ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

サヨナラ





「私のこと好きなの?」

躰をベッドに起こしながら、彼女が肩だけ振り返った。
その声は、言葉の響きに反してとても柔らかい。
カーテンの隙間から入りこんでくる外のあかりが、彼女のうしろで淡く瞬いている。

「どうして?」
「…好きなのかなぁと想って」
「だとしたら?」

右腕で頭を支えながら、向き合って横たわっている彼女の視線をたどる。
電源の切れたテレビ画面に注がれる、優しい、
でも自分から遠く離れていく眼の輝きに、タクは不思議と安心感を覚える。

「だとしたら…」

彼女は、悪戯が見つかってしまった子供のように笑い、
背もたれの枕に躰を預ける。
そして、
「つき合おっか」と、眼の端に微笑を浮かべたまま、自分を見下ろした。

彼女はタクの恋人ではない。
どこまでが本気なのか、彼女といるとよくわからない。
触れたと想っても、次の瞬間にはもう別の場所にいる。
好きだけれど、好きと云ったらもうその時点で二人の関係が終焉を迎えてしまうような。
いつも縁(へり)を歩いている気分にさせられる。
それが、彼女の魅力だということは最初からわかっていたけれど。

「つき合ったら何か変わるの?」

タクは、指でその胸に触れながらゆっくりと尋ねる。

「ん…もれなくこのまま、かな」

くすぐったそうに微笑むと、そのままタクに覆い被さる。

「それなら考えてみるかな」
「ふふふ…」

曖昧な風が二人の間を流れた。
彼女を完璧に自分のものにしたい欲望と、
その結果自分に訪れる彼女に対する飽きへの不安が、複雑に絡み合う。
結局は、この曖昧な心地よさから離れられない。

約束もなく、縛りあうこともなく。
安定さえ求めなければ…。
快感と痛みが躰の中を走り、両手が彼女の膝を摑む。
無意識の意識がタクの神経を覚醒させていく瞬間、
自分の上にある肉躰から発せられる声が、タクを、
タク自身の内面へと引きずりこんでいく。
水中から訊く空の音のように、彼女の声は何か不思議なものに包まれて響く。
もしくは、彼がどこか遠く見えない存在になる。
薄いオブラートの向こう側で揺れる影と、声。

彼女との関係は、そんな陶酔と自己満足の延長にある。
それは、心を許した相手に与えたり求め得るものではない。
眼の前の躰と心を、単なるひとつの固体として認識し、
扱うことに痛みを覚えない関係において可能な行為だと、タクは冷静に想う。
いや。
まかり間違ってもっと早くに出逢っていたら、本気で愛していたかもしれない。
その想いの強さと激しさゆえに、互いを壊し合う愛があることを知る以前であれば。
けれど、彼女と自分に限って、「もし」も「万が一」もあり得ないと、
タクは感じている。
本当は、いつだって言葉を交わしていたい。
でも、互いを求める関心を維持するためには、
常に、不安と嫉妬、刹那さと憎しみ、優しさと憧れを持ち続けねばならない。
核心に触れることは終わりへの始まりであり、
終ることを互いに望んではいないのだと、彼女を抱くたびに想う。

こんふうに感じるようになったのは、いつ頃からだったろう。
これが本心なのか、それとも割り切った感情なのかを直視することさえ、
タクは躊躇っていた。

彼女には結婚を決めた相手がいる。
医者の卵である彼が、インターンとして東京へ行っている時、彼女と出逢った。

八月も目前の熱帯夜。黒の細いパンツスーツを着て、
彼女はそのクラブに一人で現れた。
露出度の高い空間の中で、逆に秘密めいた雰囲気をその全身から醸し出していた。
奥にいる――この店ではよく見かける――グループを見つけると、
仲間にだけ素早く微笑んで、まっすぐにゆっくりと進んでいく。
フロアに溢れるほどの人間の存在も、
彼女にはまるで見えていないかのように感じられた。
こういう場所には慣れていないのかもしれない。
一瞬、そんなカンジがした。
けれど、Vゾーンが深い麻ジャケットの下が、素肌であるとタクが気づくまでに、
そう時間はかからなかった。

「ね、今度飲みにいかない?」

声をかけてきたのは、彼女が先だった。
擦れ違いざまに眼が合う。

「いいよ」

女の子から声をかけられるのは、特段珍しいことではない。
でも、何を考えているのか読みとれないその眼が、タクには新鮮だった。
そして興味を持った。
最初のデートは、何故か居酒屋。
管理職に片足を突っ込んだようなサラリーマンが肩を並べて座る、
焼き物の油で黒光りしたカウンターしかない、狭く細長い処。

「私、あなたの手好きなんだ。そういう手。いかにも男の人の手って感じでホッとする」

メニューを摑みかけたタクの右手を、首を少しかしげて見つめている。
骨ばっていて、年齢の割りには皺の入った、乾いた手。
親父にそっくりだと母親が云う。
仕事帰りの、何てことのないスーツをまとった表情は、
クラブで出逢った彼女とは違っていた。
妙に素直で、拍子抜けするくらいおやじウケするタイプだった。
自分も別に二枚目でもないし、仕事のことなどを面白く話して訊かせ、
適当に彼女を笑わせたりした。
その反応や笑顔には、これといってもうひとつの表情があるようにも感じられなかった。
こんなもんかな。
内心、密かに云い訊かせた。

