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marine/マリンさんComments
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82代 後鳥羽天皇 は安徳天皇の次の天皇ですが、
法然・親鸞上人 を流刑されました。 【建永の法難】
然しおん自らも鎌倉幕府 北条政子 ・義時攻めに敗れ、隠岐島に
御子次男 順徳天皇 も佐渡島に配流の浮世となりました。
世に言う 【承久の乱】 です。大原陵で眠っておられます。
長男 土御門天皇は 倒幕に反対意見でしたので、流罪でなくご自身の
意志で高知に
そして後に都に近い阿波の国で生涯を遂げられました。
【安楽寺の縁起】
「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の
流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)
なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」
「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬より
とかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと
一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛
住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢
集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の
白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、
仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。
本堂
一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫 は
、当初 清水寺で法然上人 のお話に救われ、後に 上皇の紀州
へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け
込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、
仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、
両上人によって、剃髪をされ、出家されました。
松虫19歳・鈴虫17歳でした。
鈴虫・松虫の供養塔
後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬ
として、住蓮・安楽上人は 斬首 。
法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。
【建永の法難】仏道の僧でありながら罪とされました。
松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教
されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)
(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。
後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、
草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。
【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)
無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、
寺院で炊き出し行事が行われます。
法然上人さんは、当時【清水寺】で【念仏道場】を最初に開かれた
とされています。【阿弥陀堂】には、その旨と上人さんの像が
祀られています。
鈴虫・松虫も法然さんを清水に訪ねて、その法話に、感じいれられた
ともいわれています。
入口
京都市観光局の立札
安楽寺
住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。
鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに
法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に
念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化を
うけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、
「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ
親鸞上人は、越後へと配流された。
これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが
下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の
供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。
本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人
松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。
また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔
東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある
京都市
境内庭園
仏足石
供養塔への登り口
安楽坊・住蓮坊の供養塔
参道
庭園内の千両
本堂の背景 東山 鹿ケ谷
和尚さんのご説明がとても明るく、阿弥陀如来さまのそばで、座して
お話を受けました。本堂内に、鈴虫・松虫尼僧の像が飾られていました。