-小麦粉記-

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図書曲エチュード・・・


 年の近い叔母と学校の近くの安アパートでくらしているが、その叔母がオカルト雑誌の記者をしているせいで家を空けることが多く、この日も朝ごはんは自分で作ることになっていた。回数を重ねている&作らなきゃ飢え死にする&出来合いは高いのでできるだけかわないようにしているので、それなりに料理の腕はいい。圭吾と「知り合い」もしくは「友達」称することができる連中は、大体が家庭科の調理実習のときに圭吾と料理を作った連中だった。
 同じ班になったことを本気で嫌がっていた連中ではあったが、買出し係りが間違って買ってきた食材を上手に利用して、手際よく別の料理に仕上げているのをみて、案外こいつはいい奴かもしれない、と気づいたらしく、それ以降圭吾の貴重な話し相手になっている。
 その中の一人が学生会長の成田山慎一で、一匹狼だった圭吾のことを気に入り、よく話すようになっていた。図書局に入るよう勧めてくれたのも慎一で、日ごろの勉強を教えてくれているのも健介だった。どちらも文系というより野生系で、学園ではこの二人が一番強かった。
 圭吾が朝ごはんを喰い終わったちょうどそのタイミングで、
「おはよう高梨。今日もげんきか?」と慎一が入ってきた。
「おう、おはよう健介。それじゃあ出ますか」
 いつの頃からか圭吾のアパートに慎一が来るようになって、朝は二人で登校している。学生会長が学園の問題生徒と仲が言いというのは学園側からしてはあまり好ましくないようだが、慎一はそのことをいった教師に向かって「俺はそんな事をいうような器の小さい教師の下で学んでいるのだと思うと吐き気がしますね」といったらしい。副会長の里山のとりなしで問題は小さく収まったものの、一時は慎一の解職問題にも発展したらしい。そこまでしてなんで俺と付き合うんだ?と圭吾は聞いたことがあったが、「秘密だ」としか答えなかった。

「それでだ。図書局としてはこれからどうするんだ?」
「それがな、昨日池ノ内に「先輩は図書の仕事をしててください」っていわれてよ。なんでも冊子のほうは自分ひとりで作る、なんていってさ」
「池ノ内…あの背のちっこい生意気そうな一年生だな?ふむ、一人でやるとな」
「俺も書く、とは言ったんだがな。まぁ最初はアイツの言うとおりにしておくさ。一応俺のほうでも用意はしておくけど」
「ほう。高梨も一応用意する、ということは何らかの文章を書く、ということだな?」
「…まぁ、そういうことになる」
「ははっ、お前の書いたものがまたよめるのか、それは楽しみだな!俺はいまだにあの「麻薬撲滅キャンペーン」のババアどもの驚いた顔が頭にのこってるぞ」
「あー!アレは面白かったな!アレだろ?やっちゃん先輩に書かされたやつを学生会長挨拶の紙と摩り替えた奴」
「麻薬防止のキャンペーンをしにきた連中に麻薬解禁論をぶちあげてな」
 そんな話をしながら、学園へと向かって二人は自転車を走らせていた。

 朝起きた寝ぼけた頭の中で「昨日の人は誰なの?」としつこく聞いてくる母親に「せんぱい、せんぱいだって…」といいながらさよりは朝ごはんを食べ、時刻表の三分前に来るバスに乗り込み、寝不足気味の目をこすりながらストックしてあった小説をカバンから取り出して読み返していた。寝ぐせがぴょんと跳ねているが、本人は気がついていない。しかし身長が小さいのでそんな寝ぐせも微妙に可愛く見えてしまう。こういうときにチビはお得…か?
