ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

写真




「誰かと待ち合わせですか?」

僕は、あくまでいつものように声をかけた。
一人で、もしくは初めてこの店に訪れたお客には、
声をかけてそれとなく様子を窺うのが、僕の仕事でもあったから。
店内の内装に、ずっと視線を走らせていた女(ひと)。
驚きもたじろぎもしない、ゆっくりとしたスピードで、僕の眼に焦点を合わせてきた。
その、ほとんど瞬きのない涼しい眼許に、
突然に声をかけられたのがまるで僕自身であったかのように、
僕は動揺を隠せなかった。
再び、今度は柔らかく微笑んだ口角で、天井のミラーボールに視線を移しながら、

「ひとり」

と、唇の動きでやっとわかる言葉を呟く。
容よく厚みをもった口元が、とても印象的な人だった。
もっと話をしたい衝動にかられた心を、僕は無視できなくなる。

「初めてですよね」
「そう。面白い店ね」
「最近のクラブでは珍しいんですよ。うちはいつもこんなカンジでディスコですけど」

そうなんだ、と眼尻に皺を寄せ、綺麗に並んだ白い歯をのぞかせて笑う。
もっと、笑わない人だと思っていたから、ちょっと意表をつかれた気がした。
彼女の視線は、僕の肩を通り越して、何かを探すように瞳孔を動かし続けている。
薄暗い店内の壁一面には、前オーナーの義理の弟――妹の旦那――が描いたという、
フラスコ壁画のような絵が広がっている。
カラフルな色彩でカタチを得た線や円、布のザラ感を剥き出しにした深緑色の雫模様。
極彩色の世界だ。
ところどころ、木材や廃材が釘で打ち付けられ、触ると指先の痛点にあたる。

「どうやってこの店をお知りになったんですか?」

僕は、なるたけ厭らしい軽さを持たない声で、その人に話しかけた。

「名前だけは前から知ってたの。来てみたかったし…、あのね、相澤くんている?」
「え…」

出て来た名前に少し驚く。
相澤? アイツなら今朝の便で沖縄へ行った。

「相澤広太のことですか?」
「ヒロタって云うの? 知らないけど、そう。相澤くん」
「アイツなら、今日沖縄に行っちゃいましたよ」

突然のあいつの出現に、言葉使いが崩れるのを感じていたけれど、眼の前の人の、
驚いた表情を見ていたら、その方がいいような気がし始めていた。

「え、だって今日DJするって訊いたんだけど」
「それ昨日ですよ。アイツ何て云ったんですか?」
「土曜に最後のパーティーするからって…」

確かに、金曜の深夜十二時を過ぎたら、土曜日だ。
金曜の二四時半、つまり、土曜の朝一時半に、コウタのDJはスタート予定だった。
そんな感覚の差異に、自分たちが、
普通の世間とは異なった世界に生きているのだと教えられる。
彼女も、それを感じ取ったように、

「ま、土曜とも云うか…」

と苦笑いを返した。
こんな店では、決して珍しくない満面の笑みを、彼女もまた讃えてみせる。
ただ違うのは、声を立てて笑わないこと。
DJプレイを鳴らすスピーカーが並ぶ店内では、まるで無声映画を観ているような、
もしくは水中で外界の音を訊いているような不思議な気持ちになる。

「そっか。じゃもういないんだ、相澤くん」

とても残念そうに優しくうつむくと、ローヒールの足を組みかえた。
ほどよくついた足の筋肉を想像させるぴったりとしたヒップハングジーンズに、
ノースリーブのタートルネックセーターを、黒でまとめた全身。
最初、入って来た瞬間に確認していたはずのそのスタイルのよさを、今、
あらためて至近距離で見下ろしていると、年上の女性も悪くないなと思う。
ぼんやりと眺めていた眼が、彼女の静かな視線と絡んで、
心を覘かれた気まずさを覚えた。
それでも視線を外すわけにもいかない。

「お友だちなんですか? コウタと」
「コウタ? さっきヒロタって呼んでなかった?」
「広く太いって漢字を書くんですけど、コウタとも読めるじゃないですか…、あだ名はコウタなんです」
「へえ…。私、そのコウタ君に会ったことないのよ。で、こっちを離れるって訊いてはいたから来てみたんだけど…。結局会えないみたい」

