ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

手の甲




そのとき私は、餃子の皮を茹でていた。
小龍包を作ろうかと思ったのだけれど、今朝からカロリーの高いものばかり食べていたので、
少し早めの夕飯は、具なしの、ただ茹でただけの餃子型をした皮とご飯だった。
ご飯茶碗に、白い、硬めに炊いた湯気の昇るご飯を盛り、
鍋ごと、湯銭に浮かんだままの餃子の皮を、仕事机兼食卓のテーブルの上に置いた鍋敷きに載せた。
本当ならば肉の具の詰まっているはずの袋の部分が、ぼっかり湯の上に膨らんでいる。
お尻を見せているみたい。
私はおかしくなった。
湯気の合間から見える透き通って白い――おそらく湯銭と空気とによる――その膨らみは、
本当に不規則に並んだお尻のようだった。
シンクロナイズドスイミングの団体競技選手たちが、演技の途中でボイコットしたらこんな感じだろうか・・・。
でもそうだとすると、お尻だけを出して、上半身と太ももからつま先を水面下に下ろしておくのは、
さぞかし大変なことだろうなと勝手に推測する。
どうでもいいことだった。

今日は天気のせいもあって、朝から気分が浮かない。
本当は、実は昨夜からこのまったりした気分はずっと続いていた。
映画を観て帰ってきたのだけれど、香港マフィアもので、好きな俳優が目的で観に行ったのに、
前半の半ばで彼は死んでしまった。

「え、うそ」

一人で観に行っていた私は、あまりに予想外の展開に、無防備にも声を出してしまった。
でも隣のカップルの女性は、そこここで含み笑いをしていた。
まるで家でビデオを観ているような感覚で。
その俳優が、最後のほうの回想シーンでしか登場してこなかったため、
私は映画の約四分の三という時間の意識を、隣のカップルに集中させてしまった。
上映中ずっと手をつなぎ、女性のほうは躰を男性にもたれかけるようにしている。
椅子の肘置きを乗り越えてだと、躰が後で痛くなるのじゃないかと、余計な心配までした。

でもこうして私の気持ちが落ち着かないのは、昨夜の二人のせいじゃない。
何かの胸騒ぎがして、止まらない。
胸騒ぎに知らないふりをしようとして、ほかの事に集中しようとするので、もっと落ち着きが悪い。
動悸が早くなってきて、今日は何度も洗濯をしてしまった。
普段は全部まとめて放り込むのに、
意味もなく薄手と厚手、白と黒、タオルものと洋服に分けて、計六回。

洗濯機の音を訊きながらも、私の心臓は、上下運動を激しく繰り返した。
浅い呼吸のせいで、頭がぼんやりしてくる。
何も考えないようにしているのに、なぜかグルグルと頭の中が回転して、
気持ちや思考が焦り出す。

こうなると私の行動は、自分ではどうすることもできなくなってしまう。
私は自分でそのことを知っている。やたらと食べ物を口に運んでしまう。
お腹がすいているわけでもないのに、なんとなく冷蔵庫の前やお菓子棚の前に座り込んで、
とりあえず中を覗く。
昨日買い足したものが入ってるので、割と充実した光景がそこには広がっている。
チョコレート入りの全粒粉クッキーや、秋限定発売の栗味のお菓子、アップルパイやスナック菓子。
一人で暮らしていると、ふだんほとんどお菓子を食べないのだけれど、
たまに友達が夜中に遊びに来たりするので、買い置きはいつもしていた。

しばらくの間、私は見るともなしに、それらを眺めている。
ほとんど無意識に眺め、かつ選別作業を行ってもいる。
止めればいいのに・・・。
あとで後悔するのは自分なんだよ。
そう云う私が、もう一人私の中にいて、冷静に声をかけてくる。
それが私のなかではさらなる挑発になってしまうのは、この動悸のせいなのだろうか。
それでも少しだけ、自分への云い訳を残そうという魂胆があるのか、
チョコレートを手に取りながら時計を見た。
午後一時過ぎ。
まだ大丈夫だよね。

