ネオリアヤの言葉

ネオリアヤの言葉

腕立て伏せ




二十回目の、躰を深く落とした姿勢のまま、私は止まっていた。
膝をついて、膝からつま先までをなるたけ急傾斜で天井に向け、
腕立て伏せをしていた途中だった。

「憲二は元気だろうか」

何の脈絡もなく浮かんだ、その名前に、しばらく意識を奪われていた。
自分のなかで、その名前に意味が生まれるまで、
何度も同じ言葉を頭のなかで繰り返している。
意味が生まれるよりさきに、
「憲二は元気だろうか」
という文字が、パソコンでローマ字入力するときに打つキーの、
ブラインドタッチの映像で浮かんできた。
その無意味さに気づくまで、おそらく数十回、私はイメージトレーニングのようにして、
思考のなかでタイピングをしていたに違いない。

 Kennjihagennkidarouka。
 Kennjihagennkidarouka。
 Kennjihagennkidarouka。
 Kennjihagennkidarouka…。

躰を床のうえにゆっくりとうつ伏せの状態のまま、横たえた。
両手を顎の下に合わせ組んで、低い視線から、窓の向こうの景色を眺める。
ベランダの塀が邪魔して、晴れた空しか見えなかった。
首をひねって振り返ると、玄関に置いてある折りたたみ式自転車が、
壁に寄りかかっていた。
前輪から上のハンドルまでの部分は、折りたたまれて、頭を垂れている。

「なんで憲二なのよ」

私は、誰にぶつかるわけでもない強い語調のセリフを吐き出す。
本当に、なんで今さら憲二なんだ、と改めて思う。
一年前、横浜の実家を出て独り暮らしを始めたとき、
憲二への想いからは解放されたはずだったのだ。
今は、ほかに好きな人がいて、いつも会えるわけじゃないけれど、
彼を想うだけで幸せになれる。
それなのに…。

その名前は、今でも何故か私の心を、小さく動揺させた。
動揺を打ち消す衝動を起こすくらいの、十分な影響力をまだまだしっかり持っていた。
東京に出てくるとき、
仲間が開いてくれた『追い出し会』の席に、憲二はいなかった。
その一週間前、男友達の一人が
「あいつも呼ぼうか?」
と電話で訊いてきた。
その言葉にさえ、私はひどくうろたえた。
そして、自分がまだ憲二への想いを心のなかで温めていたことを知った。
その事実に驚いたのだ。
すっかり忘れたものだとばかり思っていた。
けれど、憲二を忘れるために自分に強いた条件が、もう会わないことだったのだと気づいた。
もうどんなカタチでも、憲二には会わない。
会わないことで忘れることにしようと、無言のうちに一人、決定していた。

「やめて」

私は、友人の優しい、問いかけるような言葉に、即座に反応した。
彼は、少し驚いたようだったけれど、それ以上に私のほうが、
自分の気持ちを知って絶句したのだ。
そんな意地らしいほどの気持ちを知って、
私はもう無理に憲二を過去に葬り去ることを止め、自然なままにしてあげようと決めた。
そうしたら、心がずいぶんとラクになった。
私はまだ、憲二を好きだったんだ。
それがわかったら、なぜか優しい気持ちになれた。

東京での生活と仕事の日々のなかで、憲二の存在が次第に薄れゆき、恋もして…。
全くなくなったと胸を張れるほどの自信はなかったけれど、
それでも、あれほどの恋の動揺はもう感じなくなっていた。

ところが、こんな無心な状態で、日々の雑多な日課に等しい行為の最中に。
憲二は突然に私の思考のなかに現れた。
顔も憲二の言葉も浮かばないのに、
名前とその云い表すことさえできないような存在感を携えて。
躰を起こして、体育坐りの態勢をして天井を見上げてから、
私は立ち上がってベランダに続く窓にへばりついて外を見た。
映像の浮かばない憲二の存在が、
晴れた休日から、私を一気にもうすぐ来る梅雨の休日へと押し遣る。
うす曇の空のしたで、眩しい陽射しがビルの外壁に反射している。
それがいつのまにか、どんよりとして、
ひどく湿った空気がまどろっこしいくらいに躰にまとわりつく感覚に変わる。
半袖の腕に、両手を回した。
乾いた、いつもの体温だった。

今まで、思い出したことさえなかった光景が蘇る。
憲二が、いたずらで笑いながら私の鼻をつまんで、
まるで子供をたしなめる外国映画のように揺らした。
粘膜が弱い私の鼻は、一瞬の間をおいて、鉄分の匂いを私の鼻腔に届けてから、
血を出したのだ。

「え、っご、ごめん」

憲二の焦った言葉が、あのときの空気と匂いと色彩を帯びて記憶となる。
何気ない毎日のたったひとコマで、思い出や記憶になるほどの特別性もない映像だった。
一緒にいるのが自然だったあの頃でさえ、その光景は埋もれてしまっていた。
右手の人差し指を、鼻の付け根から鼻先へと、スライドさせる。
骨の感触と、肉感が皮膚のしたにある。
特に刺激に弱い右の鼻にそっと触れた。
軽く押してみる。
何も、起こりそうになかった。
ため息をついてから、自分がため息をついたことに気づく。
そんな具合だった。

「元気ですか…」

独り言をつぶやいて、久方ぶりに私のなかに出現した憲二の姿を、肯定する。

「ずっと放っておいたもんね、たまには出てきたかったのかな」

相変わらず、たまに青空を覗かせる雲は、
光を地球に閉じ込めるようにして輝いている。

忘れようとする必要などないのだと、今の彼に出会ってから知った。
彼はそういう人。
無理に忘れることをしなくても、本当に忘れ去られるべき存在は、
いつのまにかいなくなっているのだと。
だから、自分の気持ちを押し殺してまで、存在を消そうとすることはないと、
云ってくれた。
でも、だからって何もこんな無防備なときに出てこなくたっていいのに…。

私はようやくこぼれた苦笑を抑えなかった。
その苦笑と一緒に、さっきの動揺と静かな沈黙が、
そっと私の心から出て行ってくれるような、そんな気がしたから。

少し、風が出てきた。
窓を開け、都会のビルの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
満タンの状態で一度止める。
眼を閉じると、これから出かけたい場所が浮かんだ。
そこでは、私は自転車に乗って、人込みと車の渋滞を軽やかに走り抜けている。
後ろ姿が、光に紛れ込んで空に消える。


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