました。 午前中は昨日のたくろう所の続きと民家二軒の雪片付けを行ないました。講師はボランティア山形事務局の新関寧さんと私です。 民家は高齢者世帯です。どなたも毎日の雪片付けに疲れ果てたところでした。そこへ四人での一気に雪片付けです。二軒共深々と頭を下げていただき感謝をあらわしていただきました。 驚いたのは西宮の池田さんと小松さんの馬力のあることです。コツの覚えるのが早いこと、そして黙々と働く姿は流石に阪神大震災をはじめ数多くの災害ボランティアで鍛えられただけのことがあると感心いたしました。 午後からはグループホーム結いのきの周囲の雪を片付けです。いつの間にか雪害ボランティアになられたお二人でした。 みなさんから心から感謝されたお二人は、筋肉痛がおきてきたようです。夜は米沢市の金池にある温泉「巽」(たつみ)で身体を癒して、「登」で米沢牛のすき焼きを食べていただきました。結いのきでお休みいただきました。 感謝、感謝の雪害ボランティアでした。小松さん 2006年2月4日記
2006年01月29日
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兵庫からボランティア第819回 1月28日 兵庫県西宮市の「都市生活コミュニティセンター」から雪害対策の研修においでになりました。事務局の池田さんと小松さんのふたりで三泊四日の実践研修です。 早速、たくろう所の建物の周辺の雪堀を体験していただきました。雪に埋もれそうになりながら、おふたりは汗だくになって雪と闘ってくださいました。入居者もスタッフボランティアも感謝です。 阪神大震災でご縁ができたみなさんに感謝です。 2006年2月3日記
2006年01月28日
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学校を作りたくなった!?第818回 1月27日 昨夜は出版社「ほんの木」が移転した神田錦町の三錦ビルの1Fのニュー・スペース「いろいろ空間 みんなの家 PAN」で、新春の会を兼ねたミニ・イベントが開かれました。 総勢40名を越す個性溢れるメンバーが集まりました。 NGO関係者、エコショップ、新聞記者、税理士、大工、農家、整体師、鍼灸師、落選議員、元議員秘書、市民政党、生活クラブ関係者などが次々とスピーチを述べました。 そのスピーチを聴いていると、参加者に共通したことがありました。それは次のとおりです。1.各業種の中で市民運動を展開しており、政治的スタンスは「市民派」にあること。2.どなたも雄弁であること。(ただし私を除く)3.未来に向かって政策提言ができる、できるだろうと思われる。4.平和主義者。5.お金持ちとは縁遠いが、どんなことが起きようとちゃんと生き残れそうな、したたかさを持っている。 少なくてもこの方たちには争いや有害な社会問題点はなさそうです。こころはやさしく人間大好きな人たちのようです。この方々の表情の穏やかなこと、とても笑顔が素敵な人たちです。 みなさんのスピーチが終るころに、私の頭の中では「学校」がイメージされていました。つまりこれだけ個性豊かな人たちを講師にして、学校を作ったらおもしろく生活に即、役に立つ授業ができるのではないかということです。 このすごい人たちと、子どもたちにも大人も学べる学校を作りたいですね。作っちゃおうか! 2006年2月1日記
2006年01月27日
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今日の出来事第817回 1月26日 午前中から理事会がありました。それが終るとお世話になっている出版社の事務所移転祝賀会に参加するために上京に。しかし、打ち合わせの時間が長引き、予定の新幹線を1本遅らせての上京となりました。 その祝賀会のあったかいこと……くわしくは次回で報告します。 2006年1月31日記
2006年01月26日
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ALWAYS 三丁目の夕日やさしさと不器用さに泣けました第816回 1月25日 日本アカデミー賞優秀賞全部門受賞の「ALWAYS 三丁目の夕日」を年末に観てきました。友人とふたりで観た久々の映画でした。 とにかく、人のやさしさと不器用さに泣けました。 昭和33年の東京を舞台に、敗戦後13年たった日本の生活を見事に再現したこの映画は山崎貴監督の手によって、西岸良平さん原作マンガ「三丁目の夕日」のよい雰囲気をきちんと守って、独特のオリジナル映画に完成されました。 星野六子が集団就職で青森から東京にやって来たところから物語は始まります。「鈴木オート」という会社名から大きな自動車会社と思っていたら、個人の自動車修理販売だったことで、がっかりした六子。負けず嫌いで短気な鈴木オートの社長さん。その社長さんを支え、子どもに躾を忘れない、六子にも家族同様愛情で接する奥さんのトモエさん。 鈴木オートの向かいの駄菓子屋の若店主、「文学」こと茶川竜之介は少年雑誌に冒険小説を連載し芥川賞を目指す。一杯飲み屋「やまふじ」の若いおかみヒロミに頼まれて孤児吉行淳之介を預かることになる。文学の冒険小説のファンだった淳之介は次第に文学を好きになる。本当の親以上に信頼関係が生まれてくる文学と淳之介。その文学のやさしさに惹かれていくヒロミ。