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カテリーナ・デ・メディチ(フランス名はカトリーヌ・ド・メディシス)は、フランス王に嫁ぎ、フォークやジェラートなどイタリア文化をフランスにもたらしたことで有名ですが、私の印象に残ったのは、フィレンツェで彼女が過ごした幼少時代です。
カテリーナの両親は、彼女が生まれた直後に両方とも亡くなります。
叔父に当たるローマ教皇レオ10世も3年後に亡くなり、親戚として残ったのは、ローマ教皇クレメンス7世(といってもロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノの私生児)、従兄弟にあたるイッポーリト(彼も私生児)、アレッサンドロ(更に彼は、クレメンス7世の私生児と言われています)、そしてストロッツィ家にお嫁に行ってしまった叔母のクラリスのみでした。
カテリーナは、メディチ家本家の血を継ぐ、最後の人物となります。
生後6ヶ月でフィレンツェからローマへ移り住みます。所が、6歳の時に、ローマ略奪の危険性が高まったため、フィレンツェに戻り、広いメディチ宮(現在のメディチ・リッカルディ宮)で、イッポーリト(当時16歳)とアレッサンドロ(当時14歳)と給仕たちに囲まれて育つこととなります。
1527年、ローマ教皇クレメンス7世の政略失敗により、ローマ略奪が起こります。
これと同時に、フィレンツェ共和国政府は、反ローマ教皇、反メディチの路線を選び、再びメディチ家追放、メディチ宮の略奪が行われます。
他のメディチ家のメンバーは追放されたのですが、カテリーナは人質としてフィレンツェ政府の管理下に置かれます。まだ8歳の子供であったカテリーナにとって、自分の宮殿が略奪される様子を宮殿内で目の前で見るという体験は、大変恐ろしいものだったのだと思います。
そして、6ヶ月間、オンニサンティ修道院へ入れられ、その後1527年12月7日の真夜中に急にサンタクローチェ教会よりももっと城壁側(外環道路側)にあった、修道院ムラーテに移動させられ、そこで3年間を過ごします。サンタンブロージョの市場の裏側に位置していて、その後刑務所になった建物です。
真夜中に、しかも徒歩で移動させられたという記述が残っていました。オンニサンティが駅の反対側だから、一番短距離で行くとしたら、アルノ河沿いに歩いたのでしょうか。恐らく、世論(カテリーナを慕う人も居たようです)を気にして、少人数で隠れるようにして歩いたのだと思います。、8歳の子供が、当時蔓延していたペストの暗い影もあるアルノ川沿いを、12月の寒空の中、どんな気持ちで歩いたのだろう?
その後、ローマ教皇軍はフィレンツェへと侵攻し、フィレンツェを包囲するまでとなります。ローマ教皇クレメンテ7世としては、軍力でフィレンツェに入り、自分の私生児であるアレッサンドロをメディチ家の跡継ぎとして立て、メディチ家を再生させたいという願望があったようです。
メディチ家の直系を継ぐ人物としてのカテリーナの扱いについては、当時、様々な意見が出されます。フィレンツェにとって悪化する情勢の中、処刑をして門の外にぶら下げるという残酷な意見も出されたそうなんですよ。
まだ11歳であったカテリーナも、自分の生死が当時の政局に大きく左右されることを良く判っていたようです。
1530年7月20日の真夜中、フィレンツェ共和国政府の決議により、上院議員シルベストロ・アルドブランディーニがムラーテ修道院の門を叩きます。修道女達は断固としてカテリーナを渡さないと反抗し、長い議論が続きます。カテリーナは、もし連れて行かれたら処刑されると察し、修道女達に修道院に残りたいと懇願します。
そして、自分の髪の毛をばっさりと切り、それまで着ていたドレスを脱ぎ捨てて、修道服を身に着けます。
こうして、当時11歳であったカテリーナは堂々とアルドブランディーニに向かって「修道院から修道女を引きずり出すことを民衆の前で出来ますか?」と言い放つのでした。 議員達はとうとう諦めてその晩は、一旦退散します。
翌日、彼は再度修道院に現れ、 まだ修道服姿のカテリーナに対して着替えるように命令するのですが、カテリーナは断固として着替えません。結局、修道服姿のカテリーナを人に目に付かないような路地を選びながら(フィレンツェには沢山あります)、サンマルコ広場近くにあった、Via San Galloのサンタ・カテリーナ修道院へと徒歩で連れて行きます
書物からは、当初、フィレンツェ政府がカテリーナを処刑する予定だったのかどうかはわかりませんが、アルドブランディーニの彼女に対する、敬意を払った対応をカテリーナは忘れることはありませんでした。
後年、カテリーナがフランス王妃になった後、アルドブランディーニが反ローマ教皇派としてフィレンツェで処刑されそうになった際に、逆に命を助けることとなります。
結局、ローマ教皇軍がフィレンツェ政府を押さえ、メディチ家のメンバーはフィレンツェに戻ることとなります。
勿論、カテリーナも解放されるのですが、彼女は、メディチ宮に戻るのではなく、ムラーテの修道院へと戻ります。修道女達とカテリーナの友情は、カテリーナがフランス王妃になった後も続いたそうです。
その後、クレメンテ7世の政略の為に、1533年にオルレアン公アンリ・ド・ヴァロワと結婚します。夫がフランス国王アンリ2世となり、カテリーナはメディチ家出身のフランス王妃となるのです。
その後、フランス国王亡くなった後は、30年間にも渡り、3人の息子の摂政、母后としてフランスの政治を行っていくのでした。
パリのサン・バルテルミの虐殺に関わったとか、毒薬を使って暗殺に関わったなどと言われる人物ではありますが、ともかく、この当時、70歳まで生き延びて、30年間も政治を行ったというのは、やはりスゴイ人物だったんだなあと思います。
※参考文献 世界悪女物語 河出文庫
ルネッサンスの悪女 王妃カトリーヌ・ド・メディチ
カトリーヌ・ド・メディシス 文芸社
ノストラダムスと王妃 集英社文庫
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