じゃじゃ馬馴らし

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レポート2かてりーな


                              07E033 徳田千賀
英米文学と女性1
阿部美晴先生


        カテリーナ・ディ・メディチ

              (1519~1589年)

 カテリーナはフィレンチェいちの富豪メディチ家に生まれた女性で、14歳のときにフランス王太子のもとに嫁ぎました。彼女は美人とはいえませんでしたが、博学で芸術を愛し、明るく振る舞い、周囲を和ませる術に長けていました。夫であるアンリ2世のことはすぐに気に入りました。それどころか彼女はアンリ2世だけを生涯愛し続けることになるのです。
 しかし、アンリ2世はまったく彼女に関心を示しません。というのも彼には熱愛するディアヌという女性がいたのです。王より20歳も年上なのにディアヌは美しく、アンリ2世は彼女にべったり。食事はもちろん夫婦の他にディアヌが伴い、食後はカテリーナが追い出される始末です。
 しかも、カテリーナには、一向に妊娠の兆しが見えませんでした。このままでは実家に帰されるかもしれません。焦って、魔術や薬に頼りなんとか妊娠しようとつとめました。
マンドラゴラ、ミミズの混合物、はては胎児の肛門の肉など次々と怪しいものを飲用するように薦められ、結婚10年後にようやく子供を出産します。それからは毎年のように子供に恵まれました。
 たかだか商人の娘とフランス王家のひとはカテリーナを裏で笑っていましたが、彼女は多くの流行を王宮に持ち込み、常に注目されていました。
オーデコロン、フォーク、シャーベット、ドロワーズなどなど・・・。当時はフランスより、イタリアの方が洗練されていたのです。またお嫁入りのイベントとして歌劇が行われましたが、これこそが世界初の「オペラ」なるものでした。
 彼女の身の回りのお世話する、イタリアから呼んだ使用人・職人の数は千人近くいたようです。その中には80人の美女軍団「遊撃騎兵隊」もいました。
 また占星術にこっていて、当時話題になっていたノストラダムスを王宮に呼び寄せました。彼から「アンリ2世は、若い男の槍に突かれて死ぬ」という予言を受けますが、予言のまま死んでしまいます。カテリーナは嘆き悲しみ、その後ずっと喪服で過ごしますが、「我慢して生きる」時代を捨て去ります。王となった息子達の摂政・皇太后として以後30年間、政治的腕力を振るうことになるのです。
 一番彼女を悩ませたのは、新教徒(カトリック)と新教徒(ユグノー)
つまりキリスト教同士の戦いでした。最初彼女はどちらも立てよう(寛容政策)と思うのですが全くうまくいきません。彼等にとって共存はありえなかったのです。状況は悪化し、ついにカテリーナは息子である王シャルル9世を操り、ユグノーの虐殺命令を出します。
 1572年8月18日、カテリーナの計画で、カトリックの娘である娘のマルゴとユグノーであるナヴァルの王をパリで挙式させました。この無理のある結婚に、集まってきた人々の間には、喜びよりも緊張が走りました。
 24日サンバルテルミーの祝日朝、ルーブル宮殿(当時のカテリーヌの住居。現在は美術館)でユグノー狩りが始まり、瞬く間にルーブルは血の海と化しました。それからさらに虐殺はパリ中に広がりました。カトリック教徒達は手に武器を持ち、ユグノーを殺害し、その遺体をセーヌ川に捨てました。
 カテリーナは政治的に必要な場合は暗殺も命じましたし、望みを叶える為には黒ミサにも参加しました。

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