彼女は貧しさゆえに親の借金のかたとしてストリップの踊り子をしていた。 ふたつの「家族」を中心に、近所の医者「悪魔」こと宅間先生やタバコ屋のばあちゃんなどが絡む三丁目は、電気冷蔵庫やテレビなどの三種の神器が家庭に普及しつつある時代を背景に、懐かしい町並みと家族や近所同士の心の交流までも再現してくれました。 みんな生き方も考え方も不器用です。だけど一人ひとりがやさしい人たちなのです。お金持ちには程遠い三丁目の人たちが力道山のプロレス中継に沸き、クリスマスというまだ馴染みのない行事に感動するのです。親の顔を知らない淳之介の親を探しに出掛ける鈴木オートの息子一平。そこには生きている人間の喜怒哀楽が描かれていました。 涙が勝手に流れてきました。特に結婚を約束した文学とヒロミでした。婚約指輪が買えない文学は空ケースだけクリスマスプレゼントをします。ヒロミはそれに感動して指を差し出して、架空の指輪を文学に求めます。そしてヒロミはまたもや親の借金のかたに踊り子になっていくのです。劇場の屋上で夕日に向かって手を伸ばし、指を見つけるヒロミの純真な姿には涙が止まりませんでした。 人のやさしさと不器用さに泣けました。 もし、気持ちが乾いてきたら、こころが淋しかったら、この映画を観ることをお勧めします。 2006年1月29日記 ALWAYS 三丁目の夕日 http://www.always3.jp/
2006年01月25日
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頭突きで世界に平和を第815回 1月24日 映画「パッチギ」をDVDで鑑賞しました。この映画はラジオやテレビのコメンテーターとしても活躍している井筒和幸監督作品で、一年前に劇場公開されたものです。 今年の「第60回毎日映画コンクール」では「日本映画大賞」を受賞しました。 この映画はあの名曲「イムジン河」をモチーフに、1968年、京都を舞台に在日コリアンと日本人高校生のケンカと恋を描いたものです。 グループサウンズ「オックス」のコンサートから始まり、失神シーンや左翼による大学紛争など、当時の社会現象を織り交ぜています。 あのフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の大学時代の元祖メンバーでエッセイスト松山猛さんの体験を映画化したものと思って観たらがっかりしますが、テーマはしっかりと受け継がれています。 なぜ、過去の朝鮮半島に侵略した日本人と同じことをアメリカやソ連、中国などの大国が繰り返しているのか、さらにはそれによる悲劇がいまだに各国の小国で続いていること、「分断」や「差別」はイデオロギーや人種、天皇制の中でいまだに脈々と生き、国家と個人を信用させていることなどをえぐっています。 「バッチギ」とはハングル語で「頭突き」というそうです。「突き破る」という意味だそうです。 喧嘩シーンがふんだんに出てきますが、それはエンターティナーとしてのサービスと若者たちの有り余るエネルギーを強調するための場面かもしれません。 平和ボケに渇を入れるための映画として、団塊の世代の人だけではなく若者に観てもらいたい映画のひとつです。「頭突きで世界に平和を」 2006年1月28日記
2006年01月24日
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利用する側の発想第814回 1月23日 今日は尾花沢市から10名の民生委員がグループホーム「結いのき」を見学にいらっしゃいました。 設立の主旨やたくろう所からグループホームを立ち上げるまでの話の中で、質疑が繰り返されました。 民生委員の経験者らしい専門的な質問が多く、答える方も緊張しました。 民生委員のみなさんは「設立も運営も発想が(一般の施設と)逆なんだね」と感想がありました。 たくろう所の介護に携わった人や、福祉委員会の皆さんの方針がとても大切なものだと、説明していて思いました。それは利用する側の発想ですね。 2006年1月28日記
2006年01月23日
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緊張で痛い第813回 1月22日 緊張のあまり体中が痛い。 そう、昨夕の娘の結婚式と披露宴の影響でしょう。我家は身内だけなのでそんなに気を使わなかったのですがグッチ君の方は盛大でした。そして私の性格上キャストになるのは嫌でしたから、「花嫁の父」を演じるのはやはり相当な負担だったのでしょう。 ゆっくり温泉にでも浸かっていたい気分です。 2006年1月25日記
2006年01月22日
