マルスの遺言

マルスの遺言

「ゼニの幸福論」・観念論と唯物論




観念論と唯物論とは、砂漠で(会社帰りの人混みの中でも良いけど)喉が乾いたとき、ビール飲みたい!と思ってビールを”想像”して満足するのが観念論(心や精神を大切にする)で、ビールを”実際”に飲んで満足するのが唯物論(物第一主義)だと、大方こういう言い方で良いと思いますが青木氏はこう語っているわけです。当然、実際にビールを飲めたほうが幸せなのだ!

この世は唯物論で成り立っている。

それは事実だ。

しかし、それを信じるかどうかとはちょっと違ってくる。

あくまで変えがたい事実であって、信仰ではない。信じてしまうと信仰になる。

何事も、信仰になると危険なのである。

自分の身を滅ぼしかねない。

それは観念論にも言えることだと思う。

ただ、僕たちはこの唯物論の世界でしか生きていくことができない。それが社会だ。特に資本主義社会なのだ。

数年前、高度成長期以来あまりにも物質文明に偏りすぎたために、精神面をもっと尊重するように社会が魂や精神世界に目を向け始めた。いわゆる癒しブームもその中の一つである。(丹波哲郎の「大霊界」とかも?)

しかし、依然として現実は唯物論の世界でしかない。
民主主義の世界であっても、資本主義である以上それは変わらない。

僕らは細々した選択をして人生を歩んでいる。”人生は選択だ”イギリス映画の「トレイン・スポッティング」で主人公が言ったように・・・。
しかし、自由である筈の選択肢を、無理矢理押しつけられることほどの屈辱はない。病気の子供を手術する金が無くて死なせてしまった、無理矢理僻地に左遷させられてしまった、イヤな相手と無理矢理親に結婚させられてしまった、税金を否応なしにごっそり持っていかれた、愛する人を強盗に殺された・・・。数々の悲劇、苦痛、苦しみが過去そして今もある。
それは人によっては程度の差があるにせよ、そして人によってはやがてそれに慣らされてしまうかもしれないが、人間性を無視した屈辱以外の何物でもない。そんな物に慣らされたら奴隷以外の何者でもなくなる。

そういう時、人間は己の無力を感じ、何のために生まれてきたのか神を呪いたくもなる。実際私は、神は人間に何をさせたいの分からなくなる。人間は人間でしかないからだ。そして人間は人間であるが故に獣にもなる。神はこの世の未来に何を望んでいるのか?

私に言わせれば資本主義社会は”獣”の社会だ。弱肉強食の競争社会、食うか食われるかの社会だからだ。そこでは上から下の者まで人間性を狂わされていく。幸福の名のもとに。

そしてそこには、我々を大きな屈辱と絶望の淵に追い込んでいく最も最大の強引な押しつけがある。
つまりそれは、この唯物論の世の中で生きていくしかないことである。物質至上主義の世界で生きていくしかないことである。
そこには選択の余地はまったくない。

人は一人では生きていけないからである。
そして多くの人は目の前にぶら下がったニンジン(物欲や、あらゆる欲を満たす物)に目をくらまされて、もと大切な本当の人生の姿が見えていないゆえに、この物質文明を賞賛しているのである。自分もその社会に参加し、満喫していると思っているが、実は足下のこぼれ落ちた蜜にたかっているだけである。美味しい蜜をたっぷり吸えるのはごくわずかの限られた、決められた人たちだけなのだ。そしてその人々のために汗水流して働いている。
自分が自分の意志で、自分の幸福のために働いていると錯覚したまま。。。

しかし多くの人が虐げられた側なのである。
この、多くの人が気づけば、社会は変えられる!


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