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この1週間、娘の中学受験に始まり、幸い合格通知を受験した何処からも得て、お蔭様で我が家はひとしきり明るく、喜びと安堵の日々であった。ただ、それからが、何処を選択し入学したらよいかの基準がわからなくなって大変だったのだ。一番大変だったのは、家内である。昨日14日が各校の入学申込金の締切日で、3校とも同じ日程であった。私は12日から札幌へ行っていて、もちろん家内に色々な手続きは任せて家を空けてしまっている。昨夜戻って、あらためて詳細を聞くと‥。まず娘は、F学院にかなり心が動いたらしい。遠いということがなければ、Fと言ったらしい。H中学のほうは、選択するに順当な学校であったのだが、なにかF学院にもあきらめきれないものがあった。締め切りの前日の13日、家内は我が家から遠いF学院に、普段の通学経路とされる通い方で、時間をはかり、「遠さ加減」を実感してみようとした。そして同じくH中学にも、自宅からのバスでの通い方で同じように実感テストをしたのだ。ほんとは娘も一緒に連れて行きたかったらしいが学校があるので断念。まず最初、H中学まで行き、学校環境をあらためて実感しようとした。そして、次にF学院まで行ってみたという。想像より早く、1時間で行けたのだそうだ。当初1時間10分と見ていたので、ほっとした。家内の近所の親しい友人が、メールを送ってくれたという。ちょうどF学院の正門で、学校を眺めて佇んでいたときのタイミングだったのだそうだ。メールは、聖書からの聖句だったという。”立ち返って静かにすればあなた方は救われ、落ち着いて信頼すればあなた方は力を得る。!と‥。その送ってくれた人は、私も良く知る家内の友人で、熱心なキリスト教の信者である。普段彼女の教会での奉仕活動や、介護関係での仕事振りに家内は深く感心し心を許している一人であることは私もよく知っている。私も、F学院の学校環境や教育方針など、説明会での先生方のお話の内容、かもし出す雰囲気はとても惹かれるものがあった。美術教育への注力や、大学まである広いキャンパスの雰囲気は、穏やかさと品のよさ、期待感を抱かせた。家に戻って家内は、近所でF学院に通う中3のお嬢さんに最終的に話を聞き、学校の様子や、朝6時50分のバスに乗れば、8時には学校に着けることなどを確かめ、娘には通うことの心配はいらないと告げた。小学校の先生や塾の先生にも相談意見を伺った。どの先生も、娘の最近の頑張りを褒めてくださり、親の迷いをしっかり聞いていただけ、一緒に考え方をたどってくれたそうだ。家内は、娘の絵画や音楽への才能の可能性を刺激してくれるなにかがあるとF学院への期待が残った。私の方は、将来の進路選択の可能性の広さから、H中学を推し、札幌から電話をしていた。最後の選択は、娘に任せたのだが、H中学にするといったという。娘の気にしたことは、通学時間がやはり一番だった。一度寝たら、連続13時間は寝てしまう娘には、毎日朝早く起きるのはとにかく大きな要素だったのである。結論は、東京にも提携校のあるH中学になった。6年間の通学を条件とし、全国の大学への推薦入学の枠もかなりある。東京の実家の母は何も言わなかったが、17歳違いの私の妹は、小学校からキリスト教系の一貫校だったので、大喜びしてくれた。最後は、私の意見がそのままになったのだが、この選択が良かったと将来思えるようこれからの娘の時間を思うのである。
2005.01.15
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musameji、12日から札幌に来ている。今回は2泊3日。パソコンの設定ができ、初の札幌からの書き込み日記である。今朝札幌は、快晴、素晴らしい青空だ。僕が、札幌に滞在中、大体、大雪になることはない。大雪が降った後に、到着したり、僕が札幌を後にするとまた、大雪が降る!という。すっかり「晴れ男」の”musameji札幌”である。昨日は、僕の弟が、東京から札幌出張で来ていると連絡があり、久しぶりで顔を合わす。僕が前回東京へ行ったのは11月だったが、そのときはもちろんあってない。埼玉県三郷市に住む弟とは、なかなかタイミングを合わせずらいのだ。だから今回は偶然で、互いに、札幌での再会も面白いことなあと、夜は時間を作ることにする。夜、札幌の僕のいるオフィスの最寄の、地下鉄東西線の西28丁目駅まで、きてもらう。そしてもう一人、30年来の旧友Yとも事前の約束があったので、合流していいかなあと提案し、Yも喜んで了承してくれる。