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娘の結婚式第812回 1月21日 今日は娘の結構式でした。 「花嫁の父」としての感想をみなさんに訊かれますが、正直、気持ちの余裕もなく、このイベントが無事終ることだけを願っていました。 私は仕事柄か、性格からか、「新婦の父」などというキャストはとても務まりません。スタッフとしてならいくらでも張り切るのですが。 各テーブルを廻って挨拶をするのが精一杯でした。 花婿のグッチくんも見るからにあがり症で落ち着きません。自分の出番を演じるのがやっとのようです。バンド仲間と一緒にロックをしていても、なんとなくそわそわしています。 それに比べて花嫁のグッチ・ケイコは余裕綽々です。周囲の励ましや温かい声に手を振って応えています。誰に似たのだろう、この図々しさ、いや、エンターティナーとして堂々さは我が子とは思えません。 友人たちと一緒に歌を唄うのも、娘の声ばかりが聴こえます。息子もカメラに向かってポーズをとるし、一体この子たちの堂々さはどうなっているのでしょう。 最後のメイエベントの両親に対する花束贈呈では、娘が「両親に感謝の手紙」を読みました。会場からはすすり泣きが聞こえ、目頭を押さえている人たちが目立ちました。 でも、私はあがっていたこともあり、この場から逃げたく、早く終わることを願うばかりでした。 花嫁の父としては、感無量にはほど遠いグッチ・ケイコのイベントでした。でも、先ずはおめでとう。しあわせをつくっていこうね。 2006年1月24日記
2006年01月21日
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おめでとう!グッチ・ケイ!!第811回 1月20日 明日はいよいよ娘の挙式です。「今日は午後から帰るから」 とはいいながら、帰ったのは午後11時過ぎでした。 会う人毎に「花嫁の父、明日は泣くんでしょ」 と冷かされました。 でも、花嫁の父としては実感がありません。 娘の元の職業が婚礼関係だったから、婚礼の準備は娘がすべて行ないました。親はなにもしなくても、娘が好きなように演出して決めていったから親は楽でした。 センター試験だと目を白黒している親もいるのに、なんとのんびりしている親でしょうか。でも娘を信頼しているから大丈夫です。 明日が楽しみです。 あ、そうだ。娘は今日入籍を済ませたのでした。グッチ啓子になったのです。 おめでとう!グッチ・ケイ!! 2006年1月23日記
2006年01月20日
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拝啓後輩諸君第810回 1月19日 今日は某高校の進路指導課からの依頼で3年生の授業に参加してきました。「職業人講話」という授業でテーマが「社会人になるにあたっての心構え」でした。 この依頼はいったんお断りしました。私の職場では、私の話は生徒たちにはうけても、教師たちからは反発をうけるだけだから止めたほうがいいという判断でした。 それでもよいという進路指導の先生からの励まし(?)で、今日の日を迎えました。先にお話をされた方々は非常に模範的ですばらしいお話でした。私にはとても真似ができない内容でした。 三人目として私の登場です。教訓じみた話はできませんから、最初から「講師に選ばれたことは間違いですから、そのつもりで……」と生徒たちにお断りをしました。 私はフリーターのはしりであること、それは夢を持っていたから。一生懸命がんばって身体を壊したことなどをお話しました。そして結論を4つにまとめました。1.がんばらない。 人生は長距離レースだから、それよりも基本に忠実にして学んだ方が習得する早道である。2.夢を捨てない。 夢を持っても捨てたらしょうがない。夢は基本理念や使命感に通じていく。夢の形は変化しても原点は失わないことで、自分自身も向上する。3.よく眠る。 寝ないで頑張った人は早死にする。判断力も鈍る。健全な生活から健全な判断ができることが大切だ。特に女性は午後10時から午前2時までは眠るように、肌を守るために。4.愛する人を持つ。 男女に関係なく、愛する人がいることは強い。くじけそうになっても、迷った時にも愛する人がいるとその人のために励ましてもらえるし、その人のためにも苦悩を乗り越えようとする力が沸いてくる。 自分の今の役職だって「間違ってなった」と思っている。この高校の校長先生だって昔誰が校長になるなんて考えた人がいることか。本人だって周囲だって意外だったと思う。間違ってなったと思えば、人は謙虚でいられる。自分がなって当り前という気持ちでいると驕りがでてくる。 なんて話をしてきました。やっぱりやめればよかった。 2006年1月22日記
2006年01月19日
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元理事長の死第809回 1月18日 旧米沢生活協同組合元理事長梅津成憲さんが亡くなられました。享年63歳でした。 梅津さんは20代後半で非常勤理事になりました。そして昭和51年には33歳の若さで理事長に就任され、そのバイタリティーは周囲を驚かせました。前専務理事の湖山さんとの絶妙なコンビネーションで米沢生協の基礎を作られました。平成3年には理事を辞められました。 梅津さんの本業はNTTの職員でした。8年前に早期退職し、その後は地元有線テレビでスポーツキャスターを務めるなど幅広い活躍をされました。 湖山さんたちと一緒に蕎麦仲間を組織して、蕎麦畑を作り蕎麦打ちをすることが唯一の楽しみだったようです。 梅津さんのご冥福をお祈りいたします。 合掌。 2006年1月20日記
2006年01月18日
