ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

云いワケ




「何考えてるの」
キミは頬づえをつきながら、差し向かいでコーヒーを飲んでいる川野の顔を見つめた。
二階の窓から見える景色を、もう十分以上も黙ったまま眺めている。
これといって、何かに興味をそそられている風ではない。
むしろ、時間を潰しているような表情だった。

「何をかって? …デイトの最中に、ずいぶんな質問するね」
「だとすれば、それは晶のせいね」

軽く笑いながら、詰問ではない調子で返す。

「俺の?」

それは面白いと云わんばかりに、しばらくぶりに眼を合わせた。
私だって、何も好き好んでそんな言葉を投げたわけじゃない。
それに、一緒にいるにもかかわらず、心ここにあらずの空気を漂わせ、
まるで一人でいるような顔をしている人との時間を「デイト」だと云い切る気もしない。

「キミが逆の立場だったら、ひどく傷つくんじゃないのかな」

柔らかい微笑みを口元に讃えながら、川野は煙草にマッチで火をつけた。
ジャケットの右うちポケットから、わざわざ右手で抜き取るポーズ。
青白い炎に、眉根をわずかに寄せて、唇から深く息を吸い込んだ。
マッチに残された火が、ひと振りで消される。

「大丈夫よ」

映画のワンシーンを観ているように、誰にとはなく口にした。

「そんなことにはならないから」
「また、ずいぶんと断定的なんだな」

煙を窓ガラスにむかって、ゆっくりと吐き出す。

「だって、そうでしょう…晶が私にそんな質問すること自体あり得ないわ」

すっかり冷えてしまった紅茶を飲み、渋みに喉がむせ返った。

「そんな質問するくらい私に関心を持っていれば、別だけど」

にこやかな表情とは相容れない言葉に、
川野は、参ったなと笑う。
煙に一瞬、姿を視界から奪われる。
再び現れた彼は、じっとキミの眼を見つめていた。
川野が何を考えているのか、それはもうどうでもいいことだった。
ただ、一種の職業病で、常に小説の素材として、
どんなときも相手の心情や行動を観察してしまう。
時々、恋と混同しそうになるほどに。

キミが、女性週刊誌にいわゆる連載小説を書いていることを、川野は知らない。
ピーアール会社のOLだと思っている。
現にアシスタントとして働いているのだから、嘘ではない。
何度か話そうかとも考えたが、関係がしらけそうでやめただけのこと。
しらけるのは川野ではない。
キミの気持ちだった。

川野のことだから、面白がって小説のネタになりそうな行動をとったり、
夢とも現実ともつかない言葉を囁くに違いなかった。
でも、それは意味のないこと。私にいい小説を書かせるための行為ではなく、
自分が描かれるために、だから。
ただの虚栄心でしかないと知りつつ関係を持っても、
文章として起こしたときに自分で面白くもなんともない。
ベッドシーンを描くこともあるのに、
思い出すのも阿呆らしいのでは仕方がない。

「俺がキミに惚れてないって云うの?」

彼は、まだその話をしていた。

「そうは云ってないの。問題は何を考えてたかってことよ、晶が」

フランスの映画俳優よろしく、先刻のポーズに続き、
まだ長い煙草をせわしなくもみ消し、彼は身を乗り出した。

「知りたい?」
「…教えてくれなくていいわ。訊きたいわけじゃないから」
「何考えてるのかって訊いたのはキミのほうだよ」

何を考えてるのか、相手に云わせるのも云うのもつまらないけれど、
それに答えるなんてもっとくだらない。
賢くない男との会話は、エネルギーがないと続かない。
というより、そんな相手のためにエネルギーを使う気にはならなかった。

「そう云えばさ」

椅子の背もたれに深く躰を預けた川野は、
車道を挟んで向かいに建つビルの喫茶店を眺める。
五十代前後と思しき女性が二人、ほどよくついた背中の贅肉を丸めている。
パスタを食べる口は、お喋りが止まらないようだった。

「このあいだの雨の日、覚えてる?」
「あれは酷かった。春用におろしたばかりのパンプスが台無しになっちゃった」

冬から春にかわる時の雨は冷たい。
開きかけた花の蕾が、再び硬い樹皮を纏うのではないかと感じられるほどだ。
あの日の予報は曇りだった。

「神保町でやられてさ、本屋で雨宿りしたんだ」
「神保町? 何してたの?」

川野が古本屋を廻るとは思えなかった。
彼の、光を吸収して乾燥した手が、
宙を彷徨った後にコーヒーカップの縁をなぞるのを見つめながら、
キミは別のことを考え始める。 
この人の、こういう無意識に近い仕草が好きなのだ。
ベッドでキミに触れるとき、髪を撫でるとき、唇に指をのばすとき、
彼の手はほんの一瞬だけ、宙を彷徨い止る。
まるで、触れることを躊躇うかのような間が、
苦しさと切ないほどのくすぐったさを彼女に与える。
ほとんど気絶しそうなくらいに。
彼の眼は、相変わらず窓の外を追いかけている。