パソコンに向き合いながら、中身がからっぽになるまで一気に食べる。
そして三十分おきに、なんとなく口寂しくなって冷蔵庫や棚を開ける。
そして食べる。
昨日買ったばかりのお菓子が全部なくなるまで、今日のそれは続いた。
さすがに夕方に気持ちが悪くなり、お茶を飲んで誤魔化した。
それなのに、こうして今また夕飯を普通にとっている。
わかっていた自己嫌悪と後悔の念が全身のみならず、心を覆っていく。

食事の後片付けをしながら、突然、
さっきまで餃子の皮が並んで浮かんでいた鍋が、3D映像の勢いで眼に入ってきた。
早食いの私なので、まだ熱々の湯気が立ち昇っている。鍋も熱そうだった。

魔が差す。

そう云うのだろうか。
でも瞬時のうちに自分で判断した結論だったような気もする。
昨夜から考えずにきた頭が、超高速スピードで、
想像も予想もできないような計算と判断をして下した結果。
気づいたとき、私はその湯銭を左手の甲に流しかけ終わっていた。
途中で、非常な熱さに意識が戻ったけれど、意識が戻って視界が開けたときには、
もう薄く白く濁った湯気を伴ったお湯は、
排水溝の奥に引きずりこまれる音だけを残して消えていた。
自分の左手を、もうまさに他人の手のようにして

「あーあ・・・」

と眺めている私。熱さで麻痺したみたいだった。
みるみる白く、赤く爛れていく、指先、手の甲、指と指のあいだの肉の少ない皮膚の部分。
左手がのっぺりして見えるのは、熱さで視力が弱まったせいなのだと、
どこかで自分で自分を納得させようとする声が訊こえる。

「あ、水」

それだけ声に出したとき、右手は救済の行動を起こした。
持っていた鍋を馬鹿丁寧にガス台の上にきちんと戻したあとで、
蛇口をひねって、飛沫を上げるほどの水を左手に浴びせた。
蛇口をひねったときの勢いが強すぎて、
キッチンの下に埋もれている水道管の弁がドンっと開く音が響いた。
きっと、隣の住人か、上か下の人は
「もっと静かに水を出してよね」と思っているに違いない。
もし男性が住んでいるのなら、
「もっとゆっくり出せねえのかよ」かな。

「痛いっ」

私のはっきりした声が、自分の耳に届く。水の重さと冷たさが左手の甲に被さってくる。
水は、ただ単に「冷やす」という行為だけのためであって、
何も治しはしないのだと、妙な客観さで感じた。
手の甲の爛れと赤と白の色は、鮮明につやつやとしていた。

本当にやっちゃったんだ、私。
私は昔から、こういう子供だった。物事をあんまり考えずに行動に移す。
それも周囲からはひどく理解され難い行動を。
私にもその人たちを納得させられるだけの理由はなかった。
ただそうしたかったのだ。理由はずっとわかっている。
でもそれはやっぱり周りを納得させてあげることはできなかった。
私は自分を嫌いじゃないけれど、特に自信があるわけでもなかった。
これと云っていいスタイルでもないし、悪い性格でもない。
人並み、という表現が適切かわからないけど、特化すべき点も劣等的な部分もない。

それがいやだった。
もっと美人だったら、とか、もっとスタイルがよかったらと想う私の自尊心だけは、
人一倍強かった。
人並みだと思っている自分もいるのに、認められたくて、人よりちょっと秀でていたかった。
でもそうならない現実。
選ばれもしないし、自分で望んでいても受け入れてもらえない現実。
精神的な劣等感で満たされた私の心は、その「普通」の私に対して、
「希望が叶えられない」理由を求めた。

同じ「普通」の別の子がいい思いをして、どうして私が駄目なの?
そういう疑問が沸き起こってくると、昔から歯止めが効かなかった。
私の自尊心の強さと、それとは裏腹に存在する自分への云い訳と逃げ道は、繋がっている。
簡単に乗り越えられる、芝生だけでできた中央分離帯のような感じで。
私は自分のどこかを傷つけることで、どうにもならない自分への理由を見つけ、
どうにか折り合いをつけてきた。
それも身体的な傷で。

