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ネオリアヤの言葉
呼吸
力の限り戦っているオリンピックの声。
その傍らで、
命の限り闘っている祖母の手の温もり。
その小さな呼吸。
「ごめん。ゆう子んち泊まってくから今日帰らない」
繁華街から遠く家にいる母へ、深夜零時をとうに回った言葉を届ける携帯電話。
私の声が、雑居ビルのホールの壁に響いて跳ね返ってくる。
その度に心が焦る。
『ごめん』
帰らないことにではない。嘘をついたことに。
泊まる理由もまともに話せないような自分を受け入れてくれている、母の気持ちに。
母の眠そうな呼吸が、声になる。
「明日は何時ころ帰ってくるの?」
「んー、まだわかんないけど…。まだこれから盛り上がる雰囲気だからねぇ。眠いな」
大雑把なはずの性格は、嘘をつく時に限って細かい話をしたがるから、
何気ない、少し酔いのまわった声で会話のポイントをずらす。
アルコールが回ると、テキトウで、でも本音に近い答えをしがちになることを
経験として知ってから。
灰色の、所々に皹(ひび)の入った妙に高い天井はそれだけで、
鼓動を加速させるには充分なだけの威圧感を漂わせ、私の上に覆い被さってくる。
コンクリートの壁は、もたれた背中を通して、
これから戻ろうとする店の賑わいを電話の向こう側まで伝えそうだった。
「ほどほどにね。おやすみ」
「うん、おやすみ…」
頭に浮かんだ顔は、眠そうだけど本当は全てを知っているかもしれない、
そんな複雑な母の表情。
そして、これから戻る場所にいる、大勢の中の、あの人の笑顔。
約束のないあの人との時間のためにだけ、この三ヶ月間、私は嘘をついてきた。
でも、その嘘は、私なりに出した、周囲との距離の取り方だった。
今の仕事と生活、環境そして彼との関係…、全てを手に入れ、
それでも尚、誰もが心から幸せでいられれば、それに越したことはないかもしれない。
けれど、痛みを伴わない幸せは存在するんだろうか。
何かひとつを手にすれば何かひとつを失う。
そうでなければ、手にしたモノへの歓びや愛着、
こだわりといった感覚が薄れゆく気がする。
リスクと云うと大袈裟かもしれないけれど、そのくらいの覚悟があって初めて、
「関係」というものに意味が生じてくると思う。
三ヶ月前、自分の中に彼の居場所を置いた時に決めた「痛み」。
それは「家族との信頼」、そして「精神的安静の場所」を自分から放棄することだった。
真実をもって信頼を崩すのではない。
嘘という壁を家族との間に置くことで、
見せることの出来ない私の姿が当然そこにはあり、その見えない姿の存在に、
家族は否応無く気づかされる。
その小さな隠しごとは、本来ならば隠す必要のないことであるが故に、
不信感や距離感を生む。
それらを埋めずに、私だけが家族に安定や安心を求められはしない。
本当は全てを伝えたいけれど、そこから変わってしまうだろう関係の方が、
ずっと怖かった。
臆病な選択かもしれない。
彼との関係においても、家族という関係においても、
本音をさらけ出せないという、出口のない苦しい現実。
それでも私が得たかったモノは一体なんだろうか。
そこに向き合わない限り、失い続けている全てのモノは、一向に救われない気もしていた。
わかっている。
向き合った末に答えを出せた時、もしかすると嘘は必要なくなるのかもしれない。
本当に自分が手にしたいモノがわかったら、
家族に求めている、優しくて曖昧な関係を断ち切る痛みも、受け入れられると思う。
でも、それまでは、嘘を通して、危うい関係を続けていくしかない。
硝子テーブルの上には、
いつも
二つの時計と二つの携帯電話が
バラバラに置かれている。
二人が一緒にいるということ以外、
何も、なんの意味も持たないことが
とてもおかしかった。
そして
嬉しかった。
午前九時。
カーテンの隙間から滑り込む朝陽の彩(いろ)で、ボンヤリと、
彼の左手を見つめる。
私の父がそうだから、特に不思議にも思わないけれど、その人もまた、
結婚指輪をしていない。
でも、こんな関係を愉しむのであれば、していた方がラクに遊べるのじゃないだろうか。
そう感じてしまうのは、この中途半端にひねくれた性格のせいかもしれない。
その手から眼を逸らし、静かな呼吸を辿る。
この人は知っているだろうか。
その手が、時々温かいことを。
その手は、時々優しいことを。
本来ならばあるはずのない温もりの隣で、一瞬忘れることのできる孤独。
その温もりと引き換えに過ごす明け方の淋しさは、瞼を開けたまま、
黙ってその眼覚めを待つほどの虚脱感さえも、与えてはくれない。
何も考えないようにすればするほど、灰皿には吸殻が増えていく。
「宮崎さん」