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ライブドアの衝撃第808回 1月17日 ライブドアの強制捜査に話題が集中しています。私の周囲では粉飾決算やマネーゲームなんて当り前という声が圧倒的です。 強制捜査はなぜ行なわれたか? 私の考えはただひとつです。先に行なわれた衆議院選挙にホイエモンが立候補したこと、これに尽きると勝手に想像しております。 つまり警察官僚だった衆議院議員の大御所亀井静香さんの選挙区に、ホリエモンが挑んだことがきっかけであるということです。 私からはこれ以上書くことは出来ませんが、人間の怨念や復讐はとても深くどろどろしたものでしょう。まして自民党の中でも重要なポストにいた亀井さんに対して、たとえ無所属であってもあのような仕掛けをしたのですから、警察では組織をあげて亀井さんの面目を、いや亀井さんが警察に組織を動かし、検察庁も動かざる得ないような証拠がたくさんあり、そのことで利害が一致する者たちが一緒に仕掛けていったとは考えられることではないでしょうか。 ましてやまだまだ実態として生活に密着していないライブドアだけに、金融界に与える影響は(マネーゲームをしている人たちには気の毒ですが)、他の産業よりは傷が浅いと考えれば検察庁も一気に攻撃をかけたのではないかと想像しています。 これはあくまでも想像ですから、念のために。 2006年1月20日記
2006年01月17日
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あれから一年第807回 1月16日 元市長だった長俊英さんの命日でした。早いものであれから一年が経ちました。 長さんのご自宅に、元県議の湖山寛一さんと一緒に行き、ご焼香をしてきました。昨年のこの日はボタ雪がどんどん降っていました。 長さんが市長選挙に挑んだのが昭和50年11月でした。 長さんの百か日供養の時に、市長時代の長さんの録音を聴きました。高い選挙公約を掲げ、いざ市長になって財政が予想以上に酷い状態だったこと、そのためにすべての公約を白紙にし、「赤字再建」を公約にしなければならなくなったことなど、苦渋の選択の経過と市職員たちに協力をお願いする長市長の声でした。 しかし、計画よりも早く赤字再建が出来たのは市民と市職員の協力、そして当時の自治大臣の安孫子藤吉参議院議員の尽力があったそうです。安孫子さんは長さんが県議時代の県知事でした。深い信頼関係が生きていたのでした。 あの時選挙事務所で最年少者だった私も52歳になりました。私はあの選挙戦に関わったことで自分の人生が予想もしていない方向に変わっていくのでした。多くの方に出会い、結果的にはみなさんに支えていただき今日まできました。 長さんの死去は私たちにとっては「一つの時代が終った象徴のような出来事」でした。長さんは私にとっては生涯忘れることの出来ない大切な市長さんです。 2006年1月18日記
2006年01月16日
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私の誕生日第806回 1月15日 今日は私の誕生日でした。 満年齢五十二歳になりました。 幼い時には四歳まで生きられたら良い方だと医師にいわれるほどの虚弱体質だったので、残りの五十年間はおまけみたいなものだと考えれば、すごくしあわせだったかなあとも思えてきます。 私の人生は十年毎に区切りや変化がありました。五十歳代になってやはり変化を感じます。人間関係や新たな事業などに変化があります。 これからは毎日毎日を大切にして生きていこうと考えています。 2006年1月16日記
2006年01月15日
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幻の父から娘へのピアノコンチェルト第805回 1月14日 娘の結婚式まで一週間になりました。 家族と身内だけの式です。娘と婚約者が元結婚式場のプロでしたので、すべて彼女たちに任せています。 私からオリジナル曲で「父から娘へのピアノコンチェルト」をプレゼントしたかったのですが、拒否されました。とても残念です。「おとうさん、とにかく変ったことや目立つことはしないで!」 と娘がいうので、バージンロードの入場もすべて断りました。スライドやあらゆる場面に私の映像は登場しないようにお願いしました。 1月21日は娘にとってはたいせつな記念の日になります。私にとっても娘との区切りの日になります。 今日も幻の父から娘へのピアノコンチェルトは私の胸の中で奏でられています。 2006年1月15日記
2006年01月14日
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誓い第804回 1月13日 私が理事を務める社会福祉法人の新年会に出席しました。 職員は半分くらいの出席だったでしょうか。若い職員が多くなり顔と名前が一致しません。それでも明るい性格の職員ばかりなので、とても華やかな職場です。 利用する側に立った仕事を常に心掛けている彼女らは、最前線でどんなに苦労が多いことか、それを考えると胸が熱くなります。 この若い人たちが初心を忘れない、あきらめないで、福祉の道で社会貢献できるようなそんな園と職場でありたいです。さらにベテランの職員たちにそれなりのポストを与えて、さらなる展望がもてるようにしたいものです。そのためには私たち理事も日々の努力が大切です。 社会福祉法人の理事が名誉職であるような時代は終りました。さあ、理事会も職員に負けない努力をしなければと誓いを新たにした次第です。 2006年1月14日記
2006年01月13日