切ったりするわけではない。
でも、今の私の行動をとってみると、つまり火傷までならば十分に、
自分にとっての我慢の自傷行為であり、それがあるせいで私は駄目なんだと、
自己満足することができる。
傷があるから、私は好かれないんだとか、
これがあるから私は積極的で可愛らしい態度に出られないのだと。
独り暮らしを始めてから、私のその頻度は高くなってきた。
日常的に行われる、無意識のうちの行為は無数に及ぶ。挙げだすときりがないくらい。
そのとき、携帯が鳴った。
右手で携帯を取り上げ、液晶の画面で相手の名前を確認する。
嘉名さんからだった。

「はい」

私はいつものように出る。

「カナ?」
「うん」
「今大丈夫か?」
「うん」
「何してた?」

嘉名さんの声は、外気を纏って、乾いた優しい色をしていた。

「・・・火傷してた」

私はちょっと考えてから答える。

「は? 火傷ってあの火傷?」
「そう。お湯かけちゃった」
「・・・こぼしたんじゃなくてかけたのか・・・?」
「よくわかんない」

嘉名さんの声が、電話の向こうの車の音に吸い込まれる。

「あと三十分くらいでそっちに着くから、ちゃんと冷やしておきなさい」
「はぁい」
「ちゃんとだぞ。冷たいとか云うなよ」

真面目に、半分怒ったような声でそれだけ云うと一方的に電話を切られた。
私は、いつのまにか胸元まで上げていた左手を見つめながら、
綺麗さと醜さに言葉を失くした。
云われたとおり、流水に手をかざしたり、
洗面器に水を溜めてその中に手を浸けたりを繰り返しながら、
冷たさでそれこそ感覚のなくなってきた左手を労わっていた。

ガチャガチャと音がして、部屋の鍵があいて嘉名さんが入ってきた。
靴を脱ぐと、ビニール袋を床に置きながら、ま
っすぐに私の眼を見つめてから、洗面器の中の左手をとった。

「・・・また派手にやったなあ」
「・・・」
「熱かったろ・・・本当に馬鹿なんだから」
「冷たすぎて自分の手じゃないみたい」
「俺の知ってるカナの手じゃないみたい」

私の声を真似て冗談を云いながら、嘉名さんは袋から湿布や包帯、
軟膏を取り出して、手際よく私の左手に施していく。

「すごおい」

私は感激しながら、その光景を嬉々として眺めていた。

「カナのその勇気というか、度胸のほうが凄いよ。何かあったのか?」

包帯の端っこを留め金で留めたあとで、嘉名さんは悲しげな眼をして私を見つめた。
眼を細めるから、私はその奥にどんな想いがあるのか、
読み取れなくてちょっとだけ心細くなる。
そして、左手のことをちょっと後悔する。

そうだった。
私は自分の手が大好きだった。
唯一、私の躰のなかで好きだと云える部位が、両腕。
肩から肘にかけての薄い皮膚の下にある均整のとれた筋肉は、
その中間部分で少しだけ細くなっている。
肘から手首にかけての、緩いカーヴは陽に焼けて少し寂しそうで、
それがセクシーだと嘉名さんは云った。
手の甲は指に向かって細くなっていき、
血管が薄く見える、艶やかで骨っぽくて綺麗な手をしていた。
煙草を吸うときの、左手の指の曲げ具合は自分で云うのは何だけど結構色っぽい。
それもできなくなってしまった。
これから先、痛々しい印象だけが左手に残っていく。
煙草を吸うたびに、私はこの夜のことを思い出すのだ。
私は何も云わずに嘉名さんの胸に顔を埋めた。
嘉名さんはスーツの上着を片手で上手に脱ぎながら、私の頭を、
軽くなでて抱きしめた。
私は頭を離して立ち上がると、クローゼットからハンガーを出して嘉名さんに渡す。

