そういちの平庵∞ceeport∞

そういちの平庵∞ceeport∞

つげ忠男と血液銀行


彼等の生まれた葛飾立石は僕の故郷の隣の隣くらいに位置する
葛飾区は父の故郷でもあり父とつげ兄弟は同世代だ
彼の漫画には血液銀行なるものが登場する
その昔血液は商品になったのだ
血を売り生活していた底辺の人々の漫画を彼は描いている

血液銀行には、自分の血を売って一日か二日を食いつなごうとする人々が、くる日も、くる日も、受付の窓口に長い行列を作った。
 この会社で、一度辞めてまた勤め、都合十年、わたしはこのトコトン放埓で、陽気で、粗々しい行列を見続けることになるのである。
 中卒の新入りに与えられた仕事は、使用済採血器具の洗浄と再生といったところが主な部分で、昼間、わたしは文字通り“血まみれ”となって働き、夜は部屋に閉じこもって、兄の置いていった机にへばりつき、コツコツ漫画を描いていた。まるで兄の跡をソックリ引き継いだような生活である。

http://www.mugendo-web.com/t_tsuge/mukasi.htm

第二次世界大戦後、供血斡旋業者による枕元輸血が広く行われていたが、1948年輸血梅毒事件を契機に、血液銀行ができた。株式会社日本ブラッドバンク(後の株式会社ミドリ十字、現三菱ウェルファーマ株式会社、以下株式会社ミドリ十字を「旧ミドリ十字」という)・日本製薬株式会社等民間の血液銀行は売血のみを扱ったため、献血は普及せず、売血のみが増えていくことになった。また朝鮮戦争の勃発は、売血由来の乾燥血漿を朝鮮に送る民間の血液銀行に軍需景気をもたらした。1956年には、血液事業に関する規制のための根拠法令として「採血及び供血あっせん業取り締まり法」(以下「採供法」という)を制定したが、2002年に同法が改正され「安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律」が制定されるまで、採供法が血液事業を規制する唯一の法律であった。その後、60年代に入ると東京・大阪の学生たちが中心となって「黄色い血追放」という売血追放キャンペーンが展開された。64年4月、ライシャワー駐日米国大使が売血の輸血で肝炎に感染したことで米国から対応を求められた日本政府は、同年8月21日に「献血推進について」を閣議決定したが、この閣議決定は「保存血液」確保に限って述べられており、また献血の受入れ体制の強化に重点が置かれていたが、プール血漿から非加熱濃縮製剤を大量に製造する方法が開発され、血液事業の重点は保存血液の確保と供給から血漿分画製剤と成分輸血の普及に移行していったのである。その後厚生大臣の私的諮問機関として設置された「血液問題研究会」は、75年に「血漿分画製剤もすべて国内の献血で賄う」と意見具申を行った。また同年5月WHOは「国家的事業として無償献血による国内自給をすべきこと」を勧告した。しかし、売血業者であった民間の血液銀行から衣更えした製薬企業は、売血由来の血漿分画製剤の原料血漿や製品を米国から輸入し始め、輸入量は年毎に倍増し、日本におけるアルブミン使用量は、原料血漿比較において1975年から1980年の5年間で6倍にも急上昇した。血液問題研究会の意見具申を受けながら、これに対する具体策は全くなされなかったばかりか、むしろ売血輸入依存体制が強化されて世界の人口の3%を占める日本が3分の1の血液を輸入するという事態にまで陥った。さらに血液事業検討委員会において、血漿分画製剤の自給など血液事業をめぐる諸対策が示され、これを引き継いで87年「新血液事業推進検討委員会」が設けられ、88年10月、12月には衆参両院国会決議において、血友病患者の使用する血液凝固因子製剤を献血血液により完全供給できる体制を早急に確立することが示されたにもかかわらず、国内自給を達成するような具体的施策は行われなかった。
 以上のような血液事業に対する無策が肝炎を蔓延させた。その結果、我が国のC型肝炎感染者は数百万人にも達したのである。

http://www.tokankai.com/133/31.html

僕の従姉妹と親友が白血病で死んでるので
そのときに僕も成分輸血をした
まだ僕が20前のことだ
だから未だに骨髄バンクや献血に関心はある
だけど今の僕の血は献血しても使い物にならない
アル中の後遺症でガンマGTPの数値がちょいと高い
何回か輸血した後指摘され
献血しても捨てられることを知りその後しなくなった
ま、非ウイルス性肝機能障害ってやつで命に別状ないし他者に感染もしない
だから今は自分の体を労わりつつ様々な事に思いを馳せる

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: