全4件 (4件中 1-4件目)
1

旅立ちの歌第849回 2006年7月29日旅立ちの歌 ●第4回 美術部と生徒会旅立ちの歌 ●第4回 美術部と生徒会旅立ちの歌4 美術部と生徒会 鈴木和博は井上と同じ中学校だったが、クラスが違ったこともあり中学当時は顔見知り程度であった。 同じ高校になり、同じクラスになってからは、自宅も近かったこともあり親しくなっていった。鈴木は元々は剣道部で活躍をしていたが、腰痛になり医師からの「激しい運動を控えた方がいい」というアドバイスで、井上が所属していた美術部へと移籍した。それは高校一年生の二学期途中からだった。 鈴木は元々好奇心が旺盛だった。家業が建具店をしていたことから小さい時からモノづくりが得意だった。絵を描くのも好きだった。だがそのチャンスはなかなかなかった。ジッとしている性分ではなく、動いている方が好きだったからだ。 鈴木が美術部に入るや、井上の多忙な一日を観察することになる。井上は美術部であっても生徒会にも出入りしていた。井上自身はその時はまだ生徒会の役員ではなかった。不思議に思った鈴木はある時、井上に訊ねた。「はじめ、どうして美術部なのに生徒会に出入りしているんだ?お前は何か企んでいるのか?」 すると井上は半分怒ったような表情でこう言った。「和博くん、この学校は文化を無視している」「ブ・ン・カ?って文化部のことか」「そうだ。私学だから運動部に力を入れるのは当り前だ。現にうちのクラスの豊くんやまち子さんは優たい生で学費も免除され、授業にも出席しないで練習に継ぐ練習だ。それに比べて文化部はどうだ。なくてはならない部としての活動をしているか?先生も生徒も方針も予算もいい加減だ。先生が自ら部活指導に来ているのは音楽部と吹奏学部だけじゃないか」「それはそうだ。だからおれたちは自主的にいろいろな挑戦ができるじゃないか」「それは美術部には林先輩というまじめな部長がおり、田中富行さんのような実力者がいるからだ」「井上、お前だって立派なもんじゃないか。マンガをこの学校に持ち込もうとしている。それだって美術部の活動にして、みんなの関心を集めようとしている」「和博くんそれは違うって。そもそもおれのマンガに着目したのは新聞部の佐藤さんだ。しかも佐藤さんは、おれたちと同じ中学校で同じ歳の弟の正和くんから、おれがマンガを描いていたことを聞いて、マンガを依頼してきた。しかも、新聞部には美術部と二股をかけている京子ちゃんがいる。美術部ではないんだよ」「だけどな、みんなは美術部の井上が美術部の活動としてマンガを描いていると思っている。それでいいんじゃないか!?」 鈴木はいつも井上に議論を持ち込み、そして鈴木が井上の声をまとめている存在だった。 「それで、どうして生徒会に行くんだ」 鈴木は質問を戻した。「予算獲得だ」「予算って何の予算なんだ」「来年度の美術部の予算と文化部総合の予算を大幅に上げてもらうように交渉している」「なるほどな」「だっておれたち部活をするために空き瓶を拾ったり、アルバイトしたりしていた。その結果、島くんや何人かがこの美術部を辞めていったじゃないか。体育部では部のためにアルバイトなんてしているか?」「スポンサーが付いているって聴くぜ」「そうだろう、文化部の特にこの美術部が年間九千円の予算しかないなんておかしい」「はじめの言うとおりだ。よし、次回の生徒会役員にはじめが立候補するように段取りするからな」「和博くん、おれはそんな気はないぞ!!」 井上の意思とは反対に、和博はクラスの仲間に呼び掛けて井上を生徒会役員に送り込んだ。生徒会の先輩たちもそれを歓迎してくれた。 2006年 4月 5日 水曜 記■(文中の敬称を略させていただきました)旅立ちの歌 第4回 美術部と生徒会 完つづく 「旅立ちの歌」第5回にご期待下さい!!