「サンキュ」

脱いだジャケットをハンガーに吊るして、本棚のフックにかける。
嘉名さんの脱いだ上着は、肘の部分で少し皺を寄せているけれど、
躰にフィットするように縫製された生地はピンとしていた。
紺色の生地に細く白いストライプの入った細身のスーツは、嘉名さんにとてもよく似合う。
白いハイカラーの、糊のよく効いたシャツ。
無地だけれど、よく見ると白いストライプ模様が縫いこんである、贅沢な仕上がりになっている。
ノーネクタイで、胸ポケットには、こっそりとシャツと同色の白いハンカチーフが忍ばせてある。
濃いチャコールグレーのソックスがズボンの裾から覘いていた。
おそらく、膝下までのハイソックスなんだろう。椅子に坐るとき、
ズボンの膝が伸びて癖がつかないように、ズボンを少しだけ引き上げて坐る。
それで足が見えてしまうのは格好悪いので、ハイソックスをはくのだと、
以前に教えてくれた。
玄関に無造作に並んだ靴は、なめし皮色の艶のある紐の革靴。
実際は、土踏まず側にチャックがついているので、
そこを上げ下げして靴を履くようになっている。

私が一番大好きな嘉名さんの格好だった。

もしかしたら今晩、嘉名さんは私を夕食に誘うつもりだったのかもしれない。
ベッドに浅く腰掛け、開いた両の膝の上に、
それぞれ肘を乗せている嘉名さんの姿をぼんやりとみとめながら、私はそう想った。

「来週はちょっと忙しくなるから、本当は晩御飯を外で一緒に食べようかと思ってたんだ」
「そんな気がした」

私は微笑みながら、隣に坐った。

「?」
「その格好見て」
「・・・ああ。カナ、これ好きだろ」
「うん。大好き。だって嘉名さんに凄く似合うんだもん」

嘉名さんは嬉しそうに笑いながら、私の左手を手にとって、改めて眺める。

「どうする、何か食べにいくか?」
「ううん、もう食べちゃった」
「そうなの?」
「もっと早く教えてくれたら、食べなかったのに」
「微妙だったからなあ・・・」

嘉名さんはいつだって、約束をしない。
当日になって私に電話をしてくる。
仕事が忙しいせいもあるけれど、約束の嫌いな人だった。
もし私に電話をして駄目だったら、別の人に電話をすればいいだけのこと。
それでも誰も都合がつかなければ、家に帰る。
奥さんのいる家へと。
二人はとても理想的な夫婦だった。
一度だけ、見たことがある。私の通っている大学の学校祭イベントに、連れ立って来てくれたとき。

「理想的な夫婦だと思うよ」

嘉名さんは自分でそう云う。
仕事も持ち、休みの日に一緒に出かけたり、色々な話をしたり、
趣味を共有したり仲もいいし、干渉しすぎることもない。
一人の大人として互いを尊敬しあい、尊重し合っているのだと。

「お互いに恋人もいるけどね」

嘉名さんが最後に付け足した言葉は、私の耳の中に響いて波紋を拡げた。
どういう意味なんだろう。
それが口説き文句だと知るには、出逢った頃の私はまだまだ子供だった。

「公認で浮気してるんですか?」
「公認って云い方もあるか」

そう云っておかしそうに笑った嘉名さんの笑顔は、屈託がなくてとても爽やかだった。
大学で、学校祭実行委員会に所属していた私は、
イベントの企画でイベント会社や代理店の人たちと仕事をする機会を多く持っていた。
私自身、その仕事や世界に興味を持っていたせいもあり、
それまでの学生のみのイベントの枠を超えて、
規模を大きくしていくことに焦点を置いて活動していたから。

「クレバーな感じがした」

初めてホテルに行ったとき、嘉名さんが云った、私の第一印象。
そんなふうに云われたのは初めてだったので驚いた。
それまで、仕事の対象として対等に扱われたことは当然なかったし、
社会人からそうして表現されたことも、まして男性からそんなことを云われたこともなかった。