この旧友、実は30数年前、局アナ時代、釧路の記者クラブで一緒だったK通信社勤務の友人なのである。弟も、当時北海道に遊びきた時Yとは顔見知りで、互いにオーオーといって、すっかり昔に戻って、話があう。年齢、同じくらい、いまやいいオッサン同士での、あの時はさあ…と、「池田町のワイン工場に見学に連れて行ってもらった」とか、「屈斜路湖の雪の中の温泉に浸かったのは忘れられない」とか、昔話がひとしきりはずむ。弟は、朝6時に三郷の家を出て、羽田からJALで来たのだが、なんと搭乗の朝早くの便が千歳上空まで来ながら、滑走路の除雪ができておらず、結局羽田に引き返し、さらに2便待ってやっと千歳に着いたのだそうだ。札幌駅まで10時間半かかって、たどり着いたことになるんだとぼやいていた。おととい、悠々と福岡から札幌についていた僕は、やはりラッキーかもしれない。10月以来10回目のJAL登場、うち9往復は福岡札幌間なのだが、一度もトラブルはないのだ。弟とは、僕は2歳違いで、こどものころは取っ組み合いの大喧嘩ばかりして親を嘆かせたものだが、20才をすぎる頃から妙に仲が良く、互いの女房が嫉妬するくらい兄弟親密なのである。これからも札幌出張はままあるということなので、次回はスケジュールをあわせようといい、傍らのYも、自分は単身赴任の身なので、来たときは声かけてよと、打ち解けて話が弾んだ。今、K北海道支社長のYは、団塊同世代として、単身の身がご同慶なのか?ご愁傷様なのか?、その解釈は難しい!?のだが、皆でこの雪の中の、札幌の地での再会が、不思議な興奮と嬉しさ中で、夜は更けて行った。
2005.01.14
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娘の中学入試にかかわる日記を書いていたが、昨日、今日と相次いで、合否の速達が届いた。先ほど、速達が2通一緒に届いた。3連続入試日程であったうちの、2日目のF学院と3日目のH中学の2校からの同時配達である。私は、あるクライアントとの、彼との今年最初のコーチングセッションの電話をちょうど終えて、リビングに戻ってきたとき、家内が、いつになく興奮して、「今、速達が一緒に届いたのよ。」私「さっきのドアホーン?フーン一緒に?どう、もう見たの?」家内「Hが自分が試験受けたんだから、来ても絶対、中を見ないで!と言って学校行ったのよ。」私「じゃーどうする?、帰ってくるの待ってやるのか?」(以下は、娘が今後このぺージを絶対見ないという可能性もないので、家内の希望で割愛、修正日記とさせていただいたく、1月15日記)‥‥家内、まずは封筒の厚さをみている。家内「○○さんが言っていたけど、合格の場合いろいろな書類が入っているので、厚いらしいわ。でも昨日のN学園は薄かったわねえ。」そう、ご報告がおくれたが、初日受験の、N学園は昨日昼前にもう速達があって、「合格通知」を得ていたのだ。N学園をキープしたことで、余裕の体制ではあった、家内である。さて、家内は、封筒をつまんでその厚さを見るが、「ウーンどうかしら?」と言いつつ、‥;;;;;;;;;;;やがて、娘が戻って、家内「来たわよー!」と‥。娘、手も洗わず、うがいもせずに、とびつき、慎重にはさみで封筒を開き!娘の笑顔で盛り上がった。娘「H(名前)、ヤルジャン!」とひとりごと。いつもポーカーフェースで、クールな反応の娘なのであるが、このときは子供らしく無邪気に笑った。「フン、でももうひとつあるもんね。」家内「でももう気が抜けたんじゃないの?うけるの?」娘「うん、大丈夫だよ。うけるよ。」家内も、安堵と、充実感で一杯のようである。受験生の親としては、まずは責任を果たした心境だろう。私は、H中学の問題を後からチェックしたところ、算数の第1問の計算問題を、書き写しというイージーミスで間違っていたノを発見していた。そのため、私自身は、H中学どうかなあと悲観的に考えていたが、それも大丈夫だったということで、娘はかなり強運を持っているかなあとも思う。1月はこの後、まだもうひとつ、S学院の入試があって、ここは共学校で、実は我が家からは一番近い。人気の難関校と言う面でチャレンジ受験なのだが、もう今のままで充分という気持ちでもある。さてこの後、3校へは入学金を14日までに、入金支払わなくてはならないのだ。各校とも非常に良心的で、同じ日で締め切りである。どこにするかはこちらの贅沢な選択が可能なのではある。「入学」を前提とするからには娘の将来への重要な岐路であり、その選択基準を慎重に考えてやりたいと思う。これは、親の「価値観」が問われる場合でもあろう。「不合格の挙句の将来」ではなく、「合格の上での積極的選択での将来」と言うことが、むしろ重い決定であると思うのだ。そして、私立かあ、私立ねえ、つまりお金は、かかるんですよねえ。もとより覚悟のうえだけど‥