ベッドの端に腰掛け、そっと名を呼ぶ。肩に唇をおしつけ、軽く歯を立てる。
そしてもう一度。
「こら宮崎」
彼は、眠たそうに私を確認すると、
「あと五分…」
まるで子どものような言葉を呟いて、寝返りをうつ。
どうしてそんなこと云うんだろう。
冗談にして笑い飛ばす余裕もない朝、ちらりと垣間見てしまった彼の素顔に、
ひどく傷ついている自分。
母親でもない、恋人でもない、
ふわりふわりと宙に浮いている自分の存在に気づかされる。
これで何度目だっけ…。
私は感傷的になりたくなくて、意地悪を云う。
「もう三時ですよ」
右手をおでこに乗せ、ゆっくり呼吸し始めるその人。
でも、私の緩んだ口元から流れる微妙な空気は、夕陽とは違う鮮やかな光とあいまって、
それが冗談であることを伝えてしまう。
お茶を取ってというジェスチャーをしている左手の中に、ペットボトルを落とした。
手は触れない。
うつむいてこぼしたのは、大嫌いな溜息。
「おなかすかないですか?」と、空腹のせいにしてみる。
でも彼は、その前に、と求めてくる。
眠りの傍で、まだ熱っぽい手に触れられて、一度は拒んでみるけれど、
拒絶する理由も強さもなくて、まだだるい躰を重ねてく。
そして、再びまどろみの中へ…。
そんなことが繰り返される狭い部屋。
欲望を受け入れ、そして流されることは、
確実に、それまでの私の中の基準を崩していた。
時間を気にしながらも、皮膚感覚でしか動かない自分。
煙草に火をつけながら、ソファに躰を小さくあずけ、そのまるで無防備な風景を、
わざと切り離して見つめる。
左手の親指の爪を、無意識に噛むクセが、最近治らなくなっていた。
白く噛み跡のついた爪の先は、唇に触れると、カサカサとしたかすかな凹凸感がある。
蘇るのは、帰る人もまばらな明け方近くの道で二人、手を重ね歩いたこと。
うどん屋ののれん。
唇を交わしただけの眠りの淵。
そんな断片的な記憶たち。
そして辿りつくのは、六月のあの晩の光景。
――白い月に、墨色の、薄い雲がかかっていた。
朝の土砂降りのせいで、ほどよく湿気を含んだ外気が心地良い夜。
タクシー乗り場までのショートカットで通り過ぎるいつもの公園で、何の責めもなく、
その人と初めてキスをした。
そして、思い悩んだ末でもなく、この関係を受け入れた――。
ちょっと覗いてみたかった世界の入口で、彼がたまたま手招きしていた、
それだけのこと。
そんなツナガリだけで、ここまで来てしまった。
後悔したくない、といった類の行動力からでもなく、ただ、感じるままに。
あれから、理由を探さなかった訳じゃない。
でも、考えるのが怖かった。
許されるはずがないと自分に突き付けたとしても、
一度覚えた快感と、甘美で優しい眠りの時間を、そう簡単に切り捨てられはしない。
自分やその人を責めて、この感情を忘れられるのなら、その方が、
ずっと気持ちよく朝を迎えられるかもしれないとも思う。
けれど、彼との関係が埋めてくれる、
不安や心の隙間を補う「別の何か」を見つけに行く勇気は、
今の生活では到底生み出せそうになかった。
好きだから。
そう云い切るには、あまりに安易に踏み込んだきっかけ。
それでもいろんな想いが複雑に絡み合い、たぶん、そのどれもがあたっている。
そしてどれも違う。
その先がある気がした。
私のこの先が拓かれていく気がした。
だから感じるままに動いたのだ。いいか悪いかなんて迷う時間も惜しいほどに、
前進することを、心も躰も強く欲していた。
ワンフロア違えたデスクに坐る宮崎さん、その人の存在が、
私の気持ちの一部に入りこんだ日から、私は少しずつ変わっていった。
うっすらと青く暮れてゆく街に、少しずつネオンが灯る。
夏めいた六月の空気にあかりが溶け込み、その瞬間、
ワケもなくドキドキしてくる自分。
何か、とてつもなく楽しくて、幸せな胸騒ぎが今を包む。
まだまだ私の心は大丈夫。
そんな気がして叫びたくなる。
私は生きている、と…。
でも、声に出すことを許されず、そしてまた許さない自分。
矛盾だらけだけど、どれも、どれも、私の心から。矛盾だらけになるくらいの想い。
毎日の中で折り重なっていく、その感情が、理由だったような気がする。
失う痛みと引き換えに求め、選択したモノはこの感覚なのだろうか。
閉めきった窓の外はきっと、九月の優しい西陽が家路を照らし始めているんだろう。
夜辺、嘘の電話をしてから、携帯の電源は、切ったまま。
答えを出しあぐねている数日のうちに、入院している祖母の容態が、
臨床へと近づいていた。
九月も末だというのに、病院の窓一枚を挟んで存在する木々はまだ青く、
まるで別世界のようで、ナンだかうらやましかった。
生死が漂うこの緊迫感から逃げ出したい衝動と、
祖母をじっと見つめていたい気持ちとが、混在している。
