高等学校の「世界史履修漏れ」の意味するものは何か。
自民・公明「教育基本法改定案」(小論その4)
17条の条項の実現は教育をどのように変えるか。
富山の県立高校における必修科目「世界史はずし」に端を発した履修問題は、ほとんど全国的な広がりで摘発されたかに見える。
しかし、必修科目の未履修は、裏カリキュラムとして、日常化しており、高等学校の現場を知るものなら、別に驚くに当たらないことである。
この裏カリキュラムについては、恐らく県や市の教育委員会、国も以前より知っていたはずだ。公然と行われていたといっていい。大学の入試の内申書は本人未開封であるから、大部分の生徒は知らないでいただけだ。
現役の高校生たちも、「別に今さらそんなこと何故、問題にするの、おかしい、変だ。大学の入試科目でない教科を、まともに授業受けている人は、ほんの数人。ほとんどが寝ているか、他の教科の内職をしている。それでも単位取れるのだから、別に世界史をやっていないからといって、どうということはない。」と言っている。
では、なぜ、ここでこの問題を、マスコミや国が大々的に宣伝し、校長など管理職の非を攻め立て、国民に眉をひそめさせるように仕向けているのか。
このところ一連のいじめの問題でも、学校側の対応、特に管理職の対応のまずさが非難され、国民的に「奴らはけしからん」と大合唱をしている。
校長レベルが「管理能力がない」ということを、大々的に宣伝している。
この教育現場の惨状は、何もここに来て始まったことではない。
戦後の教育の到達点として、日常的に行われていることであり、政府が行ってきた教育の到達点でもある。
先週の日曜日(29日)・NHKの朝9時からの日曜討論「教育をどう再生するか、伊吹大臣に問う」で、
伊吹文科相は、「教師や教育委員会のモラルの低さ、規範意識の欠如」をあげている。特に管理職のマネジメント能力の貧弱を上げている。
このような教育の現場を再生していくためには、現場に市場原理を導入し、「数値化」による目標達成を実現する教育、数値目標で競争させて、成果を評価していく、教育を実現することの必要を言っている。そのようにしなければ、教育の効率化や努力は生まれないとさえ、言い切っている。
これほど教師集団をバカにした発言はない。「お前たちは、競争させて、尻を叩かなければ、教師として働きが悪い」と言われているようなものである。
今回の一連の『教育偽装』事件を大々的に宣伝し、教育崩壊の惨状を国民の前に、あえてさらけだす意図は何か。
国家がモラルにまで立ち至って、統制できる「教育基本法」の改定が必要であるという、国民的な世論づくりをしようと、意図的にマスコミを連日動員して、騒ぎたてているのではないか。
国民に「教師集団はけしからん」という大合唱を起こさせようとしている。
「教師たちはけしからん」という大合唱は、だから、現在の法律が悪いという国民感情に容易に結びつく。
それに対して、何の反論もしない多くの教師たち。
そして今、国会では自民・公明の「教育基本法改定案」審議が始まっている。
自民・公明の「教育基本法改定案」の第17条、教育振興基本計画。
まさにこの条項は、政府が「基本的な計画」を策定し、その「計画」達成度の「評価」に基づく財源配分や統廃合という新たな統制を容易にする条項である。
『教育計画』において、条件整備計画にととまらず、教育内容面にまで、容易に統制強化することの出来るようにする条項である。
これは、「教育の基本計画」を「国民代表会議の制定する法律から政府の策定する計画に移行させ、計画にたいする民主的なコントロールを遮断する」という点で、「国民主権原理、法律に基づく行政原理、国会中心立法の原則」など、現在の「憲法」の多くの規範に抵触する条項なのである。
即ち、この自民、公明の「教育基本法」は、多くの点で「憲法」の規範にふれている。この点からも、「憲法」改正の先兵としての「教育基本法」の改定を急ぐ必要があるのである。
現在の教育崩壊の現状は筆舌尽くしがたいものがある。
そして、自民党が主張している教育方針、新自由主義的な市場原理を教育現場に導入し、すべてに「数値化目標をたて、その成果によって、教師の成績を評価する」このやり方でほんとうに教育は『再生』出来るだろうか。
益々教育崩壊に拍車をかけるだけではないか。
ここには、子どもの顔は、どこにも現れない。ただ、数値目標を達成する為に、狂奔し、疲れ、欝になるのが末路という教師集団があるばかりである。
子育てをしている母親なら分かるはずである。
子どもの発達段階のあれこれに期限や数値目標を設定し、それがうまく行かなかったら、「ダメ母親」のレッテルがはられて、生活費や子どもの養育費も制裁として削減されるという罰則がつく。お国のためにならぬダメ母親として抹殺される。そんな社会で子どもが育つだろうか。そんな社会で、子どもを産み育てたいと思うだろうか。
子どもの発達は、単純ではない。自動車の生産ラインではない。
しかし、今の学校は、子どもは、『人』としてではなく、「モノ」として、管理する対象にされようとしている。
校長たちが「履修漏れの隠蔽」をしたのは、一人でも多くの学生を「国立大学」や「有名私立」に合格させる為であり、4大合格○%、○×大学に何人以上。センター入試何%以上という数値目標に急き立てられ、世間や教育委員会の目を気にしなくてはやっていけない学校。
そこで成果が上がらなければ、生徒も来なくなり、財政的な削減までされる学校の現実。
ここには、子どもたちに、どのような未来を切り拓く力をつけさせることが必要かなどという教育は生まれる余地がない。
「いじめ自殺ゼロ」を報告し続けるのは、国の「3年以内にいじめ半減」という数値目標を達成するために、取り組んだ結果なのである。
これらの校長には、伊吹文科相のいう「規範」が欠けていただろうか。
これらの校長こそ、国のお墨付きの規範の『実践者』の先頭にいる管理者たちなのだ。
おそらく、卒業式には先頭になって『国旗』に敬礼を奨励し、大声で「君が代」を歌うことを叱咤激励する校長たちである。この点でも、国のお墨付き『規範』の優秀なる実践者なのだ。
その優秀なる実践者たちは、もし事件が明るみに出なければ「優秀という評価」を得ていたはずだ。
そして、不幸にも今回、隠蔽しきれずに事件を起した校長たちを生贄にして、国民の前に「教育崩壊」の惨状を演じて見せている。
それが、今回の一連の事件の本質ではないか。その魂胆を見抜く必要がいまこそある。
(今日の新聞報道によれば、東京都の足立区は都内で学力テストの平均点が最下位のため、区は学力テストの点数に応じて予算配分するとある。勿論、高い点数の学校が多い予算配分である。
本来なら学力の低い学校に、財源を厚くして、教育に充実を図る施策が必用なはずである。
しかも、全体の教育予算のパイは変らないので、従来の「生徒数に応じて配分されていた予算」から、学力の低い学校のものを削り、、高く配分する学校に回すというやり方である。
教育基本法の改定案が成立したら、全国的に学校はこのようになる。)
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