小説

fs


――1944年7月

「ベルトルト、お父様を呼んできてくれるかしら」
「はい!」
主菜を盛り付けた皿を手にした母親の声に、ベルトルトは二つ返事で父親を呼びに行った。


ベルトルトが書斎を覗くと、案の定そこには父親の姿があった。
父親は、彼に対して右半身を向けていた。
書架に向かって立ち、白い手袋の下の三本しかない左手で、器用にページを繰る。
昼食の準備が調ったことを告げると、父親はベルトルトの方を見た。
左目を覆う、黒い眼帯。
袖を通されることのない、シャツの右腕。
隻眼隻手の父親の姿は、すでに見慣れたものになっていた。


父親がテーブルにつく頃には、家族全員が揃っていた。
「食事は家族ととるに限るな」
穏やかな空気が支配する、安らぎに満ちた空間。
妻や子供たちの姿は、彼を煩わせている一切を忘れさせてくれるように思われた。
父親が席につき、その隣にベルトルトが座った。
食卓には、質素ではあるが手の込んだ料理が並ぶ。
久方ぶりの休暇を取った夫に対する、妻ニーナの精一杯の心づくしだった。


「・・・父さん、これでしょう?」
形がまちまちで、切り口がいびつなパン。
微妙に表情を変えた父親に気付いた二兄ハイネランは、苦笑いを浮かべて食卓の中央に置かれたパンに視線を移した。
「自分たちがやる、ってフランツとヴァレリーが聞かなかったんですよ」
兄の言葉に、ヴァレリーは得意げな顔で父親を見る。
まだ幼い兄妹が固いパンを相手に奮闘しているところを思い浮かべ、父親は図らずも笑みを零していた。
「なかなか上手くできてるよ」
お褒めの言葉を貰ったヴァレリーは満面の笑みを浮かべた。
「ヴァレリーはパンを押さえてただけだよ」
負けずに主張するフランツ・ルドヴィクに、危なっかしい作業を冷や冷やしながら横で見守っていたハイネランが皮肉げに言う。
「そうだね。で、こんな風にギザギザに切ったのがお前」


昼食の後は、父親の取り合いになってしまった。
どの本を読んで貰うかで意見の食い違った妹たちを横目に、ベルトルトはため息をついた。
ベルトルトも父親とゆっくり話がしたかったが、弟妹たちの”戦争”に参加してまで父親を取り上げる気にはなれなかった。
相手をして貰いたいのは皆同じなのだ。
「僕って大人だ・・・・・・」
もう一度ため息をついて呟いた長兄ベルトルトは、今年で10歳である。


夕食後、たまたま書斎の前を通ったベルトルトは、その部屋の扉が開け放たれていることに気付いた。
昼間ならまだしも、このような時間に開いているのは珍しい。
ベルトルトが中を覗くと、父親は昼間と同じように書架に向かっていた。
父親が手にしている本の背表紙は見えないが、棚の空いている場所から想像がついた。
三段目の右から五冊目、シュテファン・ゲオルゲの詩集か。
ベルトルトはひとりごちる。
本の並びを覚えているのは、何度も繰り返し読んだからだった。
東部戦線に往った友人の父親が戦死したと聞いた時、父親が負傷したと聞いた時・・・。
頭から離れない不吉なイマジンを忘れたくて、父親の蔵書を読みふけった。
内容の理解できないものばかりだったが、休暇で帰ってきた父親が教えてくれることもあった。
何より、字面を追っていれば、不吉なイマジンだけは忘れることができた。
「―――・・・・・・」
父親を呼ぼうとした、ベルトルトの動きが止まる。
昼間と同じではない。
”またあの表情だ―――”
同じからページ進まない父親の右目は、何処か違う所を視ていた。