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朝からふられた第803回 1月12日 朝からふられてしました。相手は平謝りでした。でも話があったことはとても感謝しているといわれました。 数年前から私なりに夢を語り、それを理解してくれていた方でした。 ご本人からもそろそろ私のことを考えて意思表示をしてくれますか?といわれて、私は本気に考えました。そして…… その夢を実現する時期にきたので、一緒になりませんかとプロポーズをしたのでした。 相手はとても喜んでくれました。そしてお時間をいただけますか、調整してみますから、ということでした。それから数ヶ月が経ちました。 朝に電話があり、大福をお土産に返事を持ってきてくれたのでした。そしてふられたのでした。 ぼくは一体どうしたらいいのでしょうか。夢がひとつ萎んでしまいそうで、とてもがっかりしています。 これは恋の話ではありません。合意できなかった、とある件のお話です。お間違いないように。 2006年1月14日記
2006年01月12日
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降雪量600センチ第802回 1月11日 米沢市の降雪量が1月10日現在で600センチを越えました。最大積雪量も175センチです。1980年の181センチまであと一歩になりました。 あるマスコミ関係者が私に電話で「この雪害は人災だ」と言いました。その理由を訊ねると、雪害対策本部の立ち上げの遅さや、各所で起きている交通事故、河川の洪水などは排雪作業をもう少し早く済ませていれば予防できたというのです。 この危機をしっかり乗り切るには早期対策が勝負だったといいます。私と同意見でした。 県外からの建設業者などからトラックや重機が応援に来ていますが、12月の早めの対策だったらもっと市内の業者が回転できたなど、さすがマスコミだけあって細かい点までよくみています。 経費使用も他では100%や70%を越している自治体が目立つ中で、米沢市はまだ3億3千万円で予算の63%です。市民の安全確保を考えれば、この緊急時に対して余りにもゆっくりしすぎていることに終始怒っておりました。 2006年1月12日記
2006年01月11日
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氷点下17.3度第801回 1月10日 1月10日の朝、山形県米沢市では1977年に統計が始まって依頼の最低気温を記録しました。 その気温はなんと「氷点下17.3度」です。 確かに前の晩は寒く、自動車のウインドウが開かなくなりました。 この現象は山形新聞の夕刊によると「晴れて地表の熱が上空に奪われる放射冷却現象によって」 とありました。「この最低気温は平年よりも13.9度も低く、1月としてはこれまでの77年1月21日の氷点下13.9度の記録を更新した」 そうです。 午前9時ごろも空気が切キラキラ光っており、一日氷点下現象でした。 2006年1月11日記
2006年01月10日
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キングコング対マリンコング第800回 1月9日 映画「キングコング」リメイク版が公開され、マンガ仲間ではたいへんな評判になっています。 ぼくとキングコングの思い出は、小学三年生のとき公開された東宝映画「キングコング対ゴジラ」から始まります。 当時、小学校の仲間たちは街頭にあった映画のポスターを観て、キングコングが「ゴジラ」と間違っているのでした。 ポスターを見ながら、ゴジラを「このコングはキングというのだ」と知ったかぶりで話している友だちがいました。ぼくがすぐに「これはゴジラっていうんだ」といいました。するとその知ったかぶりの子は「違う。このゴリラの化け物がゴジラっていって、ゴリラから取った名前だ」と反論してきました。 ぼくは、どうしてゴジラが「キングコング」なのかを訊ねました。すると、「マリンコングってテレビの怪獣がいるだろう?あの兄弟かなんかでキングコングっていうんだ」というので、私は知ったかぶりくんの思考回路がわかりました。 当時、テレビドラマで「マリンコング」という連続怪獣テレビ映画が放送されていました。「ふしぎな少年」で人気者の太田博之さんが主演でした。怪獣型ロボット「マリンコング」はたいへんな人気でした。それを観ていた知ったかぶりくんはすっかりマリンコングの兄弟怪獣が「キングコング」という名前だと勘違いしたのでした。 しかし、ぼくはいくらいっても理解してもらえない友だちたちの声の大きなに負けて、もういいよと思い、悲しく自宅に帰って来るのでした。 2006年1月10日記
2006年01月09日