 さよりが読み返しているのは、受験が終わってから書き始めた簡単な推理モノで、さより自信としてはお気に入りの作品だった。まだ誰にも見せたことはなかったが複数の推理モノのトリックうを組み合わせた謎解きはいままでで一番だという自信があった。
 バスがぷしゅー、っと止まった。秋野山学園までは、あと二駅だった。

 高三になっても授業中に本を読んで時間をつぶすのはいかがなものかと思いながらも、眼球の細胞の話を嬉しそうに話す生物教師に隠れて、圭吾はドフトエフスキーの「罪と罰」の下巻を読んでいた。途中からだいぶ名前がごちゃごちゃになってきているが、気力で読んでいた。もはや「罪と罰」における社会的意味とかナポレオンとか一つの悪は百の善行に償われるとかはもうどうでもよくてただ愛を求めて平和を求めて晴れ渡った空を求めてドフトエフスキー俺をなめんなよコラァ!と思いながらページをめくっていた。圭吾にとってドフトエフスキーとはドフトエーフスキーでありドフトエフスキィであり、ある一種の倒すべき存在だった。昔「カラマゾフの兄弟」の上巻で挫折した経験から、「罪と罰」ではゼッタイに読みきるのだと気合を入れたが、その名前の難解とロシア人のヒステリーに読んでるこちらが気が狂いそうになりながらこの行に出ているロジオンとさっきのページにでていたルージンは同一人物なのかズリィガドロフがどうだとかぐちゃぐちゃになりながらも、読みすすめていた。
 生物教師が今日最後の授業を桿体細胞でしめたところで、圭吾は「罪と罰」を読み終えた。なんだか絶望の色をした希望が、胸にこみ上げてきた。二人とも、お幸せに、と。

 カバンを司書室に放り投げて、誰もいない図書室に立ってみた。
後半は冷静さを欠いていたか完全勝利とはいかないものの、ドフトエフスキーに勝利した余韻に浸って、図書室を眺めてみた。
あったかい日差しがはいってきて、図書室全体がふんわりと輝いていた。百科事典の金箔を押した表紙がきらきらして、ほこりが漂っていて、俺しかいない図書室はひっそりと呼吸して、数百の世界をじっと抱えていた。
 放課後の図書の当番だが、ほとんど誰も図書室に来ない。テスト前などになると勉強をしに来る奴らはいるけれど、まだ新学期が始まって一ヶ月たっていない。試験はまだ先の話だったし、基本的にこの時期はひまなのだ。去年なら先輩たちとトランプやら人生ゲームなんかをやっていたけれど、今年は二人だけなのだ。もう、早智子先輩の気を引こうと必死になっていた去年の今頃のような報われない片思いの苦しみを、無駄だとわかっている努力を、する必要はないのだ。

 片思いこそ本当に純粋な愛なのだ。
 そんな事を、誰かが本に書いていた。取り敢えずつきあってもたとか、みんなつきあってるしとかそういう軽い恋愛ではなく、好きな相手の前に出ることすらできなくなるような愛こそ、本当の愛なのだと。
 真面目に恋をするものは、その相手の前では稚拙で、うろたえ、情けないものである。
 だけど俺は、やっぱり十代のリビドーあふれる若者だった。フラストレーションの噴出を抑えることができなかったのだ。
 早智子先輩は、去年までの図書局の副部長だった。よくニーチェとかフロイトとか、その辺の哲学者の本を読んでいて、要するにそっち系の、頭はいいが少し使いかたを間違えてる人だった。慎一に勧められて図書局に入ったとき、最初に会ったのが早智子先輩で、「ふぅん、君、ぜんぜん図書局っぽくないね。合格」などといわれたのだった。意味がわからん、と思ったが、先輩は美人だったので俺は「あはは」と笑った。