日光を帯びたかすかに暖かい空気に包まれると、
決まって、祖母と宮崎さんの姿が頭の中で交差する。
無言のまま、ただ眠り続ける二人。記憶を辿るように思わず眼を細めると、
呼吸が音もなく脳裏によみがえり、怖くなった。
ボンヤリと遠のきかけた意識が、突然の音に呼び戻される。
耳に届いた歓声が、待合ホールの真ん中にあるテレビからだと気づくのに、
少し時間がかかった。
映像の流れる小さな箱の中で、我先にと、水をかきわけ泳ぎ続ける選手たち。
そして、姿の見えない何千という声と熱気。
「そうか。今日は女子水泳の決勝戦だったなぁ…」。
見知らぬ初老の男性が呟く。
白く無機質な壁に囲まれて響くその歓声は、
この場にいる私の胸をひどく白けさせた。
飛沫(しぶき)を上げて前進する選手たちの力強さが、
何を意味し、そして彼女たちはどこへ行こうとしているのか。
生きていることを謳歌しているのだろうか。
なぜトップの坐を争うのか。
答えを見失った自問が全身を襲い、どうしようもない虚しさに、動揺している自分。
ひんやりとした建物から、真夏の太陽の下に出た瞬間の、
視界が真っ白になるような、軽い目眩を覚えた。
ふと、祖母の呼吸が訊こえた気がした。
ホールから三室ほど離れた病室のベッドに横たわり、
遠のいては呼び戻される生命維持装置に抱かれた、祖母の躰。
ガーゼに含ませた水分がわずかに吸収され、
その生命がまだ何か伝えようとしていることを訴える、唇。
そこからこぼれる、小さく確かな呼吸。
祖母は、何を伝えようとしているのだろう。
祖母は、どんなふうに生きたのだろう。
オリンピック選手のように、全力で何かを求め、手にしただろうか。
芸術家や作家のように、表現することで、自分がここにいることを
必死で伝えようとしただろうか。
もしくは楽しむことを求めたのだろうか。
そして、何かを伝えようとしたのだろうか。
規則正しい機械に、引っぱられるようにして訊こえる呼吸を見つめながら、
私は答えに辿り着くことを、半分恐れていた。
答えそのものが怖いわけじゃなかった。
答えがわかっても、今の自分には何も変化を起こせない…、その事実が怖かった。
答えがわかることは、問題の解き方、つまり答えを導く方法を知るということ。
それが次のステップへ進む合図なんだと、これまでの経験から、知っていたから。
なのに、また逃げかけている。
足は祖母のもとへと向かっていたけれど、喉奥の粘膜がくっついて、
息をするたびに、乾いた音が耳の中で響いた。
「おばあちゃん…、私、まだおばあちゃんから何も学べてないよ。伝えてくれようとしてることが、わかんない。どうしよう…」
悲鳴に近い叫びが、腕や足や顔、指先、お腹の皮膚を突き抜け、
躰の外へ飛び出しそうだった。
立っているつま先が、ジンジンと痺れる。
その時。
眼の前にすっぽりと、記憶の欠片が入り込んできた。
「いいかい。何でもね、一生懸命やりなさい。結果じゃないよ。一生懸命やることが大切なんだよ」
髪をきれいに結い、正坐をして優しく微笑んでいる祖母と、
その言葉に、まっすぐに頷く幼い私がいた。
祖母の荒く、小さな呼吸の隣に腰をおろしていると、黙っていても、
私の行い全部を見ぬかれて、
それでも、私の全てを許されているようだったこの数ヶ月間。
あの人との関係の中で、心は痛みながらも、『生きている』ことを感じ、
愉しんでいた時間。
許されないからこそ、二人でいる一瞬一瞬を無駄にすまいと、一生懸命だったし、
それで幸せだった。
けれど、そんな短くも長い時間を過ごしたことも、
祖母の呼吸の傍らでは、やはり途方もなく、その尊い生命を否定していたのだと、
悔やまずにはいられなかった。
それが正直な気持ち。
たぶん、祖母は一生懸命に生きたのだ。
そして、最期までその姿を貫くことが、祖母の生き方そのもの。
何かに一生懸命取り組むということは、生きることを意味するのだ。
これが祖母の最期の呼吸だと感じたとき、祖母の言葉を初めて理解することができた。
どんなふうに生きたかを教えてくれるのは、死の傍であり、
その人生を終えるとき、それは同時に、どんな生き方をしたのかを、
一瞬にして物語ってしまう。
あの人は、最期の大切な一瞬を、どう迎え、大切な人たちに、何を伝えるのだろう。
そして私自身は、最期に向かって、どんなふうに生きていくんだろう。
どんなふうに生きていったらいいのだろう。
怖いのは
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怖いのは
外れることじゃない
何も学ばずに終わること
何も感じずに終わること
そして
同じ過ちを繰り返すこと
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