「うまいカレー屋があって」
「樹海?」

昔通った店の名前が、口をついて出た。

「知ってる? 水曜はいつもそこで食うんだ。で、その本屋で手近にあった週刊誌を捲ってたら、キミって名前が出てくる小説が載っててさ」
「それ、女性誌じゃない」
「読んだことある?」
「仕事上ね。それに、前に勤めてた出版社だもの」
「そうなんだ。キミ、出版社にいたの?」

川野は驚いて訊いた。
自分の過去の話をするのは、これが初めてだった。
それ、私が書いたのよ。
キミは言葉を飲み込み、店員に二杯目の飲み物を二人分注文した。

「名前が名前だから、キミのこと想像しちゃったよ」

少し苦笑しながら、彼はキミの胸元に視線をあてた。

「官能小説っていうの? 主婦はああいうの好きなのかな」

テーマは女性の生き方なのだが、
確かに官能小説に近い表現だけで一週分が終わることもある。
以前の同僚が連載担当をしており、いろいろと注文をつけてくることもあり、
もっと官能的にさ、などと云われると、
思わずあなたは男でしょと云い返したくなる。

「でも、確かその雑誌は仕事を持つ女性がターゲットのはずよ」
「へえ…」

危うく、何考えてるのと訊きそうになる。

「あの小説に出てくるキミって名前、由来はなんだと思う?」
「そんなものあるんだ」

鼻で笑いながら、どうでもいいような声になる。

「遊女のこと、キミって読むんだって」
「遊女って、吉原とか島原遊郭の?」
「興味ある?」
「男だしね、そりゃあるさ」
「女だって興味あること、お忘れなく」
「遊男とか?」
「馬鹿ね、遊郭のことよ」

一年ほど前、
日本古来の風俗をテーマにピーアール戦略を立てて欲しいという取引先の希望により、
キミは古本屋を廻ることとなった。
その時、同じ棚に並ぶ、遊郭の歴史書籍に眼が行った。
適当に開いたページは、ちょうど遊郭の起源について書かれていた。

「じゃあ、キミの名前の由来は?」

その言葉は、眼の前のキミをさしていた。

「遊女かもね…」

近くの客が、じろりと二人を見比べる。
それが本名ではないのだと、キミは結局伝えないまま、
川野との関係は半年ほど続いている。
小説の連載が始まって、今月でちょうど三ヶ月。
当然、主人公はキミ自身であり、そこに登場する男たちのどこかに、
川野の影はあった。事実、彼との関係がスタートしてから、小説の構想が決まった。

元々、遊女――太夫、傾城、花魁とも云う――は、
将軍や大名の話し相手も務められるよう、
音楽から所作まで行き届いた教育がなされていた。
それを考えると、政の話題に遠からず関与していた女性たちの教養が低くては、お話にならなかったわけだ。
とはいえ、彼女たちの意思が軽視されていたことに変わりはない。
玉の輿の事実が幾例あろうとも。
では現代社会はどうか、という、
ストーリー性としてはさして目新しいものではない内容。
けれど、展開する舞台や会話、言葉、職業などをひねったため、評判は悪くない。

「うちに来ない?」

川野の声がした。

「これから?」
「…キミのこと、抱きたい」

また視線を感じたので、今度はその女性と眼を合わせた。
明らかに嫌悪感を漂わせた表情の若い女性は、キミの柔らかい微笑みに、
慌てるようにして視線を逸らした。腕時計は、もうすぐ三時になりそうだった。

今日中に一本あげなくてはいけない。

「まさかこれから現場だなんて云うんじゃないよね」

彼は、明るい調子でキミを見る。
二足の草鞋生活をしていると、仕事一辺倒のまじめ人間と思われることが多い。
それもそのはずだった。
仕事を理由に付き合いを断って、小説を書いているのだから。

「私もそうしたいわ。でも、六時にはさよならするから」
「どうしてさ」
「ベッドで、何考えてるのなんて訊かれたくないでしょ?」

肩をすくめながら、川野は伝票を持って立ち上がった。
自分の顔に張り付いた笑顔を窓ガラスに映しながら、
キミは川野の手を想像していた。
少なくとも、連載を書き終えるまでは、あの感覚を忘れたくないと。
そのためならば、どんなわがままで冷たい女をも演じる自信があると思いながら。



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