2005.01.11
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昨日、今日そして明日は、我が家の長女Hは、中学入試。昨日は、N学園、今日はF学院、そして明日はH中学と3日間連続の年明け早々の”我が家大イベント”である。娘を受験させようと決めたのは、昨年の3月、6年生になる直前であった。家内が「英語サークル」で一緒の人(その人は子育てとしては先輩なのだが)に相談したら、「今からでは遅い、少なくとも5年生になった時からでなくては」‥と、一笑に付されたと、憤慨していたのだが、1年間やるっきゃない。地元校区の公立中学は、評判は決して良いとは言えない。長男は行かせているが、長女には行かせないというのは、どうなんだ、矛盾していないかとも言えるのだが‥。しかし女の子の教育環境としては「公立は心配」というのが、偽らざる家内の実感でもあった。私も3月の早生まれで体のいつまでも小さい娘は子供っぽく、それでいて最近の反抗期っぽい無邪気さが失せつつある様子にやきもきであり、ならば一生の友人関係の環境設定は私学の雰囲気かもしれないと、賛成したのである。受験するからにはと、家内はこの1年、娘と一緒に勉強を楽しみ?ハッパをかけての叱咤激励という時間経過でもあった。4月から、ご多分に漏れず、塾通いをさせた。幸い、小人数で、丁寧な指導をしてくれる同じマンションに住む方が主催している「Mセミナー」があり、行き届いた指導をいただいている。そこで学ぶ14,5人ほどの女の子の仲間たちがよいグループになったようで、いい刺激を受け、競争相手というより、戦友?になっているようである。最もうちの娘の成績では、「彼女たちの敵にはならないと相手におもわせているキライはあり」と思うのだが。真ん中、ヒョットするとビリの点数を取る科目もあって、父親としては内心穏やかではないこともあった。だが、家内は「私はオクテだったから、H(娘の名)もそうなのよ」と意に介さず、ゆっくり、少しずつで日々を経過してきた。最近は、真ん中よりは上になり、名前が張り出されてもいるらしく、合格圏内の学校も見えているという段階で、とうとう入試の日を迎えてしまったのである。さて、娘、試験の前夜は9時前には就寝したという。わたしは新年から札幌へ1泊2日で出張し、6日夜10時半の帰宅時は、すっかり寝入っていた。家内によると、床に入って10分後に覗いたら、もうスースー寝入っていたという。受験から来る精神的な圧迫感や、興奮は、わが娘に関しては全く無かったようである。朝、6時半に起した時も、ほとんど平常、まだ眠たげで動作ものんびりで緊張感も見せない。そんな娘をせきたてる感じで、私が車を運転し、家内が付き添ってN学園に向けて7時15分には家を出た。試験は9時開始なのだが、8時に集合がかかっている。それは、セミナー仲間が集合し、指導の先生から、直前の「檄」を受けるのだという。会場に向かう何組かの母娘が、N学園への道筋に沿って歩いていて、何処が入り口かなと車を回している私はようやく見当が付く。入り口正門前周辺は、市内の幾つかの有名塾が旗を持って、さながらトラベルツアー集合の趣きだ。知っている顔を見つけた家内が、「ここで」と言って、家内と長女を降ろし、私は一度家に戻り、試験の終了する12時半にまた迎えにいった。さて、私がもう一度迎えに行き家に戻って来てからの家内、早速“問題用紙”をチェック。「大事よ、といった漢字や、社会の問題が出てるわ、図星よ」と、妙な感激をしている。10題しかない漢字のうちの2題は、わざわざこれは要注意と、直前に娘に指摘したものがでているという。社会の問題も、憲法、環境問題、など一緒に学んでいたのが出題され、「ホラ京都議定書がでてる」と、したり顔で満足のようである。当の娘は、もう終わった問題には一向に興味を持たず、何を訊ねても返事に気が乗らない。「ウーン、マアできたよ。難しくは無かったよ。」とのたもう!私がチェックしてみた苦手なはずの算数も、ほぼできている気もする。持ち帰った問題用紙の片隅に、自分で「合格」とご丁寧にイラスト風に文字を大きく描き込んでいる野を発見し、「コリャわが娘は意外に“オオモノかもしれない!”と、家内と顔を見合わせたのであった。受験2日目の今朝は、近くに住む一緒に受験の母親仲間と相談し、我が家からは電車とバスでは1時間ほどのF学院には、タクシーで乗り合って7時ジャストに出かけていった。今日は、私は、終了後に迎えの車を出すことを要請され、家にいる今、この日記を書いているのである。明日の3日目まで、もう一日、何とか無事にそしてよい結果をと祈るmusamejiである。