2006年07月28日
コメント(1)

旅立ちの歌第848回 2006年7月17日旅立ちの歌 ●第3回 手塚治虫の原画旅立ちの歌 ●第3回 手塚治虫の原画旅立ちの歌3 井上はじめが手塚治虫先生へ行ったと知っているのは、級友の中でも宮崎賢治と鈴木和博だけだった。二人とも美術部で、井上と一緒に米沢漫画研究会を立ち上げたメンバーだった。「おい、井上っ、どうだった?」 授業と授業の合間の休み時間に宮崎は訊いてきた。傍には隣のクラスだった鈴木和博も来ていた。「うん、手塚先生と会ってきた。そして原画はざっと二百五十枚、原稿料にして二百五十万円相当だって。手塚先生の火の鳥、しかも鳳凰編だぞ」「ゴクン!」 宮崎と鈴木は生唾を飲み込んだ。そして二人はこう言った。「すごいことになったぞ。どうしよう。いよいよ引っ込みがつかないなあ」「……やるしかない!」 放課後になった。井上は部活や生徒会にも顔を出さないで帰ろうとした。生徒昇降口に行くと後ろからやさしい声が掛かった。「井上くん、お帰りなさい」 それは井上よりも一学年先輩で三年生の小山絹代だった。「絹代さん、先日は見送りをお笑止な(ありがとう)!」「無事帰って来てよかったね」 小山は階段の手すりに背中を預けてそう言った。 小山は井上が一昨日に酒田に向かう時に、米沢駅までわざわざ見送りに来てくれたのだった。 彼女は井上と一緒に生徒会役員をしていた。井上が一年生の秋から生徒会役員になると、小山は井上たち一年生の面倒をよくみてくれた。一人っ子の井上は小山を姉のように慕っていた。 まんが展のことは生徒会役員たちには話してあり、協力することを当然のように生徒会長はじめ役員たちは井上たちを応援していた。特に副会長の近藤重雄と会計担当の小山絹代は積極的に井上をバックアップしていた。「井上くん、原画は借りてきた?手塚先生には会ってきたの?」 と弟に訊ねるように小山は言うのであった。 井上と小山たちは生徒会室に行った。立ち話では話が尽きないからである。生徒会室には近藤もいた。そして米沢漫画研究会の会員で三年生の新聞部戸津恵子もいた。「井上、お前、本当に手塚治虫と会ったのか?」 副会長の近藤重雄が訊いた。「井上くん、手塚先生ってやさしかった?」 細い体の戸津恵子が上品な話し方で訊いた。戸津は訛りがまったくなく標準語であった。 そしていちいち身振り手振り手答える井上だった。興奮してか井上の話は少しオーバーにも聞えてるが、それはすべてが一昨日から今朝までの出来事であった。 近藤は井上に自分ができる限りのことをするから遠慮しないで仕事を依頼するように言った。戸津も漫画研究会の会員だが、新聞部として力になれることや、部としても協力を惜しまないから何でも言うように励ましてくれた。 小山は腕を組み、黙ってそのやり取りを聞いて微笑んでいた。 井上が夕方に家に帰ると、鈴木和博から電話がきた。原画を見たいという。井上は夕食前ならと言うと、鈴木は自転車で五分ぐらいで行くからと言って電話を切った。「感動だなあ。さすがにプロは違うなあ」 と鈴木は言った。鈴木の見ているマンガの原画は手塚治虫先生の「火の鳥・鳳凰編」だった。 鈴木は原画を持った手を伸ばし、頭を遠く後ろにのけぞうるようにして、目を細めて観察していた。「このネーム(セリフ)の文字が写植っていうんだろう、そして鉛筆で書かれた文字が手塚先生の文字なんだ」 と独り言を言いながら自分でその言葉を「事実」として噛締めているようだった。「おい、はじめ。おれたちはすごいことをしているんだ。どうしよう。いよいよ引っ込みがつかないなあ」 今朝、学校で言ったセリフをまた言うのだった。「……やるしかない!」 と井上が返した。それは、今朝、鈴木と宮崎が言ったセリフだった。「そうだな、成功させよう!!」 と鈴木は言って井上に握手を求めた。それは熱い熱い握手だった。 2006年 4月 4日 火曜 記■(文中の敬称を略させていただきました)旅立ちの歌 第3回 手塚治虫の原画 完つづく 「旅立ちの歌」第4回にご期待下さい!!
