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ネオリアヤの言葉
寝ないワケ
寝ないワケ
「口説いてもいいですか」
バーのカウンターで、
並んで坐っている高山さんを見ながら訊いた。
彼は驚いたふうでもなく、
口元に微かな光を讃えたそのままの表情で、ショットを飲み干す。
その笑いは悪くない。
「面白いね」
カズミは、それをOKと受け取る。
口説き方次第だよ、
と彼が云っているようにみえた。
会社に営業に来ていた彼を見た時、この人だと感じた。
こちらから飲み誘っても、
「行きましょう」
と笑顔で云うだろうという確信があった。
首とジャケットの間から見える、
アイロンの効いた清潔なワイシャツの襟。
袖口からのぞくブライトリングの腕時計。
漆のように深く揺れる光を放つ、艶消しの靴。
カズミに合わせるようにしてグラスを空け、
絶妙のタイミングで次の飲み物を尋ねる。
相手の話を理解しながら訊いていることをわからせる、
丁寧な質問をし、喋り過ぎない程度に自分のことを話す。
センスのよい遊び慣れた感が、全身に漂っている。
三十代はじめの社会人としてはバランスのとれた、
申し分ない人だと感じた。
そして、その手。
乾いて骨ばった大きな手が、彼の第一印象だった。
日常の中で適度に酷使されてきたことを体言する皺。
それでいて、手入れが行き届いて清潔感の漂う、
太陽の匂いをいっぱいに吸収した手のひら。
テーブルの上で、さり気なく組まれる十本の指。
わずかに短過ぎる長さで切り揃えられた平たい爪が、
角張っている。
鈍い輝きを放つその爪と、
関節と関節のあいだでしなやかに曲線を描く皮膚の対称は、
獰猛な野生性と穏やかな知性を感じさせた。
ショットグラスを持つ時、
左手人差し指で鼻筋をなぞるとき、
あごと口角に手をあてて笑うとき、
物体をかたどるように空中を彷徨うとき、
彼の乾いた手は様々な表情をみせる。
どんなに素敵な笑顔ができて、
気の効いた言葉が云えても。
洒落た格好をしても、頭がよくても。
白くて綺麗な、特に細い指をしている男に対しては、
何ら魅力を感じない。
恋愛感情うんぬん以前の問題。
触れられたい手か、そうでない手か。
そのどちらかでしかないのだ。
早い話が、寝たい男か、寝たくない男かということ。
セックスしたくもない人と食事はしない、
という友人がいるが、それは云い得て妙だと思う。
カズミも、手だけで人を判断するわけではないので、
手の好みに関わらず話が合う人たちと飲みに行ったりもする。
何度かそういうことを繰り返すうちに相手は、
「そろそろ寝ようよ」
と持ち出してくる。
まさか、
「ごめんなさい。その手には触られたくないの」
とは云えず、答えは曖昧なまま、食事をしなくなる。
嫌いな手に自分の躰が触れられるなんて、
想像するだけでぞっとする。
いくらセックスをしたい時だとしても、
食事を断わる方をカズミは迷わず選ぶ。結局はそういうことなのだ。
だから、ある意味、カズミにとってバランスのいい男とは、
当然魅力的な手を持つことが絶対条件だった。
今、眼の前で笑っているこの人のように。
「あなたのような女性、札幌では珍しいでしょう」
眼の端でカズミの姿を捉えながら、
彼はウィスキーとチェイサーを一口ずつ運ぶ。
微かな光に揺れる二人のあいだの空気に視線を移し、
カズミは思いつく言葉を区切りながら声にしてつなげた。
「その統計に当てはまるとは、必ずしも限らないと思いますけど」
「確かに。では、質問を変えようか」
「どうぞ」
「いつもそうして口説くの?」
「そうして?」
「そう、ストレートにね」
その質問にすぐには答えずに、
「まさか」と肩をすくめるポーズをとる。
冷や汗だらけの心中を隠して、
こんな駆け引きをしている自分自身に、カズミは軽く陶酔していた。
つい一年前までは、
男性に自分から誘いの声をかけることすらできなかったのに。
「だって、もう二度と逢えない可能性だってあるわけだし」
「それを望んでいるの?」
「そんなんじゃ…。口説きたいと想った時に口説くだけ。男も女も一緒でしょ」
一瞬、その言葉を自分に教えた男の影が、眼の奥を通り過ぎる。
彼は、カウンター奥にあるグラス棚のダウンライトに眼を細めながら、
視線をゆっくりと、自分の手へと移した。
陽に焼けたその手で、二杯目のショットグラスに軽く触れる。
「さすが…。じゃあこの先のことも考えてる?」
ベッドを仄めかすニュアンスを込めながら、
運ばれてきたブラックチェリーを一口で放り込んだ。
彼の乾いた手が自分の躰に触れる瞬間を想像し、
目眩を覚える。
辛うじてキープした姿勢は、
仄かな火照りを隠すのでせいいっぱいだ。
「それは、これからの会話の中で、お互いが感じればいいことじゃない?」
背筋を流れる、ひんやりとした汗を感じながら、カズミは微笑んでみせる。
このまま行けば、今夜は二人で過ごすことになるかもしれない、
という予感がした。
「ちょっとごめんなさい」
カウンターの高い椅子から、腰を浮かす。
浅子との約束、断わらなきゃ。
月末の金曜日は、高校時代からの女友達と過ごすことが恒例になっていた。
ただし、たったひとつのルールがある。それは、デイト優先。
彼女へ電話をするために、立ち上がろうとした、
まさにその時。
高山さんが、胸ポケットから左手でライターを抜き取り、
煙草に火を点ける。
見慣れているはずの、一連の男性的な動作に、
なぜか眼がいった。
「……」
手元から離れ、一枚板のテーブルに置かれたそれに、愕然とする。
なんと、ブティックホテルのロゴが入ったブルーのライターだった。
部屋のテーブルで、
灰皿に納まっていたりする無料のライター。
しかも、繁華街でも特に眼をひく電飾を施した、
派手なチェーンホテルの、だ。
文字が剥げかかっているところを見ると、
ずいぶんと使い込んでいるらしい。
カズミは、それまでの胸の高鳴りが、
かなりのスピードで白けていくのを感じた。
最も絵になるはずのシーン演出に、
その小道具がどんな意味を持つのか、
この人は気づいていないのだ。
そのライターひとつで、腕時計も靴も、
それまで築き上げたイメージさえも台無しになるということを。
そして、
その手から清潔感が剥がれ落ちていく。
彼もまた、受け売りのスタイルを身につけているのかと思うと、
妙におかしくなった。
「そういえば私、センスのない男も嫌いだったんだっけ」
と急に思い出し、小さく笑う。
カズミの視線に勘違いをしたまま、
彼はまぶしそうに微笑んで眼を合わせる。
「約束があるから、これで失礼するわ」
「え…」
本人が気づかぬうちに剥がれてしまった可哀想な仮面は、
マヌケな微笑を浮かべながら床に落ちた。
呆気にとられて身動き取れない彼を横眼に、
カズミはトレンチコートをつかむ。
椅子の背もたれに残された彼の手が、黄土色に染まり、
力なく動くのが見えた。
透明な秋の夜風に、コートの襟を立てながら、
店の軒先に立つ街路樹を見上げる。
それにしても何故よりにもよって、
ライターなんかに眼を向けてしまったのか。
今日に限って…。
「惜しいことしちゃった。あの手、いいセンいってたんだけどな…」
性懲りのない自分に苦笑しつつ、
たった今別れを告げてきた高山さんの手を思い返しながら、
半ば後悔する。
ひと雨きそうな空だ。
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