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がんばれ社民党、共産党第799回 1月8日 がんばれ社民党、共産党といいたい。 二大政党を目指すニッポンですが、政党の政策と所属している議員の政策が大幅に違う例が目立ちます。議員も自民公認が無理なので民主党に公認を求めるためでしょうか。 ここで期待したいのは社民党と共産党です。憲法の改正を阻止し労働者と中小企業の味方としてこの政党には捨てがたいきちんとした考え方があります。しかし、机上の政策や反対だけで代案が少ないこと、地方議会でも国政レベルの政策や請願に固守し、市民生活に対してはなかなか現実的な解決策の提案が少ないことが残念です。 国民にはまだまだ自民党や民主党では物足りなさを感じている人が多いはずです。自民党と民主党の政策案に明確な違いが出せないとすれば、(特に憲法と有事)革新政党といわれた社民党、共産党に踏ん張っていただき、地方議会からでも改革を起してもらいたいものです。財政問題を考慮しながらいくらでも改革はできます。高い理想を持って現実路線での改革に期待したのです。 2006年1月9日記
2006年01月08日
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異例の対応が必要第798回 1月7日 我家ではこの冬三回目の雪下ろしをすることになりました。 1月初めまでに三回の雪下ろしは異例中の異例かもしれません。 雪害対策本部の立ち上げといい、排雪作業といい、12月中旬には行なわれていてもよかったのではないかという市民の意見をよく耳にしました。 市からは異例だからどうしようもなかったといわれそうですが、異例だからこそ早目の対応が必要だったし、市役所内では「12月中旬には排雪作業が検討されていた」が実現しなかったという内情もきこえてきます。 また、委託されている建設関係者では燃料コストの大幅な値上がりから、委託料の範囲でしか除雪が出来なかった、つまり、きれいに雪を削り掃けば燃料がたくさん使うので加減したという声がきこえてきました。 いずれも事実かどうかはわかりません。しかし、「12月中旬に排雪が一回でもしていれば交通マヒが多少は解消された」という声も多いのは事実です。 灯油の配達、消防車、救急車、バス、タクシーの円滑な運行と交通事故防止を考えた場合、それに経済が円滑に廻すためにも、これらの意見は当然のことかもしれません。 12月市議会で特別予算計上があっても反対する議員はいなかったと考えます。 先へ先への「異例の対応」は市民生活を考えた場合、賛成多数となったでしょうに。まことに残念です。 2006年1月7日記
2006年01月07日
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はじめちゃんの東京騒動記第797回第65回 ●劇画の世界はじめちゃんの東京騒動記 第65回●劇画の世界 雪の晴れた明るい朝の日だった。教室の窓には陽が射して、窓のツララが朝からしずくを垂らして溶けていた。 それはまだ朝礼前だった。クラス委員長の佐藤修一が井上に声を掛けた。 「井上、巨人の星って知ってるだろう?お前はどう思う?」 佐藤からマンガの質問をするとは意外だった。確かに彼は講談社コミックス「巨人の星」(原作梶原一騎・マンガ川崎のぼる)が発売されるたびに購入してはクラスのみんなに見せていた。 「劇画の世界がついに少年マンガにも入って来たかという感じで複雑ではあるよなあ」 とついつい大人びた話し方で答えた。 「あのマンガだったら、オレは読めるんだ。なんていうか大げさではないし現実的だろう」 と佐藤は言った。 「劇画はあまり好きではないけど、巨人の星や無用之介(さいとうたかを)は読み応えはあるよね。でも、修ちゃん、あれはマンガでなくても表現できる作品だよ。例えば小説とか映画とかでも十分じゃないかなあ。オレはあくまでもマンガが好きなんだ」 と井上は続けて言った。 「実はな井上、オレこれ描いてみたんだ!」 と佐藤は恐る恐るノートの一番最後のぺージを見せた。 そこには巨人の星の主人公の星飛雄馬の顔がアップで1ページにドンと描いてあった。 鉛筆で描いた飛雄馬の顔はよく特長をつかんであり、太い眉と大きい眼がすぐに飛雄馬であることがわかった。 「修ちゃん、上手いなあ。このタッチは難しいんだよ。よく描いたねえ」 と井上は感心して佐藤に言った。 「井上にほめられるとは思ってみなかった。ほんとに上手かあ?」「上手だよ。ほらこの顔の輪郭における眉、眼、鼻、口の位置は確かだ。難を言えば帽子と耳と首かな。ほら離して見てごらん。帽子が小さいだろう?被られた頭がへこんで見える。耳の位置と口の位置が……」 井上は夢中になって、佐藤の星飛雄馬の似顔絵を批評した。佐藤はそれを熱心に訊いた。 「なにを一生懸命に話しているんだ?」 と声を掛けたのは渡辺清だった。清はすぐに佐藤の描いたマンガに気が付いた。「おお、修ちゃんが描いたのか?すごいなあ」 「違う、井上だよ」「ウソついてはだめだ。井上だったらもう少し本物らしく描いている。修ちゃんだからこそ上手と言えるんだ」 と渡辺が言った。「それじゃ、オレは下手ってことか?」「違うって。井上とはレベルが違うってこと。修ちゃんわかるだろう?修ちゃんは勉強は我々とレベルが違って天才修ちゃんなんだから」 渡辺は器用に佐藤を諭し、ほめた。 「修ちゃんが描けるんだったら、オレも描いてみようかな?はじめ!オレにマンガの描き方を教えろよ」 と渡辺が言った。すると修一も続いて言った。「そうだ。オレにも教えろよ。帽子とか耳とか、その首のバランスとやらをなっ!」「早速だ。今日の学校帰りにオレの家に来ないか?家で描こうよ。なっ?なっ?なっ?……」 清は井上と佐藤に強く確認をした。 ■(文中の敬称を略させていただきました)はじめちゃんの東京騒動記●第65回 完 つづく 第66回にご期待下さい!!
