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masatosdjさん
marine/マリンさんComments
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昔から 法住寺という広大なお寺が有りました 元は天台宗のお寺の
境内が、 後白河上皇の院政に移り 鎌倉幕府で武家政治と変わり、
その後時代は変わり豊臣・徳川の支配下になりました。
秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の
古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さん
より大きいものを建てましたが地震で壊れました。再建しても火災にも
会って今は存在しません。
京の童歌
「京の、京の大仏つぁんは天火で焼けてなあ。三十三間堂は
焼け残った。ありゃどんどんどん、こりゃどんどんどん。うしろの正
面にどなた。お猿きゃっ、きゃっ、きゃっ。」
そして秀吉の死後近くの阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。
あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の
菩提寺がないことに、気付きます。
三十三間堂から
「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きい
お腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿
にも見えます。
「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪
布団着て寝たる姿や東山
右方が頭で左が伸ばした足にみえます
豊国廟の500段石段下正面
この阿弥陀が峰頂上に
豊臣秀吉が眠っているはず
頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で 、「吾が屍を都の見下せる
場所に葬れ」 と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。
石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた
五輪塔の石碑があるのみでした。
ねね夫人は、脚元の「高台寺峰」に、 「旦那が高い所ならば、
わたしは地中深く掘り下げたところに」 と謙虚に高台寺に眠って
います。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】
が有ります。
豊国廟 京都市立札
豊国廟
豊臣秀吉のの廟所である。 慶長三年(1598)八月十八日秀吉は
齢六十三歳を以って伏見城にて葬じた。
遺体は遺命により阿弥陀ヶ峰中腹に葬れ、
墳上には詞病、山麓には社殿が建立された。
翌年四月十八日遷宮が行われ、
後陽成天皇から 正一位豊国大明神の 神階と神号を賜り
以後毎年盛大な祭礼(奉告祭)がとりおこなわれた。
しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、 廟は破壊され、
墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされいた。
明治三十年(1897)秀吉三百年忌に際し、
廟宇が再建され、墳上には 巨大な五輪塔が建てられた。
なお、社殿は 明治十三年(1880)旧方広寺大仏殿の地に
豊国神社として再建されている。
京都市
京都市の公認の立札です 秀吉の逝去後 徳川家康は豊臣の領地内の
全ての建物を方広寺を残して壊してしまいました
そのため 秀吉の墓も金銀宝物ありと 野党にあらされ破壊されたとあります
百姓あがりと侮るであろうと次々に力になる 側近を殺めてしまいました
天下人と称する秀吉の墓は山上に建てても 無きに等しくなりました
明治になって 出世頭として 神にまでなり現在豊国神社が祀られています
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