「俺が電話してなかったら、どうしてた?」

嘉名さんは、私を見ながら訊いた。

「どうって?」
「自分で手当てできてたか?」
「・・・なんとかやってたとは思うけど」
「・・・もっと自分に自信持っていいんだぞ、カナ」

そう云われてもどうやっていいのかわからない。

「カナ、俺と結婚したら嘉名カナで、大変だったな」

そう云って笑った嘉名さんのことを思い出す。
私も一緒に笑ったけれど、本当は複雑だった。
結婚してもいいほど好きになっていた自分の気持ちを押し隠してしか、
嘉名さんとの関係を続けることができない。

こんなに好きなのに、それは違うと嘉名さんは云う。
どうしてそんなことを、嘉名さんが云いきれるだろうか。私の気持ちなのに。
嘉名さんは自分の立場をわかっていて、どういう関係がいいのかも知っていたかもしれないけど、
私はこんなに好きになってしまうなんて思ってもいなかった。
それのどこが違うんだろうか。
勝手なことばっかり云って。

「大変になってみたいなあ」

と云った私に、嘉名さんはまるで卒業式の練習のように返した。

「嘉名カナっ」
「はいっ」
「嘉名カナ」
「はい」

その馬鹿馬鹿しさと、空しさや間抜けさに気づくまで、繰り返して遊んでいた。
付き合い始めた頃は、自分に少しずつ自信ができていった。
自分が尊敬できる人と一緒に時間を過ごせること、
それもとびっきりお洒落な男性に仕事の面でも認めてもらえたということも影響していた。
でもいくら、嘉名さんは夫婦公認とは云え、私はまだ大学生で、
表立って会うわけにはいかなかった。
だんだんと苦しくなっていって、私は他の男性とも付き合うようになっていた。
同じ大学の学生や、ほかの会社の人。嘉名さんのほかに四人くらいいる。

「嘉名さんて、女性からの誘い断ったりしたことあります?」

関係が始まって一年くらい経った頃の会話。

「あんまりないかな」
「でも好みじゃなかったら断るんでしょ?」
「好みじゃない女性とあんまり食事行かないしね」
「なるほど」

私は苦笑しながら、ビールを空けた。
同じタイミングで、嘉名さんのグラスも空く。

「何飲みますか」
「ワインにしようかな・・・カナは?」
「私は・・・もういっぱいビールにしようかな」
「じゃあ俺もそうしよう」

珍しく三杯目もビールにした嘉名さん。
私に気を遣っているんだろうか。

「昔は断ったりしてたけどね」
「どうして変わったんですか」
「女性を傷つけることをしなくなっただけ」
「傷つける?」
「一度さ、云われたことあるんだ。女性からの誘いを断るのは、気遣いでも何でもないって。結婚してる自分と付き合って傷つくかどうかなんて、考えること自体が自分勝手だってさ。好きならそれでいいでしょって」
「へえ・・・」
「女性を傷つけることはしたくないって云ったら、それなら仕事以上の付き合いをしないほうがいいんだってさ。どっちみち傷つくんだから、何もないより何か事が起こって傷つくほうを、そういう女性は望んでいるんだって」

私は自分だったらどうだろうと考えた。

「カナはどう?」
「ううん・・・今考えてたとこですけど。・・・私も何もないより、そうですね、関係を持って傷つくほうがいいかな。何もしないで後悔するより、人生が豊かになる気がする。実際、そうだし」
「どうやらそうらしいので、今の俺はこうなっちゃった」
「女性のせいにしないで下さい」

私は笑って、焼き鳥の串を口に運んだ。

「俺、付き合ってる女性が何人かいるけど」

出逢って初めて飲みにいったとき、嘉名さんは私にそう云った。
結婚してるってこともびっくりしたけど、突然そんなことを告白されて私は、
一気に緊張感が薄れてしまった。
口元が緩み、半ば微笑を湛えて見返した。

「当然、みんな違う位置づけなんですよね?」
「?」

嘉名さんは不思議な顔をして私の眼を見つめ返した。

「みんな同じ位置づけで、その中に私が埋もれるなんてことはお断りです。それぞれ魅力が違ってくれないと、私、余計な嫉妬しちゃうから」
「・・・ふうん・・・そういう風に考える人って珍しいね。いいね」