膝の上で柔らかく重ねられた左手の中指に、太い、シンプルなリングが光っている。
ゴールドかシルバーかはわからないけれど、アクセサリーと云えるものは、
ほかに身につけていないので、その存在感が大きかった。

「じゃあ、どこで知ったんですか? コウタのこと」
「写真展」
「本多ギャラリーのですか? 僕も行きましたよ」
「グループ展だったけど、相澤くんのはとても良かったから。アンケートにメールアドレス書いておいたら、返事くれたの。それだけ…」

言葉の終わりのほうで、のばした左手が開いたカバンの中に吸い込まれていった。
裸のままの日本製煙草を取り出し、炎の勢いが弱まりかけているライターで、
火を点ける。
明りに細めた眼が、ひどく艶っぽくて、ドキリとした。
その瞬間、コウタが間接的な出会いを彼女としたことに、妙な納得をする。
たぶん、僕やコウタには声をかける勇気も、
直接ことばを交わす機会もないであろうタイプの女性だから。
間接的な、写真という手段があったから、コウタは多分この先、
この人と直接言葉を交わすことになるんだと想像した。
その余波を、僕はアイツよりも半年ばかり早く、受けている。

「どの写真がよかったですか?」

彼女の眼が優しく、でも、少しおかしそうに笑っている。
自分の声が上気しているのに気づいた。
まだ、そんなに混んではいない、狭いフロアに一瞥をくれて、
僕は何かを期待するように、記憶を写真展に戻す。

「最後から二番目の、ベッドに朝陽が差し込んだアップの写真」

迷うことなく応えが返ってきた。

「本当ですか? それ、僕の部屋なんです」

云ってしまってから、少しだけ後悔する。
事実を話しているだけなのだけど、この人の前で諸手を挙げるのは、
なんだか躊躇われるのだ。

「あ、そうなんだ」

変わらない笑みを浮かべて、楽しそうに彼女は驚いている。

「あの写真は、凄く優しいんだよね。彼の作品は全部、視点が優しいけど。特に。一歩間違うとエッチな写真にもなるんだけど、柔らかい絵になってて…」

白黒の写真を思い出しながら、その人の言葉を口の中で反芻する。

「仲いいの?」
「同じ大学なんですよ、コウタとは」
「ふぅん。何勉強してるの?」
「工学部なんです」
「工学部の学生って理系なの? 数学得意?」

先週の合コンと同じ質問だった。

「いや、俺は苦手です。結構数学嫌いなやつ多いですよ」
「でも文系じゃないでしょ?」
「はい」
「なんで工学部入ったの?」
「…」

質問攻めにあって、絶句するとは思っていなかった。
工学部に入った理由? そんなの簡単だ。ひとつしかないではないか。

「…そこしか受けられる学部がなかったから」

彼女は、これまでで一番可笑しそうに躰を前後に揺らした。

「面白いんだね」

見た眼と性格のアンバランスさが、この人の魅力なんだろうと感じる。
もっとスマートな話しかしない人のようなイメージを、抱かせる。

「どうして、あの写真が朝だって思うんですか?」

ようやく訊きたい言葉を発することができた。

「どうしてかって?」

復唱しながら、彼女は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
巧く火を消せない手許に、見ているこっちがもどかしくなってくる。
煙草はそのうち、真ん中で大きく二つに折れ曲がってしまった。

「白黒の陰影や色が朝陽だったし…。でもね、タイトルが『生まれゆくもの』でしょ。朝陽の中で愛しい人を大切だと思えたらそれは本物だし、そこがスタート。そこからいろんなことが生まれていくじゃない」
「俺の部屋ですけどね」

すかさず茶化したが、すぐに後悔する。その人の眼が笑っていなかったから。

「場所は関係ないよ。恋人でも親友でも、相手は誰でもいいけど。要は気持ちだから」

コウタ、おまえは不思議な出会いをしているよ。
まだ気づいていないだろうけれど。
その人は、ハイネケンを飲み干すと立ち上がり、

「また来るね」

と云って店を後にした。
人との出会いは思っていたより突然の出来事で、
自分自身の不用意さに、腹が立った。
僕はどんなことを、もっと真剣に考えたらいいんだろうか。


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