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ネオリアヤの言葉
恋とみかん
「そうね…じゃあ、私が行ってもよさそうな雰囲気だったら呼んで」
「おまえ随分とタカビーな云い方だねえ。わかった」
隆明の笑い声が電話の向こうで、高らかに空気に溶け込んでいく。
「電波通じるとこにいろよ」
「うん」
私は四つ角に建つビルの外壁に背を預けて、
年末の人通りの多さに眼をあてていた。
左手のなかにある携帯電話が、ちょっとだけ重たく感じられる。
たぶん、隆明は私に電話をしてくるんだろう。
二十二時過ぎか、二十一時なのか…。
私だって、高飛車な表現にして笑い飛ばしてみたいよ。
心のなかで独り言をつぶやいて、これから自分が向かう飲み屋を想像した。
忘年会と称した、いつもの、月に一度くらいの割合で開かれる仲間内の飲み。
仕事を通じて出会い、その後も情報交換しあいながら、
仕事の憂さを晴らしたりする関係だった。
足もとから、冷たい雪の風が、コートのなかに入りこんでくる。
信号が青になるのより早く、私は歩き出した。
人混みのなかに紛れて、同じように白い息を吐き出していると、
ちょっとだけ幸せな気分になる。
急いだ足取りで行き過ぎたりすれ違ったりする人波に、
ワンテンポ遅らせて進むと、
寒さを味方につけたような優雅な気持ちで満たされるから。
知らず知らずのうちに、膝が伸びて姿勢もよくなってゆく。
「今日さ、俺、仕事関係の人間と忘年会なんだ。ほら、いつもの奴ら」
先刻の隆明の言葉が思い出される。
「そうなんだあ。楽しそうだね」
集まる面々を頭のなかに描いて、微笑む。
私も何度も同席したことのあるメンバーだからだった。
ひたすらに飲んで盛り上がる団体だった。
「ユカは?」
「私もいつものメンバー」
「お互いに代わり映えしないね」
二人の笑いが、互いに伝染する。
「たぶんさ、俺んとこ二次会はカラオケだと思うんだけど、ユカも来ない?」
「私?」
「そっちが終わってたらでいいんだけど、一度電話するよ」
「…うーん」
隆明の周りで和やかに、そして煌びやかに集うであろう顔に、
私は少し考え込んだ。
確かに楽しい雰囲気だし、とても盛り上がるので面白いのだけれど。
私は、どうも気がすすまなかった。
私が途中で入って行く瞬間と、そして当然の権利のようにして
隆明の隣に招かれて坐するときの、あの居心地の悪さ。
それは、同じ同性から流れてくるものだった。
「どうしてまたあなたが来るのよ」
笑顔の奥に秘められた言葉が、隆明の隣にいる私の全身に注がれる。
私は、闖入であることに恐縮した苦笑を配りながらも、
女性たちからのその暗黙の視線には、敢えて無視で通してきた。
その場にいるどれほどの女性が、隆明に、私と同じ気持ちを抱えているかが、
伝わってくる。
でも、彼女たちがそれを隆明に伝えているのかは、私の知るところではないし、
どちらにしても私の了見ではないのだから。
けれど、申し訳ないような気分になることも、いつも同じだった。
隆明の仕事仲間と私は顔見知りだし、
楽しいことはみんなで分け合おうという精神の隆明にとって、
私を誘うことは、自然と云えば自然なこと。
でも、私が隆明を好きでなかったならば、発することも感じてしまうこともない、
女性たちの声なき言葉は、私の登場を喜んではいない。
私たちがどういう関係であるかは、
彼女たちの想像に任せるほかないのだけれど、
その場の威圧感に、申し訳ないほどの表情で、
隆明との距離を微妙に保ったままそれ以上近づくことも遠ざかることもしない、
私の中途半端な態度に、やきもきしているだろうことは、わかる。
隆明と私は、恋人同士。
それが公になっているのであれば、
それこそ私の登場ももっと、別の形で受け入れられるのかもしれない。
でも、もし私を恋人だと隆明が紹介したら、たぶん、
そういう仕事仲間の席には隆明自身が私を呼ばないだろう。