貴重な古伊万里の皿でも見つけたように、興味深そうに私を眺める。
上から下から、ひっくり返して裏側まで万遍なく、手にとって触れられているような、
くすぐったい感覚を覚えた。

「みんなと同じ。それだけが私の嫌いなことなんです」
「そうだね、わかるよ」

俺の眼は間違ってなかったと云わんばかりの、
とても満足した納得するような笑みを顔中に拡げて、椅子の背もたれに躰を預けた。
私の心にも、満足と自尊心と、そしてちょっとだけ悔しさが溢れた。
この人には勝てないかもしれない。
その想いが、余計にこの人に勝ちたいという思いを強くさせた。
好きな想いに溺れることなく、対等に関係を続けてみたい。
そんな欲望が過ぎった。二人の視線が一瞬、強く絡み合う。
この人との関係を通して、私はさらに上へと這い上がっていける。
そんな確信が胸を伝って眼に込められていく。
それが伝わったかどうか、それは問題ではなかった。
この人が面白いと私に感じることを、どんどん増やして、いつか越してみたい。
今は、どうあがいても私には、嘉名さんを閉口させられるようなことはできない。
けれど、きっとそのうち
「ちょっと悔しいなあ」と云わせられる日がくる。
そう感じた。
そうしたら、自分の嫌いな部分を受け入れ、
ありのままの自分で生きていく道を歩ける気がした。

あれから一年半という時間が過ぎて、私がどうなっているかというと、
さして変化もしてない。
今日だって、こんなことになっている。
嘉名さんが握ったままの左手をぼんやりと見つめながら、
私は悔しさで無性に腹立たしくなってきた。
そんな想いさえ、嘉名さんには伝わってしまう。

「どうした?」
「・・・なんでこんなかなあって」
「こんなって?」

言葉を探してみるけれど、あまり巧く云えそうにない。
ありきたりの、子供染みた表現しか頭に浮かんでこない。

「カナは結構強情だからな」
「それが取り柄なんです」

語尾に力が入って、自嘲気味な笑いを浮かべる。

「カラオケ行くか」
「カラオケ?」
「まだ二人で行ったことないだろ」
「普通あんまり二人で行かないと思うんですけど」
「いいんだよ別に」

笑って立ち上がる。
私は、いつの間にか、嘉名さんとの関係に安心感を求めるようになってしまっていた。
眼覚めのそばで、隣に好きな人がいるという感じ。
悲しいことも苦しいことも、ちょっとくらい辛いことも、朝に意識が戻ったとき、
肌を通して温もりを感じ、自分以外の人の呼吸や体温を感じられることで、
その日一日も十分に生きていける自信に変わる。

何度か、別れよう、この関係を終わりにしようと決意して逢うくらいに、
思いつめた感情を持ったこともあった。
一張羅のスーツを纏って、別れを切り出そうと約束したけれど、
逢うといつもその決意が鈍った。
こんなに好きなのに、自分の精神が逢うと安定するのに、
どうして別れようなんて思ったんだろうと。
破綻のそばにあって、私はいつも生きている感覚を自分のものにできた。

「ずっとくっついてたい」

私は、立ち上がったままの嘉名さんのスーツのズボンを握りしめてつぶやいた。

「今日はこのまま一緒にいて」

請うように見上げながら、私はその眼の色の効果を考えていた。
そのくらいの余裕が私のなかに生まれつつあった。
嘉名さんはしばらく、私の眼の奥を見つめたあと、ベッドに坐りなおして私の頭をなでた。

私がわざと手を火傷させても、
それが嘉名さんを引きとめておこうとする行為ではないことを、
嘉名さんは知っているから、だから安心して甘えられる。
そういう行為を負担に感じるような関係はとっくに通り過ぎ、
ただ眼の前の言葉や行為だけを受け止められる距離に、二人はなってきた。
それが私には嬉しかった。
愚痴をこぼしても、黙ってただ訊いていてくれる。
気休めの言葉をかけはしないし、教訓じみた、もっともらしいことも云わない。
私がどうして欲しいのかを、嘉名さんはもう十分に感じとってくれる。
そこまでの関係になった。