2006年07月17日
コメント(0)

旅立ちの歌第847回 2006年7月10日旅立ちの歌 ●第2回 温かい共犯者たち旅立ちの歌 ●第2回 温かい共犯者たち旅立ちの歌2 まだ薄暗い夜明けの道を、井上はじめは手提げ袋を大事に抱きかかえて歩いていた。米沢駅から西に向かい、駅前大通りから北側の路地を歩いていくと松川橋がある。最上川の上流にあたるこの松川を渡り、割出町を越えると鍛冶町になり、その町の隣から中央三丁目になっていた。井上の自宅はこの辺りであった。 駅から約二十分歩いてこの自宅に着いた。自宅の木の門は開いていた。玄関も開いており、家からは煌煌と灯かりが漏れていた。「ただいま~」 小さい声で井上が挨拶して玄関に入って行くと、祖母のふみが台所から早足で茶の間に向かってきた。「疲れたべ、さあ、一服しな」 そう言ってふみは茶の間で井上を迎えて、すぐにお茶を注いだ。「ばあちゃん、起きてたのか?」「今、起きたばっかりだ。いつもこの時間には起きてっから。年寄りは朝が早いからしょうがねえさなぁ」 そう言ってふみが笑った。 井上は出されたお茶をふうふうと吹きながら飲んだ。美味かった。「ばあちゃん、お茶がこんなに美味いとは思わなかった」 わずかの二日間だけ酒田と東京に居ただけなのに、外で飲んだ水のまずいこと、特に東京の水はまずかった。「水が合わない」とはこのことをいうのだろうと井上は思った。「んだべえ!?、東京は水道水だからカルク臭がったべ。人が大勢住むってことはたいへんなんださなぁ」 ふみは井上が無事帰ってきた喜びを隠しながら、目を細めて言った。 2006年 3月23日 木曜 記 「今日は学校に行くから、少し眠るよ。ばあちゃん、七時になったら起してくれっかい」「はじめ、あと二時間半しかないよ。無理しながったらいいべ」「いや、先生たちに報告しないといけないから……。今回だって電車代が学割だったのも、先生たちのお陰だし、これからまんが展の準備をするにも学校の協力がないと進められないから、今日は行かないといけないよ。そのかわり今晩は早く寝るようにするから」 ふみははじめの健康を心配していただけに、今日ははじめにはこのまま眠ってもらいたかった。それに手塚治虫先生のことの話も訊きたかった。まあ、それは追々に訊けばいいかとふみは自問自答した。「ばあちゃん、二階のおれの部屋では熟睡して起きられないと困るから、この茶の間に寝るよ」 はじめは座布団をふたつに折り、それを枕にした。タオルケットを掛けてすぐにいびきをかいて眠ってしまった。手提げ袋に入った大事なマンガの原画は、枕の前に置いた。ふみはそっと歩いて台所に消えた。 井上は朝ごはんを祖父の長吉を交えてふみと三人で食べた。そしていつものように学校に行った。井上が通っていた学校は椎野学園米沢中央高等学校だった。井上の自宅から学校までは歩いて二十分ぐらいで着く距離だった。 井上はすぐに職員室に顔を出した。「先生、ほんとうにありがとうございました。お陰で手塚先生とも直接お会いすることができました」 先ずは担任の進藤先生に挨拶をした。担任は学割を発行するように手配をしてくれた「共犯者」だった。「はじめくん、それはよかった。手塚先生は権威あるお方だし、売れっ子なのによく会えたねえ。それでおじさんの容態はどうでしたか?だいぶ悪いの?」 と、通常に酒田と東京へ行くために学割を発行するために、進藤先生はいろいろ考えた上で、井上の叔父が病気になって幾ばくかの命のために学校を休んで上京しなければならないというストーリーをあみ出したのだった。手塚治虫先生はいつの間にか「医師・手塚先生」になっていた。「はい」 井上は余計なことを言わないで返事した。「そうですか、たいへんですね。かん、肝臓癌ですか。でも手塚先生に掛かっては不可能はありませんから、大丈夫でしょう。でもよかった、手塚先生に会えて本当によかった」 この進藤先生には小円遊とアダ名だった。顔が人気落語家の三遊亭小円遊に似ていることもあったが、教師には珍しい漫談のようなトンチの効いた話で授業をすすめることが、そのようなアダ名になっていたようだ。このときも進藤先生は整然として井上に対応し、手塚治虫先生に会えたことを喜んでくれたのだった。 井上は次に、向かい席の土肥先生のところに行った。土肥先生は井上たちの米沢漫画研究会の会長だった。そのお陰もあり、土肥先生は学校内での機材などを利用できるように便宜を図ってくれた。土肥先生は角ばった顔にメガネを掛け、二十代後半にしては若わかしかった。「おお、はずめ(はじめ)!行ってきたか。原画は借りられだかぁ?」 と土肥先生は開けっぴろげに訊いてきた。 井上からは一瞬、冷汗が飛び出してきそうだった。進藤先生も机の書類越しに顔を伸ばしてまずい顔をした。「はずめ(はじめ)、どうした?ん?」 周囲や井上の顔色などお構いなしに訊いてきた。井上は小さい声で経過を説明した。「大したもんだ!!偉いなあ、お前でないぞ。手塚治虫先生は流石に大物だ」 腕を組んでしみじみとそう言った。「おお、井上!手塚治虫に会ってきたか?」 職員室に響きわたる大きな声がした。あわただしい職員室が瞬間に静かになった。声の持ち主は髪をモジャモジャに伸ばし、無精ひげ面の長南先生だった。長南先生も井上たちの米沢漫画研究会の会員っだった。「チョウナンのばかやろうが……」 と声を潰して進藤先生が言った。 学校には授業開始のチューブラベールチャイムの音が響いた。 2006年 3月26日 日曜 記■(文中の敬称を略させていただきました)旅立ちの歌 第2回 第2回 温かい共犯者たち 完つづく 「旅立ちの歌」第3回にご期待下さい!!
