そういちの平庵∞ceeport∞

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賀川豊彦




これを1789年のフランス革命における人権宣言第1条、「人は自由かつ権利に於いて、平等なものとして生まれ、かつ生存する」フランス革命こそがその後のマルクスレーニン主義の源流であり雛形である。人権思想の源流でもある。



マルクス主義は、「国家が市場を完全に支配して計画経済を行えばよい。かつ、国家が国営で福祉と医療と社会保障を行えばよい」この考えはほぼ廃れようとしているが日本は世界有数の社会主義国でもある。

ケインズ主義は、「国家が市場に適切に介入して調整経済を行えばよい。かつ、国家が半官半民の福祉と医療と社会保障を公的資金で運営すればよい」天下りや特殊法人の起源がケインズ主義だなんて言えば怒る人もいるだろうがアメリカという国こそケインズ主義を導入した国であり、エリートが企業と官庁を行き来する国でもある。

ナチズムは、「類人猿よりも劣っている犯罪者、怠け者、社会の脱落者、非生産的人間、ユダヤ人を、地上から抹殺し、優性保護を行って、優秀なアーリア人種のみで構成された社会を建設すればよい」ナチズムは国家社会主義であり戦前の日本もこれに習い基本的に日本の社会構造はこの延長である。源泉徴収や国債などは1940年の戦時中より始まる。

その他あまたの主義主張

いずれにしろ、幸福な政治統治は、人類の普遍的課題である。

現在推し進められる構造改革者の主張は、

(1)国家は犯罪者を処罰する警察国家であればよい。

(2)国家は福祉と医療と社会保障を行うべきではない。

(3)福祉と医療と社会保障は完全に市場原理にゆだねるべきである。

(4)市場原理は万能であるゆえに国家はすべての経済規制を撤廃すべきである

そしてこれらに起因する国内の不満を戦争と言う形で昇華する

古典的政治システムで自由放任主義が支配した19世紀のイギリスでは、

(1)国家は犯罪者を公開処刑で罰する夜警国家であり

(2)国家は福祉と医療と社会保障をほとんど行わず

(3)福祉と医療と社会保障は教会が管轄する救貧院と慈善団体だけであり

(4)市場原理は万能であるとみなされ、それゆえ、国家は経済規制をほとんど行わない

資本主義が最初に発達した大英帝国では、経済規制をほとんど行わなかったために、初期の資本主義社会では、鉱山会社は四歳の幼児を炭鉱内で働かせることが出来たし、薬屋は水銀入りの強壮ドリンクを販売することが出来たし、マッチ工場は有毒物質でアゴの骨が熔けた労働者に何の保障も賠償もしなくて済んだ。

10歳の子供に18時間労働とか・・・・・幼児売春日常茶飯ヴィクトリア朝という有様で・・・・

現代中国に沢山の企業が集まるのは、先進国のような規制がないからである。

日本の近代史における製糸工場や炭鉱労働などの状況に近い。

そんな大正・昭和期のキリスト教社会運動家で戦前には、日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物で賀川豊彦という人がいて。

1954年に協同組合中心思想として次の七つの言葉を残されている。

「利益共楽、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心」

賀川豊彦氏は、明治21(1888)年に神戸で船舶業を営む父親と芸者でった母親の妾腹として生まれ、4歳にして両親と死別し、少年時代は父親の生家徳島で勉強した。16歳のとき宣教師H・W・マヤス博士から洗礼を受け、キリスト教信者となる。明治38年上京し、明治学院神学部に入学。明治44年23歳で神戸で日本基督教会の伝道師となり、新川の貧民街に移り住んだ。貧民救済をしながらキリスト信仰を伝えた。新川での救貧活動から新しい社会事業の領域を開拓した。これが賀川の生協運動の発端である。日本の生活協同組合の組織原理を創造し、日本最大の生協「コープこうべ」につながっている。今日、賀川の理念は「一人は万人のために、万人は一人のために」という言葉となってコープの全店舗や施設に掲げられている。賀川豊彦氏は昭和35(1960)年72歳で召天された。アメリカや欧州では賀川はガンジーと並ぶ聖者として敬意を受けている。

資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定した賀川の業績があんまり評価されないのは何でだろう?