 早智子先輩をはじめとして、図書局の先輩たちはバカみたいに愉快な人たちばっかりだった。アメリカーナを読んで爆笑する人もいれば、「吉里吉里人」をお昼休みだけで読破する信じられない速読をする先輩もいた。無駄にエロい先輩もいれば、部長は爬虫類大好き男で、司書室には一匹可愛いトカゲがいた。要するにそういう無秩序で、くだらない事で大騒ぎできる人たちだった。
 毎日毎日この司書室でからかわれながらも早智子先輩はよく世話をしてくれたが、先輩は俺のことを弟か何かとしか見ていなかった。それはそれで嬉しかった。けど、俺は先輩と、恋人になりたかった。いろいrなアプローチをかけたが、だめだった。部長にすら「高梨、早智子はあきらめろ。アイツはお前のことが好きだが、今の状態からの進展は全くないと保障する。アイツは、そういう奴なんだ」と言われた。
 去年の夏の日、眠っている先輩の唇に俺の唇を重ねて、ばれて、はり倒されて、思いのまま気持ちをぶちまけて、母親が子供をそうするように、姉が弟をそうするように、抱きしめられて頭を撫でられて、俺の片思いは、終わったのだった。
 先輩はいまアメリカに留学中だ。NASAに勤めたいらしい。たまに手紙が届く。
 そのたびに、先輩のことをいまだに引きずるおれに苦笑いするのだ。
 いけねぇ、夕日のせいでセンチメンタルになっちまった。感傷、感傷。さて、池ノ内は一人で冊子をつくるといったな。
 アイツの意地がどこまで行くのか、ちょっと見ててみようか。だけど、取り敢えず俺のほうも、何か予備に書いておかないとなんねぇな。うん。
「教科書文学と、原作の違い」こんなもんでいいんじゃないだろうか。教科書を使って授業で習う…たとえば「走れメロス」は、授業を受けるのと一人で文庫を読むのとでは、圧倒的に違う。
 小説はまだ書く気になれないから、今のところはこんな評論じみたのでもいいだろうよ。
 持ってきたラップトップをカウンターにおいて、夕日の中で久しぶりにキーボードを叩いてみた。池ノ内が司書室に入ってくる音を背中に聴きながら。

 司書室に入って、そのまま繋がっている図書室をみたら、高梨先輩が一人でカウンターに座り、何かパソコンをいじっていた。夕日に照らされて、なんだかすごく気持ちが良さそうだった。だからなのか、昨日ほど怖い感じはしなかった。やっぱり苦手なのは苦手だけど。
 私は私の仕事をしなくちゃならない。取り敢えずまず何をしたら良いのか考えながら昨日初期化したパソコンの電源をいれ、ワードを開く。カバンから原稿用紙の束がはいった袋を取り出して、中身を広げた。
 まずは、この小説をパソコンのほうに入力しなくちゃいけない。それからだ。いろいろややこやしい事はあるんだろうけど、まずはこの作業から始めなきゃ。移すだけだし、簡単簡単。
 と思っていたが、一度手で書いた原稿を、もう一度パソコンで打ち込んでゆく作業は、思いのほか大変なものだった。昨日先輩にはキーボードは打てるといったものの、正直あんまり上手ではないことが判明。先輩みたいにタッチタイピングなんて夢のまた夢で、ホームポジションすら探すのにしばらくかかるのだ。あと「B」の文字がどこにあるのかいつも迷う。はっきり言って、キーボードを打つのは下手だった。司書室と図書室を隔てるガラスの向こう側では、先輩のキーボードを叩く音がパチパチと小気味よく聞こえてきて、なんかムカついた。「人は見かけによらない」のか、私としては「人は見た目が九割」を支持したいところだけど。っていうかそんなことはどうでもよくて、作業は全然進まなかった。疲れる。ディスプレイがちかちかして、いやだ。なんかグニャグニャして、気持ち悪い。顔が火照って、喉が渇く。デジタル酔いって言うのかなこれ?