隠すつもりも、秘密にしようという気も特にはないらしいのだけれど、
云うのが好きではないらしい。
一緒にいないときまで、恋人の存在を持ち出されて、冷やかされたり、
ああだこうだ云われたりすることが嫌いなのだ。
一人でいるときの自分は、あくまで一人の人間として扱われたい。
のだと、いつか云っていた。
未成年でもあるまいし、
「彼女に云っちゃおうかなあ」などと、
いちいち自分の行動に対して、冷やかされるのがたまらなく心外らしい。
自分の気持ちが白けるので、極力自分からは恋人の存在を知らしめることをしない。
私は、好きになったら
「私はあの人が好き」だと云うタイプなので、
隆明のそういう性格とは反対かもしれない。
けれど、隆明の考えに不満を持ってはいない。彼がそうしたいのだから、
そうしたらいいだけのこと。
「でも、私、自分の友達には、隆明のこと好きだって云っちゃうよ。私の気持ちとして」
「もちろんいいよ。どうぞ」
最初に、互いに好きだと報告しあったとき、唯一交わした約束らしいことと云えば、
それぞれの恋人に対するスタンスのことくらいだった。
恋はみかんと似ている。
いや、正確に云うと、みかんの食べ方に。
小さい頃、私はみかんの皮を丁寧にむいていた。
中の果実に爪で傷をつけてしまわないように、
ほおずきの実や種を取るときのように、
そっと両の手のなかでむいた。
そして、果実のまわりにある、白いスジ。
これも、馬鹿丁寧にとっていた。
それを口のなかに、果ては、胃のなかに入れることが嫌で仕方がなかった。
でも、段々成長するにしたがって、
白いスジも一緒に食べると躰にいいことがわかってくる。
本当かどうかはわからないけれど、消化器系に作用するらしい。
そうしていつからか、皮をむいたら、あまりに真っ白でない限り、
そのまま二、三個のつぶを口に放り込むようになった。
恋愛も同じだと思う。
最初の恋は、そのまま食べることなんか考えられなくて、
もっと色々なことを知りたくて、そして全てが自分と同じであることを望み、
相手の全部を剥ぎ取ってしまうようなやり方でしか、相手を想う術を知らなかった。
知らないままでは、安心することができないのだ。
そう、自分の心が安心するために、相手の身ぐるみをはいでしまう。
そうして傷ついて、いくつもの夜を越えて、
やっと、相手のあるがままを受け入れて愛することができるようになる。
みかんのスジを取らなくても、食べられるように。
スジなんかとらなくても、同じみかんであることに変わりないことを、
人はわかっていながらも、必死に取ろうとする。
剥がすことでできる傷は、人の眼に傷と映らない。
眼に見えない傷のほうが、ずっと痛くて、深い。
気づいてから、まとめて剥ぎ取った部分だけを飲み込んでも、
喉に引っかかるだけで。
安心を求めた代償は、もとには戻らない違和感だけを残して溜まっていく。
今の私は、みかんをそのまま食べるように、
人を愛することができるようになっていた。
みかんを食べるたびに、私も成長したなあと感じる。ひそかな想いで。
「別に、隆明の云うことを否定するんじゃないんだけどね」
「なに?」
「心外だから恋人とのことは云わないでくれって周りに云うというのは、選択肢にないの? そういう決まり事を定着させるというか」
「…」
隆明は、喫茶店のテーブルに両肘をのせて、肩を縮めると、
照れたように下を向いた。
「だってさ…そんなこと云うのカッコ悪いじゃん」
私は、そのあまりに隆明らしい言葉に笑ってしまった。
「わかるけど、隆明って面白いよねえ…へんなとこまで拘りがあるというか、拘る部分が違うというか」
「そうなんだよ」
よくわかってくれた、という風な嬉しさで、眼がキラキラしている。
「これまで、そういうの嫌がる女の子いたんじゃないの?」
「そういう女性ばっかりだった」
苦笑しながら、また照れ臭そうに口角をひく。
「ユカみたいな人、初めてだよ」