北アフリカから帰った父親は、変わっていた。
戦傷を負ったその姿からではなく、それが何かは判らないが、確かに違和感を感じた。
今まで通りの、優しく厳しい父親。
その態度は何一つ変わってはいなかった。
けれど。
数ヶ月前、ちょうど今と同じような状況で、図らずも覗いてしまった父親の部屋。
何処か思い詰めたように、遠くを見据える父親の顔は、ベルトルトが見たことのないものだった。
声をかけられず、自分の部屋に戻った時、彼ははたと気付いた。
初めてではない。
父親のあの表情は初めて見たものではなく、あの眼差しこそが違和感の正体だったことに気付いたのである。
時折、父親の顔に影のように過ぎる眼差しはしかし、一瞬でしかない。
それは無意識に出たからだったのか、それともすぐに隠していたからだったのか。
ひとりの時の父親は、自分たちに見せようとはしない、このような表情をしていたのか。


「ベルトルトか。昼間は相手をできなくて悪かったな」
ベルトルトの気配に気付いて詩集を置いた父親は、ゆっくりと振り返った。
振り向いた父親は、いつもの父親だった。
「父さんはずるい」
父親の顔から視線を逸らして、俯き気味にベルトルトは呟いた。
唐突な息子の言葉に、父親は苦笑する。
「どうした・・・いきなり何だ?」
「・・・・・・アフリカで―――何があったんですか」
しばらく沈黙した後で、ベルトルトが言った。
「アフリカから帰ってきてから、父さん今までとは違う顔をすることがあります」
ベルトルトがそう言うと、父親は酷く驚いたような、また諦めたような表情を浮かべた。
―――息子は、いつから気付いていたのだろうか。
元あった場所に詩集を戻して、肘置きの付いた年代物の椅子に座った父親は、一度目を閉じてから口を開いた。
「ベルトルト、お前はこの国が好きか?」
脈絡のない質問にいくぶん戸惑いながらも、ベルトルトは頷いた。
父親は一瞬だけ笑みを浮かべた。
「このままでは・・・ドイツは滅びる」
ドイツの敗北を示唆する父親の一言に、ベルトルトは愕然とする。
連合国軍はフランスに上陸した。
戦況の悪化は著しいが、それを知るのは限られたものでしかない。
国民の多くはベルトルトと同じく、事実を知らされてはいないのだ。
「そんな顔をするな、判り切ったことだ」
総統大本営はラジオでドイツ帝国の勝利を叫んでいる。
けれど空襲と戦死者の通知は日を追って増えていく。
「この国を誤った方向に導いたのは、一体誰だろうな」
父親の側に立ち、ベルトルトはただ黙って聞いていた。
「ドイツ国民の目を覚まさなければならない」
何も言えなかった。
何を言えばいいのか、判らなかった。
「たとえ一時でも、あの男の行いを許してしまった私たちには責任がある」
責任がある、と父親は言った。
視線を合わせた父親の瞳には、揺ぎ無い決意を秘めた光が覗くのみだった。
堪らずベルトルトは視線を逸らしていた。
沈黙に沈む空気を振り払うように、父親は立ち上がった。
静かに語られる言葉から、漠然とではあっても、息子は父親の行うであろうことの何たるかを悟るだろう。
「心配するな、大丈夫だ」
息子の髪に手を置いた父親は、そんな嘘が息子に通じる筈もないことを知っている。
しかし彼は残酷な嘘を口にして、笑顔を向ける。
父親はそう言うより他なく、息子はそれを嘘と知りつつ受け入れるよりない。
だから、ベルトルトは”ずるい”と言った。
「僕が大切なのは―――国ではなく、父さんです」
逸らした視線の向こう、先ほどとは違う穏やかな笑み。
その笑顔の残像は、ベルトルトの胸からずっと消えることはなかった。



―――1944年7月20日

音もない、不気味なまでに静まり返った夜だった。
胸騒ぎがしてとても眠る気になれなかったニーナは、ベッドサイドに置かれた読書灯を点けたままベッドに腰掛けていた。
「なんだっていうの・・・」
思わず口をついて出た呟き。
ニーナはため息をついた。
休暇中にベルリンへ戻り、遅くになっても帰らない日は幾度となくあった。
今日は遠くへ行くようで、朝早くには飛行場へ行った。
よくあること。
別段いつもと変わらない筈だ。
それなのに、この不安は一体何だというのか。
彼が前線にいた時の不安とは、何かが違う。
心の中を映したかのように暗い床を、ニーナはじっと見つめていた。
読書灯のおぼろげな光は、床まで届いていない。
それでも体勢を変えると、自分の足元だけ影が一層濃くなった気がした。