 カチャ、カチャとのろい動作でキーボードを押しながら、気がつけば先輩のほうを見ていた。やっぱりそういうロマンチックな「あれ、私ってば気がついたらいつも先輩のことを見てる…!」みたいな展開じゃなくて、どちらかというと「なんであんな先輩が楽しそうにキーボード打ってるのよ」という半ば八つ当たりてきな感情だった。あつまさえパソコンにイヤホンをさして音楽を聴きながら鼻歌うたいながらなんて…こっちがこんなに苦労しているって言うのにあーなんか許せない。いや、先輩の力は借りないと宣言したのは私のほうだ。ここは根性、気合だ、気合。
 先輩が何を打っていたのかは知らないけれど小さいパソコンをぱたんと閉じて、「そろそろ帰んぞ」と私に言ったとき、原稿用紙五枚分くらいしかかけていなかった。もう外は日が暮れていた。
2000文字打ち直すだけで2時間…遅い。遅すぎる。後二十枚分パソコンに入れなきゃならない、8000文字だ。あと四日あればできるけど、後四日…たえられない。いまわかったけど、わたしってばデジタルに弱いんだ。
「どう?進み具合は」
「はい。全然順調です。私一人で十分です」
「…そうか。ふむ、まぁいっか。じゃ、帰ろうぜ」
 小さいノートパソコンを専用のケースに入れながら、先輩は私が用意し終わるのを待っていた。
「また先輩と一緒に帰るんですか?止めておきます」
「なんで」
「また絡まれるかもしれませんし、ひとりで帰ります」
「ばかやろう。後輩が夜道を一人で帰って痴漢にでも遭ったら局長として失格だ。たった一人の局員なんだぜ?あぶねぇんだから素直に俺の言うこと聞け。人っていうのはできることとできないことが決まってんだ。できないことは、人に頼ったっていいんだから。池ノ内に不良は倒せないだろ?」
 「できないことは、人に頼っていいんだから」の言葉に、くらっと傾きそうになった。でも、私が言い出したことくらい自分でけりつけたい。だから返事のかわりに
「先輩。ワイシャツのボタンが一個取れかかってます。頭の上にごみついてます。頭悪そうなのにキーボード打つの早すぎですムカつきます、以上。じゃ、帰ります」
そういって司書室をでた。
 後ろから「しゃーねー奴だな、まったく」という先輩の声が聞こえて、玄関を出てからもきっちり先輩は家までついてきやがった。一度も後ろを振り返らなかったけど、先輩の自転車のちきちきという音でわかった。わざわざ母さんに聞こえるように「また明日なー!」といったときは、「さけばないでください!」とドアをあけてしまったけれど。

 さて、池ノ内はどこまでやれるんだろうか。
 池ノ内を家まで送った、もといついていった圭吾は、全く反対方向にあるアパートまで自転車を走らせた。途中で晩ご飯の材料を買い込んで。
 池ノ内はいま意地になって視野が狭くなっている。冊子を発行するということの、表面に見えるほんの一部のことしか目に入っていない。さらに、あいつはパソコン関係が苦手らしい。俺には「できます。順調です」なんていっていたが、見たところ全然ダメだ。冊子に締め切りはないし、四月号はもう無理なのでっ月号になるが、今週末からはゴールデンウィークだ。今日は火曜日だから、あと三日のうちにあのパソコンに打ち込まなければならないとなると、池ノ内じゃ辛いだろう。俺ならあの程度の文量なら、今日中に終わらせれるが、池ノ内がそれを許さないだろう。
 今年のゴールデンウィークは、ちょっと忙しくなりそうだな。

 金曜日。圭吾の予想通り、さよりの作業は終わっていなかった。この三日間、さよりは一度も圭吾を頼らず、本当に自力で頑張ったのだがいかんせんデジタル酔いをしながらなので、日ごとに落ち込んでいた。さよりにとってパソコンは、キーボード作業は、体に変調をきたすほどのストレスで、いつもの寝ぐせもへなっとして元気がない。(いまだに本人は寝ぐせに気がついていない)
なれない学校生活と友達ができないことも影響して、もともと悪い目つきがさらに悪くなってしまい、さよりは泣きそうだった。
 一方圭吾は、予備で用意した原稿を書き終わり、今日は珍しくし司書室に顔を出さなかった。机の上にメモが一枚残っていて、「今日はちょっと用事があるから遅くなる」と書いてあった。
「高梨先輩の、ばか」
 いっつもうっとうしいくらいに帰り道をついてくるくせに、なんだってこういうときにいないんですか。と、さよりはため息をついた。いつでもカウンターにいる背中が見えなくて、一人っきりの図書室は異様な感じがした。無性に寂しくなる。寂しくなったので、先輩がいつも座っているカウンターのイスに座った。ギギィーと、イスが悲鳴をあげた。
 私が入局してから、先輩はずっと私を家まで送りに来てくれていた。まだ怖いことは怖いのだ。たまに中学の同級生のあの男の子と、先輩の影が重なることもあった。そのたびに寒気がして、あのときの記憶を頭を振って追い出していた。最近疲れてきてからはしょっちゅうだった。…だけど、放課後ここにきたら、家まで一緒にいてくれた人がいないのは、それが誰であれ、さみしい。さみしくない。すごくさみしい。