2005.01.08
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息子が、「島田紳介が、足腰が弱って、番組に復帰するのに、毎日ウオーキングをしているんだって!」と、パソコンを見ながら、大きな声で報告している。例の事件で2ヵ月半の謹慎中、家に閉じこもっていて運動不足だったと言う。昨夜「行列のできる法律相談所」の中でのお詫び挨拶でも、顔がムクんで確かにあまり健康そうではなかった。紳介に対しての、我が家の感想。家内「もう、前のような毒舌はできないわね。でもタレントの不祥事ってみんなすぐ忘れるんじゃない。以前、久米宏も謹慎して何ヶ月かでなかったでしょ?」私「エーッ?。そういえばそんなことあったけ?」家内「ヒトの噂も70日?」私「75日!」家内「ッて言うでしょ?久米さんのときは、欽ちゃん(萩本)がしばらく静かにしていればヒトは忘れるものだからこのまま辞めちゃだめだと慰めたと言うけど、たしかに3ヶ月くらいで復帰したでしょ?」私「そうだったけ?でも今度は、どうなんだろうねえ」家内「訴えてやるっていう司会はもうできないかもね。迫力出ないわよねえ。」私「紳介自身はもうやりたくないみたいだ。吉本興業からの会社命令で、復帰しますなんて言ってたよ」家内「なんか昨日の紳介、卑屈だったわ。」私「ウーン、卑屈ね‥。」ここで、ことばが切れる。家内「いくら謝罪でも、あんな卑屈ではねえ。あそこまで誤らなくてもいいんじゃないの」以前の広告会社時代、当時の担当得意先が人身事故や、社内不祥事があったとき「リスク・マネジメント」対応をした。その発想からすると、今回も幾つかのチェックポイントがあった気がする。まず本来は「事実をどう表すのか」に尽きるのだが‥これが今回はむずかしいのも事実だ?!紳介の側にたち、ブレーンのつもりで表現したいことは、1、まず全体に潔さで、卑屈を感じさせてはいけない。2、この事件で、自分の何がいけなかったのか、そして被害者に具体的にどう詫びたのかをきちんと視聴者に伝える3、その結果、どう被害者は反応しているのか、4、自分の復帰に際し、これから気持ちを新たにして出直したい。5、新しい紳介を見ていただきたいと真摯に述べる以上を、経過事実は淡々と、話し振りは「簡潔に」「潔く」sそして、気持ちは「無理せず、チョット殊勝に(卑屈ではなく)」とアッピールすべきではなかったのか。私「大吉本でも、紳介にちゃんとしたマネージャーをつけていないということなんだよ、きっと。」「もし、紳介が大タレントならば、昨日の謝罪について、何回もリハーサルしてチェックして、表情からお辞儀の仕方、身振り手振り、そして紳介らしさをどう残し、如何に潔く、さわやかに復帰するという演出があってしかるべきなのさ。それが出来なかったということは、まだ時期は早いということだね‥・」大活躍していた紳介ではあったが、本当の自分のブレーンと言うべき友人・アドバイザー集団がいない、つまり孤独、裸の王様だったということなのだろうか?昨日の謝罪、良いイメージが描けなかったということは、彼自身がまだ本心では、芸能界に復帰したくない、もっと嫌気が差しているのかもしれない。自信が全く戻っていない状態なのだ。これまで、少々稼いではいても、たんなる吉本の一社員でしかないと言うことを思い知って、どうでもよいと観念しているということなのだろうか?いずれにせよ、今後の紳介がどう復帰、立ち直るのか、僕自身は、「一度は大成功した人間の、どん底からの復活劇」として大いに興味を持っている。気分としては紳介に、かなりシンパシーを感じている。彼が、そこそこの自分の稼ぎを、自分自身への自己投資、自分の頭脳集団を作るという方向でカネを使うという意識があれば、きっとプライベートアーミーとも言うべき仲間ができていて、もっと戦略的でシステマチックな対処する術があったのにとも思う。億を稼ぐヒトのお金の使い方にも、思いが及んでしまった!翻って、金に縁がないこちらは、つくづく、やはりこの人生持つべきものは、自分の鏡となってくれる信頼すべき友だなあとも思う‥。今日は芸能評論家をしてしまったmusamejiである。
2005.01.03
