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ネオリアヤの言葉
あの夏
アイスクリームの木ベラを下の前歯の内側にあて、
無心で押していた。
窓から入り込んでくる風は、
札幌にしては蒸し暑い匂いを部屋の中まで運んでくる。
舌で歯に触れる。
一本だけ中側に生えてしまった永久歯の凹凸が、舌の先にあたった。
数十万円かかる保険のきかない歯科矯正をさけ、
自己矯正を実行していた。
明日は、夏の全国高校野球、南北海道大会の決勝戦。
ユウコは四講目までの教科書類を詰めて、鞄をしめた。
そして、壁に貼った時間割の上に、盗み見るような視線を走らせる。
五講目の欄にある「数学」の文字が、
異様に大きく自己主張してみえた。
「…だって決勝は復習できないんだもん」
サボりの云い訳を呟きながら、ユウコは残りの葛きりを喉に流し込んだ。
ひんやりとして、弾力のあるものが、
ジェットコースターみたいに勢いよくお腹の方へ消えていく。
イギリスのアイドルグループのバラードが、心地よく響いている部屋。
先日、ミュージックビデオ上映会を兼ねたサイン会のプロモーションで、
札幌にも来ていた。
コミュニケーションができる程度に英語が使えてよかったと、
あの時初めて感じた。
直筆サインの入ったCDジャケットを眺めながらボンヤリし始める。
「ユウコ?」
風に吹かれて揺れる草の音と一緒に、自分の名を呼ぶ声が訊こえた。
立ち上がってレースのカーテンをひいた。
そこには、ジャージに白いTシャツという井手達の影が三つ、
並んで立っている。
「出てきて大丈夫なの?」
ユウコは、薄闇に眼をこらしながら訊ねる。
一人の顔が、部屋から漏れる明かりに照らされ、
眩しそうに笑っているのがわかった。
神田くんだった。
その隣には頷く健太郎と駿がいる。
「ちょっと待ってて、今外に出るから」
そう云い残して厚手のカーテンをしめた。
右手の中に握り締めていた木ベラを筆入れの下へ押しやる。
姿見で髪型や笑顔を確認し、スエットからジーンズに履き替えた。
CDの電源を落とす。
「少し外に出てくるからっ」
居間でテレビを観ている両親に叫び、家を飛び出した。
すごくドキドキしているのが自分でもわかった。
駿が来てる。
すぐそこで私を待っている。
それだけで動悸があがり、頬が紅潮してくる。
マンションの階段を駆け降りながら、わざと息を荒くした。
「悪いね」
神田くんが笑って出迎えてくれた。
「全然。でも、決勝戦の前日なのに、よく出られたね」
「電話かけに出るって云ってきたからさ」
十円玉を掌のうえで、放り投げてみせる。
数枚のコインが音をたてて跳ね上がった。
MUKAWA。
紺色の文字が、Tシャツの胸ではげかかっていた。
「調子は、どう?」
ユウコは、抑えきれない気持ちを言葉にかえて駿を見た。
眼に力がこもる。
「バッチリでしょ、そりゃ」
そう云いながら、全身でスィングして、
ボールを遠くまで追い駆ける眼をする。
そしてひと言。
「あっ、木下駿、満塁ホームラン! 逆転サヨナラ! 鵡川高校、甲子園出場決定!」
「俺は打たれっぱなしってことかよ」
ピッチャーの健太郎が、豪快に笑う。
「安心して投げられるだろ」
「馬鹿云うな。零点に抑えるに決まってんだろ」
健太郎は膨らんだジャージのポケットから左手でボールを取り出すと、
駿のお腹のあたりに軽くそれを叩き込む。
彼はサウスポーだった。
駿は両手でボールを受け取ると、ユウコに投げてよこした。
土と芝の色とが染み込んだボールは、
小さい掌のなかでずしりと響いた。
太陽と土の匂いがする。
三人は、鵡川高校野球部の主力スタメン。
センター七番の神田くん、投手で九番の健太郎、
そしてライト四番の駿。
あとの選手のことは、よく知らない。
よく知らない。
それはこの三人においても云えることだった。
この夏の初め、
地区大会を勝ちあがってきた彼らは南北海道大会出場のため、
ユウコの住むマンションの隣の合宿所に、
鵡川から三十人という大所帯でやってきた。
彼女の家から大会が行われる野球場は、目と鼻の先。
走れば三分とかからない距離だった。
学校から帰宅したユウコが、駐車場で独り、
バレーのトス練習をしていた時、誤って合宿所の庭へと、
ボールが金網を越えてしまった。
すると、そのタイミングを待っていたかのように、
どこからともなくジャージ姿の少年たちが、わらわらと集まってきた。
そして、ボールを差し出してくれたのが、駿だった。
一緒に着いてきた感じの神田くんと健太郎はニコニコしながら、
さらにその後ろで群がっている部員たちを指差す。
「一緒に遊んでいい?」
彼らが大会出場選手だと知ったのは翌日のこと。
しかも、今回の優勝候補であると知るのは、
出会ってからさらに一週間以上も過ぎた、
準々決勝当日の朝刊記事を読んでからだった。
「お前ら明日、公式練習試合だからな」
年配の男の人の声がした。
「はい監督っ」
それからユウコたちは、毎日のように夕方ころに会って話をし、
アイスを食べたり、土日は他校試合を一緒に観戦した。
気づくと、準決勝を勝ち抜いていた。
駿には、プロ球団からのスカウトも来ている。
決勝戦が終われば離れ離れになるのはわかっていた。