 好きだとかそういうのじゃなくて、あの人がいないと私もうだめとかそういうのじゃなくて、いつもいる人がいなくて、仕事も終わりそうにないし、先輩は必要ないなんて今思うとなかなかひどいことをいって一人で終わらせるといった手前いまさら「手伝ってください」とはいえない。
 それでも、先輩がカウンターにいるだけである種の安心みたいなものはあった。先輩ならなんとかしてくれるかもしれないと、心の中で思っていたもかもしれない。箱工の不良連中に絡まれたときから、無意識に先輩なら助けてくれるかもしれないなんて思っていたかもしれない。
 でも、今日は、その人がいないんだ。
「…先輩」
 涙が出てきた。自分が情けなかった。
「早く帰ってきてよ、先輩…」
ぽろぽろぽろぽろ涙があふれてきて、うっく、ひっく、なんて嗚咽まででてきた。子供が母親の帰りを待つように、妹が兄の帰りを待つように。
 三分くらい泣いた後、泣いたせいでいままでの疲れがどっとふきだして、カウンターに突っ伏したままさよりは眠ってしまった。

 司書室に帰ってきたら、池ノ内がカウンターで眠っていた。
 小さい体を丸めて、疲れ果てたように眠っていた。さすがに追いつめすぎたかもしれないなと思いながら、制服を脱いで背中にかけてやった。カウンターの上に点々と水滴、涙のあとが残っていた。
「…可愛いな、池ノ内」
 実際、結構可愛いのだ。この三日間ちょくちょくとしゃべったりしたが、結構どころではない。かなり生意気だ。敬語を使うことは忘れないが、辛らつなことをずばずばいってくる。必要以上に警戒されている気もした。普通に会話をしていて、すこしのってくると楽しそうに話すくせに、ふっと気がついたように離れてゆく。まるで俺と仲良くなるのを避けているみたいだった。しまいには昨日「先輩は怖いし嫌いですなんか図書局はいって間違ったかなぁって感じです」なんていわれたし。疲れていて誰かに八つ当たりしたいんだろうとおもって、適当に受けてあげた。こんなことでいちいち怒っているやつは、大人じゃないのだ。
 ぱふぱふと頭を撫でて、司書室に戻り、パソコンの電源をつけてワードを起動させる。池ノ内の書いていたもとの原稿をとりだして、読み返してみた。
「へぇ」
 高校が舞台の学園推理小説みたいなやつで、なかなか面白い。文章とかテクニックにまだ修正の余地があるが、全体的におもしろい。ただすこしとトリックばかりに目がいっていて、人物の存在が少し薄くなっている。っていうかよくこんなトリック考えたな。俺は推理小説はぜんぜんかけないしおもいもつかん。なるほど、池ノ内はこういう趣味だったのか。一応原文のままパソコンにいれておいて、その後少し俺が味付けしたのを書いてみよう。
 原文写しはものの30分で終わった。三分の二は池ノ内が終わらしていたから楽にいけた。で、それをコピーして俺流の味付けをしてみた。人物の描写を多くして、キャラを立たせる。俺ががちゃがちゃ作業している間も、池ノ内はずっと眠ったままだった。相当疲れていたんだろう。
「ったく、あのバカ。意地なんて張りやがって」
「自分にできないことは、人に頼りなさい」
 早智子先輩がよく言っていた言葉だった。
「人って、何でもできるわけじゃないの。いままでやったことの無かったことや苦手なものを克服することはいいことよ。でも、天敵っていうのか、その人にはゼッタイに向いていないことやものって、あるのよ。そういうのを無理してやるのは、つらいし、見てても痛々しい。だから、これはゼッタイ自分に向かないと思ったやつは、素直に人に頼んなさい。高梨は何でもかんでも一人で溜め込みすぎなのよ。あんたの中学校と違って、私たちは見返りなんて求めないから。同じ局員でしょ?ほら、素直にわたしに頼んなさい」

 変な体制で眠っていたから、体の節々が痛かった。背骨がぎしぎしいってる。背中があったかいなぁと思ったら、少しタバコのにおいのする高梨先輩の制服がかけられていた。振り返ったら、ガラスの向こうで先輩がパソコンを使っていた。
 泣いて腫れてしまった眼をぐしぐしこすって司書室に行くと、「おう、起きたか」なんて口の端を上げて振り返った。高梨先輩は話をするときに今みたいに口の端を上げて話す。この癖が一段と先輩に怖い印象を与えているのを、先輩自身はきがついてないんだろう。
「…先輩、どこにいってたんですか?」
 泣きはらした顔を見られたくなかったから、うつむきながら聞いた。
「あぁ、ちょっとな」と先輩は窓をみて、それから「それより原稿、パソコンのほうにいれておいたぜ。なかなか面白いじゃないか」といった。
「えっ?」
 いれておいた?ぱそこん?