「かあさま・・・眠れないの」
母親を闇から引き戻したのは、娘の声だった。
絵本を抱えたヴァレリーが、母親のベッドに歩み寄る。
ニーナは、少女をベッドの上に抱き上げた。
「あら、この本は・・・」
ヴァレリーが持ってきた本は、すぐ上の兄フランツ・ルドヴィクのものだった。
メーテルリンクの『青い鳥』。
幼い兄と妹が、幸せを呼ぶという”青い鳥”を探しに行く話だ。
まだ彼女には読んでいなかった筈だった。
不思議に思った母親だが、ヴァレリーの言葉によってその疑問はすぐに消えた。
「昨日とうさまが読んで下さったの」
「まぁ、お父様が?」
ニーナは少し驚いてしまった。
うまく感情が込められないからと、本を読んでやるのは苦手だと言っていた彼にしては珍しいことだった。
「でも、途中までなの」
「・・・それで続きが気になって眠れないのね?」
ヴァレリーは返事をする代わりに、にっこりと笑った。
その表情は、読んでくれと行っているに等しい。
「続きは明日って言われたけど、とうさま帰ってこないんだもの」
何気ない少女の一言は、ニーナの不安を一層に駆り立てた。
彼は、今日中に帰って来るつもりだったらしい。
やはり何かあったのか。
無理やりに不安を胸の奥にしまい込み、母親は本を開いた。
「お父様は、どこまで読んでくれたのかしら?」
ヴァレリーがページを繰る。
兄妹が”青の国”に辿り着いたところで、父親は手を止めたようだった。
少女に薄手の毛布をかけ、ニーナはその場面から話を引き継いだ。
何もかもが青一色の世界で、兄妹は青い鳥を見つける。
そして二人は国を出た時、鳥の色が変わっていることに気付くのだ。


「もう遅いわ。今夜はここでお眠りなさい」
「そうね。続きは明日また、とうさまに読んでもらうわ」
無垢な笑顔を浮かべ、少女は本を閉じた。
胸を締め付ける、言いようのない不安。
何処かぎこちない笑顔で、母親は娘の髪をなでた。
「―――?」
閉ざされている筈の扉の方から、かすかな風を感じた気がして振り返ったニーナは、凍りついたようにその表情を強張らせていた。
時計の針は、午前零時15分。
「明日・・・そう・・・・・・明日になさい」
震える声。
絵本の表紙に描かれた少年の顔に、水滴が落ちた。
「かあさま―――?」
少女は顔を上げて母親を見た。
ベッドサイドに置かれた読書灯の光は、母親の表情を闇に沈ませてしまっていた。
しかし母親は、泣いているようだった。
その涙の意味を理解するには、少女は余りに幼かった。
少女の胸を満たした、透明な感情。
悲しみでも、戸惑いでも、恐れでもない。
幼い少女の胸に刻まれたのは、彼女が持て余すほどの、ただ透明な感情のみ。



北アフリカから彼が帰ってきたあの年の夏、彼の告白を聞いた時から、覚悟はしていたけれど。
彼女にとって、国より大切だったもの。
この国がどうなろうと構わない、生きていて欲しかった。
そんなことを言うと、あの人は怒るだろうか。
「あなた――・・・・・・」
消え入りそうな呼びかけが、ニーナの唇を割る。
幾人の女たちが、同じ嘆きを繰り返したというのだろう。
その呼びかけが届くことは、二度とない。
少女に物語の結末を語る筈だった父親は、もういない。



1944年7月21日午前零時15分、シュタウフェンベルクら4名、ヒトラー暗殺未遂事件の首謀者として銃殺。


ヒトラー暗殺失敗より先、およそ10ヶ月の間ドイツは戦い続ける。
シュタウフェンベルクが嘆いた、多大な犠牲を払いながら、敗戦に向かって。





家族と国と、どちらが大切なのか、秤にかけたつもりはない。
私は未来が欲しかった。
お前たちに、この国に、果てない未来を残したかった。





神聖なるドイツ万歳――






presented by MISSING LINK/Mar.2.2004


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