「…まあ多くはないタイプかもしれないけど。それって私、褒められてるの?」
「もちろんだよ」
そんなんなのに、隆明は、仲間内の席でも、私を隣に置きたがる。
隣に坐ることを嫌がるのかと思えば、そうでもなくて、
歌声で会話が訊きとりにくければ、
耳もとに唇を近づけて囁くように笑い話をする。
私は、例によって周囲の女性たちの視線に、さらに申し訳なさが増し、
少し引いた顎で、隆明の言葉を受け留める。
笑い話なので、私は当然のことながら、笑ってしまう。
それも、隆明の場合、大胆にもその場にいる人間のエピソードだったり、
その場の雰囲気から思い出したことだったりするので、
私はその笑いをちょっぴり堪えなくてはならないはめになる。
笑い話の主人公である人に、視線を向けないようにして私は笑いを堪える。
すると、二人だけで秘密の話をしているように見えてしまう。
悪いのは、私じゃなくて、隆明のほうなのに、
何故か私がやっぱり恐縮してしまう。
隆明は、その場にいる女性の何人が自分に関心を持っているのか、
全ての数を知らないにしても、少なくとも、
一人はいるとわかっているはずなのだ。たぶん。
それでも、直接云われたわけじゃないからと、知らないフリを決めこんでいる。
ずいぶんと、残酷なやり方だった。
そして、私が感じる限り、あと二人は同じような感情を持っている。
十人いる仲間のなかに女性は六人。
そのうち三人が隆明に、友達以上の気持ちを抱いて同席している。
なんて、一触即発な飲み会なんだろうと、私はいつもドキドキする。
「ユカ? 今いい?」
「ちょっと待って。今店の外に出るから」
私は、結局、予想どおりにかかってきた隆明からの電話に、
いまだ迷っている心を押しとどめながら、店を出て、
ホールのエレベーター横にある吸殻入れのそばに立った。
「訊こえる?」
「うん、俺は大丈夫」
「盛り上がってる?」
「うん。楽しいよ。そっちは?」
「こっちもなかなか…これから別の人も合流するみたい」
二十一時を過ぎ、
一次会を経て流れてきた、赤い顔とアルコールの匂いを纏った集団が、
エレベーターから降りてきた。
学生のような井手達で、なにやら歌いながら肩を組んでいる。
女の子が、笑いながら、その大声を止めようと、
男性の口元に手をかざしていた。
恋と仲間意識の端境で、大揺れになっていた自分の記憶が、
彼らの熱気のなかに、陽炎のように浮かび上がった。
想いが、刹那くも懐かしく、呼び起こされることがあるのだと知る。
「そっか。いやさ、これからカラオケ行くから、ユカもどうかと思って」
「…んん…正直なところ、行きたいのは山々なんだ」
「じゃあおいでよ。知らない人間でもないんだし」
「でも、ねえ…大丈夫かな…」
「大丈夫に決まってんじゃん。…無理にとは云わないけど」
逆なのに。
もっと強引にでも誘ってくれたら、
隆明のせいにして、私も少しは自由に振る舞えるのだ。
あんなに恐縮さと少しばかりの優越感との、微妙な天秤に乗っかっている必要なんて
ないのに。
「ねえ…強引に誘ってくれない?」
「?」
「たまには、来なさいって云って」
「…業務命令です。こっちにおいで」
「うん。わかった」
「いつもの場所だから、店に着いたらもう一度電話して。迎えに出るから」
「はあい。じゃ、あとでね」
私は、仲間に別れを告げ、タクシーを拾った。
どんなに強引に誘ってもらっても、
本当は、あの空間の雰囲気にあっては、申し訳なくなる。
それでも、自分のなかで、隆明に必要とされているという想いが
ほんの少しでも強くあれば、それだけで、十分に笑顔を絶やさずにいられる。
さて。
深呼吸をして、全身に新しい空気を吸い込む。
これから感じなければならない憂鬱さと、
隆明に呼び出された、という優越感のために。
口のなかに、みかんの甘酸っぱい香りが拡がるような気がした。
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