「だから、面白かったぞ。特にだな…」
「そうじゃありません!先輩…やっちゃったんですか?!」
「あぁ?やっちゃったって、なにを?」
「原稿です!私がやり残してたの、終わらせちゃったんですか?」
「あぁ。終わらした。ついでに俺のアレンジを加えたやつをコピーしてもう一個作った」
「そんな!そんな、わたし、ちゃんと自分でやろうって決めてたのに!先輩の手は借りないって決めてたのに!」
 パソコンの横にはきれいに整理された手書きの原稿がそろえられていて、もう一仕事終えました。みたいな雰囲気になっていた。
 これじゃあ、不意打ちだ。
「なんで勝手なことするんですか?図書局を存続させてくれたのも、このパソコンも、箱工の不良連中のときも!私はなんにもできなかったし、せめて私がやろうとしてた冊子くらいは自力で何とかしようと思ってたのに!なにからなにまで先輩に頼ってばっかりみたいになっちゃうじゃないですか!」
 思わず叫んでいた。中学のときなんて滅多に大きな声を出さなかった、いや、出せなかったのに、先輩相手だとそれがひどいことだとわかっていても、何故かいえた。要するに私は
「私は、先輩に甘えっぱなしじゃないですか!」
 私は先輩が苦手だ、嫌いだ。だから多少ひどいことを言ってもいい。嫌いだと宣言した。怖いと言った。だから多少の文句ぐらいは言っていいんだ。不良なんだから、このくらいいわれたって大丈夫だって。そんな風に決め付けてた。実際に怖いものは怖いし、まだ先輩のことは信用しきっていない。けど、それと愚痴や悪口を言ってもいいのとは、違うっていうのに。
「いいだろ、別に」
「…いやです」
 ホントはいやじゃない。原稿を終わらしてくれたことを、今も心の奥のほうで感謝している。でも、ここは私の意地だった。そうしたら、今まで普通だった先輩の雰囲気が、ちょっと変わった。怒った、かもしれないというかゼッタイ怒った。
「じゃあ池ノ内。もしお前がこの原稿を終えることができたとする。そうしたら、次はどうする?」
「え?」
「次、どうするっていってんだ。お前がやるんだろう?今このパソコンに、書き終わった原稿がある。さぁ、次はどうするんだ池ノ内」
「…印刷」
「どうやって。何ページで。レイアウトは、行数は、紙は、部数は?」
 はっとした。全然そんなこと考えていなかった。パソコンにうつすことばかり考えていて、ほかの事なんて全然考えていなかった。私が、甘かった。何の考えもなしに、ただから回りしていただけだ。
「池ノ内。人っていうのはな、何でもできるわけじゃないんだ。今までやったことの無いことに挑戦したり、苦手を克服することはいいことだぜ?だけどよ、個人個人には天敵っていうやつがいるんだ。その人にとって、ゼッタイにできないことっていうものが、この世の中にはある。それもたくさんな。そういうのを無理してやっても、成果は出ない。頑張っても、ダメなことっていうのはあるんだ。そういうときは、素直に人に頼れ。お前は入局したての後輩だ。そして俺は最上級生だ。後輩が先輩を頼ったって、そんなのは自然なことだ」
「…でも、それじゃあ私は何にもしてません。頼るとか頼んないとかいうまえに、何やってるんだろうってかんじです」
「お前何にもしてないわけじゃない。少なくとも今回の冊子は、今までの作業はお前一人で頑張ってきた。お前がいなかったら、作られることすらなかった。池ノ内が自分で小説をかいて、冊子にしようとしてるんだ。これは俺にはできないことだ。俺にあんな推理小説はかけないさ。池ノ内は、ちゃんと自分の仕事をこなしてる。たまたまお前がパソコンと相性がよくなかっただけだ。それを俺がカバーする。これでいいじゃないか」
 先輩の、いうとおりだった。ムカつくことに、先輩のいった言葉が、泣いてすさんだ心にじんわりと沁みてゆく。私のちっちゃい意地が、情けなく消えていった。