2006年01月06日
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Eさんの笑顔第796回 1月5日 元旦にお世話になったE夫人がお亡くなりになりました。今日はその葬儀です。 新オープンしたセレモニーホールにはEさんの名前が掲げてありました。会場に入るとEさんの上品な笑顔の写真が飾られていました。 Eさんの死は現実なのだと思うと、三十年近い初めてお会いした頃からこの十数年前までのEさんの思い出がよみがえってきました。 私が仕事で配達に行くと、Eさんは最初は愛想がなく苦手な感じでしたが、お付き合いが重なるたびに労いの言葉を掛けてくれるようになりました。そして地域の役員をお願いすると、何事にも積極的で協力を惜しまない方でした。 会議が長くなり難解な話になっても、笑顔で周りの雰囲気を和らげてくださるのはいつもEさんでした。 からだが少しご不自由だといっても、なんでもこなされていたようです。 私が担当からはずれてからは、ついついお会いする回数も減ってしまいました。それでも、今頃どうなされているだろうなと、時々は思い出していました。存在感があるEさんでした。 現在、Eさんの担当者のSくんにEさんの死去を伝えると、「ええ!」と驚き、入院されていたのに……と絶句しました。 Eさんのお孫さんの弔辞では、華やかだったEさんの一生が凝縮されて表現されていました。その生き方には誰もが感動して聴いていました。 そして病気から解放されたことを「よかったね」と言われました。その一言がEさんの長年の闘病生活のたいへんさを物語っているようでした。Eさんのことだから病気のたいへんさも笑顔で覆っていたことでしょう。 Eさん、いままでお世話いただきありがとうございました。安らかにお眠りください。Eさんの上品な笑顔は忘れません。 2006年1月6日記
2006年01月05日
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正月三箇日が終わり第795回 1月4日 正月三箇日も終りました。休みのない私にとっても全国的に休日だとホットします。 その理由は来客が少ない、電話が少ない、そしてなによりもゆったりと仕事が出来る「贅沢な日」なのです。 明日からはまた忙しい日々が続くでしょう。人間には余裕が必要です。疲れてくるとイライラしたり、判断が誤ってしまったりします。 あっ電話です。 一人暮らしのTママからでした。正月早々屋根から雪が落ちて、それが歩道まで飛んで行き、大きな雪の塊が歩道を遮断してしまいました。その雪を何とかしてという電話でした。 早速、市役所の土木課に連絡しました。丁寧に対応してくれました。そして土木課では担当業者に連絡してくれました。数時間できれいに雪を片付けてくれました。ありがたいものです。 Tママは大喜びでした。おせち料理をたくさんもらってきました。みんなで分けて食べたいと思います。 2006年1月6日記
2006年01月04日
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米沢は今日も吹雪だった第794回 1月3日 午前はホームの雪片付けをしました。それから所用があり山形市に出掛けました。 父と母に正月の挨拶に行き、帰郷していた姉と甥と懇談をして来ました。 夕方には米沢はまたすごい吹雪になりました。 夜には岳ちゃん、ヤッちゃんと三人で新年会をしました。あまりの吹雪で料理屋の客は私たちだけ。おまけにヤッちゃんは24時間飲みっぱなしのようで、大きな声で市政批判です。お店には客は他にいないので迷惑を掛けることも少ないのですが、市政に対する彼の考えはよくわかりますが、不甲斐ない市長と助役たちに対する不満が爆発した感じです。 あまり批判が続くので私と岳ちゃんで「市長!市長!!」とヤッちゃんを市長扱いしました。すると彼は「おれがわからないことはすべて職員に聞く。未来のことはお前たちに聞く。知ったかぶりはいけない。我を通すのもいけない」 と、酔っ払っている割にはまともなことを言うのでした。 ヤッちゃんの酔っ払い加減が酷く、眠い子どもがダダをこねているような状態が続きました。岳ちゃんがお開きにしようと言うので、ヤッちゃんを自動車に乗せました。しかし、自動車の中でも大声を上げまくるのでした。自宅に着くと今度は降りようとしません。ようやく降ろして吹雪の中を自動車を走らせました。 彼の市政に対するまじめさはわかるのだけれど、こんなに酔ってまで話を繰り返すなんてよっぽどのことなんでしょう、と二人で話しました。私たち三人は現市長と同じ歳だし、同級生であることも、市政の空回りに対する残念さを感じ方が違うのかもしれません。 岳ちゃんとは、再度新年会をすることを約束して別れました。 吹雪は続きます。この米沢の市政を物語るようでした。 2006年1月4日記