嘉名さんとここまで来たことを幸せに感じる私と、
この関係を別の人と構築しなくてはならないのだという想いが同居している。
このままでは、私はずっと、嘉名さんに依存したまま生きていくしかない。
セックスも、感情も分け合えるけれど、
この人には帰っていくべき別の場所がある。
私は私なりに、自分の人生を見つけなくちゃならないと知っている。

「まだ痛む?」
「・・・じんじんしてる」

左手には、まさに焼け付くような痛みが走っていて、今にも膨張して破裂しそうな感じだった。
重くて鈍い痛みが、躰中の全神経が左手に集中してる。
嘉名さんは、私の服をゆっくりと、大事そうに脱がしてくれると、
ベッドに先に横にさせてから、自分も服を脱いで白いランニングシャツと下着だけになって、
私の隣に躰を並べた。
二人で天井を見上げながら、黙っている。言葉を探す必要もなくて、
私は心を落ち着けて幸せになっていく。
まだこのままでいたい。それだけだった。

「先に眠りな」

嘉名さんの声は、とても優しくて、私のあごをちょっとだけ持ち上げて、唇を重ねた。
もう少しだけキスをしていたくて、私は気持ち、唇からあごにかけて、
嘉名さんの動きを追いかける。
ほんの少し空気が和らいで再びその唇が私に重なる。

次の朝、嘉名さんは包帯を換えてくれたあと、仕事先の現場にまっすぐ向かって行った。
しばらく忙しくて会えないと思うけど、
その間は自暴自棄にならずにちゃんと左手を治すことに専念すること、と約束させられた。
こんなに使わないよ、というくらい薬を置いていった。

土曜の夕方、閉館間際で訪れた図書館。
蛍光灯の下で、誰もが静かに、同じように本を捲っている。
その速度だけが、自己主張をしているようだった。
出掛けに、二口分のブランデーを飲んだ。咽喉が焼けるようにかあっと熱くなり、
空っぽの胃がどの辺にあるのかがよくわかる。
すぐに煙草を吸ったら、線香花火の匂いがした。
煙草の先で燃えている灰の隙間で、オレンジ色のちりちりした明かりが、
ちょっと刹那そうだった。

私は、返却の一週間遅れたCDを窓口に返してから、左手を眺めて、
返すつもりでいた二冊の辞書を再び借りた。
チャイムで急かされるようにして出た図書館の外は、五時を回り、
薄暗くなっている。
大きな市民公園のなかに位置するので、帰り道を行く人たちの姿が、
外灯に照らされて美しいシルエットになっていた。

自転車にまたがり、私は幅広い公園の真ん中の石畳のうえを走った。
黄色くなる前に散ってしまった枯葉が、からからと音を立てて風に舞っている。
風の通り道でブレーキを静かにかけたとき、視界に銀杏の並木が入り込んできた。
薄闇に浮かび上がる、黄金色をした銀杏の葉。
その並木の中央へとペダルをこいだ。
同じようなことを考えている人たちの後ろ姿が、自転車のライトと街灯の灯りで、
ゆったりと移動している。
左耳の外耳部分、耳たぶのあたりに、ぼうぼうと風の声が溜まり、顔の角度を変えると、
右耳のほうで今度は、ざあっという風の駆け抜ける音がする。
美しくその色彩を変えた銀杏並木の最後の一本だけ、
緑色を鮮やかに残したままなのを、来る途中では気づかなかった。
まるで、蛍光色のような、太陽の下ではきっとまぶしいほどの
薄くて艶やかな緑色を放つんだろうと想像した。
表も裏も同じ色なのに、何故かそれぞれが違う色のような感じ。
見えている葉の、裏が見えるか見えないかの微妙な縁のあたりで、
黄金色と空の色と蛍光灯の色を吸い込んでいる。
そして独特の蛍光色が降り注いでいた。
包帯の巻かれた左手を翳して、私は自転車を降りた。