2006年07月10日
コメント(1)

旅立ちの歌第846回 2006年7月4日旅立ちの歌 ●第1回 山形漫画予備軍旅立ちの歌 ●第1回 山形漫画予備軍旅立ちの歌1 山形漫画予備軍 1970年、昭和45年7月7日火曜日午前3時47分、急行「津軽」は米沢駅に到着した。まだ暗い朝だった。 高校二年の井上はじめは手提げ袋を抱きかかえながら、フラフラと電車を降りた。「じゃ、井上くん。まんが展の準備を頼んだよ」 電車の窓を開けて背広姿の村上彰司が言った。「井上センセ、大丈夫ガッス?足元がフラフラしてるッス」 たかはしよしひでも窓から身を乗り出して井上に声を掛けた。たかはしは毛髪が太く、色白に眉がしっかりしていて、夜汽車を一晩起きていたとは思えないほど元気だった。「大丈夫です。お世話になりました。準備はみんなに手伝ってもらいながら進めて行きます」 寝不足でまぶたを腫らした井上はそう応えるのが精一杯だった。 正直、井上の心は不安と自信が行ったり来たりしていた。「第二回 山形まんが展」 今年の四月に酒田市のデパートで村上たち「山形漫画予備軍」が中心となって開催した。手塚治虫、石森章太郎、藤子らのそうそうたるマンガ家たちの原画と、山形県でマンガを描いている青年たちの原画を展示したこのマンガ展は、東北でも初めての試みとなり話題を呼んだ。 今度はそれを米沢漫画研究会が中心に米沢市で行なうというのである。この米沢漫画研究会は昨年の九月に誕生したばかりであり、メンバーのほとんどが高校生であった。無謀としかいいようのないこの企画は村上彰司が仕掛けたのである。 村上彰司は酒田市に住むサラリーマンであった。酒田で漫画研究会「ビッキ」を作り、さらには山形県庄内地方の数ある漫画研究会の連合組織「山形漫画予備軍」を設立し、初代会長を務めていた。 村上には夢があった。 その夢は、山形に虫プロ商事が発行しているマンガ専門誌「COM」(以下コムと称す)が組織するマンガ同人会の全国組織「ぐらこん」(正確にはグランドコンパニオン)の山形支部の認可を受け、山形各地にある漫画研究会や同人会からプロのマンガ家を発掘したいのであった。 村上は何回か上京して、虫プロ商事を訪問していた。コム編集部の秋山や石井編集長へは村上はその夢を伝えていた。しかし、村上の言葉による熱心さだけではなかなか編集部から「ぐらこん支部」結成の認可は下りなかった。当時は北海道、東北、関東、関西、九州というブロック毎の支部はあっても「県単位」の支部は異例であったからだ。それだけ村上の提案は奇抜であった。 もうひとつは同人会の少ないことであり、めぼしい同人誌やマンガ家になれるような描き手もが見当たらないことであった。 村上はそれらの条件はいずれ可能になると考えていた。いや、計画していた。その計画のスタートが「ぐらこん山形支部」の結成だった。 支部を結成すれば、ますます同人誌での作品の競い合いが描き手に起こるだろう。また、「埋もれた若者や描き手はきっとこの山形にいるはずである」と。その受け皿として、身近に「ぐらこん山形支部」が必要であるとを村上はコム編集部の秋山満には話していた。 村上は時間を作っては長距離電話でコム編集部に同じことを訴えていた。 対応はいつも秋山だった。秋山はしだいに村上の熱心さに心打たれて、彼なら夢を現実にしていくだろうと思うようになっていた。 そんなある日、村上はプロとアマチュアによるまんが展の企画を思いついた。ぼくたちの実力を世間にみせたい、そしてプロのマンガ家への距離感を縮めて行きたいと願ったのであった。 その第一弾がこの4月に酒田の清水屋デパートで開いた「第一回山形まんが展」であった。 まんが展などまだまだ馴染みのない時代であったが、手塚治虫や石森章太郎、藤子不二雄の名前だけは有名であった。そのマンガ家たちの原画をひと目見ようと子どもから大人まで会場は人でごった返した。 村上は自信を持った。そしてその会場に現れた山形のたかはしよしひでと米沢の井上はじめに目を付けた。「県都山形市に県南米沢市とは都合がいいぞ」 村上のメガネの奥の目が瞬間だけ光った。 06年 3月22日 水曜 記■(文中の敬称を略させていただきました)旅立ちの歌 第1回 山形漫画予備軍 完つづく 「旅立ちの歌」第2回にご期待下さい!!
2006年07月04日
コメント(6)
全4件 (4件中 1-4件目)
1