「ガッカリしてる?」

三軒目のショットバーで、彼女が前を見たまま、左隣りのタクに笑いかけた。

「え?」
「この前と違うって想ってんでしょ。話し方と口元でわかるもの。あと、眼、ね。」

ふふふ、と唇の右端で笑い、ニコラシカを一気に空けた。
その笑いは悪くない。

「結構マジメなんだね」

彼女はバーテンダーに二杯目を合図しながら、言葉を付け足す。
マジメだと云われると、いつもなら苛立つのだが、
不思議とそんな気もおきなかった。

「男の人には二つのタイプがあるんだって。本当は違うだろって想って楽しんでる人は、三軒目を飲みには誘わない。本当はこういう子なのかもしれないって感心してると、三軒目もこうなっちゃうワケ」

すねた風でもなく、どちらかというと可笑しそうにタクを見つめた。
さっきまでとは違う、クラブで初めて眼を交わしたときの、微笑を讃えた、
共犯者の色だった。

「そんな気はないのかなと想った」
「私から誘ったのに?」
「君は…、飲むことと寝ることは一緒なの?」
「質問したのはこっちです」

語尾に軽く強さを込める。
その時初めて、彼女の左の鎖骨辺りに薄い赤みがさしているのに気がついた。
スーツの襟がちょうど重なる部分。
カウンターの中にある、グラス棚の壁から放たれる淡い光が、
うっすらとその色を浮かびあがらせる。
どれくらい見つめていたのだろう。

「婚約してるの」

タクの視線を意識して呟く。

「月に二度東京まで逢いに行ってる。昨日あなたと電話で話したのは、空港のゲート」

視線を襟元からその唇へと移しながら、面白い子だと想った。
どんな感覚を持っているのか、手っ取り早く知りたいと想った。
彼女がタクの眼をしっかりと捕える。

「寝たくもない相手とは食事しないの、私。簡単でしょ?」

それが質問への答えだと云って、席を立った。
次の日、タクは彼女をホテルに誘った。

自分のことも、婚約者のこともほとんど話さない。
けれど、その相手の男を大切に想っているだろうことが、
言葉の端々から伝わってくる。
それが一層タクから純粋な愛し方を奪った。
婚約者がいながら平気で遊べるような子を好きになんかならない。
自分もそんな人間(やつ)じゃない。
そう云い訊かせつつ、関心はどんどん深くなる。認めたくはないけれど…。

彼女との関係なら、このくらいの距離や感情で十分だという想い。
そして、本当にこんな関係を続けていいのだろうかという不安。
「好き」という感覚を、どこかに置き忘れそうな気がしていた。
彼女がどんなに甘美な言葉を自分に投げようと、
彼女が本気になることはないとわかってしまうこと。
それは、二人に未来がないということより、
タク自身の愛し方が成長しないということにおいて、どこまでも不毛な選択だった。
かといって、つきあおうかと云われても実感が湧かない。
彼女に対しても申し訳ない気持ちが混在し、逢うたびに複雑になる。
別れる決定権はタクが握っているようでもあり、
彼女が決定することのようでもあった。

タクが恐れているのは、彼女から別れを切り出される可能性が常に存在すること。
それかもしれない。
彼女に「捨てられる」という、卑屈な言葉しか浮かんでこない自分が、
無性に腹立たしかった。

「あたしたち来週で一年なんだね」

たいして感情のこもらない、でも響きのあるまっすぐに通る声で呟く。
朝陽のせいで、壁の色が、何層ものグラデーションに染まっていく。
近くの公園に流れる早朝の光景が眼に浮かぶ。
ジョギングをするマラソンびと。
散歩の途中で擦れ違ういつもの他人と挨拶を交わす人々。
そして、運が良ければ一度も信号につかまることなく会社へと辿り着くであろう、
数えるほどの車。

「初めて会ってから?」
「二人でね…」

彼女がタクにとって不可思議な存在であるうちは、きっと、
その婚約者との合間を縫って、逢い続けるのだろうと想う。
互いに負を背負わない距離にある限り。
そう想い、タクはベッドサイドで煙草に火をつけた。

「ホテルの朝って嫌い」

裸の背中をこちらに向けながら佇む窓際。
そのシルエットは、初めて触れた時と変わっていない気がした。
彼女は自ら云い訊かせるように言葉を繋げる。

「明るくなってから出てくと、どんなに人込みに紛れようとしても無理なんだよね。虚しいから嫌い」

カーテンをきつく閉めると、ベッドに潜り込み、タクの躰に自分を押し付けた。
ひんやりと柔らかい感触が、皮膚の下まで伝わってくる。
ホテルの朝が嫌いな本当の理由は、二人の関係のせいだとタクは想った。
朝の世の中は、現実だけが取り残される。
二人は、夜のために、一日かけてそれぞれの姿を作り上げていく。
同じベッドで眼覚めた朝その瞬間から、夜と同じ顔は作れない。
だから、妙によそよそしくなり、不本意な時間を過ごしてしまう。
タク自身も、どうしていいかわからないことの方が多い。
焦りを含んだ無言は、互いの上に重くのしかかる。
一日のスタートを一緒に切れるほど、キレイな関係でないことが、
わかってしまうから。
だから、彼女も朝が嫌いなのだと、タクは感じた。

「日が暮れるまで居ようか」
「ここに?」
「ほかにある?」

一緒にいる、と囁くような声を漏らし、さらに躰を絡ませてくる。

「どした?」

タクの低い言葉と彼女の呼吸だけが胸に響く。

「今日でオシマイにしようか」

その顔はまだタクの右の胸にうずめたまま、静かな鼓動を刻んでいる。
それには答えず、タクは煙草の火を消した。

そうしよう。
彼女の冷たい肩を両腕で抱き寄せた。
悪い夢に泣きながら眼覚めた子供を、ゆっくりと抱きしめるように、大切に。

© Rakuten Group, Inc.
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