けれど、この楽しい時間が、いつまでも続くことを信じて疑わなかった。
期限付きの出会いであるなどと、
誰も口にしなかったし、
誰も考えもしなかった。
彼らと同学年で今年高校三年のユウコは、
昨年、一昨年と同様、南北海道大会中は、四講目以降授業に参加していない。
一年目は毎日のように担任につかまった。
「ヤナガワ、帰りの学活サボったろ」
「午後の授業どうしたヤナガワ」
「ヤナガワっ!」
二年目になると、何も云われなくなった。
そして三年目。
午前の講義が終わると、
お弁当を広げる友人にサヨナラを告げ、自転車で球場へ向かう。
お弁当はいつもスタンドで食べた。
「ヤナガワは…そうか、今日は準々決勝か…」
午後の授業の先生がボソボソと呟くんだと、
友達が真面目に話してくれた。
九回表。
一点のリードを許したまま迎えた決勝最後の攻撃。
駿は、センターヒットで一塁に出ていた。
続いてピッチャーゴロでワンアウト。
けれど、駿は得意の俊足で二塁のベースを踏んだ。
午後一時のプレイボール前から、
すでに満席に近かった三塁側スタンドは、
息を詰めた観戦者とずっと声を張り上げたままの応援団とで、
緊張感も熱気も最高潮に達していた。
反対一塁側スタンドも、負けずに太鼓や管楽器を鳴らしている。
対戦相手は地元校とあって、全校生徒に近いボリュームの応援だった。
駿の躰が、投手の一挙手一投足を見つめながら、
少しずつ二塁を離れていく。
バントの構えを見せている打者と駿の気配を確認しながら、
体勢を前傾させる投手。
腰の位置で左手のミットの中に右手を差しこんだまま、
バッターボックスに向かって躰を一度起こす。
三塁を正面に見据え、ゆっくりと二塁手と捕手を確認する。
投手の左足が、マウンドの砂をゆっくりとわずかに踏み分けた。
三塁コーチが、左手で右の耳たぶをこする。
打者のバント体勢がより深くなる。
駿は、右足かかとを、慎重に外側へひいた。
二塁ベースとの距離が三㍍ほど開きつつあった。
その時だった。
全てがスロー映像な視界の中で、何かが動いた。
「アウトっ」
一瞬、何が起きたのか誰にもわからなかった。
声援のあいまに突然小さく響いた審判の冷静な声に、
誰もが眼を蠢かしている。
何かの間違いではないか。
けれど、確かにアウトの言葉は訊こえた。
ユウコの眼に、
両足を揃えて立ちすくむ駿の姿が映った。
その傍には二塁手が立っている。
厭な予感がした。
「隠し球だ」
誰かの声がする。
そのひと言がさざ波のようにスタンドに拡がった。
メガホンを叩く音が途切れる。
白いボールは、投手の右手にではなく、
二塁手の掌に握られていた。
それが、軽く投手へと投げ渡される。
一塁側の声援が一段と大きくなった。
「何それ…」
ユウコの口から声がこぼれた。
肩を落とし、呆然と、でも小走りにベンチへと戻っていく駿。
態勢を立て直せないまま、
衝撃に呑み込まれた打者の最後のひと振りは、
センターフライに打ち取られ、スリーアウト、
試合終了。
一対ゼロで決勝戦敗退。
準決勝で満塁ホームランを打った駿は、
歓迎のベンチに戻るとき、
スタンドの声援のなかに金網越しのユウコを見つけ、
満面の笑みで右手の拳を挙げた。
その光景が、
背中をピンと伸ばした今の彼の後ろ姿にだぶる。
サイレンが高い空に吸い込まれていった。
応援席に向かって、帽子をとってお辞儀をする選手たち。
けれど、
その顔は決してスタンドに向けられることなく、
グランドの乾いた土を睨んだままだった。
呆気無い幕切れに、ユウコは涙さえ出てこなかった。
ひどく疲れたような脱力感だけが、全身に残っている。
「ようやった! ご苦労さん!」
しわがれた低い声がスタンドから響いた。
金色のメダルを下げた駿に、好きだと云おうと思っていた。
でも今は、その想いを伝えられないことにではなく、
眼の前で、あとちょっとだった甲子園への夢が途切れたその人の、
あまりに長かった時間の重さに、
ただ途方に暮れるしかなった。
注意深く観察していれば、見落とすはずのないミス。
隠し球。
だからこそ、その落胆と衝撃は決定的だった。
誰もが自分を責め、
そして誰のせいにもしなかった。
表彰式終了後。
球場のそとで、駿は笑っていた。
たった二週間。
全てが詰まった時間を共に過ごし、共有した想い。
その密度ゆえに、
もう逢うことはないだろうとユウコは感じた。
何もかもが思い出にならなければ、逢っても苦しいだけだと、
知っていた。
「電話してね」
駿の眩しい笑顔が、鵡川高校行きのバスに吸い込まれる。
「うん。…ありがとう」
「バイバイ」
もう誰もユウコの名を呼ぶことのない窓際で、
ぼんやりと椅子に坐っている。
教科書の予習頁を開き、
アイスクリーム用の木ベラを歯にあてながら。
勝っても負けても、駿は遠い人になる気がしていた。
駿はプロ球団からのスカウトを辞退し、
翌年、地元の市役所に就職したと噂で訊いた。
十年以上が過ぎた今も、
ユウコは、七月が近づくとあの夏を思い出す。
相変わらず風だけが通り抜ける窓をみつめ。
駿はどうしているだろうかと。
まっすぐに並んだ下の歯が、
舌の先にあたる。
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