「新聞曲の連中に話をつけてきたよ。金はこっちでちゃんと出すからって新聞局の追加注文の形で印刷会社に頼んできた。割引がきくしな。締め切りはゴールデンウィークの中日だ。土日と月曜日を挟んだ火曜日までに原稿をあっちに持っていける形に整える。表紙も決めなきゃならん。取り敢えず俺が書いた原稿も載せてやる。お前の小説だけじゃ、ちょっとボリュームが無い。というか池ノ内の個人作品になっちまうしな。部数は50、一冊30円で発行だ」
 なんというか、あきれた。私が知らない間に、こうなることをわかって、印刷のことまで手を回してるなんて。しかも締め切りまでつけてきやがりますか。
「先輩は、ちょっと、見かけによらず、優しすぎます。一回ひどく失敗させて、それから怒ればいいのに、ここまでされちゃうと、なんかホントに依存しちゃいそうですよ」
「大事な局員に恥かかせられるかよ。まぁでも、これで大体懲りただろ?たった二人しかいないんだ。チームワーク、チームワーク。バスケットだって、一人じゃゲームはできないだろ?」
 なんでそこでバスケットが出てくるのかわからなかったけど、一応私は、頷いた。
「わかりました。それじゃあ、先輩。…冊子作るの、手伝ってください」
「おう。了解だぜ」
 今日は取り敢えずいえに帰って寝ろといわれて、私は帰る準備をした。その間、先輩は自分の小さなパソコンを開いて、メモリースティックを挿したり抜いたりした後、さて、それじゃあ今日は帰りますか、と電気を消した。
 もう外には月が出ていた。
 帰り道、この連休中も学校に来ていろいろやらないといけないということで、明日の9時から学校で、ということになった。部局の活動は私服でもいいらしい。
「ところで先輩。一冊30円で、売れるでしょうか?」
「まず国語の教師に買わせるとして5部はいける。で、昼休みに図書室によく来るやつらに買わせるとして10部いける。というかいかせる」
「…それって、恐喝じゃないですか」
「被害者が訴えなければ、それは犯罪として立証できないのさ。次にだ。各階の廊下に10部ずつ合計30部おいて、売れるのはせいぜい10部。残った半分25部のうちさらに10部を学園祭用に残しておくとして、余った15部は…池ノ内が玄関ホールで「かってくださぁい!」とかやれば売れるだろう」
「なっ!私がですか!?」
「そりゃそうだろうよ。俺がいたら誰も近づかん。ちまっこいが見てくれはいいだろお前。なんなら俺が後ろに控えててやる。お前が前衛で「かってくだぁあい!」をやって、俺が後ろで「買えコラ」っていう感じで立ってたら15部くらい速攻で売れる…はずだ」
「はずだ、って何ですか?私はゼッタイにそんなことしませんよ?何より学生会がとやかく言ってくるでしょうし」
「いや、慎一に頼んでおけば大丈夫だ」
「あ。その学生会長、昨日あったときに少し話したんですけど、すごい失礼なこといわれたんと思うんです。高梨は背の高い女が好きなんだと思っていたが、そうかそうか、やつはまな板に転向したか!って。どういう意味ですか?」
 先輩が明らかにうろたえた。「あの野郎、殺してやる」なんて物騒なことを呟いている。

 圭吾は慎一に一発入れることを胸に刻みながら、「まな板」って何?と聞いてくる池ノ内にどう答えたものか必死に考ええいた。まな板=ナイムネ、胸が無いことを指すのだが、直接本人に言うのははばかられる。圭吾自信はナイムネだろうが巨乳だろうがどっちでもよかった。たまたま早智子先輩がグラマスだっただけの話で、もし自分が池ノ内を好きになったのならナイムネでもいいだろうと思っている。
 しかしだ、池ノ内の質問は、小学生が母親に「こんどーむってなにー?」と聞いているのと同義であり、中学生の女子が同級生の男子に「ねぇ、ザーメンって何?」と聞いているのとほぼ同義なのだ。
「先輩…先輩も知らないんですか?まな板の意味」