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正月2日間、見事に一歩も外に出ていない。マンションの我が家の7階から郵便ポストに新聞と年賀状を取りに行くだけ。今年は2日も、年賀状が届いていた。31日にやっと投函した年賀状の、自分宛のテストでいつも出しておく1枚が配達されていた。書き損じを修正して、1枚をこんな風に使用するのだ。中1日で市内には配達されているなと安堵。いつも我が家は、年賀状は最後の最後の“やっとだし”である。今年は初めて、おせち料理を「松幸」というお店に予約し、大晦日に受け取りに店まで出向いた。結構、おせちを購入する家庭も多いのだなと初めて知る。店内は、山のように風呂敷包みが、サイズ別におかれ、次々と客が現れる。家内は、おせち料理を買ってしまうことがこんなに楽で、そして幾種類ものおせちが美味しく食べらるなんて、と妙な感慨があるようだ。福岡へ来てから、毎年年末近くなると、中村学園の特別おせち料理講座に通って、少しずつものにしてきたレパートリーの苦労が何か、疑問に思えたのかもしれない。家内は年末に、子供たちに「今年はあんたたちの受験体制だから、お正月の用意はしないから。料理も作らないで買っちゃうからね」と宣言したところ、中3の長男が「作ってくださいよお。」と猫なで声を発したらしい。母親として、正面からそう請われると、やや後ろめたく、一方「張り」もできた気分なのだという。そこで登場したのはお得意の、ローストビーフ、ちまき、生麩と里芋の煮物などだった。今日は小6の長女を勉強からの気分転換で連れ出そうと母娘で出かけ、帰りに近所の雑貨屋の小さな福袋を購入してきた。二人で袋を開けて、取り出し、喜んでいる。長男は、夕食用のお弁当を持って、昼すぎから塾通い。家族が一同にそろう食卓は、ごく少ないまま、今年の正月は過ぎてゆく。そういえば、今日2日は、私の父の誕生日だった。大正3年1月2日だったから、健在だったら91歳である。78歳の時、肺がんで亡くなり、今年は14年祭となる。いつも、このタイミング、正月2日というのは、家族のだれかが気がつけば良い方で、何度か3日になって、「昨日はお父さんの誕生日だったねえ‥」などということもままあったものだ。父は、やや口をとんがらかして、はにかんだものだ。正月、家族そろうとやった、「百人一首」の父の読み上げの声が、思い出される。そろそろ百人一首を我が家でも、子供たちにも覚えさせたいものだ。家族そろっての麻雀も正月などは必ずしたものだ。大体、1000円札一枚ずつを出し、1位だけの総どりでやった。麻雀ケースには、古い対戦の記録がいつまでもそのままで挟まっていた。大体、ビリは父だった。今日世田谷の実家では、近くに住む妹一家と埼玉県三郷に住む弟一家がそろい、昼間は墓参りをして、夕方から母の元に集まり正月を祝った様子だ。我が家は、夜になって塾から長男が戻ってきた頃に、「いいちゃん」と呼ばれる母に電話をかけ、代わりばんこに電話口で話すことで参加を果たしたのである。
2005.01.02
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あけましておめでとうございます。 2005.1.1家族一同、つつがなく新年を迎えました。昨年4月に会社を起し徐々に動き出しました。秋からは30年ぶりに北海道でも仕事を持ち、月2,3回、福岡札幌を往復しています。“コーチのアナウンサー、アナウンサーのコーチ”を名乗り、N○K文化センターや○田屋コミュニティカレッジで「コーチング講座」を持つなど、「目標達成のサポート」というコーチ業が主業務になりつつあり、その普及浸透にも努めたいと思います。さて、春には長男も高校生、見上げる背丈ですが、エアガンへの熱中は変わらず、将来の夢はこれを仕事にとのようですが‥受験意欲は?。「ともかく性格は良い」との先生方からの言を、良しとしましょう。長女も中学生に、私学受験で正月返上ですが、最後の小学校生活は友達と担任の先生に恵まれ、ニュージーランド交換ホームステイ経験など謳歌。“宿題はしても勉強はキライ“と、クールに机に向かっています。妻は、小学生の英語レッスンやサークルを中断、「受験生の母親」の毎日。今年の課題は、まずは合格達成でしょう。 私musamejiは、札幌の旧友がもたらした縁に応じ、まだまだ大きく夢を描きます。東京の母たちや親子4人の安寧の日々を願って、仕事を通じて自分の役割を果たすことを期して、気持ちを新たにしています。本年もどうぞよろしくお願いします。 鮫島 宗哉 家族一同
2005.01.01
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