木は、自分を傷つけることなんて、絶対にしないんだろうな。
不意にそんなことを思った。
綺麗に咲こうとか、美しく逞しく生き抜こうとか、そんなちっぽけなこと、
考えたりせず、ただ自分が木として生まれたから、木としてできることを、
まさに自然のままに生きているだけなんだ。
秋になったから、全部の葉を黄色くしなくちゃいけないなんて、
思ってもいないんだろう。
人々の眼を楽しませるのがあなたの仕事ではないもんね。

「今年は太陽の陽をいっぱいに浴びたから、このくらいの涼しさでは黄色くなれませんよ」、なんて思っているのかもしれない。
「この調子じゃあ、今年は黄色くなるまえに雨かなんかで散ってしまうかもね・・・すると銀杏の実はお隣さんに任せて、来年は細々と過ごしますか。本意じゃないけど、そういう年もあるんだから、こればっかりは仕方ない」、と云ってるかもしれない。

ああ、でも銀杏の木にも性別があって、これは男性かもしれない。
黄色くなって実をつけるのは女性の役割だろうか。とすると、
この並木はほとんどハーレム状態なわけか。
こんな端っこに寄せられて、ほかの木に受精しなくちゃならないなんて、大変かもね。

「授粉を飛ばす風に併せるのはいいけど、一番離れている木が二百メートルも先にあるもんだから、狙いを定めるにはずいぶんと経験を要しましたよ。黄色くなりゃいいってもんでもなくてね、これが。結果が一年後になってみないとわからないので、樹齢がいくら長いって云ったって、あなた限度ってものがありますからね。いつまで体力と集中力が続くか。まあ僕にできることを、今年も来年も、ずっと、僕が生きていられる限り続けていく、それだけです」

朝の雨に濡れて焦げ茶色になった細い枝に連なっている緑色の葉、
そしてその葉が重なり合うように向かい合っている、黄金色をした銀杏の木。

「あなたたちが一番お似合いのカップルよ。だって、そうやって向かい合っているのがとても自然だもの」

私は、首が折れるのではないかというほど、二本の銀杏を見上げて呟いた。

「それはどうもありがとう。僕もそう思います」

そう云っているような気がした。
黄金色をした銀杏のほうは、何も云わない。
綺麗に染まった色が夕闇に浮かび上がり、緑色の銀杏を守っているようにも感じられた。

「それではまた」

心のなかで、明日もそのままそこにいてね、と願いながら、私はペダルを漕ぐ足に力を入れた。
数十メートル先にある、柔らかい白熱灯の灯りの手前を、カップルの影がゆらゆらと揺れていく。
ショートカットの髪を無造作に跳ねさせた女性の、
肩のあたりには長いストールが巻かれている。
細身のパンツが膝までのブーツの中にきちんと自然に吸い込まれていた。

私はその横顔を確認せずに、通り過ぎる。
自分の影が、二人の影と一瞬だけ並んだ。
頭に巻いたジャージー地のバンダナとGジャンを着ている私のシルエットが、
本来の大きさより倍くらい大きく写っている自転車の車輪の影のうえに乗っかっている。

いくつもの後ろ姿を追い越しながら、
私はいつかは別々の道へと折れ曲がっていく人たちの帰路を想像する。
手をつなぎ歩いていく大きな影と小さな影。家の前の電灯。
通りを流れる煮物の匂い。電車の音。
遠くを走るバイクのエンジン音、住宅街に建つ居酒屋の暖簾の生地の薄さ。
そこから零れてくる灯り。
背負った鞄のなかでずっしりとしている二冊の辞書と、私の部屋。
そして左手。

こうして毎日が過ぎていけば、いいのに。
こうして感じることが自然なように、あるがままを受け入れていたいだけなのに。
どうして巧くいかないんだろう。
でもきっと明日は大丈夫。
私は最後の緩やかな坂道を一気に昇りつめた。気分がよかった。

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