Wyhappyの部屋

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野球


 私は物心がついた時から、父親に教わり野球をしていた。小・中学校共野球部に所属したが、華々しい結果はない。高校野球も1年からレギュラーとして甲子園を夢見たが、弱いチーム故、儚く夢は消え去った。
 後に、社会人で優勝し、その後、ヤクルトに入団した有沢投手とは、主力が同じ2年生同士で戦ったが、まったく歯が立たなかった。彼のチームは3年のとき甲子園へ行き、3回戦までコマを進めた。
 しばらく、野球から離れていたが、急に草野球がやりたくなり、神奈川にいた頃に、チームを作り市の大会などに参加していた。それでもベスト8が最高の成績で、仕事をやりながら野球をするということを楽しんでいた。

 埼玉に転勤になってしばらくすると、Oさんから「会社の野球部を強くしてくれないか?」という話があった。I市は野球が盛んで、しかも県のAクラスが2チームもあった。会社の野球部は当時、出ると負けという悲惨な状態にあった。何しろ、スコアーブックは付けない(記入が判らない)。作戦も何もない。選手の力量に任せる試合であった。30歳からは監督として草野球をやったが、選手としては使えない35歳を過ぎていた私が4番を打つという、最悪なチームであった。

 会社の野球部の監督に就任して、「10年後には県で優勝する。」という事を宣言した。人事部長にお願いして採用枠をもらい、毎年選手を補充した。将来的には技術者として、育成させなくてはならないので、素直で明るい子を学校から推薦してもらった。そのために、人事部よりもマメに学校周りをした。会社の状況や、考えていることを就職担当の先生や、監督に理解してもらった。

 チームは少しづつ、戦力が上がり、新チーム結成3年目でI市長杯を取り、平成9年には、2部であるが、悲願の県大会で優勝した。神奈川で開催した東日本大会ではベスト8となった。翌平成10年も県大会を連覇したが、愛知で開催された東日本はまたもや、ベスト8だった。

 平成11年、県大会3連覇を成し遂げ、今年こそはと栃木で開催された東日本大会へ望んだ。優勝候補の筆頭に挙げられていたらしいのだが、危なげなくダントツで悲願の優勝を果たした。

 下の写真はその時のものです。残念ながら、会社の事情で翌年野球部は解散しましたが、想いは実現できることを体得した忘れられない思い出になっています。
パンフ開会式優勝記念


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