「…いや、知ってるぞ。だが説明をするには果てしない苦痛と痛みと激痛を伴う。慎一の妄言なんぞ気にするな。安心しろ、俺はまな板でも大丈夫だ」
 とたんに池ノ内の顔が怪訝そうになった。
「先輩…高梨先輩って、不良の上に、変態なんですか」
「なぜっ!?」
「学生会長が言ってました。「まな板が好きだという男には気をつけたまえ池ノ内君。そんあ男はすべからく変態だ。君のような性格のまな板な君は、そっちの属性の男性諸君には垂涎のターゲットになる。危なくなったら高梨をよべ。ぶっ飛んでくるぞ。だがその後も心配だな。助けた後の高梨はいったいどういう行動に出るのか…」っていわれました。で、変な笑い方をしてドッかいっちゃったんですけど、そうですか、残念です。先輩は、変態でしたか。助けてくれるのではなく、アブナイ人たちの一員なんですね」
 池ノ内は、本当に「まな板」の意味を知らないんだろうな…?アブナイとか言ってる時点で、わかってるんじゃないのか?だが池ノ内の目は、いつもより少しはれているが、純粋無垢な、生意気な目だ。
「待て池ノ内。俺はそういう特殊な趣味は無いぞ。好きな人がそういう体型ならそれでいいし、違っても別に構わない。それに池ノ内が危なくなったら助けにきてやることくらいはするぞ?大事な後輩だからな」
「…体型?」
 しまった。思わず体型って口滑らしちまった!
「体型…まな板…まさか、む、む、む」
 池ノ内が持っていたカバンを抱きしめて自分の上半身をガードしながら俺から一歩はなれた。しかも顔は真っ赤だった。
「胸が無くて平らなことをまな板っていうんですね!!!!先輩…最低です」
「待て池ノ内!だから俺は違うぞ違うってマジだって!」
「でも先輩「それでいい」とか言いましたよね。やっぱりアブナイですよ」
「だからそれは!好きな人がどんな体型であれ俺はその人のことを嫌いになったりしないし、もし好きな人がまな板でも、その人のことが好きならまな板も好きなわけでだ!でかかったらでかかったらでいいんだ!」
「こんな外で女の子と話をしているのに胸の話を大声でする先輩は、やっぱり変態だと思うんですけど」
 撃沈。高梨丸、戦艦池ノ内ノ「変態呼ばわり魚雷」デ轟沈セリ。…池ノ内に変態のレッテルを張られてしまった。やべ、立ち直れね。
 よっぽど悲壮な顔してたんだろうか池ノ内がクスリと笑った。
「冗談ですよ、先輩。まな板の意味くらい知ってます。ちょっと先輩をからかってみたかったんです」
「へ?」
「いえ。これから一緒に作業するのに、私が一方的に怖がってちゃだめだろうなぁって思って。先輩が悪い人じゃないとは思ってますが、どうしても嫌な思い出のせいで先輩のことを警戒してるんです。私もいい加減びくびくしたままなのも嫌なので、慣れるために」
 なんだかすい臓のあたりを引っこ抜かれたような感覚になった。だけど、池ノ内のほうから俺に慣れようとしてくれたことは、嬉しかった。
「俺は、不良の友達一号に、なれそうか?」
「まだいってるんですかそれ。えぇまぁ、不良の先輩一号って感じですけどね」
 そんな話をしているうちに、池ノ内の家についてしまった。別れ際に俺の持っているラップトップを預ける。
「これ、先輩のパソコンですよね?わたし、パソコンなんてもうしばらく使いたくないんですけど」
「いや、そうじゃない。その中に池ノ内の小説をアレンジしたやつが入ってる。デスクトップにショートカットを作っておいたからすぐわかるはずだ。読んでみてくれ。感想と、問題点も書いといた」
「…わかりました、読んでおきます。では、また明日の九時に」
「あぁ、じゃあな。おやすみ」
 パタンとドアが閉まる。
 そういえば、池ノ内が笑ったのって、初めて見たかも。

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