2006年01月03日
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正月二日目の出来事第793回 1月2日 徹夜の仕事で午前6時近くに帰宅しました。午後1時まで睡眠をとりその後出勤しました。 晴天に恵まれて三日目になります。こんなに晴れていると気持ちがいいものです。 ホームやたくろう所の雪消しをして、夜は早目に帰宅し、NHKBS2で「男はつらいよ」を鑑賞しました。いつ観ても完成度の高い映画です。それにシリーズ化にもまだ無理のない時代だったのでしょう。俳優の若くて生き生きしていることで人物が引き立ちます。 夜遅くには遠くの友人たちから電子メールが届いてきました。一番遠くはシアトルでした。返事のやり取りをしていくうちにあっという間に深夜2時近くになり眠りました。 ハードながら余裕のあるお正月の二日目をおくりました。 2006年1月3日記
2006年01月02日
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冬物語第792回 1月1日 私にとって昭和47年から50年にかけての4年間は多感な時代を送りました。それは世の中が一面真っ白で雪で覆われているような毎日でした。しかも、日に日に雪は積もり、春などいつ来るのかわからないそんな時代でした。 夢と希望を持って高校三年生を向かえた昭和46年でした。春の統一地方選挙の市議会議員選挙の時に、町の中で偶然出会った、ある若い候補者の演説に聞き惚れていました。 自分の仕事をこのとき決めました。決めた仕事は家族にも教師にも内緒にしました。 しかし、その仕事に就くためには途中経過として、ある仕事に就くことを考えました。その仕事は狭き門でした。でも、自分の実力でなんとかその仕事に在りつこうと考えたのでした。教師に相談したところ、卒業生の先輩を紹介され早速訪問をしました。 そして通信教育を受けて、学校では補習授業を受け、万全の状態で受験したある試験。学科試験は見事に合格しました。自分の希望の仕事に就くためには、どうしてもある仕事に就き、勉強をしたかったのでした。そしてその希望に一歩近づいたのでした。いや勝手にそう思い込んでいたのでした。 でも、第二次試験の健康診断は大丈夫でしたが、第三次試験の面接では不合格でした。面接で希望を具体的に述べると面接官たちは苦笑しました。それから私の社会人としての道は「浪人生活」を余儀なくされました。 この間の出来事が大人の裏社会を垣間見ることになるのでした。第一次の学科試験を合格すると、当時のお金で三十万円の裏金要求が家族にありました。私は実力で仕事に就くことしか考えていなかったので、それを断るように家族に言いました。当時、地元の初任給の相場が三万五千円の時代の話です。 また、学校からはすばらしい一流の企業への就職を紹介されるのでしたが、すべてそれを断って初心貫徹を通そうとしたのでした。 級友たちが進学や就職をする中で、私だけが無職のままの卒業でした。あの頃はまだフリーターという言葉さえもなく、私のように片田舎で夢を追いかける者は変人か怠けものとしか思われない、そんな時代でした。それでも自分の夢と希望が不安よりも勝っていました。 本屋のアルバイトや市役所の臨時職員、母校の進路指導などしながら、四年間同じ試験に挑戦しては最初と同じパターンを繰り返すだけでした。 やさしく声を掛けてくれた女性もいましたが、私は初恋が失恋で終ってからは、特定の女性と恋愛をする気持ちはありませんでした。ただひたすら夢と希望を追いかけていました。 その間、唯一の働き手だった祖父の病気による入退院の繰り返しもあり、夢と希望がどんどん遠くなっていき、人生が吹雪の毎日のように感じてきました。 世間知らずで純真さだけが武器でした。それでも身も心もボロボロになっていく自分がそこにはいました。やけになって人も社会も信じなくなっていくのでした。それでもマンガ同人会の活動だけは止めないで続けていました。 浪人生活も終止符を打つことを考えるきっかけは、昭和50年の秋に起こりました。「北澤です。マンガを描いてもらいたいんだが……」 という、この一本の電話で私の冬物語がエンディングになっていくのでした。 人生には無駄はないものです。あの時、お世話になった方々や知り合った人たちが後に私たちが行なう事業や活動などを支え助けてくれるのでした。人脈が私の大切な宝物になっていきました。 遠い遠い34年前の私の冬物語のあらすじでした。 2006年1月3日記
2006年01月01日
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