と時折思い出す。

旧制徳島中学校時代の賀川豊彦は、軍事教練の授業中、持っていた銃を投げ捨てその場に寝転がり徳島を出て牧師になる為に明治学院に入学する。

「日露戦争が始まった。しかし私はトルストイの非戦論を信じ日本の勝利にも興奮を感じなかった。」

明治学院を卒業後、豊彦は伝道中に倒れる。結核という当時の死病が訪れたことが契機になり、本を書いたのだ

1908年(明治41年) 20才 「鳩の真似」(後の「死線を越えて」)の原稿を携えて島崎藤村を訪れる。 1909年(明治42年) 21才 神戸の葺合新川に貧しい人々と一緒に住み、キリスト教伝道、隣保事業を行う。

賀川が20才で書いた「死線を越えて」はベストセラーとなる。

印税はほとんど関与した社会運動のために投じられ神戸生協などが生まれる。

その後、貧民窟に飛び込む。

「一枚の着物の使徒」(貧民窟と私)

 私は一枚の着物の使徒であった。下駄は必ず14錢の書生下駄、家は新聞を壁に貼った家、20錢のポチの間違いで、木賃宿へ暴れ込んで行って、逆に切り殺されたという事件があった家、長く幽霊が出るといって借り手がなかったのを私が借りて入ったのだが、私は面白半分に、その男が死んだ畳の上で同じように寝るのであった。日曜日には朝5時から礼拝を始め、6時には辻で讃美歌を歌い、9時には日曜学校、午後は辻で説教、晩は礼拝を6畳の間でした。

いざ立たん
新聞紙の室よ
さようなら
私はこれから
14錢の下駄をはいて
神の国近きを
宣ベ伝えて来よう

というような詩を、私はその当時雑記帳に書きつけている。最後に残った一枚の着物も、よく人が欲しがるので、脱いで与え、自分は人からもらった女の着物を着ていたこともある。貧民窟から出ることも別に多くなかったから、風呂屋に行って、赤裏を番台の人に見つけられるまでは、全く自分が女の着物を着ているということを忘れていた。

しかし、私が来ているものを与えると、それに見込みを附けた濱田という西洋人相手のゴロツキ乞食―いつも英語しか使わぬ八字髯の立派な中学卒業生―が、私の着ている赤シャツをくれとか、ズボンをくれとか、私の帯をくれとか、先方から指定してもらいたいと申し込むので、私は山上の垂訓の、「求むるものには与え、借らんとするものは退くる勿れ」というのを一々貫行して、二三度はその通り与えたが、もう最後の一枚のシャツになると冷える恐れもある。逃げ廻ると、私を掴まえて無理矢理に脱がせて、強盗のようにして奪って行くこともあった。

この男は34回拘留になった男で、こんなにして私から奪ったものは、2週間着ていて、またすぐ脱いで質に入れて、飲むのであった。私は着物が薄くて厳冬には寒いので、二晩も三晩も寒くて寝られなかった。そんな晩はもって2錢持って、湯屋に行って温まるのであった。そして湯屋の貧民窟に置ける使用を違った方面から味わった。こんなにして湯屋に温まりに来るのは私一人かと思えば、貧民窟の尻切れとんぼは、みなこの流儀をやっているのを見つけて、やはりこれは自分がその境遇に落ちて見ないと、人に同情が出来ぬものだと知って、それ以来寒い晩には特に貧しい人々に同情するようになった。(1920年12月)


この他、日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、社会改革者賀川豊彦には様々な顔がある。

しかし彼は何よりもキリストの弟子であったのだろうなあと思う。


「キリストの馬鹿」賀川豊彦

私はキリストのために馬鹿になった。 

私は必ずしもそれを誇りに思ってはいない。

それは私に取っては余儀なくせられたことであった。

私は私の生涯の最も善き時をイエスに対する恋で送った。

私が今日まで何を恋したかを問われたならば、多分「女」と言う代わりに、キリストだと答えるであろう。

私はキリストのために、恋すら十分にすることが出来なかった。

私はキリストのために、我儘を言うことを捨てた。

私は囚われた男である。笑ってくれ人よ、私を奮い人間、キリストの馬鹿と。

私は古い古い頭の持主である。私は1900年前のイエスに囚われ、イエスに忠義だてをした哀れな奴隷である。

それほど私は保守的な人間である。それほど私は馬鹿である。

私は賢くなろうと思えばなれないこともなかった。

しかし私は喜んで馬鹿になった。私は15の時に、イエス・キリストのほかに私の愛を他に移さないという誓いをたててから、私は今日までその忠義だてに生きて来た。

私は愛の完成に生きる。私はイエスを恋したが故に、その恋に生きる。私はイエスに対して持つ愛をそんなに軽々しく他に移したくない。

キリストの馬鹿!  キリストの馬鹿!

私はキリストを愛するために馬鹿になった。発明もせず、発見もせず、学問もせず、芸術にも行かず、私は馬鹿の如くに単一なる道を歩く。

99の羊のために行かずして、ただ1匹の羊のために歩く。



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